炎
どうでしょうネタは、一回はやってみたくて。
十二柱神主神の名を冠する首都ユピテルの中心部。数多の街道が交差する丘の頂上、神々の居城はある。ガラスとも水晶とも違う、半透明に透ける淡い紫色の不可思議な物質でできた、小さな山ほどもある宮殿。秋の日差しに照らされて、静かに煌めいている。その佇まいを眺めるだけでも、神々の威光がはっきりと感じられる。人間の力では、あのように巨大で、あのように美しい建造物を創造するのは、不可能だろう。
その威光を自分の目で見られるとは、しかも空から見下ろすなんてことができるとは……。非常に感慨深いものがあることも、事実ではある。その代わり、山のように不満もあるのだが。
ベルはユノに渡されたソージキに乗って空を飛んでいた。
ソージキに乗る、というビジュアル的な難点もさることながら、このソージキ、どこにも掴まるところがなく、体を固定することができないのである。当たり前だ、ソージキなのだから。もともと人が乗るようには作られていないのである。つるつるした丸いボディに座った尻が滑り、バランスなど取り様がない。仕方なしにホースにしがみついているが、けっこうなスピードが出るこのソージキ、それでは心もとない。高いところは平気なベルでも、少し恐ろしさを覚えてしまう。
「ねぇ、コレ。どうにかならないの? すっげぇ怖いんだけど」
ホースの先に留まる、パラスと名乗るお供の天使に聞いてみた。
「い、いえ、僕にはその、なんとも……」
赤い小鳥の姿をした天使は、消え入りそうな声で言う。なんとも頼りない天使である。魔法少女には、必ず専属の天使がお供に付くらしい。
半人前の天使は、小動物やぬいぐるみなどの姿を借りて地上に顕現するという。より大きく、人間に近いほうが、能力も高いということらしい。鳩くらいの大きさしかないパラスは、まだまだ駆け出しというわけだ。上級天使になると山のように大きな姿をとることもできるらしいが、もちろんベルは見たことがない。もちろん見たくもないが。
「大体コレ、ホントに乗っていいものなの? やたらスピード出るんだけど」
流れる風に揺られて、つぎはぎだらけのスカートがはためく。
「さあ……」パラスはクッと首を傾げた。「普通の魔法少女はホーキに乗りますので、僕にはなんとも……」
「ちょっと」ベルは拳を振り上げて抗議した。「じゃあなんであたしはソージキなのよ」
「ひぃっ! し、知りません……」
小さな体を震わせて、パラスは悲鳴混じりに答えた。身振りを付けただけなのに、なんだか悪いことをした気分になるベルだった。
「あンの年増、適当やりやがって」
ベルは怒りの矛先を、今はいないユノへ向けた。
「神様に向かってそんな暴言を吐く人、初めて見ました」
パラスはさっきから目をぱちくりさせている。
「魔法少女でソージキってこたぁないわよねえ。それに脈絡なく魔法少女って、別に魔法使えるわけじゃないんだし。普通にガールスカウトとかでいいじゃない。どんなセンスしてんのよ。だから化粧も濃くなるのよねぇ」
パラスはぶるっと身震いをした。
眼下を眺めると、まだら模様の街が広がる。街道に沿って建つ街路樹の赤と、煉瓦造の屋根の赤とが美しく混ざり合う。首都圏の街並みはモザイク画に似ている。ベルの地元ではあまり見かけないが、首都では階層を持つ建物も多い。その中で、所々に建つ教会の尖塔。本物の神が光臨したことで、もはや意味をなさないその建物は、今は天使たちが常駐して辺りを警戒する、一種の夜警塔になっている。
天使たちが光臨してから、人間の暮らしは一変した。道々には街灯が立ち並び、暗い夜を照らしてくれる。今まで不治の病とされていた病の治療法を、いくつも開発したのは天使たちだ。効率のいい農業の方法を教えてくれ、収穫量は倍になり、今や飢饉の恐怖もない。野生の獣や魔獣からも天使は守ってくれる。人間同士の争い、まして戦争なんて、もはやナンセンスといえる。
首都を訪れるのは初めてではなかったが、その頃は天使たちが光臨し始めたばかりの頃で、ここまで繁栄はしていなかった。今では空を天使が飛び、道行く人々は笑顔にあふれている。あれから十年も経っていないというのに、まるで別世界に来たかのようだ。
