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第6話 ありがとう


麻布を解いた瞬間、青い草の匂いが部屋に広がった。


夏の朝だった。窓の外では蝉が鳴き始めている。机の上に置かれた小包から立ち昇る匂いは、花のような甘さではなく、もっと硬質な──高い山の、冷たい空気を閉じ込めたような青さだった。


高山薬草。


三週間前に発注した薬が、ようやく届いた。北方の山脈から馬便を乗り継ぎ、辺境伯領の中継所を経由して、この南部の公爵邸まで。


乾燥させた葉を一枚、指で挟む。薄く、軽い。けれど表面には細かな銀色の毛が残っていて、光に透かすと微かに青白く光る。


──本物だ。


薬草師の手紙に書かれていた特徴と一致する。隣の小袋を開ける。銀蘭の根。こちらは茶色く乾いて、木の皮のような質感。匂いはほとんどない。


品質に問題はなさそうだった。


(……ここからが、本番)


机の上に薬草師の手紙を広げた。もう何十回と読み返して暗記しているけれど、調合に失敗は許されない。配合比を間違えれば薬効がなくなるどころか、体に障る可能性もある。


お義母様の体は、もう失敗を受け止められるほど強くない。



調合は、深夜に行った。


誰にも見られない時間を選んだのは、隠したいからではない。集中が必要だからだ。


──嘘だ。少しだけ、隠したかった。


持参金を使ったことも、薬草を取り寄せたことも、この家の誰にも言っていない。ヴィクトルに言えば「余計なことをするな」と言われる。使用人に言えば噂になる。侍医のヴェルナー先生にだけは、後で調合の内容を伝えるつもりだ。けれど今は、一人でやる。


擂り鉢に高山薬草の葉を入れた。擂り粉木で、ゆっくりと砕く。力を入れすぎると繊維が潰れて成分が変質すると、手紙にあった。優しく。赤子の頬を撫でるくらいの力で。


シャリ、シャリ、と乾いた音が部屋に響く。蝋燭の灯りが揺れるたびに、擂り鉢の中の粉末がきらきら光った。


銀蘭の根を細かく刻む。指先が染料で茶色くなった。爪の間に粉が入り込む。


配合比は、雪花草の葉三に対して銀蘭の根が一。煎じる湯の温度は沸騰の直前。沸かしすぎると薬効が飛ぶ。火を止めるのは、湯の表面に細かい泡が立ち始めた瞬間。


──難しい。


一度目は湯を沸かしすぎた。薬液が濁り、匂いが変わった。これは使えない。


二度目。今度は湯の温度は合っていたが、銀蘭の根を入れるのが早すぎた。溶け残りが底に沈む。


三度目。


蝋燭が一本燃え尽きた。新しい蝋燭に火を移す。窓の外はまだ暗い。


湯を沸かす。目を離さない。泡が……小さく、細かく、湯の底から昇ってくる。今だ。


火を止めた。雪花草の粉末をさらさらと注ぐ。湯が薄い青緑色に染まる。十数えてから、銀蘭の根を加える。匂いが変わった。青い草の匂いに、かすかな甘みが混じる。


(……これだ)


薬草師の手紙に書かれていた「成功時の特徴」──薄い青緑色、草と蜜を混ぜたような匂い、表面に銀色の膜が薄く張る。


全て、一致した。


擂り粉木を置く。両手を膝の上に載せた。指先が震えている。疲労か、安堵か。たぶん両方。


孤独。


この屋敷で薬を煎じる人間が私しかいないことも、材料費が全て私の持参金から出ていることも、誰も知らない。知らなくていい。


大事なのは、お義母様に届くかどうかだけだ。



翌朝から、義母様に薬を届け始めた。


「ヴェルナー先生が新しいお薬を処方してくださったんです」と伝えた。嘘だ。けれど、余計な心配をかけたくなかった。


最初の三日間は変化がなかった。


咳は相変わらず出る。熱も微かに残っている。毎朝、東棟への廊下を歩きながら、胸の奥がぎゅっと掴まれるような不安が離れなかった。配合を間違えたのではないか。薬草の品質が悪かったのではないか。そもそも、この薬草がお義母様の病に合っていないのではないか。


