#003
女子割合の少ない武鉄隊にとって、一人の女性隊員に何人もの野郎が惚れるのは、それは必然としか言いようがないだろう。その対象が突出した魅力を持っていれば、尚更のことである。
帝国暦13年7月。ホタルこと水無瀬 晴加は、今年度何度目か分からない、見慣れてしまったシチュエーションの中にいた。周囲に誰もいない、異性と二人だけの空間。あちらは頬を赤らめ、きっとこの先はこうだ。
「友達からでいいから、僕と付き合ってください!」
想像通りすぎて、少し罪悪感を覚えてしまう。そして晴加の返事も決まっていた。
「ごめんなさい、お付き合いを前提にはできません。でも同じ管区の仲間として、これからも仲良くしてくださいね」
「え?あ、も、もちろん!」
この返事は、彼女が双子の兄から伝授された『多大なダメージを与えることなく、尚且つ好感度を更に上げられる断り方』であった。オンナを安売りしてはいけないと、彼の美学が全面的に押し出されている。
「晴加」
「あら、圭悟。今のはどうだった?」
「バッチリよ。フラれたのにあの子、笑顔だったじゃない」
兄である圭悟が女性のような言葉遣いを好んでいることに、晴加は何の疑問も抱かなかった。
幼い頃から父親が単身赴任で家を空けていた水無瀬家は、母親と祖母、そして母の妹が同居していた。自分達兄妹が物心付いた頃には、耳に聞こえる言葉は全て女性特有の語尾を含んでいたのである。圭悟は同性愛者でも何でもなく、ただのキャラクターとして所謂おネェを演じていることを晴加は知っていた。最早演じるという範疇すら超えて、その方が自然なのだ。
「さ、晴加もいらっしゃい。ハヤテちゃん達がランチに誘ってくれてるわ」
「それは素敵ね!早くしなきゃハヤトが餓死するかしら?」
入隊前の試験時に起きた事件。率先して解決していた二人の同期は、二人共が伝説のコードネームを既に拝し、着実にその能力を高めていた。元々喧嘩には強かったらしいハヤトに、努力家のハヤテがついていく形だ。
晴加はそんなデコボココンビの二人の同期、そして兄と一緒にいる時間が何より好きだった。
「お、リアスちゃんとホタル。お帰りー」
「あれ?ハヤテだけ?」
「それがさ、急用ができたって出てっちゃったんだよなー」
待ち合わせ場所に着いてみると、そこには少し不満げなハヤテしか居なかった。
「用事って?」
「分かんない。あんまいい顔せずに出てった。メシは俺らだけで行ってくれってさ」
「ハヤトがハヤテから離れるの珍しいわね」
「いつも俺のこと弱いってバカにしてるくせにな!」
心底残念そうに言うハヤテをよそに、リアスは少し呆れた。武鉄隊に彼らが入隊してからおよそ三ヶ月、特に、今この場にいない渋谷 梁が『ハヤト』を拝してからというもの、ハヤテとハヤトは常に一緒だ。一人だけを捜したくても、必ずもう一人もセットになっている。これが男女ならお熱い仲であってもおかしくない。
しかし、リアスにとってこの機会を逃すわけには、いや、逃させるわけにはいかなかった。
「あら、私にも急用ができちゃったわ」
「ええ!?」
「そういうわけだから二人で行ってちょうだいね」
何か言われる前にリアスは立ち去る。もちろん用事など入るわけがない。
リアスは、水無瀬 圭悟は知っていた。自分の片割れである晴加の気持ちはすぐに分かった。晴加は呉羽 奏に恋している。そしてこれはおそらく両想いだ。双子とはいえ兄として、妹には幸せな思いだってしてほしい。実ろうが実るまいが、思いを寄せる男の子と二人きりで出掛けるくらいしたって何も悪いことはない。
「……、ハヤトちゃん、どうしちゃったのかしら?」
リアスは業務用端末を取り出すと、何度か呼び出しを試みた。応答はなく、位置情報を見ても管区外にいるようだ。何もなければいいがと思いながら、彼は入隊後初めて、一人で食堂へと向かった。
武装鉄道希望隊 Memories #003
渋谷 梁は、孤児だ。
小学校高学年の時に両親が揃って死んだ。両親がどんな仕事をしていたとか、どんな活動をしていたとか、そんなことは一切覚えていない。今になって分かるのは、やたら集会と呼ぶ会に出席していたことだ。それが宗教的な何かだったのか、それとも政府に対してやんちゃな集まりだったのかも、今の彼にはどうでもよかったし興味も湧かなかった。