「お! あれが有名な、あの、えーと……なんとかいう街道ね! すごい昔からあるってウワサの!」
指差した先には、石畳の道。
「執政官街道の一部ですね、旧時代の名残の。……って、ちょっと、ベルさん!」
パラスが静止するよりも早く、ベルは急降下していた。
旧時代から残るといわれるその石畳の道は、既に道としての用を成さないほど朽ちてしまっている。石畳はいたるところ欠落し、めくれ上がり、馬車はおろか、人の通行さえ支障をきたす有様である。風化はもちろんのこと、天使光臨前に頻発した戦争によるダメージも大きいのだろう。
まっすぐに伸びる道の先を見ると、あの神々の宮殿がそびえたつ。すべての道は、神々の居城に向かって伸びているのだ。見れば、宮殿に近い方は修復がなされ始めている。そう遠くない未来、すべての街道が蘇るのかもしれない。
低空で感慨にふけっていると、道行く人々が手を振ってくれているのが見えた。魔法少女は、この街では広く認知された存在なのだろう。
「おねぇちゃん、パンツ見えてる~!」
母親の手に引かれた少年に、笑顔で手を振り返した。
「コラッ、クソガキ! 金払え~!」
少年はあかんべーをして、母親に頭を小突かれた。それを見てベルはくすくすと笑った。
「あのぅ、ベルさん。寄り道してる時間はあんまりないんですけど……」
困惑顔のパラスがおずおず切り出すが、既に興味は次に移っていたベルは聞こえないフリをした。
「あ! あれあれ、あれってオベリスクってヤツでしょ?」
風を切って飛び出す。
観光客がたむろするその半壊したモニュメントは、広場の中心にぽつんと佇んでいた。十メートルはあろうかというほどの巨大さだった。台座の部分に何かの意匠を施してあった痕跡はあるが、風化してしまって分からない。だが天を突くその雄姿だけは、百年前も変わらなかったのかもしれない。
街道と違い、オベリスクは修復される気配がない。さしもの天使達といえど、はるか昔の芸術家の魂までは蘇生できないということか。
「ベルさん、そのぅ……」
「そういえば、何とか言う有名な泉だか噴水だかがあるのよね。見に行きましょ!」
らんらんと目を輝かせるベルに対して、パラスは泣く寸前だ。
「日が暮れてしまいますよぉ~! 今日のルートには森越えがあるんです、急がないとまずいですよぉ~」
「うるさいなぁ」
ウワサの泉はどこかと、ベルは視線をめぐらせた。パラスは完全に無視。
ソージキに乗って首都上空を飛んでいると、ふと、傍から見たらどんな風に見えるのだろうかと考えてしまう。青い空に浮かぶ、ソージキにまたがった女と小鳥。さぞかし滑稽な光景だろう。びゅんびゅんと音を立てるほどの速度が出ているので、乗っている本人は笑えないが。
秋の空は冷たいはずだが、あまり寒くないことに今更ながら気付いた。このソージキが熱でも出しているのだろうか。
疑問を口にすると、パラスは喜々として答えた。
「魔法少女の乗り物は、重力の魔法で動いているんですよ。周囲に弱い斥力場を形成して、風を遮っているんです。だから、中心にいる僕たちは、風をほとんど感じないんです」
どうやらパラスは技術オタクの気があるらしい。
「でもさすがに外気温を完全に遮断はできませんから、寒くなったら魔法少女の制服を着るといいですよ。あれには温度を一定に保つ機能がありますからね」
「へー」気のない声で返事をした。「そうなの」
「……どうしてベルさんは着ていないんですか?」
パラスは無邪気にクリッと首をかしげた。
「そんな話、ひとっっことも聞いてないけど」
「ええっ! 制服もらってないんですか? 魔法少女全員に必ず支給されるはずなんですけど……」
「あンのババア! 適当やりやがって!」
「ひぃっ、ベルさん怖い……」
ベルが怒鳴ると、パラスはまた目に涙を溜めた。
「あんな変態めいたモン、どうせ着ないから別にいいけどさァ。あたしにだけ寄越さないってのは気分が悪いわよねぇ」
「き、きっと何か理由があったんですよぅ」
「理由って言ったって――」
「あ! あれあれ!」無理やり話を終わらせて、パラスは遠くの空を指差した。「他の魔法少女たちですよ!」
「あン? 他の魔法少女だぁ?」
パラスの指差した先の空に、豆粒みたいな黒い影がいくつか浮かんでいる。一見、ただの鳥の群れのようにも見えるのだが。