四日目の朝。


義母様の部屋に入った瞬間、空気が違うことに気づいた。


窓が、開いている。


今まで、義母様の部屋の窓は閉め切っていた。風が体に障るからと、ヴェルナー先生が指示していた。それが今日は、薄いカーテン越しに夏の風が吹き込んでいる。


「お義母様……?」


寝台の上で、マルグリット様が上体を起こしていた。


それだけで驚いた。この一ヶ月、起き上がることすらままならなかった人が、背中に枕を当てて、窓の方を向いている。


「セラフィーナ。今日の風、気持ちいいわね」


声が、違う。


かすれが消えている。完全にではないけれど、春先に庭で一緒にお茶を飲んだ頃の──あの声に近い。


「……ええ。今日は、いいお天気ですから」


「あら、あなた泣きそうな顔よ」


「泣いてません」


「嘘おっしゃい」


マルグリット様が笑った。その笑い声に、咳が混じらなかった。


──ああ。


効いている。薬が、効いている。


膝から力が抜けそうになった。寝台の端に腰を下ろす。義母様が手を伸ばして、私の手に触れた。少し前より、温かい。


「ねえ、セラフィーナ」


「はい」


「あの薬、ヴェルナー先生のものじゃないでしょう」


心臓が跳ねた。


「先生はね、先週いらした時に『もう私にできることはない』と仰ったのよ。それなのに急に新しいお薬が出てくるなんて、おかしいでしょう」


「それは……先生が、新しい文献を──」


「セラフィーナ」


名前を呼ばれて、言い訳が止まった。


マルグリット様は私の手を両手で包み込んで、まっすぐ目を見た。痩せた指。けれど、一週間前より確かに力がある。


「ありがとう」


短い言葉だった。たった五文字。


「あなたがいてくれて、本当によかった」


──駄目だ。


目の奥が熱くなる。ぎゅっと唇を噛んだ。泣くところじゃない。薬が効いただけだ。私がしたのは、擂り鉢で粉を挽いて湯を沸かしただけ。


でも。


この屋敷で、私を名前で呼んで、「いてくれてよかった」と言ってくれる人は、この方だけだ。二年間、ずっとこの方だけだった。


「……お義母様こそ。お元気になられて、本当に」


「泣いてるじゃない」


「泣いてません。……目にゴミが入っただけです」


「夏にゴミは飛ばないわよ」


二人で笑った。義母様の笑い声には、まだ少しだけ息の浅さが残っている。完治ではない。薬は継続しなければならない。毎年夏に薬草を確保して、調合して、届け続ける必要がある。


けれど今は、この笑い声だけで十分だった。



夕方。義母様の部屋から本棟へ戻る廊下で、足が止まった。


角の向こうから、声が聞こえた。ヴィクトルの声。従者と話しているらしい。


「母上の具合が良くなったそうだな」


「はい。ここ数日で急に食欲も戻られたと」


「ヴェルナーもまだ捨てたものではないな。新しい薬が効いたのだろう」


──ヴェルナー先生の、おかげ。


(……まあ、そうよね)


知らないのだから、当然だ。私が持参金で薬草を買ったことも、深夜に一人で調合したことも、三度失敗して四度目でようやく成功したことも。この人の視界に、私の行動は映っていない。嫁いだ初日から、ずっと。


構わない。


構わないのだ。お義母様が元気になればそれでいい。誰の手柄かなんて、どうでもいい。


そう思いながら、自室に戻った。机の上には明日の調合のために準備した擂り鉢と、残りの薬草が並んでいる。


(……どうでもよくない、って顔してるわよね、今の私)


擂り粉木を手に取った。少しだけ、力がこもった。



自室の扉を叩く音がした。ハインツだった。


「奥様。少々よろしいでしょうか」


「どうぞ。何かありましたか」


「一件、ご報告を。本日、北方のヴォルフハイム辺境伯領より、農産物の取引打診が参りました」


「農産物の?」


「はい。辺境伯領は北方山脈に接するため穀物の自給が難しく、南部領地との卸契約を模索しているようです。宛先は公爵家当主宛てですが、閣下がお留守でしたので」


「……私が確認しておきましょうか」


「お願いできますと助かります」


ハインツが一礼して去っていく。その背中に、夕暮れの橙色の光が差していた。


ヴォルフハイム辺境伯領。


聞いたことがある名前だ。たしか、薬草を送ってもらう時に中継所を経由した──あの北の領地。


封書を開いた。簡潔な文面。必要なことだけが書かれた、無駄のない筆致。最後に署名がある。


ライナルト・ヴォルフハイム。


(農産物の取引か。……帳簿を見てみないと、条件が合うかどうかはわからないわね)


窓の外に目を向ける。北の方角。山脈の稜線はここからは見えないけれど、あの向こうに薬草が育つ山があり、今日届いた薬草がそこを通ってきた。


擂り鉢の横に、取引打診の封書を並べて置いた。


──明日は、お義母様の薬を調合してから、帳簿を確認しよう。


夏の夜風が、薬草と封書の紙を同時に揺らした。

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