アナタと温泉旅行
週末休み。
ゆずな不在の夜が、これほど静かなものであったかと、真斗は妙な孤独を抱えて寝そべった。
(そりゃ、女友達と出かけることくらいはあったけど、ね)
一昨日あたりから、妙によそよそしくなった彼女に対し、苛立ちが募った矢先の出来事。
近頃は伸ばしっぱなしのゆずなのヘアスタイルが、何度も彼女と彼女の母親を真斗に重ねて見せた。親子なのだから似た面影を宿して当然なのだと言い聞かせ、もて余した熱に蓋をする。
妙な咆哮が、ぐるぐると胸中を渦巻く時間は増えて、良心の呵責と卑しい欲に苛まれる。
ゆずなの気持ちを知りながら、恋する多感な男子高校生はそれを利用して、彼女の母親と恋仲になったのではなかったか。
会う度に、怯えるような視線を向ける柚香が、女として在るより、母親として在ることを望み、娘への申し訳なさに苦悩し続けていたことも知っていた。
知っていて、無視をした。
夫がいるわけではないのだからと、何度必死に説得を試みたことだろう。
(アオクセェガキ)
当時の禁断は、何よりも真斗を深みにはまらせた。それは、ひどく甘美な響きを帯びていて。
最後には、暗い過ちを犯して決別を切り出されたのに、納得をしなかった。納得ができなかったのだ。
柚香の瞳に映る自分は、まだ男であったから。
だから、あの日も強引に彼女を呼び出した。
全ての原因は、己にある。
「……ありえねぇ」
そうして、償いを決めた。
それなのに、今、真斗は明らかに嫉妬を焚いている。
「……っ」
誰と行ったのだ。
(オレ、バカみて)
罪滅ぼしだと言い聞かせて申し出たルームシェアは、真斗の意思であり、良心からなどではない。
重ねて、見ていただけなのかもしれない。
彼女と暮らすために、偽った同性愛者の仮面なんて、今になってみれば発想からしてイカれている。
自分への抑制。
それが、滑稽に続いてしまっているのも、奇妙な現象だ。
「……慎」
かつての親友は、バカげた同性愛者を演じながら、近頃は呆れたような、悲しそうな視線を投げて寄こす。
自分ばかりが相談を持ちかけるようになったと思う。
起き上がり、煙草をくわえる。
慎一を真似ただけが、今ではどっぷりだ。一方の彼は減煙中で、煙草断ちに成功してしまいそうなのに。
くわえ煙草で流し場に溜まった食器に手を伸ばす。
乾いたスポンジ。
水回りの掃除をすると、不思議と心が落ち着く。ゆずなもそうだと、公言をしているくらいだ。だがそれも、柚香からの受け売り。
泣きたくなって、どうしたらいいのかと途方に暮れる自分を発見するたびに、やるせなくて。それなのに、一方では慣れてしまってもいて。
落下して、排水口に飲み込まれる流水音を聞きながら、重ねる皿の枚数はたったの二枚。こんな時、ゆずながいれば、隣に立ってもたもたと水気を拭うのだ。
彼女の声は高く澄んでいて、耳には苦くて、やや軽い。
無意識に、比較対照者がいることに、真斗が気づくことはない。
ため息一つ。リビングに戻れば、点滅する携帯が主人を待っていた。
ゆずなからの着信履歴を期待して、気落ちして、架け直す。
『……寝てたのか?』
慎一の疲弊した声に、真斗は苦笑した。
「お疲れ、仕事終わったんだ?」
チラリと掛け時計を見れば、まだ20時半だ。
『……仕事のことは考えたくもない。相場も下落、不況、経営対策会議で月曜日が恐ろしいわ』
何となく、男の声には歪みがあった。
「何?」
『……で、明日は忙しいんだ。なるべく、そっちには行くつもりでいるんだけど』
「うん」
『……大丈夫か?』
「……何が?」
『いねぇんだろ、ゆずな』
真斗は一瞬、思考回路を繋ぐスイッチを落としかけた。
「知ってるんだ?」
面白くはなかった。
『ああ、お前が酔っ払いになった月曜日に聞いたんだ。ちゃんと、帰れたのかの確認電話までしたんだぜ』
「うわ、ごめん。……あの、さ……一人で、なのかな?」
『さあ』
「……」
『気になるってわけだ。……お前、いつまで隠しとくつもりなの?』
今度は、スマホを落としかける。
「……っ」
『そろそろ、限界だと思うんだけど?』
「急に、なに……」
突然、言い出した羽部の真意を測りかねて、耳の脇にジワリと浮き出た小さな汗を拭う。
『このままじゃ、彼女が前に進めない。もう、進む時期だぜ」
唇を、噛み締めた。
「分かってる」
『分かってねえだろうが』
「……っ」
『アイツはバカだぞ、バカ。真っ直ぐで単純。傷つくのも簡単だ』
「なんで」
突然、ゆずなを守るようなことを言い出したのだ。
彼女がどんな人間なのか、側にいる真斗自身が一番よく知っているつもりなのに。
