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雲が飛ぶ。  作者: ゆ~の
4/9

母の恋人

 残業帰りのブルーマンデー。

 精神的にはクタクタのヘロヘロで、そんな日は、早く帰って彼に会いたくなる。

 ただ、実際に残業をして帰宅をした日でさえ、帰りの時間は真斗の方がやや遅いことが常なので、玄関をまたげば直ぐに会えるというわけではないけれど。

(……今日、疲れたな)

 毎日、そんなことを感じている気がしなくもない自分。

 人間の感情は、時に素直過ぎるから恐い。

「あ!?ゆずなさんっ」

 マンション手前の交差点。聞き覚えのあるソプラノが、ゆずなの背中を追いかけてくる。

「美佳ちゃん」

 セーラー服に薄手のカーディガンを羽織った羽部妹が、スマホを片手に振り回して駆けて来た。

「良かった。放課後、お兄ちゃんからメールが来たんです。真斗さんとご飯するんで、ゆずなさんにも声かけろって」

 横断歩道を突っ切る美佳と、点滅する青ランプ。

 慌てて首をきょろきょろとさせた彼女が、ゆずなの元にたどり着く間、ほんの僅かな間であったのに。

 焦りすぎの心臓が、深く低い脈を打ち、ゆずなに頭痛をこしらえた。

「美佳ちゃん」

「はい?」

「信号、気をつけて。焦る必要なんてないんだからね」

「……あ」

 ゆずなの心情を察した美佳が、申し訳なさそうにして頭を下げる。

「ご飯どこだって?」

「居酒屋だそうです」

「また?」

 外食とくれば、必ず飲み屋だ。

「……ですね」

「羽部ってアル中なんじゃないの?」

「う~ん、否定はできないかも」

「んもうっ」

「……でも、お兄ちゃんもお仕事。それはそれで、結構大変みたいで」

 美佳は苦笑して、ゆずなは押し黙る。

「……」

「ゆずなさんは、お兄ちゃんのこと……あんまり評価はしてないみたいですけど。お兄ちゃんはそうでもないんですよ。あんなだけど!」

(あれで!?)

「……」

 意外な事実だと、意表をつかれながらも低身長の彼女と並んで歩く。

「それ!可愛いっ!!」

 ふと、ゆずなの耳元を指差して美佳は叫んだ。

「ふふっ、お目が高いね。美佳ちゃん」

 アクアマリンの小さなイルカのピアス。昨日の水族館での購入品。

「いいな、ピアス。私も開けようかな」

「学校は?」

「禁止なんですけど」

 しょぼくれる姿が、なんとも可愛らしい美佳に口許も心も綻んだ。

「……そっか。確かに、イヤリングよりも可愛いのがいっぱいある気がしちゃうよね」

「ですよ!!」

(兄とは大違い)