別段苦労したわけではない。この時代、残念なことに孤児は珍しくも何ともなく、児童養護施設は比較的早く入所できた。他に兄弟がいたわけでもないので、気にしなければならない問題もなかった。最低限(なんて言ったら贅沢になると思われる程度)の生活は送れるし、教育だって引き続き受けることができた。
孤児となった梁が、中学校を卒業するまで暮らしたのが、児童養護施設『虹の家』である。この三ヶ月、音沙汰が無かった。離れていたのは、過ごしてきた時間に比べるとほんの少しのはずなのに、懐かしさまで込み上げてくる。
梁は門に手を掛け、開く。申し訳程度の園庭には、草いじりをしている老齢の女性がいる。『虹の家』の園長だ。彼女は梁に気づくと、日焼けを防ぐための大きな麦わら帽子を外しにかかった。
「あら、梁くん? お帰りなさい。今日はお休み?」
「岸辺に呼ばれた。夜には帰る」
「慶介くんに?忙しいとこ悪いわねえ……」
園長が上がるよう促すと、梁は何も言わずについて行った。玄関ポーチで大仰な安全靴を脱ぐ。廊下を少し歩くと、すぐに食堂(広間もしくは食卓と呼ぶべきだろう。食事の時や数名で作業したり遊んだりする時、一番広いここが使われた)に着いた。まだ昼間のためか、在籍する子供達は誰もいない。
上着を掛ける箇所があるのに、彼は少し厚い作業着を脱ぐことはしなかった。中には防弾ベストといくつかの武器が装備されているためだ。無駄に心配を掛けたくなかった。
「……、あいつ呼び出したくせして居らんの?」
「そうよー、テストの時期で忙しいみたいね」
「俺より頭悪いくせにテストとかあるん?」
「まあまあ」
高校に通ってさえいれば、卒業までは施設にいることができた。梁が所属する武装鉄道隊は全寮制のため、彼は中学校と施設を同時に卒業したのである。対して、彼を呼び出した岸辺 慶介は近くの高校に入学したと聞いている。
「梁くんは好きな人とか、できたの?」
園長先生はとてもにこやかだ。梁は少々怪訝な顔をする。気分を害したのではなく、そんな存在は思い当らなかった、はずだった。
「……、めっちゃ優しい子がいる。めっちゃ美人やし、めっちゃ性格ええし」
「まあ素敵!その子が好きなのね?」
本人が自分で驚くほど、すらすらと言葉が紡がれていく。彼が頭の中で思い描いたのは、同期のホタルに他ならなかった。梁は顔に火照りを感じた。今は7月、立派な夏だ。暑くて当然なのだと自分に言い聞かせる。
好きだなんて、思ったことがない。ただ美人が近くにいるだけで、その美人と仲良くしやすい同期というポジションにいるだけで、舞い上がっているだけだ。
「その子が好きなんは俺の今の相方。そいつも、その子が好きなんや。お似合いやで」
「梁くんは身を引いちゃうのかしら?」
「身ぃ引くも何も、俺は」
梁が反論しようとしたその時、突然呼び鈴が鳴った。子ども達の帰宅ではない。来客だ。園長は立ち上がると玄関へと向かう。梁は何の気無しに後を追った。
園長が扉を開けると、5名ほどの軍人が姿勢良く立っていた。代表の一人が応対した園長に敬礼する。
「御免ください。帝国軍部、生活安全管理部です」
「ご苦労様です。何のご用でしょう?」
後ろに控えていた軍人が道を空ける。玄関の向こう、園庭に見覚えのある背恰好の少年が立たされていた。彼の両隣り、そして後方にそれぞれ一人ずつ、やはり制服姿の軍人が立っていた。逃がさないと言わんばかりだ。
「あ、あの、慶介くんが何か」
「違法ドラッグの所持で彼を現行犯逮捕しました」
「彼が我々の姿を確認した後で不審な動きをしたため、その場で身体検査を行ったところ、所持品の中から違法薬物を発見しました」
押収品であろうビニール袋をつきつけられ、園長と梁はたじろいた。小さな透明の袋の中には、いくつかの錠剤が入っている。風邪薬や一般的な市販薬とは異なり、色や印が様々だ。教科書の写真でしか見たことのない梁ですら、一目でそれがまともな薬でないことくらい判断できた。
「彼の供述に寄れば、君に勧められ、受け取ったとのことだ」