『あのさ、まさか言わない。なんてことはないよな。いつかは言うって約束だろ。茶番に付き合ってる俺を、そろそろ開放してやろうとか思わないわけ?』
「……もう少し」
懇願すれば、友人からは投げやりのため息がこぼされた。
『聞き飽きた。それに、お前がそのつもりでも……』
「……?」
俺だって限界だよ……。そんな呻き声が届いた。
『ゆずな、カンづいてるぜ』
「喋ったの!?」
『アホか。探られてる。まだ、話したりはしていないけど』
「……そっか」
胸を撫で下ろす真斗に、慎一が続ける。
『でもな、聞かれたら、俺が話さない理由はない。その前に、お前から話すべきなんじゃねーの』
「……」
想像しただけで、真斗は心臓が止まりそうになった。
『だんまりかよ。俺はお前の意思が聞きたい』
「……言えない」
怖い。
『ふざけんなよ。アイツの気持ちはどうなる? 知らない方が幸せ?言ったら、ぶん殴るぞ。真斗、お前を想ってる。柚香さんを愛してる。……そんなゆずなに失礼じゃねえ?』
慎一の言っていることは正しい。頭では理解をしている。
それなのに、理解をしない。
おまけに、八つ当たり。
彼が、彼女の名を口にすることが、ただただ不愉快で。
「……ゆずなのこと、好きなの?」
『だとしたら……お前は行動を起こすのか?お前だって、ちゃんと前に進まなきゃダメだろ?』
だって、実際には、お前が一番進めてないんだ。
携帯の向こう側で、親友の温かな声がして、真斗は我に返る。
「オレ…」
『……ゆずなのこと、お前はどう思ってるんだよ』
「友人で」
それでもって、結局は“柚香の娘”。
『おい、その煮え切らない回答はムカつくな』
「だって」
仕方がないではないかと、そう思う。
『……お前もバカだよ。結局は話す気なんてねえのな。俺、それを確認したかったんだけど』
「言えないよ」
『言おうとしたこともないくせに』
―ねえ?―
真斗は、硬直した。
電話越しに、女性の声。
納得。
恋人や好きな相手が出来たのならば、彼はこの馬鹿げた茶番から、一刻も早く抜け出したいに決まっている。
もともとは、無関係だ。
「……あのさ。誰か一緒、なの?」
『ああ、フロアにいる』
「そう」
安堵した。
まだ、会社。
恋人なんかではなく、ただの同僚であればいいのに。
『悪い、またな』
「ん」
『なあ、話す気は?』
最後に、念を押すようにして、また訊かれたけれど。
「……ごめん」
意気地なしの、我が身可愛さばかりで。
『ないわけだ。……ずっとそうだよな、お前は』
耳元で流れる、機械音。
真斗は、途切れた会話にズルズルとへたり込んだ。
怒っていた彼の声音。
見放されてしまったような気がした。
「……ってんだよ」
(分かってる)
ゆずなに、恋愛感情を抱いてること。
ただ、それが柚香と日に日に近づいていく面影を追いかけてなのか、彼女自身への感情なのか、区別ができない。
だから、臆病な真斗は、本気で真実を話そう試みたことはない。
そう、一度もないのだ。
*
「……何、してるかな」
抱えたバッグを畳におろし、ゆずなは窓サッシに手をかけた。
結局は、一名分を前日にキャンセル。当然、部屋のプラン変更は不可能だと謝られてしまったので、ムダに広い。
二階の一室。見下ろせば、渓流の水面が遊ぶように弾みをつけて、傾斜をくだる。旅館自体は高楼櫓に設計されており、地面までの距離が、やたら遠くに感じてしまう。
(……まあ、いいか)
揺らめく風はマイナスイオンがたっぷりで、気がつけば頬の筋肉は綻んだ。
「散歩しよう」
ここままでの道すがら、下り行けば念願の畔道散歩ができそうだった。タクシーと人の通りは平日の金曜日とあって、観光地としての落ち着きと活気がある。
「よいしょ」
独り言、多し。
ゆずなはピンク色のスニーカーと黒いキャップ帽を手に取ると、廊下を闊歩して渡った。
今日は晴れ。雲はゆるりゆるりと飛んでいる。
眼下の田舎風情に合わせた飛行速度で、呑気にゆるゆると。
「どちらへ行かれますの?」
「お散歩です」
和服の受付美人から、フリーのガイドブックを有り難く頂戴し、愛想良くゆずなは微笑んだ。そのまま、教えてもらった地元のタクシー会社に電話を入れてもらい、ロビーのソファに座って暫しの待機。
(……ちょっと暑いかな)
夏本番までには時間があるのに、聞こえる蝉時雨は涼しい館内にまで浸透していて。然程、暑くもないのに汗が噴き出してきそうだ。
ぼんやりと、エントランスの脇からこちらを覗く、樫の根を見つめる。見つめて、開いたエントランスからやってきた人物のジーンズに目を留めたゆずなは、目を細めた。
(あれ…?)