 その後、ゆずなのまあるい薄い耳朶に、慎ましやかにブルーの光を咲かせる小さなイルカのラインがらしいと、美佳が笑う。

 控えめな、ゆずならしいのだそうである。

 それから、二人で無駄話をしながら十五分。歩いてダイニングバーの自動ドアを潜り抜けた。

「いらっしゃいませ」

「あ、どうも」

「お連れ様。いらしてますよ」

 顔馴染みの若い店員が珍しく、二人を奥の個室へと案内してくれた。

 店長と羽部が知人らしいこのお店。

「月曜日だからかな」

「そうなんです。今日は暇なんですよねえ」

 苦笑して、穏やかだが活気ある店内を見渡した店員は、そそくさと下がって行った。

 言うほど、暇ではないのだろう。

「ゆずな。美佳ちゃん」

「こんばんは。……れ?お兄ちゃんは」

「残業が長引きそうなんですってよ」

 ああ……とゆずなは頷いた。

 上海市場が荒れている。携帯の速報ニュースでちらりと目にしたかもしれないトピック。悲劇的な円高が、尚も続くという。

 羽部の部署は輸出入も多いと聞いている。

「そんなこと、メールではなにも」

「ん、今日は逃げ出す算段ではいたみたい。でも、取引先から電話が入っちゃったから、とことん残業を覚悟したんですって」

「今からですか?」

 美佳の言葉に、ゆずなは時計の針を見た。

 八時を回ってだいぶ経つ。

「まあ、仕方がないわよ。慎は放っておいてご飯を食べましょ。お腹空いたでしょう?」

「そうですね」

 真斗と美佳が、にっこりと顔を見合わせる。

 既にビールジョッキを片手に口元を濡らしていた真斗が、美佳にメニューを手渡して、ゆずなには確認をとってくる。

「レモンサワーでよかった?」

「うん」

 ゆずなは頷いて、真斗の隣を確保する。

 羽部が来るまで。

 ふんわりと、緩い柑橘の香りが漂う。真斗愛用のフレグランス。

「私はコーラでお願いします」

 美佳はメニューを閉じると、二人の向かいに腰を下ろし、そして彼らを交互に見比べた。

「……どうしたの?」

「二人ともお似合いなのに、どうして真斗さんはお兄ちゃんが好きかなあ」

 言葉に詰まった真斗だが、無邪気な笑顔の裏に潜んだ美佳の悪意を察知した。

 真斗だって、好きでゆずなを生殺しにしているわけではない。

(蔑ろにしてるつもりなんか、一度だってない。これでも……)

 大切だと思っている。

(ちゃんと大切にされてるの、分かってるよ)

「あのね、美佳ちゃん」

「理屈とかイメージじゃないんだよね」

「……ゆず、な?」

 メニューに視線を落としながら、静かに口を挟んだ親友を、真斗が驚いて見つめる。

「ゆずなさん?」

「んっとね」

 四つの瞳に凝視をされた彼女は、居心地の悪さについ、不必要にペラペラとメニューを捲った。

「恋ってホント、理屈じゃあないよね。そりゃ、理屈が必要な恋もあるんだろうけど……。でも、結局は感情のハプニングだから、どうにもならないんじゃないかな」

 とか言ってみたりして。呟いて、真斗に笑顔を向ければ、咄嗟に視線を外される。

(……?)

 ゆずなは目を瞬かせた。

「……とにかく、お腹が空きましたね!」

(ま、いいか)

 元気な育ち盛りの要求に乗っかって、空きっ腹のゆずながヤンヤヤンヤと食欲の暴走に任せて、オーダーを電子操作した。

「かんぱ~いっ」

 酔ったゆずなは、いつもよりもちょっと饒舌だ。それが、今回は珍しく、真斗もそうなってしまったから、美佳も驚いて円らな瞳を白黒させる。

「真斗さんてば、ゆずなさんの自分離れにショックを受けてるんですかね?」

「まさか。違うと思う!」

「……ゆずな!!心配だわ。変な男に泣かされたら、私に言いなさいよ。いい?絶対よっ!?」

「う、うん」

 気迫に押されて、ゆずなは頷いた。

 目が笑っていないから、超マジである。

 密かに怯んでしまうくらいに。

 そんなだから、彼には泣かされっぱなしなのだ。

 好きな人に、優しくされて、簡単に吹っ切れる人間はそういるものではない。

(うわ、こんな時間。美佳ちゃん、どうするんだろう?)

 そろそろ、零時近くになるのを確認した頃。美佳のスマホが振動とともに鳴り響いた。

「お兄ちゃんだ」

 全くもって、仲の良い兄妹だ。

「……」

 真斗を、見る。

 何だか不機嫌そうな真斗が、おとなしく美佳の様子を窺っていたが、やっぱり破裂した。

「連絡が今頃になるってどうなのかしらね!!」

「ね、ねえ。真斗」

「ん?」

 焦点が合っていない。

 それでも、ご機嫌ななめの真斗に問いかける。

「羽部ってイイ奴?」

「……ん。おまけにすごい奴よ」

 破裂したくせに、また彼は、羽部への想いを膨らます。

「好き?」

「野暮なことは聞かないでちょうだい」

 両者の似かよった回答に、ゆずなは微妙な心地はするものの、満足をしてしまった。

「は~い」

 美佳が通話を切って、上目遣いに二人を見上げる。

「もう、こっちに着くそうです」

「……そっか」

 ゆずなは毎度の事ながら、こうして兄同伴ではあるが深夜まで遊び歩く高校生を、果たしてこのまま放置して良いものだろうかと小首を傾げた。

「私、熱燗おかわり」

 それから、仰天。隣の友人を凝視する。

「真斗」

「……飲みすぎですよ」

「まったくだ」

「羽部」

「お兄ちゃん!!」

 真斗が注文を流し終えた直後に、羽部様のご登場。

 顔が、疲弊している。

「うーすっ。……真斗、お前なあ。俺も一杯やりたいところだけど、今日は帰るわ。てか、コイツまだ高校生なんで少しは気を遣ってくれ。美佳、行くぞ」

 眉をしかめ、でも羽部は妹のバッグをひょいと担いで促した。

「え~?」

「てめ、今何時か分かってんの?」

「……は~い」

 睨む兄に従い、素直に立ち上がった美佳。残されたゆずなは、狼狽える。

「羽部、帰るの?」

 自分だって、今日はいつもより深酒だ。そんな状態にもかかわらず、真斗は慎一が来るまでだからと弁解し、散々飲んだくれた。つまり、いつもは面倒を見てくれるはずの相手が、面倒を見てくれる状態にあらずの状況は、何だか不安。

