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第8話 設計者の名前


黄金色の穂が、風に揺れていた。


秋。ヴァーレンシュタイン領の畑が、見たことのない色に染まっている。小麦の穂が重く垂れ、風が吹くたびにざわざわと波打つ。春に引いた水路から流れ込んだ水が、夏の間ずっとこの土を潤し続けた結果だ。


「奥様。今年の収穫量が出ました」


ヨーゼフが、日に焼けた顔をくしゃっと崩して駆け寄ってきた。手にした紙には、各区画の収穫量が殴り書きされている。


「全区画合計で──昨年の倍です」


倍。


声が出なかった。ヨーゼフの数字を受け取り、自分の手帳の見込み数値と照らし合わせる。見込みよりさらに一割多い。排水路を引いた低地の区画が、想定以上に作付面積を稼いでくれたらしい。


「奥様のおかげです。水路がなかったら、今年もカルシュタット領に笑われとったところだ」


ヨーゼフが深く頭を下げた。その後ろで、若い農夫たちが何人かこちらを見ている。春に測量を手伝ってくれた面々だ。遠くから、ぺこりと頭を下げる影が見えた。


(……よかった)


膝の力が少しだけ抜ける。畑の真ん中で座り込むわけにはいかないので、踏ん張った。


三年かかった。帳簿を立て直して、商会との契約を見直して、灌漑路を引いて。ようやく、この土地が本来の力を出し始めた。


収穫データの紙を胸に抱えた。小麦の匂いが風に乗って鼻をくすぐる。甘くて、少しだけ埃っぽい。収穫の匂いだ。



収穫量の詳細を表にまとめる作業は、三日かかった。


区画ごとの収穫量。水路の効果の分析。来年に向けた改善点。全てを報告書にまとめて──そこで、ペンが止まる。


誰に出すのだろう、この報告書。


ヴィクトルに渡しても読まないのは、もう分かっている。春の灌漑路着工の時も、予算申請の書類を小卓に置いたら一ヶ月以上そのままだった。「好きにしろ」すら言わなかった。何も言わなかった。


報告書を自分の書棚にしまった。記録は残す。将来、誰かがこの灌漑路を運用する時のために。


──その夜。ハインツがお茶を持ってきた。


「奥様。一つ、お耳に入れておくべきことがございます」


盆を置くハインツの手が、いつもより慎重だった。


「何かしら」


「昨夜の王都の秋の夜会で──公爵閣下が、ご挨拶の中でこう仰せだったと」


一瞬、間があった。ハインツの目が僅かに伏せられた。


「『我が領地の収穫量が倍増した。先代からの課題であった灌漑を整備し、南部随一の穀倉地帯としての面目を施せた』と」


……。


「……そう」


「はい」


「『我が領地の』」


「はい」


「『灌漑を整備し』」


「……はい」


我が。


我が、か。


(……まあ、そうよね。あの人の領地だものね。公爵家当主の。私じゃなくて)


春に泥だらけで畑を歩いたのは私だ。水平器と巻き尺で測量したのは私だ。設計図を描いて、着工の指示を出して、水門の手順書を書いたのも。


全部、あの人の手柄になった。


横領。


──いや。横領というのは、相手が「自分のものだ」と認識しているものを奪う行為だ。あの人はそもそも、灌漑路を誰が設計したかなんて知らない。知ろうともしなかった。知らないものを盗むことはできない。


だからこれは横領じゃない。もっとたちが悪い。


無関心。


知りもしないまま、夜会で「我が成果」と言える。その無神経さは、悪意よりよほど厄介だ。


「ハインツさん」


「はい」


「お茶、おいしいわ。ありがとう」


ハインツの眉がほんの少しだけ動いた。心配されている。大丈夫。怒ってはいるけれど、泣くほどじゃない。三年もいれば、このくらいの理不尽は耐性がつく。


(──でもね。ちょっとだけ、いいかしら。心の中だけで)


(あの人が自分で水平器を持ったら、使い方も分からないくせに)