どこか見覚えのある、ブルーグレイのデニム生地の右膝部分。解れた穴を塞ぐ不釣合いな補正生地は、ブラックデニム。自分で直してみたと、かなり威張っていた。
(……あのシルエットって!?)
そうだ。いつかの羽部が、あれとそっくりのデニムを履いてきて、ゆずながケチをつけたらケンカになって。案の定、真斗に止められたことがある。
「おい」
「……は、羽部!?」
飛び上がって、辺りをキョロキョロと見回した。
白昼夢か。いや、ならば何故相手が羽部なのだ。
「今から出掛けるのか?ちょっと待ってろ」
仏頂面で命じた羽部が、受付で2、3の言葉を交わした後、手荷物を預ける手続きを行っている。
呆然と突っ立ったままでいるゆずなの目前にやって来ると、偉そうに、宣った。
「部屋、キャンセル待ち」
「あ、あの……羽部?」
「お前、チェックイン済ませたんだろ?」
「あ……うん」
「いつ」
「2時ちょっと過ぎたくらいに……」
羽部が、眉を顰める。
「あ?出発したのって明け方だっだんじゃねえの」
「ココとココに寄ってから来たから」
ゆずなは慌てて、手帳に挟んであったスクラップ記事を取り出した。
「蕎麦、オタク」
「……」
目を見開く。
まさか、羽部がそんなことを把握していただなんて、思いもよらなかった。
「で、今からどこに行くの?」
「羽部こそ、どうしてここにいるの」
「お前に旅館の電話番号を聞いてたから、追ってきたわけ」
「……な、んで?」
「お前も、大丈夫なの?」
グイッとキャップのつばを引かれて、ゆずなは俯かされた。
「……平気」
手を振り解きながら、それでも、ありがとうと呟いてみる。
タクシーがエントランス前に留まったのを見とめると、前を向いて立ち上がった。
確かに、中途半端に聞いてしまってはいるものの、真実は拒否したままだ。理解も、していない。
心が受け付けないままだから。
「……」
でも、羽部は結構イイ奴で、無視も出来ない。
「一緒に来る?」
「どこに」
「畔道散歩」
言い放ったゆずなは、バカにされるかもしれないと考えつつも、追って来たと言った羽部だから、行き先が何処であろうと着いてくるような気がした。
「……まあ、悪くはないんじゃないか?」
思った通り、頭を掻いて同意した。
*
「仕事。休んだの?」
「ああ」
プラスチック容器の60円アイス。バニラ味を木ベラですくいながら、羽部はゆずなの背中に返事を投じた。
粘り強い土を固めた細い道の上を、サクサクと彼女が歩いて行く。うっすらと緑が生えるそれらを踏み鳴らし、二人は一定の距離を保ったまま進み続ける。
「喉渇いた」
「ほれ」
ビニール袋からラムネビンを取り出した羽部が、放り投げる。
「炭酸だよ!?しかもヌルイしっ」
「じゃあ飲むな」
「……いただきます」
ラムネのフタに凸部分を押し当てる。
「おいおい、大丈夫かよ」
「っぎゃ」
ベチャ!!