 けれども、羽部だって妹を急かすような時間帯で。

「……ゆずな」

 羽部には、滅多に名前を呼ばれない。

「なに?」

「もう飲ませんな。まだ月曜日、な」

「まだ大丈夫よ」

「真斗!?」

「大丈夫なわけあるか。俺、本当に今日はダウンなの」

 仕事疲れのせいなのか、羽部はものすごく不機嫌顔になって真斗を睨む。それから律儀に領収合計額を覗き込み、妹と会計札を持参した。

「バイバイ、真斗さん!ゆずなさん!」

「またね、美佳ちゃん」

 一方の真斗は、ちょうど最中にやって来た熱燗に目尻を下げながら片手を上げる。

(どうしちゃったの……?)

 ゆずなはいつもとは少し勝手が違う真斗に、ただただ、首を傾げるばかりであった。







「真斗、もう2時なんだよ。バカ!」

 リビングのソファ上でヘナチョコになって寝そべるシェアメイトに、ゆずなは呆れる。

 あれから、日本酒を三合も胃袋に流し込んだ男は泥酔状態。

「真斗っ……ねえ」

(職場で何かあったのかな?)

 めったに愚痴らない彼だから、心配だ。

 深夜の秒針音を聞きながら、ゆずなは溜め息をついた。

 この男、果たして本日の出社は可能なのであろうか。嘆かわしい限りだ。

(でも、それでもね。やっぱり……好きだなぁ)

 サラサラと音を奏でそうな長い前髪は、やる気がなくなったワックスのせいで、今は無残に額にこびりついてはいるけれど。尖りすぎず柔らかすぎず、そんなカスタードクリームみたいな端正な横顔のラインは、妬ましいくらいに艶やかだ。

「……ん」

 ちょっとだけ、見た目よりも高い、始めは違和感のあったその少年のような声だって、今は鼓膜を奮わせるほどの媚薬のようで。冷たいフローリングに正座をして、ゆずなは真斗の額をたどるように撫で続けた。

「……さ、ん」

「ん?」

「ゆず……か…さ……」

「……え?」

 酒焼けの寝ぼけた声が紡ぐ音。

 ゆずなの手を握り締め、己の頬に引き寄せる真斗の唇は、何度か同じ言葉を繰り返して。

「柚香さん、嫌だ……ッ」

(……な、何…?)

 茫然と、ゆずなは自分の母親の名前を連呼する男の表情と、その苦悶を見つめる。

(な、何事……)

 壮絶なまでの色香を纏い、うなされる彼の姿を目にした途端、頭が漂白剤に晒されたかのような、不確かな恐怖に陥った。

 何故、泣くのか。

 何を今更、友人の母親を思って泣く必要があるというのか。

 手を引き抜こうと躊躇って、次の瞬間には更に後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃がゆずなを奔る。

「……愛してる」

 息を呑み込んで、呼吸を剥奪された。

 間違っても、ゆずなに説いているわけではなさそうで。

 その苦悶の顔つきは、恋する男。

 男の顔だ。

 閉じた瞼からは、溢れる雫が幾筋にもなって頬を伝った。

(何……言って、んのっ?)

 勢いよく引き抜いた手を、胸の上で抱きしめる。

「んっ…」

 鋭利な熱が、体中を駆け巡る。

 起きる気配のない真斗を見下ろして、後退りしながら、ゆずなの頬にも涙が伝う。

 今、彼には恋人がいて、その相手は羽部慎一なのではなかったのか。

「……っ」

 降って沸いた混乱の渦と疑心を抱え、逃げるために寝室に駆け込んだ。

 脈打つ鼓動は、アルコールのせいではない。

 両手を握り締めて、ソレに掴まる。

(……真斗はお母さんが好き、なの?でも、えっと、羽部……は?)