「やはり魔法少女ですね。ホーキに乗っていますから」
フリルのついたピンク色のツーピース、胸元には赤いリボンをあしらい、手首には暑苦しいくらいのシュシュ、そして空飛ぶホーキに乗っている珍妙な輩とくれば、件の魔法少女以外の何者でもあるまい。年のころは九~十歳くらいだろうか。そのくらいの少女に仕事をさせるなんて、存外、天使もシビアである。労働基準法に引っかからないのだろうか。
「あー、あれが。あの子たちも大変ねぇ、おばさんの変態趣味に付き合わされてさァ。っていうかさ、ホーキで空飛ぶって、魔法少女じゃなくて魔女っ子よね」
「はぁ」
「あの子ら、集まって何してんの?」
「魔法少女も、任務内容によって執務形態が違うのです。見たところ彼女らはまだ幼いので、指導員がついて、集団で任務を行うんでしょう」
輪を作ってそぞろ飛ぶ姿は、任務というより遠足のほうが近い。
「まるで幼稚園ね」
少女達は、ピーチクパーチクとやかましく騒ぎながら、集団で何処かへ飛び去ってしまった。
ベルはなんとなく、彼女達とは別の方向へソージキを向けた。
「さぁ、任務にもどりましょう!」
パラスは元気よく言って、進路を羽で示した。その方角とは全く逆の方向へ、ホーキはすべるように飛んだ。
「ど、どこ行くんですか?」
「あれ! ウワサのなんとかの泉じゃない? 見て行きましょうよ!」
「ちょっと、ベルさん? ベルさんってば~!」
またもや涙目になってしまったパラスの叫びが、青い空に木霊した。
北へ向かってしばらく飛ぶと、首都近郊の森林地帯へと入って来る。
太陽が西へと沈みかける頃、ようやく森の入口へと辿り着いた。
ベルは首を回して開けた場所を探すと、ソージキを操作し、ゆっくりと下降した。地面近くで飛び降りた足が滑り、顔から着地してしまう。
「だ、大丈夫ですか?」
慌ててパラスが声を上げる。
ベルはむくっと起き上がると、ペッペっと土を吐いた。
「大丈夫なわけないでしょ! 乙女の柔肌がぁ!」
ベルはエプロンで顔をぬぐった。鏡を取り出して、顔に傷が出来ていないかチェックする。……大丈夫なようだ。
「まったく……あたしにゃドジっ娘属性は無いっての。一張羅が台無しじゃない!」
顔をぬぐっていたエプロンまでも泥で汚れていることに気付いて、ベルは顔をしかめた。
パラスは中空をぐるっと一周すると、ベルの眼前にハチドリの様に滞空した。
「まずはこの辺り一帯の掃除をしましょう」
パラスはそう言って首を傾げ、チチチと少し鳴いた。まるで小鳥そのものである。
「この辺り一帯って……」
絶句して、周囲を見回す。
見渡す限りの木、木……。当然か。木立の隙間から赤い夕日の色が滲み出て、まるで魔界の門のようにも見えてしまう。地面は草が伸び放題になっていて、掃除機の掛けようもない。木々の合間にちょろっと走る影が見えた。……あれはなんだろう、リスか何かだろうか。
風が吹いた。カラスがけたたましい泣き声をあげ、いっせいに飛び立つ。いかにもおどろおどろしい。
「――いや、無理でしょ。終わるわけないじゃない、こんなの」ベルは首を振った。「もう帰ろうよ。服も替えたいしさぁ」
「でも、今日の分のノルマが……」
「ノルマぁ?」思わず、真顔になる。「何よ、それ」
「魔法少女には一日の作業量が決められていて、それをクリアしないといけないんです。意味も無くサボると、叱られるだけじゃ済みませんよ。報奨だってもらえなくなるかもしれませんし、神の怒りに触れたらもっと恐ろしいことに……」
「おい、ちょっと待てよ、何なのそれは」
「ひいっ!」
「そういう事はもっと早く言いなさいよ!」空を指差して。「もう日も暮れちゃってきてるじゃん!」
朱色に染まる空の向こうに、藍色の夜とともに、青白く光る月が昇りはじめている。
「ベルさんがいけないんじゃないですかぁ~! あちこち寄り道するからぁ~!」
「あんただって止めなかったじゃないの!」
「そんなこと言ったってぇ~!」
パラスが涙粒を撒き散らしながら叫んだ、ちょうどそのとき。
木立の影で、ガサガサと何かが蠢く音がした。
ベルとバラスは、しばらくその音がしたほうを見つめていた。
「――今の、なに?」
ベルの声はかすかに震えてしまっていた。
「わ、わかりませぇん……」