「……バカだな」
ゆずなは噴射した甘い透明な気泡のきらめきに、ズルリと足を滑らせた。
「……」
泥土に浸かった右足を、情けなく見下ろす。
「気持ち悪い」
おまけに、ドクドクと肘伝いに落ちるラムネの滴。
最低だ。
「とりあえず、上がれ」
羽部に腕を捕まれ、脱出を試みた。
ぬちっ。
「……気持ちいいかも」
「は?」
「羽部も落ちちゃえば?」
「げッ」
問答無用、即座に引っ張り上げられてしまった。
「いったいなぁ」
「……足首、ヒルがついてるぜ」
「!?」
「嘘だよ」
「っ……」
ゆずなは真っ直ぐに羽部を睨んで、不意射ちでふわりと微笑まれてしまう。
やけに盛んなお日様の下、蝉の音の伴奏を背中にしょえば、青く連なる山々と田んぼだらけの朴訥とした風景が、二人の対峙を和らげる。
「お前さ、一体こんなところに来て何がしたかったわけ?」
ラムネのビンを摘んで、温い液体を口に含む。ごくん、と飲み込んだ液体が喉に引っ掛かって胸に落ちるのを待って、ゆずなは息を吐き出した。
(まさか、こんなところに羽部と来るなんて、想像もできなかった)
「小さい頃は、お父さんがこういう田舎の雰囲気が大好きで、山の温泉地が家族旅行のお決まりだった。両手をね、2人に左右から引っ張られるじゃない?それで、浮き上がる瞬間がね、大好きだった。グイって宙を浮くつま先に、元気が湧き出る気がしたんだよね」
反転する稲穂と緑の山岳を突っ切ったら、ブルースカイが正面から飛び込んでくる。そんな瞬間に見つける、小さな綿アメみたいな白い雲を指先にとらえて、なんだか自分みたいで嬉しくなったあの頃。
「ほお」
「だから私、切羽詰ると来るんだよ。温泉入りに。結構、関東甲信越の温泉地帯は出没地なんだから」
「一人でか?」
踏ん張って佇む格好になったゆずなを、羽部が促すようにして歩き出す。ぺちゃくちゃウルサイスニーカーが鬱陶しくて、彼女は素足になった。
「一人だよ。感傷に浸りたい時に来るんだから。でも、今回は何でかなあ? 真斗と来たかったんだ。ずっと好きだったもん……。ねえ、熱いや。足の裏」
「知るか、貸せ」
羽部は、ピンク色ではなくなったスニーカーの踵を摘んで、空っぽのビニール袋に突っ込んだ。
「ずっと、真斗と羽部が恋人だと思ってきたし。そう信じてた。仲が良いのも目の前で散々見せつけられて……。なのに」
(……違ったの?)
泣き出しそうに潤んだ瞳が、羽部の前で所在なく揺れ動く。
「ああ。俺さ、ゲイじゃないし」
羽部は眉根を寄せた。
初めて、ゆずなの前で嫌悪を露わにした瞬間だった。
「……」
同性愛者に対して、偏った価値観を向けるつもりはないけれど、羽部自身は女性しか受け付けない。
(まあ、バカにしていると責められても不思議はないけどな)
「それに、アイツとは中学時代からバカをやってる。真斗のアホ腐った提案に乗っかったのだって、アイツがお前にカミングアウトした一週間前だぜ」
つまり、柚香が亡くなって間もなくのこと。
「……な、んでそんな」
俯いて、ゆずなは歯を食い縛った。
そんな遠まわしなお断りなら、いっそ面と向かって友達宣言をされた方がマシだった。そもそも、ゆずなは、慎一よりも自分の方が真斗とは長い付き合いだと信じていたから。
それすらも……。
何もかもが、偽りだった。
高校以前。
そんな話は、聞いたこともない。
「ゆずな。何回も言うようで悪いけど、この先は冷静に聞く努力はしてほしい」
(冷静に?この先を?知らないのに?)
羽部が仄めかした、真斗の元恋人の存在についてを。
(やっぱり、お母さん……なのよね?)
「……真斗にとって、私は友達じゃなかったの?」
もしかして、それ以下だったのか。
発した声は、思った以上に刺々しいだった。
「今は、やめておこう」
「そんなことないよ」
羽部は頭を掻いた。
知らなかったが、この男はよくこの仕草をする。
「あるさ。旅館戻って、メシ食ってからにしよう」
「イヤ」
「うるさい」
「何で!?どうして今はダメなのっ」
力を込めて踏みしめたから、こびりついた足の乾いた土が、ピキピキと亀裂を描いて裂け落ちた。
「だって、お前が泣く」
「泣かないから」
「泣くよ。……それに、綺麗な思い出のある風景の中でする話じゃない」
「……」
ふるふると唇が戦慄き出した。
泣いたら、肯定してしまう。
泣く。
そんなのは、嫌だから。
