深夜の周波数
番組のオープニングジングルがかかると、彼女の時間がはじまる。
「はじまりました『午前二時の孤独』。メインパーソナリティのアオイです。今週も月曜日、お疲れ様でした」
彼女の低く落ち着いた声が深夜に響く。大いなる海の女神を思わせるその声はリスナーの間でも好評だった。
「今日のテーマは鍋です。皆様からのお便り、届いてますよ。まずはラジオネームねぼすけさんからのメールです」
BGMも彼女の声に合わせて静かで、波を掬うような旋律。声と音楽のハーモニーは聴いている人を眠りにいざないそうになる。
彼女はまだ二十八と若いにも関わらず、ある時を境に路線を変更したのだという。
三年前、彼女はとある番組を降板し、休養していた。そして戻ってきた時には以前のハツラツとした声は失われ、代わりに静寂を獲得していたのだ。
「フツオタのコーナーです。ラジオネーム『街灯』さん。いつもありがとうございます。『今日も終電を逃してタクシー乗り場で聴いています。アオイさんの声にいつも癒されてます』」
アオイの声に一拍、間があった。
「ふふっ、こちらこそいつもありがとう」
彼女のタブレットの文字には続きがあった。
『本当はアオイさんの本物の声が聴きたいです。台本じゃなくて、素の声というか。ごめんなさい。これは読まなくても大丈夫です』
スクロールする手が止まり、間があったのだ。毎週欠かさず、メールをくれる『街灯』の文字は整っていたが、感情が隠されていない。
少し、気持ち悪いなとも彼女は思った。だけど、それ以上に自分がリスナーに本音を隠しているのを悟られているのだと思うと、アオイの薄い色の瞳がまつ毛で影を落とした。
(私はいつになったらこの呪縛に囚われたままなのだろう……)
喋っている口とは別に黒い縄が脳みそを縛る。この感覚は最近はなかったのだが、『街灯』の無機質なフォントが呼び起こしたのだ。
『午前二時の孤独』の三十分番組が終了した。
「……お疲れ様でした」
スタッフに一言だけ声をかけると、アオイはスタジオの非常口に直行する。その目には涙が浮かんでいたが、誰も声をかけなかった。
鉄の扉を閉め、大きな音が出ないようにゆっくりとドアノブを受け止める。左手で零れた涙を拭い、鼻をすする。彼女にとってスタッフの沈黙こそ、慰めだった。
(感情なんて捨てたと思ってたけど、そうでもないみたい)
頭の中の自分の声も低く落ち着いていた。自分を慰め、澱を濾すように泥の感情を胃の中で消化しないとならない。
鞄の中から車のキーを取り出すと、指で回して泣いていないふりをする。ご機嫌なように、足取りもできるだけ軽く、ステップを踏む。
地下の駐車場は湿気と圧迫感で息が詰まりそうになった。まるで自分を誤魔化すなと空間が訴えているようだ。
アオイはじわりと滲んだ涙を飲み込もうとする。
(ああ、大人って難しいな……)
自分の車に乗り込むと、エンジンをかけ、ハンドルにもたれかかった。しばらくは子どもの自分でいさせてほしいと願った。
『雨の日と月曜日は』というカーペンターズの曲をアオイが口ずさんだのは、その日が雨だったからだ。運転中の鼻歌ほど自分の機嫌を取れるものはないだろう。うろ覚えの歌詞はメロディーで誤魔化して、月曜の放送のために車を走らせていた。
カレンの歌は好きだ。休養中はいつも聴いてたまに歌に合わせて口ずさむ。そうして自分の背中をさすっていた。
(あの人が死んで、私は変わってしまったけど、良いのか悪いのかはわからない。でも――)
恋人が交通事故で死んでしまった三年前。
商売道具の声は枯れ、耳鼻咽喉科の先生には休養するようにと言われてしまった。自分の声にハリがなくなり、「あー」と鳴いただけで掠れてしまっていた。そんな自分の頭を掻きむしり、爪に血がついても止めることが出来なくなっていた。
それでもスタッフは自分を深夜に起用し、仕事を与えてくれた。だから、アオイはここまで死なずに生きてこれたのだ。
……スタッフには感謝してもしきれない。
不器用な彼女は毎週放送を続けることで、彼らに感謝をしていた。スタッフの「おはようございます」「お疲れ様でした」の声が橙色なので、きっと伝わっているとアオイは信じていた。
今日も『午前二時の孤独』がはじまる。
今日の一曲はカーペンターズの『雨の日と月曜日は』だった。彼女はオフになったマイクの前で諳んじる。スタッフもその姿にざわついたほどだ。
今週も『街灯』さんのお便りを読み、他のリスナーのメールも読んだ。つつがない一日だったはずだった。
日課の非常口に一人のサラリーマンが立っていて「お疲れ様です」とアオイは声をかけた。
すると男性は彼女を呼び止めたのだ。
「アオイ、さんですか?」
「え……はい、そうですが」
彼女の空気がピリついたのを感じ取ったのか、サラリーマンは慌てて両手をひらひらさせる。
「あ、すみません。俺はここのスタッフではなくて。雨宿りしてたらアオイさんが来て……。声がアオイさんだなって思ったら、思わず……。あ、俺は『午前二時の孤独』にメールさせてもらってる『街灯』です」
男の顔は赤く、表情からは焦りと期待がこもっている。これは下手に刺激せず、あしらうべきだとアオイは判断した。
「……そうなんですか。いつもありがとうございます」
「ああ、でもここ、スタッフさんも使いますよね。俺はここで――」
「待ってください」
なぜ、呼び止めた?
