見放すのと何が違うんだ?
体罰について、語ろうと思うんだ。
なんだか、誤解があるようだから。
最初からちゃんと説明しようと思う。
体罰、これには、大きな前提があるんだ。
その人を愛していること。
この前提を忘れちゃいけないんだ。
え?体罰する人がその人を愛してるわけないって?
うーん。
やっぱり、馬鹿が増えているみたいだ。
体罰というのは、どのタイミングでされるべきものか、それを一度考えてみてくれ。
生まれて、赤ちゃんとして育っていく。
歩けるようになって、喋れるようになって。
少しずつ、心が形成されていく。
さて、今までに、体罰が必要な場面はあった?
ないよね。当たり前だよ。
ちゃんと説明してあげれば、親が態度で見せることができれば、まっすぐ育っていく。
じゃあ、さらに進めていこう。
小学生になった。
中学生になった。
高校生になった。
さて、体罰が必要な場面はあるかな?
うん、ないね。
真っ直ぐ育っていれば。
そうなんだよ。いらないんだよ。本来は。
もし。もし、間違った道に進んでいたなら、言葉でまず言うべきだろう。
でも、それが届かない相手がいるんだ。
いいかい?体罰って言うのは、言葉が届かなくなってしまった人を、正しい道に戻す、一つの手段なんだ。
無理やり曲げてしまうから、後遺症が残るかもしれない。
でも、そんなものがどうでもよくなるくらい、間違った道に進んじゃいけないんだ。
そして、だいたい。
体罰をしなくちゃいけなくなるのは、親以外だ。
だって、親には、いくらでもやりようがあったんだから。
親が体罰に走った時点で、それはもう体罰ではなくなる。
親は、形成段階から関わる責任と時間がたっぷりあった。
でも、先生は違う。
既に言葉が届かなくなってしまった相手に、どうしようもない。
いいか?
虐待とは、違うんだよ。
体罰は悪いことだという共通認識が広まっているのは、正しい。
だけど、それは通常の話なんだよ。
そもそも、体罰が悪いならどうすべきか、を話さない馬鹿ばっかりだけどね。
それは、見放すのと何が違うんだい?
そいつの人生に、一対一で真っ向からぶつかるんだよ。
最後まで面倒見てやるつもりで、殴るんだ。
理想論を語るだけじゃダメなんだ。
言葉と行動、背中で教育できなかったことが、まず大きな失敗なんだ。
つまり。
教育が既に失敗した後の末期的状況だけ。
そのときだけ、必要になることがある。
そして、その判断が極めて難しく、それが論点になるべきなんだよ。
体罰かそれ以外かを話してる場合じゃないんだよ。
そんな生ぬるい馬鹿みたいな議論してる場合じゃねぇんだよ。
正義もくそもねぇんだよ。
言葉が届かない人間を前にしたとき、大人が一人の人間としてどう命がけで対峙するのか。
その話をしてるんだ。
そんな、階段の一段目の話をしてる訳じゃねぇんだよ。
議論から感情へ話をすり替えやがって。
体罰みたいに、思いテーマを語るなら。
段階も責任も形成も例外も判断も現実も。
全部考えた上でものを言いやがれ。
そういうやつを、偽善者というんだ。
演説にでも見えたなら、君には語る資格がない。
論は立てたのだから。