「イ…ヤ」
「戻ろう」
「……っ」
この風景だって、綺麗なだけじゃない。
繰り返されなくなった家族の思い出。
そういうことだ。
「ビン、こっちによこせ」
「ヤダ」
「じゃあ、靴下とスニーカー履くか?」
「イヤ」
「なら、自分で持てよ」
「ヤダ」
「通りでタクシー拾うまでは歩けよ」
「ヤダ」
「……」
「……」
「夕飯食ったら話すって。悪かったよ、中途半端なことばっかり言って」
「イヤ」
「……殴るぞ」
綺麗、だった。
過去は、とても。
「ヤダ」
羽部の質問に対し、同じ言葉をひたすらに返すだけ。
二人はそうして、ずっと呆れるような遣り取りを繰り返しながら、来た道を引き返したのだった。
*
「キャンセルあったってさ」
旅館のエントランス脇に設置されていた冷水器で、丁寧につま先を洗う。それから、通りすがりの従業員を呼び止めて、厚かましくツッカケを持って来させたゆずなが、ロビーに顔を出した途端、待ち構えていたらしい羽部が得意気に走り寄ってきた。
「羽部。それは自分の力でもなんでもないじゃない。明日の分も取れたんだ?」
「いや、今晩だけな。話したら帰るし、明日のことは明日考えるよ」
「……どうかと思う」
その行き当たりばったりさは。
「今日話せないことを前提に、明日のことなんか考えてもしょうがないだろ」
「なら、私と同じ旅館の必要性ってあったわけ」
「あ、そうか」
今頃気がついたらしい。暢気に瞳を輝かせた。
「マヌケ」
「たまにはいいだろ。それより、少しは落ち着いたか」
「うん」
濁りを知らない澄んだ湧水に足を浸すうちに、排水口に吸い込まれて行った汚れを目で追いかけているうちに、少しだけ、両肩が軽くなったような気がした。もちろん、燻った鉛のような熱は、完全に冷えたわけではないけれど。
表面上は、やや落ち着いた振りもできた。
「なあ、夕飯一人なんだろ」
「?」
「俺の分、そっちに運んでもらってもいいか?」
「ヤダ」
変態。
「お前、俺はメシは一人じゃ食いたくねえの」
「なに可愛い子ブッてんの?」
「……死ね」
「羽部ってどこの部屋?」
尋ねると、いじけた顔で口を尖らせる。
「藤の部屋」
「高っ!」
「キャンセル出たの、そこだけだったんだよ」
「……広い?」
「んじゃねえの?」
出費額はさぞや痛いに違いない。
「……ねえ、何でわざわざこんなところまで追いかけて来てくれたのよ」
「そりゃ、真斗の大事な人だからだろうが」
(でも、それじゃあ羽部には理由にならないんじゃないの?)
そんな疑問に至り、ゆずなは小首を傾げた。
恋敵ではなかったのだから、嫌われているわけではなくて。
ゲイでもなくて。
「じゃあ、夕飯はこっちの部屋に運んでもらうってのはどうよ」
「藤か。うん、ならいいよ。部屋、見たいし」
ゆずなは現金に頷いた。
「んじゃ、7時だっけか」
満足した様子の羽部はソファからヒョイっと立ち上がり、いざ出陣とばかりに受付へと向かって行った。
(実は、変な人……よね)
*
「羽部」
(……わ、いい匂い)
襖を開ければ、広い和室畳の上に寝転んだ羽部が、リモコンを片手にチャンネルを手持ち無沙汰に遊ばせていた。
卓袱台上には彩り豊かに配膳された、硝子の器や小鉢とともに、食欲を増長させる、悪巧みの香り。
「お、来たな。待ちくたびれた」
のっそりと立ち上がった羽部は、湯上りなのか、濡れた髪をプルプルとさせながら胡坐を掻いて座った。
「ここ、向こうにも部屋があるんだ?」
「ああ」
自分がやって来た襖とはまた別の位置にある唐紙を指差すと、ゆずなはふっと茶碗蒸しに目線を落とす。
「美味しそう」
「今日は酒なしか」
「ん?」
「酔って話す内容じゃねえんだって」
「……」
「つうわけで、まずは腹ごしらえな」
微笑む羽部は、いきなり水饅頭へと箸を伸ばした。
(……デザートからって)
「んまい」
コトコト揺れる鍋の木蓋を持ち上げて、ゆずなはアルコール替わりにウーロン茶を喉へと流し込んだ。
「……」
進むままに箸を動かし、それでも時々は考え込みながら羽部を見つめる。ガツガツと炊きこみご飯をかき込んでから、彼は刺身と茶碗蒸しを飲み込むようにして平らげた。
箸使いも綺麗。左手も常に器に添えられてはいるけれど。どうして、豪快。
猫舌だったか定かではないが、鍋だけはいまだ手つかずの状態で、キノコと鮭のバターホイルをつついて腹に納める。