 呼吸が白々しく震える。

 密やかに、暗がりの中に佇んで、回らない頭を無理やりに回転させてみても。

「……分からない」

 分かりたくないような気がして。

 そうだ、分かりたくはないのだ。

 酔っているのだから。

『おいっ!』

「え…っ…?」

 両手の中で青いランプが点滅していることに気がついて、携帯電話にバカみたいにしがみついていた自分の滑稽な姿を知った。

『おいッ!てめぇっ』

「……も、もしもし?誰?」

『誰?じゃなくて、お前ね。何回電話したと……もう家か?』

 怒気を含む、羽部の疲れの濃くて重い声がした。

「あ、さっき……」

『今何時か分かってっか?明日、お前ら出勤するつもりがあるのかよ』

「は、羽部……」

 こんな時に限って。この男に繋がる。フォローなんてしません、そんな顔で素っ気なく振る舞っているくせに、妙に気を利かせるのが上手い恋敵。

 かつて、高校時代のゆずなが胸の内に抱いた疑念。それが、脳内を蘇る。そして、電話越しには、真斗の現恋人がいる。

 昔の恋敵と今の恋敵に挟まれて。

 泣きそうになって、おそらくは半分は泣いて、鼻をすすった。

『……あ?どした?』

「ま、真斗が」

『…な……何だよ』

「お母さんを好きって……」

『なに、アイツマザコンだったっけか?』

「……じゃなくて、私のお母さんを」

『はあ!?』

「寝言でね、何回も言うの……あ、愛してるって」

『……寝言は寝て言えって言うもんな』

 余裕なんてなくて、羽部の揶揄もスルーした。

「で、分からないけど羽部が携帯に出てて」

『……お前に架けてたんだから、繋がってもらわんと』

「だから出た!!」

『ああ、そうかい』

「分からないの。私、酔ってなんかいないよね!?」

 もう限界だな、そんな羽部の呟きが聞こえてきて、ゆずなは相手の言葉をじっと待つ。

『これ、夢だから』

「違うよ」

 ゆずなは首を振った。

 何故か、理由もなく母親に張り合った時期がある。

 真斗と彼女が他愛のない話をするたびに。

『明日、俺の仕事が終わるまで待ってられる?』

「うん」

『じゃあ、その時までに少し落ち着ついとけ。羽部様はもう眠い』

「……羽部」

『もう、今日は寝ろ』

 ゆずなは首を横に振る。

『いいな。今日は寝ろ。じゃねえと殴るぞ』

 まるで、見ているかのような強引さでもって、羽部が諭すから。

「羽部」

『……お前さ』

 受話口から、盛大な溜め息が聞こえた。

「な、何?」

『いい歳した女が、ガキみたいな声を出すな。……大丈夫だよ』

「……大丈夫?」

『ああ』

 苦笑混じりの向こう側からの口調。欠伸まで伝わる。

 そう言えば、眠い。

「……」

 伝染した欠伸を、ゆずなは噛み殺した。

『……おら、寝ろ』

「うん」

『明日、回転寿司な』

「好きだね」

『悪いかよ』

「んん、悪くはないよ」

 今度は盛大に口を広げた。

 残り僅かな睡眠時間だが、無性に眠たくなって。

 目を閉じる。

(貴重だよね……睡眠じか……ん)

 羽部が苦笑したのが、なんとなく知れた。

 その後は、どうやって携帯を切ったのか。覚えてはいない。

 気がつけば、朝だった。







(……お肉?)

 回転寿司ではなかったのか。

 寝不足で、疲れた消化器官にはヘビー級。厚みの増した、重たい瞼で羽部を見上げた。

「お前、一重だっけか?」

「奥二重」

 焼肉屋に向かい合って座り、トングでタン塩を押さえつけた羽部が、ニヤリと笑う。レモン果汁にどっぷりと浸すと、口に放り込んだ。

(ワザと聞いたよね)

 うら若き乙女には、効果的な嫌がらせだ。

「んま。あっ」

「……なに?」

 唐突に、箸を休めた羽部が、不自然なくらいにゆずなを見つめる。そして、眉をしかめた。

 今日の羽部の言動は、なんだか忙しない。

「真斗の話をするにあたってなんだけど」

「うん」

 普段は前置きなんてしないくせに、そんなふうに切り出すから、互いの調子も狂いっぱなし。

「傷つくなんてものじゃないと思う。俺のことなんて嫌うどころか、恨んじゃうんじゃねえの?それでも聞く覚悟があるってなら、いつでも話すし……。それが道理だとも思ってる」

