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問題はどこにあるのか

ここ10年くらいライトノベルを耽読しています。


最近「小説家になろう」系の出版物が増えたので、こちらのサイトにも興味を持つようになり、今ではライトノベル一般よりもこちらのサイトのほうが読書生活の中心を占めるようになりました。



「なろう」系小説の大特徴は、「異世界転生」もの(異世界転移やゲーム世界転移を含む)が非常に多いことです。


多くの方がいろんなところで言及し分析しているだろうとは思いますが、ぼくなりに考察してみたいと思います。



一番目に指摘すべきことは、RPGゲームの影響です。


小説という確立したジャンルのメディアが、新興のTVゲームというメディアに影響され侵食されつつあるという側面があります。


古くからの「小説」愛好家は、この事態に反発を抱く嫌いがあるかもしれません。



しかるに、にもかかわらず、「異世界転生」は、ある意味「小説」の原型をふまえているのではないか、というのが二番目に指摘したい内容です。


「物語」を読むということは、自分の日常とは違う「異世界」を体験することではないでしょうか。


「神話」や「伝説」に触れるとき、ぼくらは非科学的とか不合理とかいうことを気にすることもなく、異世界を冒険する楽しみに心を躍らせます。


日常に近い位置にある「現代小説」を読むときでさえ、自分とは「異なる」体験を求めていることに変わりはありません。


「異世界転生」もののおもしろさは、こういう「小説」の王道にむしろ回帰している点に求めてもいいのかもしれません。



ファンタジー小説というジャンルがあって、「異世界転生」ものはおおむね内容が重なります。


RPGゲームの影響でスタイル的に突然変異を起こした「ファンタジー小説」が「異世界転生」ものであるといってしまってもいいのかもしれません。


しかし、古典的な「ファンタジー小説」と現代的な「異世界転生」ものとは、なにか重要な違いがあるように思えます。


その違いゆえに、「ファンタジー」がマイナーなサブジャンルを超えられなかったのに対し、「異世界転生」ものは「なろう」サイトの圧倒的主流になってしまっているのです。


本稿はその違いをこそ明らかにしたいと願うものです。



「異世界転生」ものは、「異世界」での冒険を主題とします。


「異世界」とは、「現実」あるいは「日常」と対置される世界です。


ここまでは、あらゆる「小説」とりわけ「ファンタジー小説」と共通しています。


では何が違っているかというと、「転生」という部分にもっとも象徴的に現われてきます。


「異世界」と「現実」の距離感・関係性が、決定的に異なっているのです。



従来の小説は、「異世界」に遊んでも、「現実」に回帰するのを当然と考えています。


しかるに「異世界転生」ものでは、物語の冒頭で「現実」における主人公は死亡し、「異世界」で「転生」します。


回帰する可能性は最初から捨てられてしまうのです。


(「異世界転移」ものや「ゲーム世界」ものは、回帰の可能性を残す点、従来の物語との中間的存在とみなすことができるでしょう。


しかし物語構成上、「回帰」が主題になるケースは少なく、「回帰の実現」はむしろ「現実の異化」を帰結するパターンが多いようです。)



「現実 > 異世界」というのが、従来の小説の価値観であったのが、「異世界 > 現実」というのが、「異世界転生」ものの(ひいては現代的な)価値観なのだといってよいと思います。


このメッセージを強烈に表すのが「転生」というイベントなのです。


「現実はクソである」「異世界にこそ真実はある」、このような思いを表現するのに最適なフォーマットとして選ばれたのが「転生」というキーワードなのです。



ここでいう「異世界の真実」とは何なのでしょうか。


端的にいってみれば「TVゲーム的な快楽」が主成分となってきます。


それゆえに、「異世界転生」ものでは「TVゲーム的なギミック」が多数引用されることになります。


(ここらあたりが安っぽい印象を与えることで、「異世界転生」周辺のジャンルが毛嫌いされることは多いと思います。)



これは低俗な「現実逃避」なのでしょうか?



現代の最先端における「現実」とはなにかを、もう一度考えてみる必要があります。


「現実」とかつて呼ばれ、今も呼ばれ続けている何かは、本当に現在のこの時点においてもかつての「現実」の重さ・確かさを備えているのでしょうか。


もしもそうであるのなら、それを否定し遠ざけようとすることは「逃避」の名の下に批難されるべきなのでしょう。



国際金融に翻弄される政治経済。


社会制度を置き去りに進歩し続けるテクノロジー。


人倫や道徳をないがしろに優勝劣敗を強制してくる社会の空気。


さて、こういったものが現代の「現実」の内実であるとして、これを拒否する心情をぼくらは批判することができるのでしょうか。



「ぼくらの心情」は「現実」によって拒否されているがゆえに、「ぼくら」は「現実」を拒否し返して、「異世界」に亡命しようとしている。



「地上の楽園」は存在せず、「革命」に幻滅し、「豊かな未来」は色あせてしまった。


あらゆる「退路」が絶たれているがゆえに、「異世界」といういささか無理のある道具立てにかくも多くのエネルギーが集まってくるのだと思います。


この現象はそれ自体として承認するしかない、批判や是非判断を超えた現象であると考えます。


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