堕ちる熱帯夜
「……お前、クマすげぇな」
時刻は朝七時三十分。問答無用で羽部に叩き起こされて朝食に向かう顔は、恐らく最低だ。
(それでも、いてくれて良かった)
彼がいて。
もちろん、この重苦しく渦巻く感情は羽部にだって向けられてはいるのだけれど。
昨夜は感情が飛躍して、恨みが怨みに変わって、大好きな人が大っ嫌いにかわって眠って、今朝起きてみれば、また分からなくなっている現状。
好きだの嫌いだの。
そりゃ、嫌悪を喚き散らしたいには決まっているが。
でも、そんな状態であったから、一人でいるのは辛すぎて。
「お腹すいてない」
「ああ。朝は食べないんだっけか?」
「そんなことないけど」
「俺は食べる。だから着いて来い」
朝食はいつもパンなのだと豪語をしているくせに、席につけばガツガツと白米を食べ始める羽部を、ゆずなは見つめた。あんまり間食をしない主義だから、食溜めだと言って、大量のヨーグルトを満足そうに平らげる。
(……お腹、壊さないのかしら)
「どこに行くのか決まってんの?」
「……」
決まるわけがないし、考えてもいない。
ぼんやりと羽部を眺めて、ゆずなは首を振った。
「んじゃあ、車出すから。近くに滝があったろ?名所なんだとよ」
「……」
車で来ていたなんて初耳だったゆずな。
「自殺の」
何が言いたいのだ、この男は。
「羽部」
「死と向かい合う度胸なんて、そうそう人にはありゃしねえよ。堕ちちまった時は、結局はとことん生に執着している自分を実感した方がいい」
羽部がそう微笑んで、ゆずなのクマをもう一度見つめる。
(……別に死のうなんて、思ってない)
一時間後に部屋に迎えに行くと宣言されてしまえば、ゆずなは愚鈍に頷いた。
*
妙に醒めた頭で襖を開けて、時刻を見れば午後の四時。
羽部は運転が上手かった。意外だとか、気まぐれだろうとか、もはやそんな穿った見方はしないけれども。
落下する数十メートルの滝を飲み込む、歪み揺らいで殴打をされる水面の端には、空と山のブルーだけが映し出されていた。澄み切った、柔らかな水の粒子が溶け込む大気に誘われて、落下を眺めるも、何の感情も生まれなかった。
まだ、羽部の言うように堕ちた感覚がない。
(堕ちきってはいないから?)
汗をたっぷり吸収したシャツを脱ぎ捨てて、夕食まではまだ時間があるので、部屋の浴槽にお湯を張る。
必死に湯船も掃除した。
ザブザブ鳴る蛇口を捻って、浴用タオルを取りにボストンバッグへ逆戻り。
(……あれ?羽部って、部屋はとれたんだっけ)
帰ったりはしないと思う。
帰られたら、淋しい。
クリームイエローのバスタオルを片手で引きずりながら、畳の埃を分子間力にてコロコロと引き寄せて、脱衣所に到着。
大浴場には行きたくない。
今は、一人でいたかった。
本当に、独りになるのは嫌だけれど。
スルスルと全裸になって、ジャブジャブ鳴っていお湯に足を突っ込んだ。
「……熱い」
チャプン、がヂャブンになってグッと沁みる硫黄の突き刺さる刺激に目を閉じた。
心臓が、ギュっと掴まれたよう。
熱に逆流するのは血液か、それとも感情か。
今日、どれだけ羽部が気を使ってくれたところで、考えるのは真斗への怨みつらみと亡くなった母親への不信感。
そんな人たちではなかった。
それとも、そう思っていただけ?
霞む湯気が、まだらで要点を得ない思考回路を増長させる。自分の状態がなんとなくキワドイと、水面に口を浸してブクブクと息を吹く。
何だかもう、何も考えたくはなかった。
*
煙草をくわえ、川面に向かい合う。
縁側の手摺から月明かりが溶け入る渓流を眺めていた慎一は、ふっと胸騒ぎを覚えて徒然の思考を停止した。
いや、いい加減に覚えてもいい頃なのかもしれない。
直に夕食。
(……アイツ、いつから入ってんだ?)