 火力を片手で強めながら言う羽部の体は、やや斜めに傾いたままだ。

「……」

「いつでもいい。俺は、話す。ゆずなは知る権利と義務がある」

 自分にも、言い聞かせるようにして羽部は言う。

 いや、ほとんどそれなのだと察知した。

 ゆずなは痙攣する目下のクマを擦りながら、ぼんやりとそんな男を眺めた。

「……羽部?」

「ん」

 ゆずなの取り皿にも、ポンポンと肉を乗せながら、羽部慎一はチラリと視線を投げて寄こす。

「そう言えば、良く分からないんだけどね。今週末、温泉旅行の予約を二名でとってあるの」

 繋ぐ言葉はチグハグで、背負う空気はギクシャクしている。

「……は?」

 そんなことは何も真斗からは聞かされていない男は、間抜け面で、やがて間抜けの声を発した。

「別に、真斗を誘ったりなんてしてないよ。アンタもいるし、言い出せなかった。今更、急な話だって、思うもの」

 それに、そんな心境などではない。

「キャンセルしろよ。……何で?」

 首を横に振ったゆずなに、怒ったように羽部が言う。

「だって、悔しかったから。とにかく、一人でも行こうかと思ってる」

「どこ」

「群馬」

「……んで?真斗を貸してほしかったわけ?」

「だからもう、一緒に行こうだなんて考えてないよ。……真斗は、羽部が好きなんだよね?」

「ってことにしとく。なに、もう聞く決心がついたの?」

 心底、意外な顔をされてしまった。

「うん」

 ゆずなが箸を置いて座り位置を正せば、羽部が両手を挙げて肩を竦める。

 降参だとばかりに。

「……あのさ、悪いんだけど。メシ、出来れば食ってからでもいいかな」

 何だか、話しをする羽部の方がよっぽど辛そうだったから、ゆずなは頷いてお茶碗を持ち上げた。







 真斗の顔を直視できず、心配してくれる彼の変わらぬ優しい態度に、今だって剥がれ落ちぬように偽りの仮面を身につけて。

 虚空を見つめる。

 途中、逃げるようにして遮った羽部の言葉が、脳裏でエコーを繰り返す。


―真斗が、高校時代に付き合ってた女ってのが年上で。アイツから攻めて、それなりに深い関係になった相手がいたと言えば……。想像はつくんだろ? ……っ、冷静に、話を聞……ッ!?―


「ゆずな?」

「はいっ!?」

 ガチャン。

 カップとスプーンがゴッツンこ。ほろ苦いインスタントコーヒーが、ソーサーを派手に飛びこえて、散った。

「……何かあったの?」

 慌ててテーブルの上を拭く彼女を、真斗が訝しんで眺める。

「違うよ。ちょっと、今週末の旅行のこと、考えてただけ」

「旅行に行くの!?」

 驚いた真斗の唇が、「誰と?」と形作るのを止める。

 ゆずなは、気づかない。

「うん」

「……」

 早鐘の鼓動を、湯気立つコーヒーへと意識をさせて、遠ざけようとするのに必死で。

 笑ってみせた。

「あ、あのさっ」

「何よ」

「実は明日の朝出発」

「……なんですって!?随分急なんじゃないの」

「そうなんだよね」

 結局、前日に申告。

「どこに行くのよ」

「田んぼだらけの田舎の温泉。畔道、散歩したくなっちゃって」

 幼い頃の家族旅行は、専ら地方の温泉場。なにもない平地か、高原か、ただ、見通しは抜群。そんな所ばかりだった。

 右手には母親。左手には父親。両脇から支えられて浮き上がるつま先。バランスを崩して、仰け反った視界にはいつだって壮快な青空。浮かぶ雲と自分を重ねて、無性にはしゃいだ、幼い頃の記憶。

「なるほど。いつまで?」

「日曜日には帰ってくるよ。もしかして、真斗も行きたかったとか?」

「行きたかったわよ。なんで誘ってくれなかったのかしら」

 どんな些細なことだって、ゆずなが真斗を誘うには、それなりの勇気が必要だったから。

「ん、急だったし。思いつきだったの」

 本当は、誘うつもりで予約をしたのに。

 今は、切り出したチャンスを活用する気力も湧かなくて。

「……」

 ギクシャクしている空気など、とっくに気がついているはずの真斗がにこやかに微笑む。

「……?」

「寂しいわ。だから、ゆずな。今度の週末は私と遊ぶのよ?」

「うん」

 また、泣きたくなる。

「……宿泊先の連絡先は、残して行ってちょうだいね」

「ん」

 別に、喧嘩なんぞをしているわけではない。

 それでも、気まぐれに歪む両者間の空気というものが、以前から時々あったことも、もはや目をつぶることはできない。

 雰囲気を悪くしたいわけではないのに。

「気をつけて。お土産、期待しちゃうから」

「ん。お饅頭がいいかなあっ」

「辛党なんだってば、私」

 ゆずなは笑う。

「そうだけどさ」

「本当に、気をつけてね」

 カップの取っ手を摘みながら、真斗が苦笑した。

「ありがとう。行ってくるね!」

 いつだって優しい真斗に感謝して。だから、彼の苦笑には気がつかない振りをした。





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