雨がひどく、バケツを引っくり返したかのような降り方だったから? この間の読まなくていいメールのせい? 彼女にもわからなかった。
でも慌てる男の挙動に不審な点はないと直感で思ったのだ。
「傘、あげます」
「そんな! 申し訳ないです」
男は仰け反り、肩に雨がかかる。
「車で来ているのでいいんです。さぁ受け取ってください」
半ば強引に淡いピンクの傘を押し付け、彼女は急いで地下駐車場に逃げていった。
彼女はサラリーマンがピンクの傘を差すのを想像すると、いつもより口角があがる。また『雨の日と月曜日は』を口ずさむと、エンジンをかけてすぐに発車させた。
先週の出会いはなんだったのか。『街灯』さんにも顔があって、声があった。彼も同じ事を思っただろうか。男はオフィス街に溶け込む普通の顔で、可もなく不可もない。ただ、上擦った声は疲れが漏れていた。
そんな風に考えながら、メールを読む。
「『今日はなんだか春めいてましたね。甘い香りが鼻をくすぐり、気分はもう春でした』――確かに、あの花の香りはなんでしょうね。でももうすぐ暖かくなるのは楽しみです」
『街灯』さんの今日のメールは小説めいた言い回しだ。そんなに嬉しかったのかなと顔を思い浮かべる。
紺色のスーツが「わーい」とニコニコスキップなんてしている。手に持っているピンクの傘は彼女があげたものだ。放送中に吹き出してしまって、スタッフに「最近、なんかあった?」と聞かれた。
ここのところ、油断しているなと両手で頬を叩くと、エンディングトークに移る。
「最近は私も浮かれているようで、スタッフさんにも驚かれます。大人も浮かれていいですよね? さて、お送りしました『午前二時の孤独』いかがでしたか。では、また来週お会いしましょう」
さっきのアドリブ、よかったよ。そう言ってもらえてアオイは上機嫌だった。即興の鼻歌を肩に背負って非常口のドアを開ける。
すると、『街灯』の男が彼女のあげた傘を持って立っていた。
「すみません……。でも傘をもらうのは申し訳なくて。乾かして防水スプレー、振っておきました。先週はありがとうございます」
「律儀なんですね。ありがとうございます」
ふと、彼女は考えよりも口が先に動いた。
「……顔、想像と違いましたかね」
男は目を丸くする。唐突すぎる質問に考えが追いついていないようだった。
「いえ。でもなんだか顔があるのが……少し怖かった、です」
アオイは吹き出し、思わず咳込んだ。
「私も。『街灯』さんって存在しているんだなって思いました」
『街灯』もフッと息が漏れ、笑いが溢れた。
「俺、蓮って言います。ハスって書いてレンです」
「私、草かんむりのアオイ。こんな字です」
アオイはスマホを取り出し、検索バーで『葵』の字を見せる。
少し肩が当たってはいたが、二人は夢中で気づかない。
「こういうのは良くないってわかってはいるんですけど」
アオイがメッセージアプリ用のQRコードを表示させる。
レンは口を一文字に結び、言葉を失っている。でも彼女の意図を汲んで、連絡先を自分のスマホに入れ、「こんばんは?」とだけメッセージした。
彼女は家に帰り「こんばんは?」の文字にくすぐられる時間が二十分はあったことは誰にも知られてはいけない。
一日にやり取りするメッセージは五往復もなかった。お互いに昼間は仕事や寝る時間で、割く間もなかったからだ。
それでもわかったことがある。
レンと名乗った男は二年前に離婚していること。三十一歳でアオイの三歳年上だということ。離婚後、眠れない日が続き『午前二時の孤独』を聴くようになり、彼女の声だけが誰かと繋がっている感覚があることだ。
アオイもまた、三年前から自分が変わってしまった感覚を伝えた。恋人とのことは伏せて、以前は昼間にラジオ番組を持っていたことを話した。
レンは彼女にまたあの非常口に行っていいかと聞いたことがある。アオイの返事は「顔を見ながらの声は怖いから」と断った。
彼はそれ以降、聞くことはない。傷つけてしまうのは本意ではない。ただ、リスナーとパーソナリティの壁はまだなんとなくある。三年前のことを詳しく聞く気も、調べる気もない。知ってしまうことでこの関係が崩れないかと肝を冷やしているからだ。
この石橋は脆く、レンの目は塞がれている。叩いてはいけないクラックがどこにあるのかもわからない。手の感触だけで当てなければならない。この緊張感が伝わるだろうか。