彼女の生い立ちは、自分には少々複雑過ぎて、推し測ることしかしてやれず、ただただ、その歪まずにこれた心意気には感心せざる得ない。また、ゆずなの中では自分はゲイなのであるという認識に、どう接して良いのかも分からなかった。
少し、今は楽である。
ゆずなは外見はどこを見たって女であったし、友情を育むにはあまりにも微妙な位置にいて、友人に接するようにはやはり出来なかった。
「……おせぇ」
慎一は煙草を揉み消して障子を開けた。
完全に、喫煙者へと逆戻りだ。
(……まさか)
そして、どうしたものかと一瞬の躊躇の後で、風呂場の脇の、申し訳程度の面積しかない脱衣所に足を踏み入った。
「おいっ」
周囲を見回して、部屋の更に端っこの端にあるカゴの中身を一瞥し、げんなりとしてしまった。
(……ベージュ)
「ゆずな」
返事はない。
(どうすっかな)
焦る。
「寝てんの?」
やはり、応答はなし。
「……返事しろっ。…てっめぇ、本当に上せてんじゃねえだろうな!?」
躊躇なく、扉を邪険に払って殴り込んだ。湯気が立ち込めた風呂場の浴槽に座る人影。
間違いなく、それはおバカな知人女性だった。
「っんとに、バカだ」
湯船の縁に頭を乗せて、気を失っているゆずなを両腕で引っ張り出す。びしょ濡れになって、呼吸をしている人間をひとまず脱衣所に放り出し、タオルを被せてため息一つ。
そして、あくせくと駆け回るのだった。
*
「自殺未遂か?」
耳に微かだが嫌味ったらしい声が聞こえる。
ゆずなは、瞼を開けて直ぐ、鈍い頭痛に呻いて頷いた。
「……は」
「ほれ」
黒ジャージの膝下が斜め近くに飛び込んできて、琥珀色の液体が揺らめくコップを目の前で差し出される。
「……」
のっそりと起き上がろうとして、タオルケットを押しやれば、アイスノンがドサッと脇に落ちて頭が軽くなった。
「……お前、風呂で寝てたの?」
「ちがっ」
グラスを受け取り、流し込んだ麦茶が味覚を素通りして体に染み入る。
感覚では、心底美味しい。
「……全く」
空っぽになったグラスとペットボトルを羽部は入れ替えて、ゆずなを見つめた。
「私、上せたの?」
やや、掠れ気味の声と喉の違和感に気がつくも、一応は尋ねる。そこで、同時に知る、襟元が伸びきった白い男物のTシャツ、それ一枚だけの自分。
呻きながら、睨みつけた。
「そうなんじゃないのか。感謝されても、恨まれる覚えはないからな」
「……あ、ありがとう」
ゆずなはペットボトルの蓋を開けると、ゴクゴクと一気に飲み干した。そんな彼女を眺めていたが、座椅子に座蒲団を敷いた羽部はテレビをつけた。流れる音声からは、今年甲子園出場を目指す地元の高校球児。地方テレビのインタビューだ。
「……」
ゆずなは何時だろうかと時計を見上げて、驚愕した。
八時過ぎ。
何てことだ。
そして、何故に羽部がこの部屋にいるのであろうか。
「……あ、俺メシは食ったから」
思い出したように告げられて、ゆずなはいよいよ首を傾げる。
「羽部」
「なんだよ。んな状態でいつ起きっか分からないのに、いつまでも置いておけるか」
向こうも困るだろう、と叱られて、卓袱台の上のタッパー容器を示される。
「……羽部」
「文句なしだ。適当につめといた」
ゆずなは這い出すように羽部の隣に近づいて、キョトンとして尋ねた。
「どうしているの?」
「……お前、何も聞いちゃいなかったんだな。今日はギリギリまで待ってキャンセルが出なかったら帰るって言ったよな?なのに、お前イヤだって言って駄々こねたんだろ」
「そう、なの?」
「しょうがないから、ツイン予約に変更して、同じ部屋に泊まるって言ったら。お前、うんて言ったんだけど」
ゆずなはタッパを突き出されて、受け取った。
(……そう、かも)
「……」
「何だよ」
「……お茶」
「分かった。買ってくるから、まだジッとしとけ」
ゆずなは不機嫌に出て行く羽部の背中を見送って、テレビのチャンネルを変えながら、リモコンを手持ち無沙汰に遊んで転がす。
良く分からないけれど、とにかく羽部の存在は有り難かった。
眠りすぎた時のような重い頭を振りながら、タッパのフタを開ける。
(……整然)
やはり、羽部はマメな性格らしく、テーブルには割り箸まで用意してあったりする。煮豆にちょこちょこ箸を伸ばしていると、自動販売機から缶ジュースを両手に抱えた本人が戻ってきた。
