第4話 黒字
窓を開けると、春の風が入ってきた。
花の匂いがする。庭の藤棚が咲いたのだ。この屋敷に来た時は枯れ枝ばかりだったのに、半年経てば季節は巡る。あの秋から冬を越えて、もう春。
机の上に、報告書がある。
公爵領の半期収支報告。ベッカー商会との契約改定、農産物の卸値是正、不明瞭な経費の整理。一つずつ手をつけて、一つずつ片づけてきた。その結果が、この数字に出ている。
黒字。
先代の負債を含めてもなお、領地全体の収支が黒字に転じた。六ヶ月前にあの帳簿を開いた夜には、正直ここまで来られるとは思っていなかった。
報告書の最後のページに目を通す。数字の羅列。面白みのない紙面。でも、この一行一行に、早朝から深夜までの毎日が詰まっている。
(……よく、やった)
自分で自分を褒めるのは少し恥ずかしい。けれど今日くらいは許してほしい。
報告書を閉じて、立ち上がった。これを持っていかなければ。この家の当主に。
◇
本棟の廊下を歩くと、奥の扉が開いていた。
ヴィクトルの居室。中から衣擦れの音と、従者の声が聞こえる。
「公爵閣下、こちらの燕尾服でよろしゅうございますか」
「ああ。それと、翡翠のブローチ」
夜会の支度だ。
扉の隙間から、姿見の前に立つ後ろ姿が見えた。仕立ての良い濃紺の燕尾服。磨き上げられた黒い靴。従者が差し出した翡翠のブローチを、長い指が襟元に留める。
社交界のための身支度。この人はこうやって夜ごと王都の夜会に出かけていく。私が帳簿を閉じる頃に出かけて、私が帳簿を開く頃に帰ってくる。半年間、その生活は一度も変わらなかった。
「あの、失礼いたします」
声をかけた。ヴィクトルが姿見越しにこちらを見る。──いや、見たのは一瞬だけだ。視線はすぐにブローチの位置に戻った。
「半期の収支報告をお持ちしました」
「そこに置いておけ」
廊下の小卓を顎で示す。こちらを振り返りもしない。
「卸値の改定が反映されまして、収支が──」
「忙しい。後で読む」
後で読む。
……半年前にもそう言われた気がする。あの時は「好きにしろ」だったか。少しだけ言い方が変わった。でも意味は同じだ。
報告書を小卓に置いた。立てかけると、表紙の「半期収支報告」の文字がこちらを向いた。読まれるのを待っている紙の束。
(読まないだろうな。この人は)
わかっている。わかっていて、それでも持ってきたのは何だったんだろう。義務か。期待か。
……いや、もういい。
ヴィクトルの部屋から、香水の匂いが廊下にまで漂ってきた。甘い、華やかな匂い。帳簿のインクとは正反対の。
彼は今夜も夜会で笑うのだろう。この領地の数字が良くなったのは自分の手腕だと信じて──いや、信じてすらいないか。考えてすらいない。
無関心。
そういえば、あの人が私に関心を向けたのは、嫁いだ初日の「愛するつもりはない」の一言だけだ。あれ以来、叱られたことも、褒められたことも、一度もない。叱責すら贅沢だと思う日が来るとは思わなかった。
(……我ながら、安い望みね)
小卓の報告書に背を向けて、東棟へ歩き出した。
◇
義母様の部屋は、相変わらずやわらかい空気で満ちていた。
今日は天気がいいからと、庭に出た。藤棚の下に椅子を二つ並べて、茶を淹れる。春の陽射しが木漏れ日になって、マルグリット様の銀髪をきらきら照らしている。
「まあ、この紅茶おいしいわ。セラフィーナが淹れてくれるお茶は格別ね」
「茶葉を変えただけですよ。契約の見直しで、良い問屋と繋がりましたから」
「あら、お仕事の成果がお茶にまで」
マルグリット様が目を細めて笑う。この笑顔を見るたびに、胸の奥が温かくなる。
「ねえ、セラフィーナ」
「はい」
「あなた、最近ちゃんと眠れている? いつもお顔が疲れているでしょう」
「……大丈夫です。少し、帳簿が忙しかっただけで」
「帳簿ね。この家の帳簿が壊れていたことくらい、私も知っているのよ」
驚いた。マルグリット様は茶杯を膝の上で包みながら、庭の藤を見上げている。
「病でずっと臥せっていたけれど、耳は達者なの。使用人たちが話しているのを聞いていたわ。この春、屋敷の空気が変わったって。厨房の食材が良くなったって。庭師が久しぶりに苗を注文できたって」
一つずつ、指を折るように数える。
「全部あなたのおかげでしょう」
「そんな……私は、ただ帳簿を──」
「ありがとう、セラフィーナ」
──止まった。
息が。時間が。庭を渡る風が。
ありがとう。
この屋敷で、この言葉を向けてくれるのは、この人だけだ。半年間、誰にも言われなかった二文字。
目頭が熱くなった。いけない。泣くところじゃない。春の庭で、義母と一緒にお茶を飲んでいるだけなのに。
「お義母様……」
「泣かないの。お茶がしょっぱくなるわ」
笑いながら、マルグリット様が手巾を差し出してくれた。
その手巾を受け取ろうとした時──義母様の喉から、小さな咳がこぼれた。
一度。二度。三度目は長かった。笑顔のまま口元を手で押さえて、こらえるように肩を揺らす。
「お義母様」
「大丈夫よ。いつもの──」
四度目。
今度は止まらなかった。茶杯が膝から滑り落ちそうになるのを私が受け止める。背中をさする。薄い。恐ろしいほど薄い背中。秋に初めて会った時より、確実に痩せている。
「……すぐにお部屋に戻りましょう」
「ごめんなさいね。せっかくのお茶だったのに」
「お茶はまた明日も飲めます」
部屋に戻り、寝台に横たわった義母様の額に手を当てる。少し熱い。
(──限界が近い)
侍医のヴェルナーが言っていた言葉が蘇る。「今の薬では限界がございます」。あの時はまだ猶予があると思っていた。でも今日の咳は、半年前とは明らかに違う。
◇
自室に戻ると、机の上に封書が一通置かれていた。
ハインツが届けてくれたのだろう。差出人は──北方の薬草商。秋の終わりに手紙を出して、半年。返事は来ないものだと、半ば諦めていた。
封を切る。指先がわずかに震えた。
便箋は一枚きり。簡潔な筆跡。
『メルヴィス伯爵令嬢殿。お問い合わせの件、当方にて高山薬草の取り扱いがございます。ただし自生地は北方山脈の限られた区域のみ。採取時期は夏の二ヶ月間に限定。流通量は極めて少なく、価格は通常薬草の約二十倍。それでもご所望でしたら、詳細をお知らせいたします。──北方薬草商 ディートリッヒ』
高山薬草。
ある。手に入る可能性がある。
価格は二十倍。流通量は少ない。採取は夏の二ヶ月間だけ。条件は厳しい。でも──ゼロじゃない。
便箋を机に置いた。窓の外では、春の夕暮れが空を薄い橙色に染めている。
返事を書かなければ。今すぐ。夏まで、あと三ヶ月しかない。
ペンを取った。宛名は北方。
──お義母様。もう少しだけ、待っていてください。




