第12話 左様ですか
玄関に、見知らぬ女の靴が並んでいた。
白い革に金の留め具。華奢な形。踵が高い。この屋敷の石畳を歩くにはまるで向いていない、夜会のための靴。
応接間の扉が開いていた。
中に、二つの影がある。一つはヴィクトル。もう一つは──蜂蜜色の巻き髪。翡翠の瞳。小さな唇が弧を描いて微笑んでいる。社交界で「小さな宝石」と呼ばれる顔を、私は初めて見た。
「紹介する」
ヴィクトルが言った。私の方を見ないまま。窓際に寄りかかるいつもの姿勢。いつもの角度。
「リゼット・フォンターナ。今日から、この屋敷で暮らす」
リゼット嬢──フォンターナ男爵令嬢が、にこりと笑った。完璧な笑顔だった。唇の形も、睫毛の角度も、首を傾ける方向まで計算されている。ただ目の奥だけが、品定めをするようにこちらを見ていた。
「はじめまして、公爵夫人。お噂はかねがね」
甘い声。甘い香水。帳簿のインクとは正反対の匂い。
──ああ。この人が。
宝飾品。衣装。ヘルマン宝飾店。家政費の三割を飲み込んだ名前。ハインツが「ある女性」と言い淀んだ名前。
全部、繋がった。
「……左様ですか」
自分の声が聞こえた。平坦だった。怒りも悲しみも混じっていない、ただの確認。
ヴィクトルの眉がわずかに動いた。もしかしたら、泣くか怒るかを期待していたのかもしれない。妻として当然の反応を。
けれど私は、どちらもしなかった。
五年間、この人に何を言っても届かなかった。「帳簿の収支が改善しました」も、「灌漑路が完成しました」も、「義母様の薬が効きました」も。何一つ。
だから「左様ですか」以外に、もう言葉がなかった。
(五年間、私は何を守っていたのだろう)
一礼して、応接間を出た。背中に、リゼット嬢の甘い笑い声が聞こえた。
◇
自室。
扉を閉めた。鍵をかけた。壁に額をつける。石の壁が冷たい。その冷たさが、ほんの少しだけ頭を冷やしてくれた。
──泣かない。
泣いたところで何も変わらない。この屋敷に私の居場所がなかったことは、五年前から分かっていた。嫁いだ初日に「愛するつもりはない」と告げた人が、五年目に愛人を連れてくる。筋は通っている。
(むしろ、よく五年も持った方かもしれない)
机に向かった。引き出しの奥に、束ねた便箋がある。
三年分の書簡。ヴォルフハイム辺境伯領の紋章が押された封書を、私は日付順に並べて保管していた。穀物取引の打診から始まって、灌漑路の設計図の話、技術的な五つの質問、薬草園の提案、霜花草の見本、北方の春の描写──。
一枚ずつ、手繰った。
無駄のない文面。必要なことだけが並ぶ筆致。そしてその末尾に、いつも一行だけ──取引とは関係のない、私信。
「灌漑路の設計、見事です」
「設計者のお名前をお教えいただけますか」
「貴女の言葉で」
「春の雪解けの頃、直接お会いしてお話しできれば幸いです」
一行、一行。三年かけて積み上げられた言葉たち。
この人は見ていた。帳簿の数字の裏にいる設計者を。灌漑路を引いた人間の名前を。薬草園の可能性を。私という人間を。
百里以上離れた場所から。書簡の数字だけで。
──隣にいた人は、何も見なかったのに。
便箋を束に戻した。新しい紙を一枚、引き出す。
ペンを取る。インクを含ませる。宛名を書く。
『ヴォルフハイム辺境伯閣下』
一行空けて。
『突然のお願いで恐縮ですが、お伺いしたいことがございます。──受け入れ先は、ありますか』
それだけ書いて、封をした。
文面の説明は何も書かなかった。何があったのかも、なぜ尋ねるのかも。
この方は、数字を読む人だ。必要な情報が書かれていなくても、行間を読む人だ。
──届け。北方へ。
◇
翌朝から、書斎に籠もった。
引き継ぎ書を作る。
五年分の、すべてを。
帳簿の読み方。各勘定科目の構造と注意点。ベッカー商会との契約書の所在と更新条件。穀物の卸先一覧。取引価格の改定履歴。季節ごとの発注スケジュール。
灌漑路の運用マニュアル。水門の開閉手順。春の雪解け時の水量調整。秋の落水時期の判断基準。排水路の点検項目。
義母様の薬。調合比率。雪花草と銀蘭の根と霜花草の配合。煎じ方。投与の頻度。薬草の発注先。ディートリッヒの連絡先。保存条件。
使用人の配置。各部門の担当者と特性。給与体系。季節ごとの業務の流れ。
全部、書いた。一つも隠さなかった。
二日間、ほとんど眠らなかった。蝋燭を何本燃やしたか覚えていない。ペンを持つ指にインクの染みがこびりついて、もう取れなくなっていた。