離婚したのも、妻とのコミュニケーション不足から来るものだった。わかっているだろう、わかってくれるだろうという慢心と期待が、妻には負担になっていた。
ラジオには相変わらず熱心にメールを送り続けた。他愛のない雑談できそうな内容を送り、それを彼女が読む。
その後で、アオイはメールの内容について軽く触れ、レンも返す。気が向けばスタジオ近くの公園に呼び出し、言葉をかわすこともなく、ベンチに座って冬の風に当たり、時間を共有した。
メッセージでは言葉をかわすのに、対面では言葉を避けた。ただ、四十分だけ冷たい風に二人は晒され、温かい飲み物を一緒に飲むのだった。
「…………」
二人の手は触れ合わない。
「…………」
缶ポタージュをすすり、ため息を漏らす。
スマホも触らず、ただ空を仰ぐ。
こんな期間が数ヶ月続いた。
ある月曜の生放送中。アオイが突然、声を詰まらせる。
曲紹介中もスタッフにしきりに聞く。
「『街灯』さんのメールってまだ来てないんですか」と。
スタッフは「多分、体調悪いとかじゃないですか」と答えても、彼女の顔は曇り空だった。
そんなメッセージは来てない。しかし、自分からメッセージをするにも仕事中なので憚られる。やきもきしている間に、番組は終了してしまった。
「この番組では皆様からのメール、お待ちしております」
感情は出さないように気をつけてはいたが、「メール」のアクセントが強いと指摘を音響監督から受けてしまった。
これではプロ失格だ。でもスマホを見る手が止まらない。画面をスワイプしても一向にメッセージはなかった。
「……誰かが聞いてくれていると思って、ここにいるって思ってた」
アオイは自分の口から零れた言葉にハッとする。誰か、だったはずだ。『街灯』ことレンだけではないはずだった。なのに今では彼のために番組を続けているような気でいたのだ。
非常口には誰もいない。彼女が彼との対面を拒んだからだ。
「いるはず、ないのにね」
自分勝手な期待だ。拒否してたくせに、来てくれなんて都合が良すぎる。
彼女は非常口ではなく、正面玄関から出てあの日のような雨の中を歩く。
車なんてすっぽかしちゃって、傘も差さずに歩いているものだから、周りの目が痛かった。
真夜中なのに若者も多く、始発待ちの人も駅前にはいる。
皮脂の浮いた化粧は雨で取れ、ぐちゃぐちゃになっていた。
改札から出てきた背の高い猫背の男が目に入る。足も最低限にしかあげず、しょぼしょぼと歩く足取り――レンだった。
「――っ、アオイさん?」
「よかった、体調良さそうだね」
彼女の表情が緩む。レンはずぶ濡れのアオイを見て自分の黒い傘を差し出す。
「とりあえず、傘差しましょ。なんでこんなとこに?」
「メールなくてどうしたのかって思ったの」
彼は鞄からフェイスタオルを取り出し、彼女に渡した。
「今日、出張で……」
「タオルありがと」
アオイは濡れた髪と服をさっと拭くと、タオルをレンに返そうとした。
「いいです。顔も拭いてください。汚れとか気にしなくていいですから」
それから一拍。
「電車の中で聴いていました。でもメールする間もなく終わっちゃって。三十分って短いですね」
「なにそれ」
タオルで顔を拭くと、ペールオレンジ色に染まった。アオイは彼の言葉に笑い、タオルで顔を隠す。
「車は?」
「スタジオの地下にある」
「行きましょう」
二人は相合傘して雨の中を歩く。傘はレンが持ち、レンの左肩が大きく濡れる。
「傘、そっちに寄せてもいいよ?」
「これ以上、アオイさんを濡らすわけにはいきませんから」
彼女は彼の好意に甘えることにした。
「乗って」
「でも、シートが」
「いいから」
レンははじめてアオイの車に乗り込む。ローズの香りが彼を包んだ。
「最寄り駅、教えて」
「S駅、です」
車でだいたい十分くらいだろうか。ナビにS駅を入力し、案内を開始する。
「ラジオ、かけるね」
「はい」
スムース・ジャズの調べに無言の二人。レンのタオルは彼女の首にかかっていた。
毎週月曜日の午前三時。
スタジオの隣りにある待合室にレンの姿があった。
「お疲れ様、アオイさん」
「レンさんも月曜日、お疲れ様」
彼女の目が少し赤かった。
「私、前を向こうと思うの」
「俺、アオイさんの全部が好きです」
アオイは口を尖らせる。
「……私が先に言おうと思っていたのに」
「すみません、譲れませんでした」
お互いに顔を見合わせながら、彼らは笑い合っていた。




