散った過去、漂う未来
羽部は眠り続けるゆずなの隣で、少しだけ泣きたくなった。
いや、実際には涙ぐんだ。
目を覚ました彼女の反応が、想像すら出来ずに、ただ自分の中で確信した感情はただの泥沼。
でも、仙台へと移るのもあと二ヶ月。
とりあえずは真斗に殴られて、ゆずなの意思を尊重し、二ヶ月後には全てから離れようと思う。
だから後少しだけ、彼女の隣で惰眠を貪ろう。
羽部は柔らかな肢体を胸に抱きしめ、目を閉じる。
そして起きた彼女は、呟いた。
「帰りは別々がいいの」だと。
*
風が背中を煽るようにゆずなを押した。
落下する大量の水しぶきは真っ白で猛々しい。
羽部と来た昨日の景観とは全く異なって見える。
もう、羽部は高速に乗った頃だろうか。
初めての行為は、無我夢中で、没頭することで、あらゆるしがらみから一時の開放を感じた。
胸に抱いた定期入れ。
開けば、笑顔で佇む美人がゆずなを見つめる。
(……お母さん。何を思って、あの頃の私と一緒にいたの?)
生みたかった?
一緒にいたかった?
別れたのは私のせい?
「涙、とまらないや」
佇んで。
涙した。
明日はブルーマンデーだ。
*
「慎!?全然携帯出ないから、オレ何度も電話したんだけど」
ドカドカと上がりこむ友人を、真斗は仰天しながら追いかける。
「ゆずなは?」
「旅行からまだ帰ってきてないんだ。夕飯は?」
呑気な問いかけに、慎一は苛立って、ドカリとソファに腰を落とした。
「話がある」
「何だよ、急に。一昨日の電話なら……」
脇に立ち、唖然としつつも謝る真斗に、慎一は容赦なく一気に告げる。
「この週末は、ゆずなと温泉旅館にいた」
「ゆずな………は?」
空気が張り詰めて、直ぐに溶けた。
「冗談よしてよ」
「寝た」
「……」
笑おうとした真斗の表情が凍りつく。
「寝た」
もう一度繰り返した慎一に、真斗は震える声で近づいた。
「……に言って、んのお前」
「アイツを追いかけて、全部話して、それで泣いてる女につけ込んでセックスしたって言って……ッ」
怒鳴ったと同時に吹っ飛ばされて、唇を拭った。
「……死ね」
拳を握り締め、仁王立ちになる真斗を慎一は見上げる。
「お前には言われたかねぇよ。もとはと言やあ、お前が寝言であの人の名前なんか呼んでっからだろうが!?」
「え……?」
「んな切羽詰ってよ、ゆずなを彼女の代わりにするくらいなら俺のがマシだっつの」
カッとなって、真斗は慎一を蹴り上げて、叫ぶ。
「うるせぇッ!」
「……っ情け、ねえんだよ。てっめえはッ」
負けず劣らずに怒鳴って、慎一は真斗の胸倉を掴んで睨む。
「消えろよッ」
「……あっそ。ちょうど良かったわ。……オレ、転勤すっから」
「っんだよ、ソレ……」
慎一は鳩尾を押さえて、真斗の脇を通り過ぎる。
咽せて、上擦って、せりあがる。
唾液を飲み込んだ。
「一つだけ忠告しとく。ゆずなには、ぞんざいな口は絶対にきいてやるなよ」
真斗の背中に言葉を投げ掛けて、そのまま歩いて、玄関扉に向かう。
(……いって……。んとにバカヤローが)
ようやくノブを捕まえたと思いきや、掴み損ねた。
開いた隙間から、甘い香りが流れ込む。
「……は、羽部?」
「随分遅かったんだな」
何をしていたのか。
「…あの……!?…えっ、顔ど、どうしたの?」
口を開こうとして、部屋の奥から真斗の足音が近づく。
「……っゆずな!」
「ま、真斗!?」
そんな2人に苦笑して、羽部はゆずなの横を通り抜けた。
「……じゃあな」
呼吸に埋もれて、囁き声にしかならない。
「え?」
無機質な音を立てて閉まった扉に、ゆずなは振り返る。
「ゆずな」
「あ、ただいま。真斗」
「……」
微笑んで、ボストンバッグを床に置いた。