最後のページを書き終えた時、窓の外が白み始めていた。
ペンを置く。インク壺の蓋を閉める。
引き継ぎ書の最終頁に、一行だけ書き添えた。
『五年間のすべてをここに記しました。読んでくださるのなら、きっと間に合います。──ただし、読んでくださるのなら。』
(……読まないだろうな)
分かっている。あの人は帳簿を一度も開かなかった。灌漑路の設計図を一度も見なかった。この引き継ぎ書も、きっと開かれない。
でも、書いた。
恨みではない。復讐でもない。私がこの家でやったことの記録を、この家に残す。それだけだ。
引き継ぎ書を書斎の机の中央に置いた。一番目につく場所に。
◇
三日目の朝。
ハインツが一通の封書を持ってきた。
「奥様。北方より速達で」
速達。
手紙を出してから三日。北方との通常の便は片道七日かかる。速達は倍の料金を払って中継所で馬を替える急便だ。こんな速さで返事が来たことは、三年間で一度もなかった。
封を切った。
便箋は一枚。白い紙の中央に、一行だけ。
あの簡潔な筆致で。あの無駄のない字で。
『いつでも。』
──たった四文字だった。
条件も。理由の確認も。何があったのかという質問も。一切なかった。
ただ「いつでも」と。
便箋を持つ手が震えた。
三年間、この方は書簡の末尾に一行だけ私信を添え続けてくれた。設計を褒め、名前を尋ね、感想を求め、春の景色を描いてくれた。
その三年分の言葉が──最後にこの四文字に辿り着いた。
いつでも。
(……ああ)
泣かないと決めたのに、視界が滲んだ。便箋を膝の上に置いて、両手で顔を覆った。
泣いたのは、一分だけにした。それ以上は贅沢だ。やることが残っている。
◇
出立の朝。
夜明け前に起きた。荷は最小限にした。着替えが二着。父にもらった水平器。それから──北方からの書簡の束。
持参金の残りは、引き出しに置いていく。返却の請求はしない。あの家政費の穴を埋めるのに、使えるだろうから。
(……嘘。本当は、もうこの家のお金のことを考えたくないだけ)
部屋を出た。
まだ薄暗い廊下を歩く。本棟を通り過ぎ、東棟へ。
義母様の部屋の前で、足が止まった。
扉の向こうから、静かな寝息が聞こえる。昨夜の薬が効いて、穏やかに眠れているのだろう。
扉を開ける勇気は──なかった。開けたら、もう行けなくなる。
代わりに、ドアノブに小さな袋をかけた。中には小瓶が並んでいる。三ヶ月分の薬。昨夜のうちに調合した。眠る時間を削って、一瓶ずつ丁寧に。配合比を間違えないように。この手が最後にこの屋敷で作ったもの。
袋の間に、手紙を一通挟んだ。
『お義母様。五年間、ありがとうございました。お薬は三ヶ月分をお作りしてあります。調合の方法は書斎の引き継ぎ書に記しました。どうかお体をお大事になさってください。──セラフィーナ』
ドアノブに触れた指先が、離れない。
(もう少しだけ。もう少しだけ、ここにいたら──)
駄目だ。
指を離した。踵を返す。
廊下の窓から、朝焼けが差し込み始めていた。義母様の部屋の窓も、きっと同じ色に染まっている。
──裏口に、馬車が一台。ハインツが手配してくれていた。
老執事は門の傍に立っていた。背筋がまっすぐ伸びている。早朝だというのに、正装だった。
「ハインツさん」
「奥様」
一礼。深く、長い一礼だった。顔を上げたハインツの目が──少しだけ赤かった。
「五年間、お仕えできて光栄でございました」
「……私こそ。ハインツさんがいなかったら、何もできなかったわ」
「そんなことは、ございません」
短い沈黙。朝の風が、二人の間を吹き抜けた。
「ご武運を」
ハインツが、もう一度頭を下げた。
馬車に乗った。扉が閉まる。御者が手綱を取る。
振り返らなかった。
振り返ったら、義母様の窓が見えてしまうから。見えたら、降りてしまうから。
馬車が動き出す。石畳の上を車輪が転がる音。門を抜ける。並木道に出る。
五年間暮らした屋敷が、背中の向こうで小さくなっていく──はずだ。見ていないから、わからない。
膝の上に、ライナルトの書簡の束がある。一番上に、あの一枚。四文字の便箋。
いつでも。
それだけを握りしめて、私は北へ向かった。
公爵邸の廊下で、ヴィクトルの声がした。
まだ朝食前だった。従者に外套を持たせながら、こう言ったという。
「たかが帳簿をつけていた程度の女だ。代わりなど、いくらでもいる」
その言葉が嘘だったと気づく頃には、もう手遅れだ。




