第3話 伯爵家のお嬢様にできること
一週間、ほとんど眠れなかった。
嘘だ。正確には、眠る時間が惜しかった。近隣三領地の穀物市場に出向き、卸値の相場を直に確かめた。書庫に籠もって契約法の条文を写し取った。ハインツがくれた契約書の写しは、もう暗記できるくらい読み込んだ。
今朝。机の上に並べた資料の束を見下ろす。
──足りているか。
いや、足りているかどうかじゃない。これで勝てるか、だ。
◇
応接間に、ベッカー商会の主人がやって来たのは昼前だった。
前と同じ椅子に、前と同じ余裕の顔で座っている。金の懐中時計を弄ぶ仕草も同じ。ぱちん、ぱちんと蓋を開け閉めする音が、やけに耳につく。
「それで、本日は何をお見せくださるので?」
笑っている。一週間前に「お嬢様に何ができる」と言い放った、あの目のまま。
「お時間をいただき、ありがとうございます。早速ですが──」
資料の束を机に置いた。
「まず、こちらが現行契約の卸値と、近隣三領地の平均卸値の比較表です」
商会主の目が、紙面に落ちた。
「ヴァーレンシュタイン領の穀物卸値は、リンデン領と比較して二割八分安。カルシュタット領と比較して三割二分安。ヘルツフェルト領と比較して二割五分安」
数字を読み上げる。一つずつ、指で表の行を辿りながら。
「これは十二年前の契約締結時の相場差ではありません。現在の市場価格との乖離です」
懐中時計の音が止まった。
「……まあ、お嬢さん。相場というのは変動するもので──」
「ええ。ですからこちらに、過去十年分の王都穀物市場の価格推移をお持ちしました」
二枚目の資料を重ねる。
「相場は十年で約一割上昇しています。にもかかわらず、ヴァーレンシュタイン領の卸値は据え置き。つまり実質的な損失は年を追うごとに拡大しています」
商会主の額に、うっすら汗が浮いた。指先が懐中時計の鎖を無意識に弄んでいる。さっきまでの余裕はどこへ行ったのか。
「し、しかしですな。これは先代公爵閣下との取り決めでして。信義の問題と申しますか──」
「信義。なるほど」
私は三枚目の紙を出した。
「では、こちらをご覧ください。貴商会がカルシュタット伯爵家と結んでいる穀物卸契約の概要です。契約期間は五年更新。卸値は市場連動型。──先代との信義は、他家には適用されていないようですね」
沈黙。
商会主の喉仏が、一度上下した。
(……やっぱり。この人は最初から、この契約が不当だと分かっていた)
分かっていて、黙って利益を享受していただけだ。先代公爵の甘さに漬け込んで、十二年間。
「ベッカー殿。私は喧嘩をしに来たわけではございません」
声を落とす。穏やかに。でも、芯は抜かない。
「この契約を適正な条件に改定していただきたい。それだけです。もし改定にご同意いただけない場合は──」
四枚目。契約法第四十七条の写し。
「不当条項の是正申し立てを、王立監査院に提出いたします。同条では、市場価格から三割以上の乖離が五年以上継続している場合、一方的な改定請求権が認められております」
商会主の顔から、完全に血の気が引いた。
王立監査院。その名前が持つ重みを、この人は私よりよく知っているだろう。監査が入れば、帳簿に載っていない金の流れだって洗い出される。
「……お嬢さん」
声が変わった。媚びるような、探るような目。
「いや、失礼。──メルヴィス伯爵令嬢殿」
呼び方まで変わった。
「仰る通り、条件の見直しは、我々としても前向きに検討すべき時期かと存じます」
掌を返した。あっさりと。商人というのは、こういうものなのだろうか。いや──計算が速いのだ。損得の天秤が傾いた瞬間に、立ち位置を変える。
それから半刻ほど、具体的な条件の詰めに入った。卸値の改定幅。契約期間の短縮。市場連動条項の追加。
私が一つ条件を出すたびに、商会主は眉をひそめ、渋り、けれど最後には頷いた。数字が全てを語っていたから。
そして──最後に、思いもよらない言葉が出た。
「一つ、お願いがございます」
商会主が姿勢を正した。
「この新契約の名義を、ヴァーレンシュタイン公爵家ではなく、メルヴィス伯爵令嬢殿の個人名義にさせていただきたい」
「……個人名義、ですか」
「左様で。今後の取引においては、あなた様のご判断で物事が進む方が、我々としても安心でございます」
個人名義。
それはつまり、この商会が信用しているのは公爵家ではなく私だということ。
(……いいの? それで本当に?)
一瞬だけ迷った。ヴィクトルの名前を使うなと言われている。でも、公爵家の取引を個人名義にするのは──。
いや。
好きにしろと言ったのは、あの人だ。
「承知いたしました。契約書を作成しましょう」
ペンを取った。手は、もう震えていなかった。
◇
応接間を出ると、廊下にハインツが立っていた。
盆を持っているわけでもなく、ただ立っている。……待っていたのだろうか。
「ハインツさん。契約の改定が成立しました」
「……存じております」
「え?」
「壁が薄うございますので」
聞こえていたのか。少しだけ恥ずかしい。
「お見事でございました」
短い一言。抑揚のない声。けれど、ハインツの目尻が──ほんの少しだけ、下がった。
(ああ、この人は笑っているんだ)
長年この家を支えてきた人の、精一杯の表情の変化。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ありがとうございます。……まだ、始まったばかりですけれど」
「ええ。ですから、お茶をお持ちいたします。奥様」
奥様。
お嬢様でも、伯爵令嬢でもなく。
◇
夕暮れ。東棟の義母様の部屋へ向かった。
手には、庭で摘んだ秋の花を数本。報告に行くわけではない。ただ、顔が見たかった。
「まあ、きれいね。この紫の花、なんていうの?」
「リンドウです。この季節にしか咲かないんですよ」
マルグリット様は花瓶に花を生けながら、嬉しそうに目を細めた。その手が少し震えていることに、私は気づいていた。
「最近、よく眠れているの?」
「ええ。……少し、咳が増えましたけれど」
少し、ではなかった。花を生けている間にも二度、短い咳が漏れた。手巾で口元を押さえる仕草が、一週間前より手慣れている。慣れてはいけない仕草のはずなのに。
「お義母様。侍医の先生は、なんと?」
「いつも通りよ。『安静に』って。あの先生、もう十年もそればかり」
苦笑する。けれどその声が、少しかすれていた。
部屋を出る際、廊下で侍医のヴェルナーとすれ違った。白髪の老医師は、私を見て少し立ち止まった。
「奥様。太后様のお加減ですが──」
「はい」
「正直に申し上げますと、今の薬では限界がございます。症状を抑えるのがやっとで、根本的な治療には……」
言い淀む。
「もし何か──別の薬草なり、手立てなりがあるのでしたら、お早めに」
侍医の背中が廊下の奥に消えていく。
薬草。
帳簿を調べている時に、一つだけ目にした記述がある。北方の高山地帯にのみ自生する、特殊な薬草。希少で、流通量は極めて少ない。けれど──。
自室に戻り、机に向かった。契約書の束の横に、白い便箋を一枚引き出す。
まだ伝手はない。でも、探す方法ならある。
ペン先にインクを含ませた。宛名は、北方の薬草商。
──父が言っていた。「金の流れを辿れば、人に辿り着く」と。
薬草の流れも、きっと同じだ。




