第2話 帳簿は嘘をつかない
インクの匂いが指先に染みついている。
気がつけば夜が明けていた。窓から差し込む朝の光が、机の上に広げた帳簿の列を白く照らしている。蝋燭はとうに燃え尽きていた。
昨晩からずっと、数字を追い続けていた。
◇
公爵家の過去五年分の帳簿。その全てに目を通すのに、一晩では足りなかった。
だが、輪郭は見えた。
この家の病巣は、先代公爵──つまり義父の代から続いている。夜会の装飾費が領地収入の二割を超えた年がある。王都の邸宅の改装に、農地三区画分の収益が消えた年がある。
そして何より。
商会との取引契約が、あまりにも不自然だった。
「ベッカー商会」。公爵領の穀物を一手に卸す王都の大手商会。この商会との契約が、十二年前から更新されていない。いや、正確に言えば──更新する必要がなかった。なぜなら、先代が結んだ契約が「三十年の長期固定」だったからだ。
卸値を指で辿る。相場の三割安。
三割。
(十二年間、毎年この差額を垂れ流していたということ?)
思わず帳簿の端を強く掴んでしまった。紙がしわになる。慌てて手を離す。帳簿に罪はない。
もう一つ。ベッカー商会への支払い項目に「仲介手数料」という名目が毎年計上されている。金額は年によって異なるが、内訳の記載がない。何の仲介なのか。どこへ流れているのか。
帳簿は嘘をつかない。ただし、書かれていないことについては沈黙する。
ここに書かれていない金の流れがある。それだけは確かだった。
◇
午後。意を決して、本棟のヴィクトルの執務室を訪ねた。
扉を叩くと、短い間があって「入れ」と声がした。
執務室は広かった。けれど机の上は驚くほど片づいている。書類が少ない。仕事をしていないのか、それとも仕事がないのか。
ヴィクトルは窓際の椅子に腰かけたまま、こちらを見た。正確には、こちらの方向に目を向けた。焦点が合っていない。社交用の、何も映さない目。
「帳簿の件で、ご報告がございます」
「帳簿?」
「ベッカー商会との穀物卸契約です。先代が結ばれた三十年の長期固定契約ですが、卸値が相場の三割安で──」
「ああ、それね」
遮られた。ヴィクトルは窓の外に視線を戻す。長い指が肘掛けの上で組み替えられた。それだけの動作。
「先代からの契約だ。変える理由がない」
「理由はございます。年間の損失額を試算いたしましたが──」
「好きにしろ」
同じ言葉。昨日の夜と、まったく同じ。
「商会との交渉は夫人の仕事ではないが、そこまで言うなら勝手にやればいい。ただし、私の名を使うな。面倒事は持ち込むな」
帳簿を、一度も見なかった。
私が差し出した紙束を、ちらりとも。
「……承知いたしました」
一礼して、執務室を出た。廊下に出ると、自分の足音だけが石の壁に反射する。
無関心。
怒りでも軽蔑でもない。私という存在が、この人の視界に入っていない。昨日、「お互い様ですわね」と返した時に一瞬だけ動いた目が、今日はもう何も映さなくなっている。
(いいわ。好きにしろと言ったのはあなたですから)
二度目。これで二度目だ。
私は、帳簿を胸に抱え直した。
◇
台所棟への渡り廊下で、ハインツと出くわした。
老執事は盆を手に、義母様の部屋へ向かうところらしかった。
「ハインツさん」
「奥様。何か御用でしょうか」
丁寧な口調。けれど目の奥に、少しだけ警戒の色がある。昨日来たばかりの嫁が何を言い出すのか、という顔だ。当然だろう。
「ベッカー商会のことを、お聞きしてもよろしいですか」
ハインツの表情がわずかに強張った。
「……どのようなことを」
「先代のお父様が契約を結ばれた経緯です。帳簿を拝見しましたが、条件が随分と一方的でした。何かご事情があったのではないかと」
沈黙。盆の上の茶器が、かすかに音を立てた。ハインツの手が震えたのだ。
「……奥様は、帳簿をお読みになれるのですか」
「父に仕込まれました」
ハインツが私の顔をまっすぐ見た。昨日の出迎えの時とは、明らかに目の色が違う。
「先代は……晩年、ご判断が鈍ることがございました。ベッカー商会の先代主人と旧知の仲でいらして、その縁で一括契約を」
「見直しの話は出なかったのですか」
「一度だけ。若旦那様──現公爵閣下が家督をお継ぎになった折に、私から進言いたしました」
「それで?」
「『面倒だ』と」
……ああ。
ハインツは目を伏せた。長い睫毛に白いものが混じっている。この人はこの家をずっと見てきたのだ。見てきて、何も変えられなかった。
「ハインツさん。私に、その商会との契約書の写しをいただけますか」
「……よろしいのですか。公爵閣下は」
「好きにしろと仰いました」
ハインツの眉がわずかに上がった。それから──本当にわずかだけれど──口元が緩んだ。
「かしこまりました。書庫から探して参ります」
◇
三日後。
ベッカー商会の主人に面会を申し入れた。
公爵家の名ではなく、「ヴァーレンシュタイン公爵夫人セラフィーナ」として。ヴィクトルの名は使うなと言われている。だから使わない。
返事は翌日届いた。応接間に通された商会主は、恰幅のいい中年の男だった。脂ぎった額。金の懐中時計を指先で弄ぶ仕草。儲かっている人間の匂いがする。
「これはこれは、新しい公爵夫人。お初にお目にかかります」
愛想のいい声。けれど目が笑っていない。値踏みしている。
「早速ですが、穀物の卸契約についてお話がございます」
「おや、帳簿のことですかな。奥方様がそのようなことに興味をお持ちとは」
「興味ではなく、職務です」
商会主の眉が上がった。一瞬、目が冷えた。
「失礼ながら──」
懐中時計の蓋を閉じる。ぱちん、と小さな音。
「──メルヴィス伯爵家のお嬢様に、何ができるとお思いで?」
お嬢様。夫人ではなく、お嬢様。わざとだ。格を落として呼んでいる。
隣の領地の農産物市場価格。王都の穀物相場の過去五年の推移。ベッカー商会が他家と結んでいる契約の条件相場。ハインツがくれた契約書の写しに添えられていた、先代が署名した追加条項。
全部、頭に入っている。
「お嬢様に何ができるか、ですか」
私は帳簿を机の上に置いた。指先で、付箋を貼った頁を開く。
「──それは、次にお会いした時にお見せいたします」
商会主の表情が変わった。何か言いかけたが、私は立ち上がって一礼した。今日は顔合わせだけでいい。手札を見せるのは、全て揃えてからだ。
(見ていてくださいませ。お嬢様が何をするのか)
応接間を出る。廊下に、午後の陽が差していた。
自室に戻ったら、まず近隣三領地の市場価格を調べなければ。それから、契約法の条文を確認する。三十年契約の途中改定の要件。不当条項の是正手続き。
やることなら、いくらでもある。
帳簿を抱え直した腕に、少しだけ力がこもった。