パラスに至っては、ほとんど泣き声である。
「ちょっと……やめてよ、熊とか、まさかトラとかじゃないでしょうね」
「トラはいないと思うんですけど……」
しばらくの間、耳を澄ましていても、耳の痛くなるような静寂だけが森の中を支配する。何の気配も感じない……いや逆に、気配が多すぎて分からないだけだろうか? 今しがた感じた動物の気配はやはり、息を殺して機会を待つ、肉食動物のそれだったのではないか? 次第に疑心暗鬼になり始める……。
アッハッハ、とベルは乾いた笑い声を上げた。
「ま、そういうことで! それじゃ、ちゃっちゃとやっちゃいましょうか!」
「そ……そうですねー!」
パラスも空元気で合わせた。
「で、これってどうやって使うのよ?」わざと明るく大きな声で言う。「あたしんち、ソージキなんかないから、使い方知らないのよねぇ」
ソージキの柄の部分にある、いくつかボタンのついた取っ手をガチャガチャと弄ってみる。
「さぁ……普通の魔法少女はホーキですからねぇ」
「おっ」いくつかボタンを押すと、にわかにソージキが唸りだした。どうやら電源スイッチだったらしい。「動いた、動いた」
ソージキはうなり声を上げて、地面の砂利を吸い込んでいる。ソージキの柄を押し引きしてみると、中でカラカラと小石がぶつかる音がする。ソージキをかけた跡は、特に変わったようにも思えない。強いて言えば、少し小石が減ったくらいか。
「うわこれ……地味~」
かなり視覚的に訴えない作業風景である。老若男女の憧れの的である、かの魔法少女の仕事であるとは到底思えない。
パラスは、アンテナの付いた検知器のようなものを取り出し、表示される値を難しい顔をして睨んでいる。
「一応、回収は出来てるみたいですね。値が減っていってます。っていうより、すごい勢いで減ってます。さすが最新型ですね」
「ぜんぜん実感ないんだけど」
「いや、ホーキの何倍も効率がいいですよ、これは。少し移動しながらやってみましょう」
「なるほど」
ソージキを引きずりながら進んでいくと、前方の茂みで、またもやガサガサと音が鳴った。
ベルはソージキの電源を切った。
ソージキのうなり声が消えた森の中で、茂みの中からガサガサと何かが蠢く音だけが木霊する。
その蠢きの大きさからして、小動物ではありえない。
「――もう今日はやめましょっか?」
パラスが口火を切った。
「そうねぇ、あんまし暗いってのもアレだしねぇ」
茂みの向こうは闇につつまれているが、葉擦れの音は続いている。それは、次第に大きくなっていっているようだ。
「あっ!」パラスが突然大声を上げた。「ト、トラだ!」
「うっそ、マジ?」
「しま、しま模様がありました!」
「あんたさっき、いないって言ったじゃん!」
「いや、あの歩き方! 胴体見ましたもん、僕!」
茂みから離れるように、二人はゆっくりと後ずさりをした。
「なんでこんなトコにトラがいるのよっ!」
「わ、わかりませよ~」
「あ!」茂みの闇の向こうで、なにかの縞模様が見えた気がした。「マジだ、トラだ! しま模様見えた!」
茂みの奥で、何かの動物の瞳が光る。
すでに、獣の息遣いが聞こえる距離まで、それは肉薄していた。
「ちょっと……来るわよ! どうするの!」
「こ、怖いです~!」
パラスはベルの肩に止まると、体を摺り寄せてきた。
茂みの向こうの瞳の光が消え、一瞬の静寂があった後、一際大きな音を立てて、黒い影が茂みから飛び出してきた。
それを見たベルとパラスは、同時に声を上げた。
「あ!」
藪の中から出てきたのは、
「シカだ!」
大きな角を生やした、角のわりには小柄な鹿だった。
ベルとパラスは思わず顔を見合わせた。
鹿はのそのそと木々の合間を歩むと、頭を垂らし、草を食んだ。
微妙な空気が流れる。
二人は苦笑いして取り繕った。
「……シカでした〜」
野生の鹿は夕闇の中で、静かに草を食んでいる。
拍子抜けし、肩を落としてベルは言った。
「なにがトラよ、どこに縞模様があるってのよ」
「だって……ベルさんがトラじゃないかっていうから」
「あたしのせいだっての?」
「ひぃっ!」
「まったく……ビビって損したわよ」
ベルがそう言ったその瞬間、背後の木々の合間から、赤い閃光が発した。