「俺が?」
「所属と階級、コードネーム及び本名は?」
蔑むような視線を向けられた不快感より、混乱の方が遥かに大きかった。
梁は彼、岸辺 慶介をよく知っている。きっと誰よりも知っていたことだろう。数年間、学校でも施設でもずっと一緒にいた相棒だ。同じ『虹の家』に住む子供達が嫌がらせを受けた時、二人で必ず仕返しをした。売られた喧嘩は二人で受け、立ち向かってきた。そんな彼がどうして、と一瞬の間に何度も頭の中で問答が行われた。
「さっさと答えろ。武鉄風情が図に乗るな」
「……、Western River Sta.管区、武装鉄道隊。渋谷 梁、コードネームはハヤトであります」
「昨日と本日、何をしていたか答えろ」
帝国軍部が武装鉄道隊を嫌う傾向にあることは知っていた。園長と会話を交わした兵士は、面白いほどに態度を変え、梁を威圧するように語気を強める。普段なら反発していたことだろう。しかし今の梁にそんな気力はなかった。近くで監視されている状態の慶介が、相棒だったはずの慶介が、やたらと遠くにいるように、そして別人のように感じられた。
「昨日から今日にかけて通し勤務でした。退勤直前に、慶介……、彼から連絡が入ったので、その後すぐここに」
「それを証明できる者は?」
「Western River Sta. に問い合わせてもらえれば」
「……、いいだろう。同行してもらおうか」
「はい……」
まるで容疑者を連行するかのように、梁の周りを軍人達が囲む。それでも不快感を覚えるような余裕がない。自分に妙な容疑が掛かっている事より、親友がクスリに手を出していた(かもしれない、まだあくまでも容疑だ)と、疑いを掛けられていることの方が余程堪えた。
「梁くん」
門を出る直前、園長は心配そうな顔をしながら見送りに来た。掛ける言葉次第では、このまま二人に付き添い駐屯地まで赴いてしまうだろう。梁は無理やり笑って見せた。
「先生は飯作っといたって。そろそろ皆帰ってくるで」
「……、お願いね?」
「なんかの、間違いやろ。あいつがそんなんするわけない」
園長と梁は視線を慶介の方へ、遠慮がちに向けた。かぶせられた灰色の布の下、顔が俯いているため表情は確認できなかった。心なしか、落ち着きなくそわそわしているように見えた。クスリのせいではない、と梁は自分に言い聞かせる。慶介は悪いクスリなんてやっていない。そわそわしているのは禁断症状ではなく、やってもいないことで逮捕され動揺しているだけだ。何度も何度も言い聞かせながら、彼は用意されていた車に乗り込んだ。
***
「圭悟ただいまー!」
「こーら、ここで本名はダメって言われてるでしょ?」
ホタル、いや晴加は心底満足げに帰ってきた。後ろにはにこにこしているハヤテもいる。彼の頬は暑さではない何かしらの原因で赤らんでおり、どうやら二人の関係がただの同期から一歩進展していることをリアスは察した。
「よかったわね」
「なんのこと?ふふっ」
分かりやすい反応が何よりの返事だった。
社員食堂の片隅でカップ式自販機のコーヒーやジュースを飲みながら、彼らは他愛もない会話を楽しむ。しかしいつものツッコミ役が不在のため、なんだか締まらない。時刻は既に夕方を示しているのに、ハヤトが帰ってくる気配は一向になかった。
「武鉄隊員、注目!」
突然、大きな掛け声が響く。座っていたハヤテ達は慌てて立ち上がると、声のした方へと姿勢を正した。ハヤテ達のような新人隊員の身分では会話をすることすら許されない、隊長と副隊長が並んで立っている。彼らは休憩中の鉄道職員に詫びを入れると、本題に入った。
「緊急の事案だ。心当たりのある者は名乗り出てほしい」
全員に緊張が走るのが分かった。隊長は口を開く。
「昨日、ハヤトと組んで仕事してた奴はここにいるか?」
「俺、……じゃなくて、自分です!」
ハヤテは表情を強張らせながらも、右手をしっかりと挙げる。伸ばしたはずの指先は、かすかに震えていた。緊急の事案、ハヤトに何かあったのではと気が気でなくなっていた。
「ハヤテ、か……。悪いが今から、管区内の駐屯地に行ってほしい」
「は、はい?」
「詳細はここじゃ、な……。来てくれ」
