『たたずむ』【掌編】
『たたずむ』作;山田文公社
「私は知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しいものにする」
知恵とは一体なんだろうか、賢さとは一体なんだろうか、人は生きてるからこそ虚飾に溺れる。素っ気なく生きる事ができるのに、色々ともったいつけて、こともなく飾りたてる。実に浅ましくも浅はなのだ。そしてこんな事を考える私も実に愚かで浅はかな人間なのだ。殊更分かり切った事を聖書の引用を付けて語るのだから、愚の骨頂である。それはもしかしたら生き方ではなく、ある種の性癖のようなものかもしれない。
手にしたナイフは血に染まり、手も腕も真っ赤に染まり汚れきっていた。計画的な殺人だった。
言い訳がましくなるかもしれないが、殺した事には理由がいくつもある。ただそれをどれだけ並べて見せても理由にも答えにもならない。生きているから虚飾は意味をなし、死んだ者には知恵も賢しさにも意味はない。ただの肉の塊に還るのだ。焦点の合わない目が虚空を見つめている。血に染まったシャツがスーツから覗いていた。殺した所で憎しみは消える事はない。ただ拭えぬ消えない心のしこりが残った事しかわからなかった。
倒れたコンクリートの床が赤く染まっていた。死んだと言うのに殺し足りない。
どんなに高価なブランド物だって、体に中に穴が空くほどにナイフで刺される事は想定していない。いくら資産やお金があったって死んでからは使えない。顔が誰もがうらやむ程格好良かったとしても、死んだら皆同様に青白くむくんだ顔になる。どれだけ口が上手くて機転が利くような話し上手だとしても、死人に口なし一言も口を挟めない。
無機質な部屋に血染めの遺体が転がっている。こうして見ると部屋と死体の境界がない事に気づく、生きているから動物、死んでいるから静物なのかも知れない。
妙な事を考えながら事務所の玄関を開けて脇に忍ばせていた灯油のポリタンクを部屋へと引っ張り込んだ。ポリタンクのキャップを開けると独特の匂いが部屋中に広がった。途中までは重たいポリタンクを持って部屋の隅々までまこうと思ったのだが、途中からポリタンクを蹴り倒して自然に広がるのを待つ事にした。部屋中に灯油がまわり匂いは充満した。
ひと思いに火を付けて自分も燃やしてしまう事にした。
「悪人も善人も等しく業火に焼かれ、人は人なのだと証明される」
大事な事は善悪ではなく、人であるかの問題である。人である以上は業火で焼かれる。信じようが信じまいが功罪問わずに焼かれる。人であるから焼かれるのだ。奪い殺し喰らい尽くす獣であれば焼かれる事はない。しかしそれ程まで生きている事に意味がない。獣であることを止めた理由があるから、たとえ焼かれても人を選んだ。先人達が選んだように私も同様に人を選ぶだろう。
故に男は死んだ。私に殺され、私が男をナイフで刺し殺したのだ。
「これが人である証明だ」
私は思いきって手にしたマッチに火を付けた。一瞬で炎が広がっていき何もかもが燃えていく、炎が私も男も部屋も何もかも燃やしていく。時間も人生も見えない運命すら全てが燃えていく。生きる為に殺し、生きる為に奪い、生きる為に飾り、生きるために汚れ、生きるから虚しい。虚しさを知っているから喜びも知っているのだ。悪を知らねば善も知らず、善を知らねば悪も知らず、死ぬから生き、生きてるから死ぬのだ。
辺りが燃えさかり火災報知器の音が聞こえる。私も男も等しく燃えていた。
手近なソファーに力尽きるように座り込んだ。何もかもが黒い煙を上げて燃えていく、熱気を伴う空気が肺を焼きいとても酷く息苦しかった。熱さを超えた痛みが全身を襲う、今までの記憶が蘇ってくる。幼い自分から今の自分を映画やドラマのダイジェストのように見た。どの場面もときどきの後悔や罪悪感に満ちていた。どれひとつ救えなない、笑えないものだった。
けれど。
「後悔はない」
声にならない言葉を吐いた。全てのしがらみや執着が手のひらからこぼれ落ちていく。何もかもが燃えていく。痛みや後悔、罪悪感や記憶、視界や匂い、五感と記憶全てが消えていく。そのどれもが飾りであり、虚しさであり、滅びのエレジーなのだ。ようやく全てが終わり解放された。
部屋は男ふたりと家具を焼いた。それだけにとどまらず火災はビル全体へと及んだ、商業ビルでの火災、それはたった二度の五分足らずのニュースに過ぎなかった。警察も金銭トラブルとしての処理で終わった。決して全てが語られる事も記される事もない。今もどこかでそんな出来事が起きている。誰も一部分以外に知り得ず、全ては知られる事は決してない。
「私は知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しいものにする」
言い方を変えるならば、
「知者は知恵を滅ぼし、賢者はかしこさを虚しいものに変える」
とも言えるのではないだろうか…黒く焼けこげた部屋が移り変わる中で肉体を失った私はいつまでもたたずむ。
お読み頂きありがとうございました。