ふう、と息を吐いた。少しすっきりした。心の中の毒は、吐けるうちに吐いておくに限る。


茶杯を口に運んだ。温かい。ハインツのお茶はいつも、ちょうどいい温度だ。



翌朝。机の上に、封書が一通置かれていた。


ヴォルフハイム辺境伯領の紋章。春に取引の提案を送って以来、数回の書簡を交わしていた。穀物の品種、輸送スケジュール、価格条件──事務的なやり取りだけど、返信はいつも早く、内容に無駄がない。


封を切る。


便箋は二枚。一枚目は取引の返答だった。初回納品の品質に満足したこと。次回の発注量を増やしたいこと。輸送路の代替案についての確認。


二枚目。


取引条件の補足が数行。その下に、少し間を空けて──一行だけ、書き足されていた。


『なお、貴領の灌漑路の設計について。春の書簡でご言及いただいた件、今秋の収穫データと照らし合わせ、水路設計の巧みさに感服いたしました。灌漑路の設計、見事です』


──え。


読み返した。もう一度。


灌漑路の設計、見事です。


取引条件の確認書簡の末尾に、この一行を書き足す理由がなんだろう。穀物を買うだけなら、売り手の灌漑路の設計を褒める必要はない。


でも、この人は書いた。


(……見てるんだ、この人)


収穫データの数字の裏にある「水路の設計」に目が届く人。昨夜の夜会で「我が成果」と吹聴したあの人は、灌漑路の存在すら知らなかったのに。


胸の奥が、少しだけ軋んだ。嬉しさなのか、悔しさなのか、よくわからない。たぶん両方だ。顔も知らない北方の辺境伯が、百里以上離れた場所から数字を読んで、水路の設計を褒めてくれている。隣にいる夫は何一つ見ていないのに。


便箋を置いて、窓の外を見た。秋の空が高い。


──ちゃんと見ている人が、いるのだ。どこかに。


それだけで、胸の軋みが少し緩んだ。



便箋を読み返そうとして、一枚目の末尾に気づいた。


見落としていた。取引条件の返答の、最後の一行。他の文面と同じ簡潔な筆致で、しかし内容は取引とは関係がなかった。


『最後に一点、お伺いしたく存じます。灌漑路の設計は、どなたの手によるものでしょうか。設計者のお名前をお教えいただけますか』


設計者のお名前。


便箋を持つ指先が、止まった。


この書簡の宛先は「ヴァーレンシュタイン公爵家」だ。普通に考えれば、設計者は公爵家の誰か──つまり、ヴィクトルか、雇われた技術者と思うだろう。


正直に答えるなら、「私です」と書くことになる。公爵夫人のセラフィーナ・メルヴィスが設計しました、と。


(……書いていいのかしら)


ヴィクトルは「私の名を使うな」と言った。嫁いだ初日に。でもこれは、私の名前を使う話であって、ヴィクトルの名前を使う話じゃない。


いや──そういう問題じゃない。公爵家の対外書簡に「公爵夫人が灌漑路を設計した」と書けば、暗に「公爵当主は関与していない」と伝えることになる。


面倒だ。あの人のせいで、自分の名前を書くかどうかすら迷わなければならない。


(……でも)


嘘は書きたくない。設計者を聞かれて、ヴィクトルの名前を書くのは嘘だ。知らない技術者の名前をでっち上げるのも嘘だ。


答えないという選択肢もある。無視して、取引条件の返答だけ書けばいい。


──でも。


「灌漑路の設計、見事です」と書いてくれた人の質問を、無視したくなかった。


便箋を裏返して、白紙の面にペンを置いた。まだインクは含ませていない。


答えをどう書くか。もう少しだけ、考えたい。


ペンを持ったまま、窓の外に目を向けた。北の空に、薄い雲が流れている。あの向こうに、この書簡を書いた人がいる。筆致は簡潔で、無駄がなくて、でも取引に関係のない一行を書き足すくらいの──何かがある人。


(取引相手としては、申し分ないわね。……それだけよ)


ペン先にインクを含ませた。


まだ書かない。でも、もう少ししたら書く。


──北の辺境伯へ。私の名前を。

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