「はい!」
隊長の後に続き、ハヤテは社員食堂を出ようとした。視線を感じ振り返ると、同期の双子隊員以外からは一斉に目を逸らされる。視線がかち合った彼らは目で訴えていた。早く帰ってこい、と。
「ハヤトがドラッグ!?」
隊長が自ら運転する車(彼の愛車らしい)の中で、ハヤテは素っ頓狂な声を上げた。いつものケンカか、悪くて暴力沙汰に巻き込まれたのだろうと想定していたのに、まさか薬物に関わる事件だなんて、彼の思考の範囲を軽く超えていたのである。
「何かの間違いだとは思うが、逮捕された少年がハヤトに勧められたと言ってるらしい」
「絶対ないですよ!武鉄は薬キメてできるような仕事じゃないです!!」
「分かっている、落ち着け」
車内は先ほどと打って変わって、静寂が訪れる。電気自動車の静かなモーター音だけが、今日はやけにうるさく聞こえた。
「お前は、昨日ハヤトと一緒に居たことを話してくれればいい。そうすればあいつも今日中に帰れる」
「……」
「万に一つ、いや億に一つもあいつがやっていたとしたら、お前が殴ってやらねばならんな」
助手席に座るハヤテを、隊長はミラー越しに一瞥する。何か考え込んでいるのか、ハヤテは腕組みしたまま目を閉じていた。数秒間の後、彼はゆっくりと目を開いた。意思の強い、焦げ茶の瞳だ。
「……、ハヤトは」
「ん?」
「ハヤトはあんな悪そうな見てくれだし、すぐ喧嘩するし、口もめっちゃ悪いけど、カッコ悪いことは絶対しません」
「……、随分ハヤテらしくなったな、お前も」
数ヶ月前に入ってきたばかりの新人が、普段会話すらできない自分にはっきりと意見を述べた。たったそれだけのことが彼には嬉しかった。数年前に彼が入隊した時から既にあった、幹部級の先輩達と直接話すことができないという縦社会式の悪しき風習は、彼が隊長になった今でも拭い去ることができていない。隊長は微笑む。もっともその穏やかな表情は、隣に座る彼の目には届いていなかっただろう。一刻も早くハヤトを連れ帰ることしか考えていないようだった。
「俺が同行できるのはここまでだ。頼むぞ」
「あの、隊長」
駐屯地の入り口で事情を説明した隊長は、ハヤテの入場許可を得るとその場で立ち止まった。ハヤトの件は重大な案件だが、彼には彼にしかできない仕事が山のようにある。それにこの件に関しては、ハヤテの方が適任だ。少し不安そうな顔をしたハヤテの肩を、彼は強く叩いた。
「必ずハヤトを連れて帰れ」
「……、はい!ありがとうございます!」
ハヤテは入り口の警備担当に敬礼し、ガラス張りの扉の向こう側へと通された。彼の背中が見えなくなるまで、隊長はその場を動かなかった。
***
間もなく夕日が落ちようかという頃、駐屯所内のロビーにはオレンジの光が眩しく差していた。狭い部屋での取り調べは、ハヤテが経験した30分間よりも随分長く感じられた。実際は、その後ハヤトを待っている時間の方が長い。
扉の開く音がしたかと思うと、二人分の足音が聞こえた。ハヤテは立ち上がる。光の入らない暗い廊下の先に、明るい金髪が揺れるのが見えた。だんだん近づいてくるハヤトは疲れ切っているのか、項垂れているようだ。
「ハヤト」
「……、おう」
声を掛けると彼は頭を上げ、控えめに口角を上げてみせた。普段、挨拶の時に見せてくれるようになった薄い笑顔にも、まだまだ程遠い。ハヤテは戸惑った。このまま黙っていると、ハヤトがそのまま遠くに行ってしまうような、漠然とした不安を覚えたからだ。
「な、腹減っただろ?昼行けなかったからさ、みんなで飯行こうよ?な?」
「……、おう」
「待てや梁!!」
怒声が響く。先ほどハヤトが通ってきた廊下の向こうに、数名の兵士に囲まれた少年が立っていた。高い身長に見合わない、こけた頬が痛々しい。
「慶介……」
かすれた声でハヤトは彼の名を呼んだ。ハヤテは、彼が薬物所持で逮捕された容疑者であることに気づく。そして彼がハヤトに、渋谷 梁に濡れ衣を着せようとした張本人であることが分かった。
「裏切りやがって!虹の家守る言うたくせに!!」
「……」
「俺が居らんかったら先生も皆もどうなるか分かってんのか!?」
「……」