「……ありがとう」
「ゆずな。……着替えろ」
「う、うん」
もしゃもしゃとお酢の効いたポテトサラダを口に入れて、ゆずなは手を伸ばす。
「どれにする?」
「緑茶」
羽部はもはや着替えることをそれ以上促すことなく、緑茶のタブ開けてグラスに注いでやる。
「具合は?」
「ん。大丈夫」
「大丈夫ってよく分からない表現だよな」
羽部はリモコンを引き寄せて、再びチャンネルを変えた。
無言の二人に、テレビから流れる音だけが間を繋ぐ。
空腹を満たしながら羽部を窺った。
「……ねえ」
「なに」
「どうして急に話そうって気になったの?」
「言った通りだよ」
「……」
「まあ、あとは転勤が決まったからかな」
ゆずなは驚いて羽部を見上げた。
「そ、なの?」
自分でもどうしてこんなに驚くのか分からない。
「……ああ」
羽部は淡々と画面を見つめながら、無表情で生返事を返す。
突然不安になって、ゆずなは箸をとめた。
羽部はゆずなと真斗のクッション材だった。それがなくなってしまったら、事実を知ったこれからはどうなってしまうのか。
そんな懸念を抱くことこそ、ゆずながまだ真斗と繋がっていたいと願う、証なのであろうけれど。
(やっぱり、私……まだ好きなんだ)
「……」
自覚をしたら、落ち込んだ。
まだまだ、落ち込める。
人間は、どこまで落ち込めるのだろうか。分析してしまえるくらいには、まだ落ちることができる。
(でも、ツライな……)
「ゆずな。今の真斗はやめておけ」
「……っ」
“やめろ”
初めて誰かに忠告されて、降って湧いたように熱い何かが込み上げてきた。溢れ出した感情が、涙になって頬を伝う。
「……っ」
やめたかった。
何度もそう思ったけれど、出来なかった。
出来なくて、結局はやめなくてはいけない状況に追い込まれてしまったのに、尚も。
真斗はゆずなに恋愛感情なんて抱かない。抱いてたとしても、きっと違う。
擬似。
「ティッシュ」
「羽部」
ゆずなは止まらなくなった涙を両手で拭いながら、箱ティッシュを持って腰を屈めた慎一に抱きついた。
「おい」
「…っ……っ」
誰かにすがりつきたくて。こんな時、迷わずにすがりついていたはずの真斗はもういない。打ち明けられるはずの母親にも、今はそれが出来ない。
二人とも、ゆずなには絶対必要不可欠な日常だった。
そして、遠慮がちにさすられた背中の温もりを感じれば、また勢いが増す。
「よ、よしよし」
羽部らしからぬ優しい声と、羽部らしい労わるような仕草が、ゆずなの翳った感情を徐々に解きほぐす。
男からは苦い、煙草の香り。
彼女からは、つかり過ぎたコンディショナーアプリコットが香り立つ。
「……ひっく、ぶぇぇっ」
「……」
僅かに伝わるお互いの肌の湿度が、緩やかに理性を侵食していく。
「ひっく」
「……」
頭のてっぺんが揺れて、唇を掠めた柔らかな甘い髪に、慎一がそのままキスをする。
しばらくの間、ゆずなは泣き続け、彼は彼女を抱きしめ続けた。
ひと肌恋しいとは、こういうことだ。
ずずずっ…ずず。
「……鼻水か」
豪快な粘着音に、羽部が尋ねた。
「羽部」
モソリと身じろぎして、湿った声で呼ばれた慎一は、不覚にも動揺して声が上擦った。
「……あに?」
(俺、イヤだわ。こんな自分……)
ゆずなはビチョビチョになった顔で、ティッシュと卓袱台上の缶ビールを指差した。
「どむ」
「……飲む?」
ティッシュを渡しながら確かめる。
「……ん」
手を伸ばす。
「よし、飲むか。温いだろソレ」
ゆずなは垂れた鼻水を拭きながら、アルミ缶に触れて頷いた。
「……っどこ行くの!?」
立ち上がった羽部を咄嗟に引き止めた。
「新しいやつを買ってくるの。顔洗ってろ」
羽部はTシャツの裾を、ゆずなから引っ張り抜いた。
「私も行く。顔洗うから待ってて」
「直ぐそこの自販機だぞ」
「行く」
……ずっ。
ゆずなは鼻をすすりながら、再度羽部のシャツをひっ掴んだ。
「……お前、いつもそんなふうに甘えんの?」
(アイツ、すげぇな)
よく、柚香に似てきたというゆずなに手を出さずにいられたものだ。
弱った人間はつけ込みやすい。
「……一緒に行く」
「はいはい」
羽部は諦めて、テレビのリモコンをオフにした。
*
ほろ酔う意識の中で、ゆずなは散乱した缶ビールと酒瓶を数えてみる。
「はべー」
「……何だ?」