「羽部、話したんだね」
随分、潔くて笑えた。
「本当なのか?」
「……うん」
久しく聞いていなかった真斗の口調に、ゆずなは戸惑って、頷く。
「始めからその予定で?」
「まさか。突然、羽部が現れるんだもん、甘えちゃったよ」
「オレ、誘えば行ったのに。そうしたら……」
ゆずなは困ったように真斗を見つめた。
相変わらず、愛しく惹かれる存在ではあるけれど。
(……大丈夫)
頭の中は、冷静だ。
「最初はそのつもりだったの。予約も二名でしてた。でも、真斗には羽部がいるって思ったし。私……真斗が好きだったから、誘いそびれちゃって」
そうしたら、自分の母親である人物の名前を呼ぶんだもの。ゆずなは、拗ねたように微笑んだ。
「……オレも、好きだ」
「どっちをなの?」
迷子の子猫のような真斗が、痛々しくて。
「分からない。でもゆずなが柚香さんじゃないのは分かってる」
「本当にそう?私、マザコンだから、誰かが遠藤柚香の代わりになるのは許せないよ。それが、私自身であるならば尚更。私は、ゆずなだもの」
「……じゃあ、付き合う?」
「それは出来ない」
ゆずなはきっぱりと言い放った。
二人の距離は、会話をするには少し遠い。でも、お互いに近づかない。
それが、きっと答え。
「何で?」
「……何でって。真斗、自分がしたこと分かってる?私は償いなんていらなかったよ。もっと早くに言って欲しかっただけ。そうしたら、羽部だってこんな思いをしなくてすんだはずなのに」
「……だよね。ごめん、どうかしてる。でも、オレ。慎に嫉妬してんだ」
真斗は頭を抱えてうずくまった。
「私は本当に真斗の友達のゆずなだったかな?」
「……」
「……」
真斗を見据えた。
酷い沈黙。
これほどの憎悪を込めて睨むのも、きっと最後。
「いや、ウソ。柚香さんを見てた」
白状した。
「うん」
ゆずなは笑う。
痛い。
痛い。
すごく、痛い。
心が飽和する。
「……出てくの?」
「だね。会社には寮もあるから」
「ごめん、オレ……柚香さんをずっと愛してた。死んじゃった……いや、殺しちゃったの、オレだもん」
泣き笑う。
裂ける。
裂けそう。
心が裂ける。
「病院、そういえばいたね。私、相当混乱してたでしょ」
「うん」
打ちひしがれた真斗は、萎れた猫のようにへたりこんだ。
そんな相手に、焦がれた相手ではあったけれど、ゆずなは言い放った。
「……ちなみに、真斗。私、ピザまんあんまり好きじゃない。実はプルーンは嫌い」
「……え?」
「あのね、お母さんの好きな物だよ。どっちも」
「……ごめっ」
(バカだな。真斗も私も、羽部も)
靴を脱がぬままでいたゆずなは、ドアにもたれ掛かる。
コン、と外側から音がした。
(聞いてるの、かな?……羽部)
同じように、コツンと叩く。
反応はない。
(でも、ありがとう)
「ねえ、羽部を殴ったの?血、出てたよ」
「ん」
顔を上げない。
自分が頼りっぱなしでいた真斗は、実はとてつもなく危うくて、息切れ状態であったのだと気がついた。そんな彼を支えていたのは、今扉一枚を隔てて背中合わせにいるらしい、お人好しの男の存在。
「……でも、この三年間。一番つらかったのは、きっと真斗だったね」
「ゆ、ずな」
パッと顔を上げた真斗は、微笑むゆずなを見つけると、ハラハラと瞳から涙を落とす。
それはあまりにも綺麗で。
数年越しの愛が詰まった結晶みたいだった。
泣き崩れた真斗に駆け寄って、ゆずなも悲しみに襲われて、わんわん泣いた。
泣いて、泣いてバカみたいに二人で泣いて。
真斗のわだかまりが悲しみに変わった頃。
柚香の思い出を2人で語った翌週。
「真斗。携帯、変えたりしないでね」
ゆずなは初めての一人暮らしを始めた。




