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第7話 水路を引く


帳簿では、足りない。


黒字にはなった。商会との契約を見直し、無駄な出費を削り、収支は改善した。義母様の薬も確保できた。でも──このままでは、頭打ちになる。


三年目の春。机に広げた過去の収穫記録を見つめながら、ため息がこぼれた。


ヴァーレンシュタイン領は南部随一の穀倉地帯と呼ばれている。土壌は肥沃で、気候も温暖。なのに収穫量が近隣領地の七割しかない。三年間の数字を突き合わせて、ようやく原因が見えた。


水。


灌漑が整備されていない。領地の中央を流れるフィッシュ川から農地までの引水路が、あまりにもお粗末だった。先代の頃は川の増水に頼った天水農業で、水路を引くという発想そのものがなかったらしい。


(……父上なら、真っ先にここを指摘したでしょうね)


メルヴィス伯爵家は山間の小さな領地だった。だからこそ父は、限られた農地の生産性を最大化するために灌漑を学んだ。測量の仕方。水勾配の計算。水門の設計。私が子供の頃、父に連れられて山の水路を歩いたことを覚えている。冷たい水に足を浸して、石壁の苔を剥がしながら、水の流れる音を聞いた。


「水は高きから低きに流れる。この原則だけは、どんな権力者にも曲げられん」


父の声が蘇る。


帳簿を閉じた。代わりに、書庫から引っ張り出してきた領地の地形図を広げる。古い。十年以上前のものだ。等高線が薄れかけていて、所々に虫食いがある。


でも、使える。川の位置と農地の高低差さえ分かれば、水路の設計はできる。


──ただし、地形図だけでは足りない。実際に土を踏まないと。



三日後。私は畑にいた。


「お、奥様? なぜ畑に……」


農地の管理を任されている老農夫のヨーゼフが、鍬を持ったまま目を丸くしている。まあ、そうだろう。公爵夫人が泥だらけの農道を歩いてくるなんて、普通は想像しない。


「測量をさせていただきたいの。少しだけお時間を頂戴」


「そ、測量と申しますと……」


「この農地と川の間の高低差を調べます。灌漑路──水路を引く計画を考えていまして」


ヨーゼフの目が、さらに丸くなった。その後ろで、若い農夫が二人、こちらを遠巻きに見ている。


(……そりゃそうよね。突然「水路を引きます」と言われても)


困る顔をしている。でも、反対はされなかった。ハインツが事前に「奥様のお考えにはご協力を」と伝えてくれていたらしい。あの老執事には感謝しかない。


測量は地味な作業だった。


水平器と巻き尺を使って、川岸から農地の端まで歩く。十歩ごとに杭を打ち、紐を張り、高さの差を記録する。朝の陽射しはまだ弱いけれど、歩き回っていると額に汗が浮く。裾が泥で汚れた。爪の間に土が詰まる。


土。


帳簿の革の匂いとは違う。もっと生々しい、湿った匂い。春の、命が動き始める匂い。


数字を扱うのは得意だ。でも、こうして実際に地面を踏んで初めて分かることがある。紙の上の等高線では見えなかった窪みがある。地図にない小川の痕跡がある。土壌の質が場所によってまるで違う──川に近い方が砂が多く、離れるほど粘土質になる。


(水路はここを通すべきね。砂質の土壌なら掘削が容易で、水の浸透も早い)


手帳に数字を書き込む。杭の番号。標高差。土の性質。距離。


ヨーゼフが、いつの間にか横に来ていた。


「奥様、こちらの区画は毎年春に水が溜まるんです。雪解けの頃にな」


「ここが?」


「ええ。地面が低くなっとるもんで、フィッシュ川の水位が上がるとじわじわ浸かるんです。作物が腐って困っとります」


「……それは逆に、排水路を一本引けば解決するかもしれない。低いということは、水が集まるということだから」


ヨーゼフが首を傾げた。それから、ゆっくりと頷いた。


「なるほど……排水か。考えたこともなかった」


「灌漑と排水は表裏一体なんです。水を引くだけじゃなく、余分な水を逃がす道も作る。両方あって初めて、安定した農地になります」


自分でも驚くほど滑らかに言葉が出た。父の受け売りだ。でも、父の言葉が自分の口から出てくるのは、悪くない気分だった。


午前中いっぱい歩き回って、ようやく主要区画の測量が終わった。手帳は数字で埋まっている。帰り際、ヨーゼフが日に焼けた顔で私を見た。


「奥様」


「はい」


「……来年は水に困らんかもしれん」


短い言葉だった。でも、その声に混じった期待の色を、聞き逃すはずがなかった。



夜。自室の机に地形図と手帳を広げて、設計図を起こし始めた。


フィッシュ川の取水口の位置。主水路の経路。分岐点。各区画への支線水路。排水路。そして、季節ごとに水量を調整するための水門の位置。


測量で得た数字を地形図に落とし込んでいく。勾配を計算し、水路の幅と深さを決める。土壌が砂質の区画は掘削が楽だが、側壁の補強が必要になる。粘土質の区画は逆に掘りにくいが、水漏れしにくい。