羽部も、これから話さねばならない内容に、緊張を上手く隠せずにいた。
それでも、みるみると消えていった、天ぷらと煮物。最後には海老天のしっぽさえも咀嚼して、鍋をかき混ぜ始めた。
「……羽部、会話がないんだけど」
一緒に食べる意味がないではないか。
ゆずなが銀杏をすくって言えば、ようやく箸を休めて顔を上げた。
「うまい」
「……ですね」
「……」
「……」
「お前、あいっかわらず食べるのが遅いのな」
食欲も、そんなにはなく、余計にペースは遅くなる。遅いがしかし、美味なものは美味であるため、ゆるゆると箸は動くのだ。
やがては、先に綺麗さっぱりと平らげた羽部が、ゆずなのモタモタした食事姿を眺めながら、ため息をこさえる。
これから伝えねばならぬことを思えば、酷く困憊してしまう。いつもにも増して、落ち込んだゆずなは、ぽやぁんと虚ろな目をしながらも、せっかくの美味なる物を咀嚼している。ただ、時にお気に召した料理を発見すれば、素直に瞳を揺らめかせた。
「……っぶ」
「?」
ゆずなはバターがポタポタ滴り落ちる桜色のサーモンを口に運び、怪訝そうに眉を顰める。
「す、すまん」
笑いを噛み殺し、羽部は窓際に歩み寄るとガラス戸を開けた。涼しい夜風は川からの湿気を纏っており、流れ込むと鍋の炎をポッポとなびかせた。
「……風流ってやつだよな」
羽部は呟いて、椅子に腰掛ける。
そんな羽部を一瞥した後、ゆずなは黙々と食事を一人続ける。
二人で食事をする意味などないのは分かったけれど、食事に誘われた意味ならば、何となく、分かるのだ。
羽部なりの優しさだと。
(分かりづらいけど……)
「ごちそうさまでした」
ゆずなが手を合わせ、視線を羽部に投げる。
「……外、行くか」
「川の近く?」
「ああ」
「いいよ。気持ちよさそう」
こちらを見ないで言う羽部に賛同して、ゆずなは仲居さんの気配に気がついた。
「失礼いたします。お食事はおすみになりましたでしょうか」
それを合図に、二人は渓流に向かう準備を始めた。
*
ちゃぷんっ。
暗がりの水面下で跳ねた魚の影を追いかけて、ゆずなは顔を上げた。
当然、追いつかなかったけれど。
「……羽部」
「ん?」
やたら、自然界が賑わう夜。生み出される音響は、水の流れに負けじと笑う虫や蛙たちの自己主張。三日月よりは成長している、卵白に覆われたみたいな、黄身色月夜。
浮かぶ雲は、薄く漂うだけの控えめさで、月に主役を明け渡してしまっている。生が息づいて溢れる、そんな領域では、己の矮小さを痛感するのは簡単だ。
「……聞いてもいい?」
「ああ」
歪な石の階段に肩を並べて座り、羽部を見据えた。
「……真斗と羽部が恋人じゃないなら、真斗もホモじゃないってことなんだよね」
「ホモって……。いや、アイツもノーマルだよ」
答えた羽部は、手に汗を握る自分が、別に暑くもなんともないことに苦笑する。
外気は涼しい。
「……」
「……真斗の高校時代の想い人。もう、誰だか分かってるよな?」
ギクリと、肩を強張らせた。
気づかない振りをした。
あり得ないと思い込み、そのくせ、バカみたいに牽制をしていた過去。
―ママ。実はねぇ……真斗って私の片思いの相手なんだ―
―やっぱり!?そうかぁ、確かにイケメンだし、優しい子よね。ママ、大賛成よ!―
「私の、お母さん」
「……うん」
例えば、彼の視線が憧れから生じたものであれば、素直に嫉妬を表現して、告白も出来たはずだった。そして、真斗を相手にはしていない様子の母親には、いつだって安堵して。怯えていた。
そうであったはずなのに。
どうしてそうなってしまったのか。
その頃の柚香は、独身キャリアウーマン街道まっしぐら。颯爽と歩く美しく煌びやかな人であったから。恋愛をしていたこと自体には、驚いたりなんてしない。
「真斗ね、高校を卒業するくらいからかな。うちには来なくなっちゃったの」
内心、安堵で胸を撫でおろしていた。
「理由、あったんだけどな」
「え?」
ドクンと、打たれた胸の衝撃と鼓動が増して、血流が集中するのは肺回り。
「……」
「は、羽部?」
「……」
「ねえ、何……?」
「ゆずな」
「何よ!?」
息は、残酷な言葉を伴って吐き出された。
「お前の妹か弟が、生まれてたかもしれない」
ちゃぷんっ。
再び跳ねた魚が、水面に波紋を描くが、またすぐに流されて一緒くたになる。
オロシタノ?
