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第5話 匙を投げる


「申し上げにくいのですが──もう、私にできることはございません」


侍医ヴェルナーの声は、いつもと変わらず穏やかだった。穏やかだったから、余計にその言葉の重さが際立った。


義母様の寝室。初夏の朝日が窓から差し込んでいるのに、部屋の空気はどこか冷えている。寝台の上で、マルグリット様は目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返していた。今朝は起き上がれなかった。


「現在処方しているお薬で、咳を抑え、熱を下げることはできます。ですがそれは症状を緩和しているだけで、根本の病巣は──」


「治らない、ということですか」


「……現在の私の知識と、手に入る薬材の範囲では」


侍医は目を伏せた。十年以上この家に通い続けた老医師の、最後の言葉だった。


限界。


春に聞いた時は、まだ「限界が近い」だった。今はもう、「限界を超えた」と言っている。


寝台の傍に膝をつく。マルグリット様の手を取った。薄い。秋に初めて会った時は少し震えていただけの手が、今はこうして包まないと冷たくなるほど痩せてしまった。


「セラフィーナ……そんな顔をしないで」


目を開けた義母様が、かすれた声で笑った。


「ヴェルナー先生に匙を投げられるのは、これで三度目よ。私、意外としぶといの」


「お義母様……」


「大丈夫。まだ死なないわ。あなたの淹れるお茶が飲みたいもの」


笑う。咳き込む。また笑う。


──大丈夫じゃない。大丈夫じゃないことくらい、この人が一番わかっているはずだ。



   ◇



義母様の部屋を出て、まっすぐ本棟へ向かった。


ヴィクトルの執務室。扉を叩く。返事がある前に声をかけた。


「少しだけ、お時間をいただけますか」


扉が開いた。ヴィクトルは外套を肩にかけたところだった。今日も外出か。


「手短に」


「お義母様の──太后様のお加減が悪化しています。侍医のヴェルナー先生が、通常の薬では限界だと」


「知っている。ヴェルナーから報告は受けた」


知っている。


……知っていて、この顔ができるのか。外出の支度をしながら。


「高山薬草という薬材がございます。北方の山脈に自生するもので、太后様の病に効く可能性があると──」


「聞いたことがない」


「薬草商から情報を得ました。流通量は少ないのですが、夏の採取期に発注すれば──」


「いくらだ」


「通常の薬草の約二十倍です」


ヴィクトルの眉がわずかに動いた。金額に反応したのだ。義母の病状ではなく。


「却下だ」


「え……」


「怪しげな薬草に金をかける余裕はない。母のことは侍医に任せている。余計なことをするな」


外套のボタンを留める。長い指先が、一つ、二つ、三つ。動作は優雅だった。目線は窓の外──王都の方角を向いている。


「ヴェルナーが匙を投げたのは初めてではない。前にも同じことがあった。それでも回復した」


「前と今では状況が──」


「くどい。出かける」


それだけ言って、私の横をすり抜けていった。すれ違いざまに香水の匂い。甘くて、重い。


廊下に一人残された。靴音が遠ざかる。振り返りもしない背中を見送る。


(……余計なこと?)


お義母様の命が、余計なこと?


怒りが込み上げた。けれどその怒りは、あの背中にぶつけても跳ね返されるだけだ。一年半、それは嫌というほどわかった。


あの人に期待するのは、もうやめよう。


やめて、自分で動く。



   ◇



自室に戻った。


机の引き出しを開ける。奥にしまってあった小さな革の袋を取り出した。


持参金。


メルヴィス伯爵家から嫁入りの際に持ってきた、私個人の財産。父が「何かあった時のために」と持たせてくれたもの。この一年半、一度も手をつけなかった。公爵家の帳簿を立て直すのに使おうかと思ったこともある。けれどそれは公爵家の金でやるべきだと思って、自分の金には触れなかった。


革袋の口を開ける。中の金貨を数えた。


高山薬草の価格は、通常薬草の二十倍。夏の採取期に発注して、馬便で北方から運んでもらうとなると、輸送費も上乗せされる。


足りる。ぎりぎりだけど。


革袋を握った。手のひらにずっしりとした重さ。


(これは私のお金だ。誰の許可もいらない)


あの人が「余計なこと」と言ったのは、公爵家の金を使うことに対してだ。なら、自分の金を使えばいい。報告する義務もない。


便箋を引き出した。薬草商ディートリッヒへの発注書。金額。配送先。到着希望日。全て書き込む。


署名の手は、震えなかった。


──お義母様。待っていてください。私が何とかします。



   ◇



発注書を出してから五日後の朝。


机の上に、見覚えのある筆跡の封書があった。差出人は──以前問い合わせた、北方の薬草師。薬草商のディートリッヒとは別の人物。こちらは薬の専門家だ。


封を切る。


便箋は三枚。最初の一枚に目を通した瞬間、椅子から腰が浮きかけた。


『メルヴィス伯爵令嬢殿。高山薬草による調合についてお問い合わせいただきありがとうございます。ご記載の症状から推察するに、以下の調合法が有効と考えます──』


調合法。


具体的な配合比。煎じ方。投与の頻度。注意事項。全て、丁寧に書かれていた。


二枚目には、薬草の保存方法。三枚目には、追伸。


『なお、高山薬草の採取期は夏至から八月末までの約二ヶ月間です。本年の便に間に合わせるのであれば、遅くとも六月末までに発注をお済ませください。次便を逃した場合、入手は来年の夏までお待ちいただくことになります』


六月末。


今は六月の初め。あと三週間。


(……間に合う。ぎりぎりだけど、間に合う)


発注書はもう出してある。ディートリッヒからの返事が予定通りに届けば、夏の便に乗せられるはずだ。


便箋を胸に当てた。紙のざらつきが指先に伝わる。


ある。方法がある。


侍医が匙を投げても、夫が却下しても、まだ道は残っている。


調合法を暗記するまで読み込まなければ。配合比を間違えたら意味がない。薬草が届いたら、私がこの手で調合する。


窓の外で、初夏の風が木の葉を揺らしていた。北から吹く風。薬草が育っているはずの、あの山脈の方角から。


──間に合わせる。

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― 新着の感想 ―
 母親に無関心過ぎかよ。
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