蝋燭の灯りの下で、ペン先がさらさらと紙の上を滑る。


設計図が、形になっていく。


頭の中にあった「こうすればいいのに」が、線と数字になって紙の上に現れる。これを領地の農地に重ねれば、水が──命が──隅々まで届く。


(……完成が見えてきた)


膝の上に置いた手が、少しだけ震えた。疲れではない。達成感の、手前にある興奮。


──廊下で靴音がした。


ヴィクトルだ。夜会から帰ってきたのだろう。真夜中の靴音。甘い香水の残り香が、扉の隙間から微かに漂う。


毎晩同じだ。私が設計図を描いている間、あの人は王都の夜会で誰かと杯を傾けている。靴音は私の部屋の前を通り過ぎて、本棟の奥へ消えていく。


立ち止まることもない。


(構わない。私は私の仕事をするだけ)


灯りを傾けて、水門の設計に戻った。春と秋に水量を調整する仕組み。開閉の手順。これは記録に残しておかなければ──私がいなくても運用できるように。


……私がいなくても。


ふと、そんな言葉が浮かんで、自分で首を振った。いなくなる予定なんてない。少なくとも今は。


設計図の端に「水門操作手順書(別紙参照)」と書き添えて、次の区画に取りかかった。



設計図の清書を一区切りつけたところで、机の隅に置いてあった封書を手に取った。


ヴォルフハイム辺境伯領からの農産物取引の打診。去年の夏に届いてから、返信を先延ばしにしていた。義母様の薬のことで手一杯だったし、灌漑路の設計が始まってからは寝る間もなかった。


封を改めて開く。便箋を読み返す。


簡潔な文面。必要なことだけが書かれていて、余計な社交辞令がない。


『ヴァーレンシュタイン公爵家 御中。当領は北方山脈に接し、穀物の自給に制約がございます。貴領の南部産小麦の卸契約について協議の機会を頂戴できれば幸甚に存じます。なお、貴領の農政改革についてもご教示いただければ幸いです。──ヴォルフハイム辺境伯 ライナルト・ヴォルフハイム』


二度読みした。


農政改革についてもご教示いただければ幸い。


穀物の売買だけなら、この一文は要らない。商取引の打診に、農政の話を添える人は珍しい。


(……変わった方ね)


でも、嫌な印象はなかった。むしろ、この人は数字を見ている人だと思った。穀物を買うだけでなく、その穀物がどういう経営の結果として生まれているかに興味がある。


帳簿を読む人間と、読まない人間がいる。この辺境伯は、読む側の人間だ。


──なんとなく、そう思った。根拠は書簡の一文だけ。それだけで判断するのは早計かもしれない。でも、無駄のない文章を書く人は、無駄のない思考をする人だと、父から教わった。


便箋を裏返し、白紙の面にペンを走らせた。


取引条件の提案。公爵領の小麦の品種と収穫量の概要。卸値の目安。輸送路の選択肢。──それから最後に、一行だけ。


『なお、灌漑路の新設により来年度以降の収穫量増加を見込んでおります。詳細が固まりましたらご報告申し上げます』


設計図を傍らに、封書を仕上げて蝋で封をした。


扉を叩く音。ハインツだった。


「奥様。遅くまで灯りが点いておりましたので。お茶をお持ちしました」


「……ありがとう、ハインツさん」


茶杯を受け取る。温かい。ハインツが盆を下ろしながら、机の上の封書に目を留めた。


「ヴォルフハイム辺境伯閣下へのお返事ですか」


「ええ。遅くなってしまったけれど」


「辺境伯閣下は農政に熱心なお方だと聞いております。北方の厳しい土地を独力で治めておいでだとか」


「そうなの?」


「薬草商のディートリッヒ殿から少し。堅実な方だそうですよ」


ハインツはそれだけ言って、一礼して去っていった。


堅実。


この家の当主に、一番足りないものだわ──と思ったけれど、口には出さなかった。


封書を机の隅に立てかける。明日の朝、馬便に託そう。


窓の外は真っ暗だった。北の方角には、星が一つだけ光っている。薬草が育つ山脈の向こうに、堅実な辺境伯がいる。まだ顔も知らない。


でも、文章は知っている。無駄がなくて、必要なことだけが書いてある、あの筆致。


(……悪くない取引相手になるかもしれない)


設計図に目を戻した。水門の細部を仕上げなければ。春のうちに着工できれば、秋の収穫に間に合う。


蝋燭の灯りが揺れた。設計図の線と、北方への封書が、同じ夜風に吹かれていた。

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