戦慄く唇を、ゆずなは抑え込もうとしてうずくまる。
「俺、知ってたんだ。お前のこと、会う前から、真斗には聞いてたからさ」
羽部の両眉が八の字になって、間に皺を刻む。
「……いつから? いつからお母さんと真斗は」
「高2の冬くらいじゃねえのかな」
羽部はゆずなの様子を気にかける一方で、語ることを続ける。
「でな、子供を1人でおろした彼女に真斗はフられたわけだ」
「……どして?」
「分かんね。でも、少なからず柚香さんには罪悪感があったんじゃないのか」
(あの人は、娘が想いを寄せている相手を知ってたわけだから)
そしてまた、真斗にだって未来があるということを知っていた。
それでも、だからと言って、命を疎かにするような行いが許されたか否かの判断は、羽部にはできかねる。
羽部は、あの頃からもう既に会ったことのないその娘が気の毒で、それでも真斗同様に多感な時期には逆らえず、悪ノリしてはバカ笑いをしていた記憶がある。
(ああ、でも一度だけ……忠告したことがあったかな)
『ドラマの見過ぎ。現実見てみろ』
真斗が同じクラスになったお気に入りの女子と仲良くなって、軽い気持ちであわよくば進展をと望んでいるらしいこと。
そこまでならば、そこらにある、ありがちな展開だ。
それが、その子の自宅に初めて遊びに行った日に、真斗は熱烈な恋に囚われて、苛まれてしまったのだから。
両思いであったはずの時期に、ゆずなの想いは伝わることもなく、未消化なまま、静かに裏切られ続けてきた。それでも、柚香と真斗が惹かれる運命であったなら、報われずにいて正解だったのかもしれない。
「続けるぞ」
「……え?」
「まだ、ある。今の話の続き」
ショック死をしてしまいそうだ。
呼吸すら震える精神状態。
ゆずなは、頷いた。
「聞くよ」
また、燻り続ける期間に囚われるくらいならば。
死んだ人間には恨みは抱けない。まして、大好きな人ならば。
失望はするけれど。
「そっか」
「でも、羽部」
怖い。
「……」
震える彼女は、気丈で脆く、潜り抜けてきたこれまでの人生環境の割にはそぐわない程の率直な人間であるということを、目の前の彼が悟ってからは久しい。
「羽部」
「ん」
「……話して」
本当は、真斗の口から聞きたかった。
恨んで、憤って喚いて嫌悪の対象に変わっても。ストレートに感情をぶつけられたはずなのに。
いや、綺麗ごとではなくて。
「アイツはアイツなりに苦しんでるよ。庇うつもりはないけど。でも、俺に初めて会ったのって、お前まだ、真斗に恋人だって紹介された時だと思ってるみたいだから」
「……うん」
(それも、違うんだ)
「俺、いたんだぜ。病院」
ヒュウっとゆずなの喉が痙攣を起こし、急激な血圧の上昇に胸をかき抱いた。
目眩がする。
「通報したの、俺だもん」
ゆずなの脳裏にフラッシュバックする、妙な違和感。
大学の講義を放り出し、集中治療室に駆けつけたあの瞬間、まず初めに何を見た?
想い人の姿を視界の隅で捉えたような曖昧な記憶。でも、直ぐに消えた集中治療室の電灯に、泣き崩れて、飛びかかって抱きつこうと必死になって。
父親が駆けつけて、そのまま宥められて。
茫然自失の状態で、病院のロビーに出た瞬間。
悲壮な顔で、真斗に抱きつかれた。
そのまま泣いて、二人で泣き崩れて、涙して目覚めた場所は自分の家だった。
見慣れた、日の当たる、縁側の上。たなびく細く薄い雲が、無理やりブルーグレイの空に浮かんでいた日。そんな記憶ばかりが鮮やかになって、だから、真斗の姿が側にあると知った時、病院に駆けつけてくれた彼に、ずっと付き添われていたのだと。そう思っていた。
だから、深くは考えないで尋ねたのだ。
『どうやって、知ったの?』
曖昧に微笑んで、大丈夫だとはぐらかして、筋が通らぬ言葉を漏らす真斗を、それ以上は追求することも頭にはなくて。
(そうだ……)
だが、確かにいた。
(それから……。羽部も?)
「……私、会ってる。私が駆けつけた時……だって真斗っ!?」
「ちょっと、落ち着けよ」
羽部の瞳に射抜かれて、ぽろぽろと涙が弾け飛んで落下した。
どうしてか。
だって、既に別れていたのではなかったか。
「なん、で……」
「ずっと、アイツは忘れてなかったんだ。フられたのに、そりゃ必死でさ。ほら、妙に正義感のあるヤツだから。あの日も、強引に待ち合わせをしてたんだ」
その頃にあった、両者の間を隔てる溝の深さも、なされた会話の内容も、それは羽部の知れぬところだけれど。
頑なに、食い違いでしかない意見交換に、時間を費やしたことは確かなようであった。
柚香は自分のことが好きなのだという、どこか確信めいた強気な発言を、真斗が撤回する様子は見られなかったことは不思議でならない。思い込みだけではない、根拠と理由があったのかもしれない。
