「チーレム無双」という欲求
本日4回目
ぼくがここで対象としているような小説を、「異世界転生チーレム無双」小説と一部では呼ぶようです。
「異世界」に「転生」して、「チート」能力で「無双」して、「ハーレム」を築くという意味だそうです。
よく表現していると感心した記憶があります。
「異世界転生」小説の魅力は、主としてはこの後半部に要約されているのかもしれません。
ぼくがこのエッセイで分析したいのはもう少し広範囲にわたるのですが、まずはここの部分から入ることにしましょう。
まず、「チート能力で無双」の部分を説明します。
ここを読んでいる人で、言葉の意味が分からない人はいないと思いますが、世間に配慮して説明しておきます。
「チート能力」というのは、「ずるい能力」という意味で、主人公が一般登場人物のもち得ない特殊能力を当初から持ち備えていることをさします。
多くは魔法的なスキルですが、現代日本の科学知識などを含む場合があります。
現代日本から「異世界」に転移(転生)したタイミングで、何らかの理由で獲得するケースが大半です。
努力を積み重ねることで獲得したわけでないので、チート(ずる)と呼ばれるのです。
「無双する」というのは、「敵やライバルをばたばた薙ぎ倒していく」というほどのイメージで、有名なゲームシリーズが語源です。
要するに「チート能力で無双する」というのは、「棚からぼた餅的に高能力を獲得して、あげく絶対的強者としての地位を満喫する」ということです。
「異世界転生」小説がRPGゲームの影響を強く受けた話を前にしました。
一般のRPGゲームでは、スキルアップ・レベルアップに地道な努力を相当程度要求されます。
その苦労に耐え抜いて高レベルに至れば、ゲーム内で「無双する(強者の地位を満喫する)」ことが可能になります。
ゲームならぬ「現実」においても、ぼくらは地道な努力を要求されます。
勉強やスポーツやファッションにおいてもです。
努力によってこれらのステータスをあげることは可能なのですが、「現実」はゲームよりも不公平にできています。
家庭環境や、才能・素質といった、本人の努力以外の要素で大きな差が生じます。
「現実」は「チート(ずるくて不公平)」なのです。
ゲームはある意味公平だけれど、幾分かの素質や環境の影響が排除できません。
それでも多くの人間は、ゲーム内で「無双」することで、「現実」の憂さを晴らします。
それができるのであれば、そこで話は終わるのでしょう。
「異世界転生」小説では、主人公は特別な「チート能力」を獲得することで、「無双」します。
「チート」からは見放されているという「現実」の不条理を、読者はここで克服しようとします。
ゲームの公平さより、不公平(チートに優遇)であることが望まれているのです。
ちなみに「チート能力」は、ただ与えられればいいというものではありません。
一見たいしたことなさげに見える能力が、一工夫二工夫することでチートに化けるという展開が好まれるのです。
最初は「逆チート」というべき不遇な状態が、苦心によって大逆転するのが、人気あるようです。
自分の努力で可能性を発掘するという過程が、「チート」の罪悪感を反転させてくれるのです。
逆境にあっては、量的な努力が必ずしも成果につながらず、質的な工夫が重要という「洞察」が秘められているのかもしれません。
次に「ハーレムを築く」ことを説明します。
主人公が男性の場合、複数のヒロインから同時に好意をもたれる展開が、ストーリーの主流です。
(主人公が女性の場合はあまり読んでいないのですが、特定あるいは少数のとても社会的地位の高い男性の愛を独占するというパターンになるのではないでしょうか。)
「現実」において異性からの愛を獲得すること、さらに維持していくことは実に困難です。
複数からのそれは、社会倫理からいってもほとんど不可能です。
が、「異世界」小説にあっては、無双できるほどの「甲斐性」を主人公に持たせることができて、一夫多妻的な社会倫理も容易に設定できます。
「無双する快楽」と「ハーレム愛を築く快楽」は、「異世界」小説においての二大欲求だと思います。
ここまでぶっちゃけてしまうと鼻白む向きもあるかもしれませんが、「現実」がつまらないのなら、「物語」の中くらい快楽をむさぼりたいというのは、肯定されてしかるべき感情でしょう。
人に知られたら、「あさましい」と軽蔑される内容であったとしても、「現実」にそれを持ち込まなければ全然OKです。
「浅ましい欲求・感情」を「とりあえず肯定できる」ことは「魂」を健やかに保つために大きな意味があります。
現代的な「物語」の大半において、「異世界」小説の二大欲求は充分に解放されずに来ています。
「無条件・絶対的な肯定」というのが、自分自身に向かう態度としては、根本的に重要なものなのです。
魂の領域でそれを確保できてこそ、自信を持って「現実」に対処していけるのです。
その上で、「現実」においていかに欲求を実現・妥協するのかは、工夫・調整の埒内です。
「工夫」によっては、欲求を「現実」に持ち込んでOKにしてしまうことも可能になるかもしれません。
「逆チートからの大逆転」というパターンを、「現実」でめざして悪い理由はないのですから。
「リア充は死ね」と叫びながらも、自分がリア充になる大逆転はめざしたいものです。
「現実」の「常識」や「システム」は、低次の欲求は満たしてくれますが、さらに次の欲望というと原則否定的です。
「金」でいくらかは解決できるとしても、多くの快楽は蓋をされたままです。
文明が進み豊かな世の中になっても、価値観は更新されないままです。
これがぼくらの「魂」をどれだけ苦しめていることか。
「常識」や「システム」を破壊して捨て去ろうというのではありません。
新しい「均衡点」に向けて、「常識」や「システム」を再調整したいだけなのです。
「異世界」物語は、欲望をむやみに否定しない、「中立地点」を与えてくれます。
「現実より」の人間には、「欲望むき出し」の「破廉恥で愚劣」な場所に映るかもしれません。
しかしそこは、「人間性を育むため」の貴重なシミュレーション場だと思っているのです。
「悪逆乱倫」と批難を恐れるばかりでは、「魂」は痩せていくばかりです。