梁は何も言わなかった。右手で左腕を強く握り、震えを抑えつけている。左手は握りしめられ、このままだと出血するのではないかと、ハヤテは気が気でなかった。早くこの場から遠ざけなければと、思うのに体は動かない。
「全部お前の所為やからな!お前が公僕なったんが悪いんや!!」
「……」
心臓が冷える感覚がした。ハヤテには、ハヤトの手を握ってやることしかできなかった。それでもハヤトはびくりと肩を震わせ、どこか気の抜けた、泣きそうな顔をようやくハヤテに向けた。
「ハヤト、帰ろう?」
「……、ん」
「さっさと死ね!死んでまえ!!死なんかったら殺しに行ったるわ!絶対殺す!ブッ殺したるからな!!アハ、アハハハ!!」
ハヤトが気丈に笑顔を見せようとした瞬間だった。本音なのか、クスリで既に心身ともに壊れてしまったのかは分からない。岸辺 慶介は狂ったような笑い声を響かせ続ける。彼を囲んでいた兵士たちは我に返ったのか拘束を急ぎ、半ば引きずるようにして彼を連れていった。制止のために力を込めていたハヤテの手の方が、いつの間にか握力が強くなっていた。
再び静寂が訪れる。ハヤテは重い空気を何とか破ってやりたかった。
「ハヤト」
「腹減ったなー……」
彼らが口を開いたのは、ほぼ同時だった。ハヤトは疲れたように、どこか自嘲するような笑みを浮かべていた。今の感情を抑えつけるように、思いを隠すように、彼は微笑んでいる。
「……、うん。飯行こっか」
ハヤテは、いつも通り接することしかできなかった。そうすることでしか、今の相棒を慰めることができなかった。自分の未熟さを痛感した瞬間だった。
「……、奏はさ、10歳ん時、何してた?」
ハヤトが再び口を開いたのは、駅へ向かう帰り道の途中だった。夕日はとっくに沈み、辺りは薄暗い。季節は夏なのに、川沿いは涼しかった。時折吹く穏やかな風が、寒さすら感じさせる。
「俺?そうだなー……」
「家族と仲良かったか?」
「誰から見てもすっげー仲いい家族だと思うぜ」
「……俺も、同じや」
奏は着飾ることなく答えた。梁は小さく喉を鳴らし、笑っているようだ。
暗くなった静かな堤防沿いに二人は腰掛けた。駐屯地から駅まで、歩くには少し遠すぎた。ただでさえ精神的疲労が溜まっている今、歩き続けると倒れそうだった。
「虹の家はな、新しい俺の家やった。親が死んだ奴とか、訳ありで親と暮らされへん奴が集まってた。俺も親死んだけど、あーこいつらが新しい家族なんやって、思ってた。思ってた、のになあ」
「ハヤト?」
「帰る家、また無くなってしもた。たった3ヶ月で、めっちゃ変わってしもた。俺やっぱあかんな、その、そういう繋がり?求めたらあかんかったんや。失うことになるって、そのくらい、分かってたんや最初から」
聞くばかり、そしてきつい一言を浴びせるばかりで、自分のことは一切話さない梁が一気に捲し立てるように、それでも静かに語った。その目に映っているのは暗い川。見つめているだけで吸い込まれそうな色だ。悲しみよりも諦めに似た、溜め息が辺りに溶け込む。
「今まで何ともなかってんけどなー……」
咄嗟に奏は、目の前の孤独に耐える少年を抱きしめた。彼がいつもの状態であったなら、冗談を言いながら突き飛ばされていたことだろう。彼はそうしなかった。
「……暑い、キモい、ひっつくな」
暴言をいくつも重ねながら、梁は離れようとしなかった。むしろ体を預けるように、脱力しているようだった。それでも彼の口からは、奏にはどこで学んだのか見当もつかないような悪口が延々と続く。言葉はだんだんと詰まるようになり、声もかすれ始めた。全て、ただの強がりだ。
「大丈夫」
「……」
「そんなに頑張らなくて、大丈夫だから。なあハヤト、俺らがいるよ」
「……、なんでお前が泣いてんねん、アホ」
二人分の嗚咽が、夜に溶け込んだ。誰にも見られなかったことが、彼らにとって最大の幸福だった。
翌日の彼らは二人とも、部屋から出てこなかったという。食事の提供に訪れたとある同期の証言は、彼らは二人とも目を真っ赤に泣き腫らしていた、とのことだった。トラブルはどの代より多くとも、彼らこそハヤテ、ハヤトに相応しいのだと、隊長は笑った。