それでも、羽部の目に映る親友の奇行は、狂気でしかなかったけれど。かなり切羽詰った状態で、彼は柚香を呼び出したはずで。
―来ねぇんだよッ―
待ち合わせ時刻から1時間を過ぎて、真斗はまるで迷子になった幼稚園児さながらの泣き声で、羽部に電話を架けてきた。高校が違えど放置はできず、柚香を待つ真斗のもとへと大急ぎでチャリンコのペダルを漕いだ。
到着したそこで、羽部は唖然と口を開けた。
着いたのは、携帯で話をしてから更に一時間近く経った後なのに、どうしたわけか、柚香と真斗が口論している場面に出くわした。まるでテレビドラマのワンシーンのように真斗の横っ面を平手打ちした柚香が、背中を向けて走り出して。真斗が慌てて追いかけた。
げんなりと、真斗を制止するために走り出して、スクウェアの木陰を抜けた途端、けたたましい唸り狂ったクラッシュ音がこだまして、羽部は猛ダッシュした。
放物線を描いて白いバッグは優雅に舞った。
その後で、直ぐに魚が陸でモガくようなビチリ……という音を聞いた。
聞いて目を背けた瞼の裏には、真っ赤な黒い液体が破散する万華鏡を描く。
紅と翻った黒髪と、白いバッグがカレイドスコープを覗くようにして重なった。
あれ以来、万華鏡は苦手だ。
渦巻いた吐き気で蹲り、轟く真斗の悲鳴に無理やり一歩を踏み出した。踏み出して、駆け寄ろうとする真斗の肩を思いっきり掴んで、救急に通報を架けていた。
「……大丈夫、か?」
それまでも黙って聞いていたゆずなだが、あまりにも色がなく、瞼をやや下げたまま、微動だにしない。
無機質な焦点に、羽部はゾッとした。
伝えるべきではなかったのか。
「どうして、真斗はお母さんを追いかけたりなんかしたの?」
冷たく凍った声は、この涼しい気温には不釣合いなくらいに抑揚がなく、なのに、呼吸はどことなくぬるまったく、気色ばんでいた。
「……もう会わないと、そんな事を言われたみたいだな」
ふうんと、ゆずなは呟いた。
「ゆずな」
「……」
「ちょっとこっち向け」
「……」
ゆらりと振り向いたゆずなの表情に、羽部は息を飲んで、グイッと前髪を引っ掴んだ。
「痛い!」
「……本当は知らなくてもいい苦しみを、俺は伝えてんのかもしれないけど、違うんだ」
「……なに?」
「知らない方がよかった。そういう考えだってある。でも、俺は知るべきだと思うんだ」
それに、このまま羽部だって巻き込まれ続けるには、限界があった。
「……」
「お前に対して償う真斗の姿勢と保護者風が正しいとは思えないんだ」
ゆずなは羽部を見つめながら、全身に突如堕ちてきた、空っぽの虚無感を瞳の中に彷徨わせた。
「……」
「実際にお前ら、進歩してないだろ」
ムダに執着し、離れられずに後ろを向いて蹲ったまま。
「羽部は……」
徐に拭われた涙に言葉を止めて、ゆずなは羽部の手を掴んだ。
「……」
「羽部はずっと、真斗の味方だったんだ」
その言い回しに、羽部は眉間を寄せる。
「なんだよ……。だったら、どうだって言うんだ。俺にだって、自分の人生がある。そろそろ返してもらいたい」
「でも、今になって真斗を裏切っちゃうの?」
「お前には裏切ってるように思えるのか?」
「……」
俯いたゆずなに羽部はゆっくりと嘆息し、ちょっと怒ったように乱暴な仕草でその手を握り返した。
「これじゃあ、みんな苦しいままだろ」
ゆずなは思い出して、唇を噛みしめた。
先日、涙ながらに柚香の名前を連呼した真斗は、今までもずっと柚香を愛してきたのでだろうか。
そして、自分は何も知らされず、そんな真斗にずっと想いを寄せて。
(……とんだピエロじゃない)
けれども、目の前の羽部はゲイでもないのにその役を演じ、直接の関わりはないのに一緒に苦しんで、茶番劇に付き合わされてきたのだ。
「羽部はお人好し」
ゆずなの表情に、感情が滲んだことで安堵した羽部が、ヘラリと笑う。
「……もっと言い方、ねえの?」
「羽部ってイイ奴だったんだね」
「だろ? 空回りの一人勝手な親友の面倒を散々見てきたつもりなんだ」
ゆずなは引かれるままに立ち上がる。
「……羽部?」
「簡単に消化ができるだろうなんて思ってねえよ。……ただ、俺の話はこれでおしまい」
羽部は心細さで手を離さない彼女に、戸惑って苦笑した。そう言えば、先週も繋いだ小さな手の温度は、もっと温かだった。
「明日、帰るの?」
「おう」
「……っ」
「あと一泊、残ってんだろ」
「うん」
「なら……明日はどっか行くか?」
包まれた右手を引かれて歩くゆずなは、目頭の熱と、心の底に渦巻くどす黒い感情につぶされそうだった。
ただ、聞いて知ったにすぎず。
これから、どう消化をするべきなのか、自分では分からない。
ただ、羽部が温かい。
それだけは理解できる。
そんなふうに彼を思ったのは、これが二度目だった。