バラエティー番組をながら見て、ちびちびと清酒を舐める羽部が、億劫そうに振り返った。
「すごい、飲んだね」
「お前がな」
ただでさえ、上せた体は水分不足を訴えているというのに、ゆずなはまだクピクピとビールを呷り飲んで、羽部と視線を絡ませる。
頭の中が、泡だて器。おまけに痛くて重い。
「もうなくなっちゃっ」
「茶を飲め」
まさか、これ程飲むとは思いもしていなかった慎一は、無理やりウーロン茶を酔っ払いの口元へと押し付けた。押し付けられた彼女はジッと羽部を見上げて受け取ると、上下に振り動かし始める。
「……分かった。開けてやるから」
仕方なく、タブを起こしてやってから差し出す。差し出されたゆずなは、受け取ろうとして羽部の指にぶつかって、またジッと動かなくなった。
「おい……どうしたよ」
羽部だって相当飲んだ自覚があるだけに、ゆずなの奇行がアルコールのせいなのか。それとも、真斗と母親との間にあった出来事からのショックによるものか。見分けるのに必死だった。
(……頭、働かね)
ゆずなは右手の指先を左手で擦りながら、そっと羽部を窺った。
何だか。
(羽部はとってもイイ人だ)
今だって、覗き込む瞳はとても優しい。
それに、男の人。
強張った硬い体とか、触れた指先とか。
匂いとか。
「……羽部、見たよね」
「何をでしょうか?」
「重かった?」
「……意識のない人間は重いんだぜ」
ゆずなは着替えた浴衣の上から、自分の目測体重はどのくらいに見えているのだろうかと考えて、ウーロン茶を含む。
「恥ずかしい」
「あの状況で恥かしいも何もない」
羽部は思い出して、無意識に駆け巡る血流に俯いて、ゆずなから視線を外した。
「……」
「暑い」
クーラーを強めるべく立ち上がろうとすれば、ゆずなはやっぱり羽部を引きとめて、手を握る。
「離れないでよ」
「……っ」
「ありがとう」
怯えるような、揺らいだ瞳に見据えられ、羽部は気がつけばまた、畳の上に胡坐をかいて逆戻りをしていた。 おまけに、彼女が手をしっかりと拘束したままだ。
「……」
ユラユラと視界が揺れる。
「冷たい」
羽部との体温差にポツリと漏らしたゆずなの声は、ふわりと弾ける。その包まれるような厚い大きな手に、ゆずなは視界がユラユラと踊るような気がした。
「……お、い」
そこから辿る手首の血管、堅い首筋、自分にはない喉仏を見つけると、ゆずなは視線を固定した。ユラユラと視界が歪む。
「近いね」
貧血かもしれないと、羽部の体に身を預ける。
「……カンベン」
「ん?」
「俺、そういうつもりじゃ……」
「うん」
ユラユラ。
ユラユラ。
ユラユラ……グラリ。
グラリグラリと、世界が歪む。
ゆずなは、そんな心地好さに、追いかけてくる孤独から逃れるためには、そんな突発的な衝動を素直に受け止めてしまいたいと思う。
欲しているのは事実。
そして、単純明快に……今は。
「羽部とくっつきたい」
「もう、くっついてる」
呟いた羽部の吐息は、やたら熱い。
ユラユラと揺れるのは男の理性と、願望と。
「もっと」
「……っ」
呟いた瞬間、重なった唇と、確かな腕の中。
重ねて離れて、揺れる世界に瞼を上げる。
飛び込む、互いの熱と純粋な圧力。
「……ヤダ?」
「煽るな」
揺れる、揺れる。
ユラユラ。
ユラユラ。
ユラリユラリと。
「……だって今、羽部はここにいるもの」
今夜は一緒にいると言ってくれたのは羽部だ。
「予測してない」
「……本当に?」
(心配なだけで、同じ部屋に泊まるの?)
羽部の肩に顔をうずめると、同じアルコール臭に煽られて、再びグニャリと世界が蠢いた。甘く、柔らかな物体が、頬を紅潮させて、羽部に擦り寄った。
丸い輪郭と白い肌。紅い唇。
伏せがちに潤む彼女の瞳を、過去、羽部はそっと眺めてきた。
(降参だ)
狡賢いのは女の強かさ。
脆いのは、男の理性。
「……ごめん。実は結構タイプだった」
「本当に?」
くすくすと彼女が笑い出す。
「真斗には悪いとは思うけど、下心があったのは今回だけじゃない。かな」
真剣に降ってきた羽部の声に、ゆずなは顔をもたげる。
絡む視線。
「……」
「……」
ユラユラ。
クラクラ。
グラリ、グラリ。
グニャリと見事に歪曲。
「……くっついて」
揺らめく空間で重ねられた口づけ。
求める、歪み。
「ゆず、な……」
堕ちた。