揺らめく赤い光は、鹿の首筋を撫でるように走ると、地面に突き刺さった。
振り返ったベルは、息を呑んだ。
それは、炎だった。木々の影から噴き出した揺らめく炎が板状に収束し、波打つ刃を形作っていた。炎の刃だ。
音も無く、野鹿の首がずれ落ちた。彼は不思議そうに瞬きをしていた。自分の身に何が起こったか、認識出来ない……そんな顔をしていた。それがぼとりと落ちた時、彼はうめき声を上げる暇も無く、死んだ。
首の無い体から、大きく血飛沫が噴き出し、中空に弧を描いた。飛沫が少し顔にかかり、その生温かさを感じる時になってようやく、ベルは息をすることを思い出した。
「何が……」
ベルが言いかけた時、それは木々の合間から姿を表した。
それは最初、黒い岩の塊か、冷え切ったマグマのように見えた。表面は石炭のような黒色で、棘のように鋭い突起が全体にあった。表面に無数に走るひび割れから、赤い光が溢れ出し、そこかしこから蒸気が上がっている。いや、それは"ひび割れ"ではなかった。それは"継ぎ目"だった。岩のように見えたのは、甲冑の装甲だった。
それは、人の形をしていた。黒騎士の甲冑を纏った、野生の熊と見紛うばかりの大きさの。人間でありえないことは、その異常な気配からすぐに分かる。低い、地鳴りにも似た唸り声が甲冑の隙間から響き、そのたびに漏れ出でる赤光が明滅する。右手に波打つ炎の剣を携えて立つその姿は、子供の頃に絵本で見た、魔女に仕える悪の騎士の姿そのものである。
「ま、魔獣か!」
パラスはベルの肩から飛び出すと、羽を大きく広げた。魔法を使おうとしたようだが、丸太のように太い魔物の腕になぎ倒され、地面に叩きつけられた。
魔物はゆっくりと首を動かし、ベルの方を睨んだ。
「うっ……」
魔物の目は、甲冑の闇の奥に隠れて見えなかったが、代わりに激しく光る赤い光が、明確な敵意を放っていた。
本能的に危険を察知したベルは、無意識のうちに後ずさりしたが、ぬかるみに震える足を取られて、尻餅をついてしまった。すぐに立ち上がろうとするも、思うように出来ず、その場でじたばたともがくだけしか出来ない。腰が抜けてしまっていた。
魔物はゆっくりと剣を振り上げた。
高々と振り上げられた炎の剣が、夕闇に浮かぶ月輪に重なる。天空の群雲を裂くかのように、剣の切先が月の頂点に達したとき、ベルは自らの死を予感した。
ふと、群雲の合間に、幾筋もの小さな光が走った。
雷光だ。
瞬く後に、その光が去ったとき、いつの間にか、月輪にもうひとつの影が浮かんでいた。
「であぁぁぁっ!」
影は背後から魔物を一撃すると、ベルと魔物の間に陣取った。
影の主は、青年の姿をしていた。紫白の法衣を身につけて、髪は金色に輝き、風に揺れるたびに光舞う。ベルからはその背しか見えないが、その美しさは、人間のそれとは思えない。間違いなく、天使族だ。
「人間じゃない……? 人型の魔獣なのか?」
謎の天使は、存外、若い声を発した。目の前の存在が魔物だと気付いたようだ。半身になって構えを取ると、拳を握り締めた。
「アーク、アークか!」
地面に落ちたパラスが、なんとか顔だけ上げていた。
「パラス、援護しろ!」
鎧の魔物が再び炎の剣を振るう。アークと呼ばれた青年は、腰に差した短刀を抜くと、その剣を受け止めた。青白い火花が散り、一瞬、森の中が昼のように明るくなった。
「槍よ!」
片羽を上げ、パラスが叫ぶと、地面から土の塊が噴出し、鎧の魔物を押しつぶした。
その隙に、天使アークは開いた手を天高く振り上げ、そして地面に向かって一息に振り下ろした。途端に天空から一筋の稲光が走り、鎧の魔物を直撃した。
至近距離の落雷で、視界が白転する。激しい光に、ベルは思わず目を閉じた。轟音で空気が文字通りビリビリと震えた。
衝撃で、魔物を押しつぶしていた土が吹き飛んだ。魔物の体から、黒い煙が上がり、肉の焼ける臭いが立ち込める。
アークは短刀を構えなおし、止めを刺すべく魔物に飛び掛かろうとしたが、次の瞬間、魔物の背から2つの炎が噴出した。炎は翼を形成して、魔物はそのまま夕空へ飛び去ってしまった。
「逃げた? 人型で、知能も高いのか?」
青白い月の中へ消える魔物の姿を、アークはいつまでも睨んでいた。
その美しい金髪が光とともにたなびく姿が、ベルの目に焼きついて離れなかった。