第1話 愛するつもりはない
「愛するつもりはない」
それが、私の結婚生活の最初の言葉だった。
◇
秋の終わりだった。
メルヴィス伯爵家の馬車が、ヴァーレンシュタイン公爵邸の門をくぐったのは、空が薄い灰色に沈みかけた午後のことだ。
窓の外を流れる並木はもう葉を落としている。その枝の合間に、公爵邸の尖塔が見えた。王都で三番目に古い家柄。領地は南部随一の穀倉地帯。名門中の名門。
そこに嫁ぐのが、十八歳の私。メルヴィス伯爵家の長女、セラフィーナ。
(……大丈夫。やれることをやるだけ)
膝の上で組んだ指先が冷たい。深呼吸をひとつ。馬車が止まった。
御者が扉を開けると、石畳の匂いと冷えた風が頬に触れた。
正面の大扉が開き、老いた執事が一礼する。その奥に──応接間へと続く長い廊下が、薄暗く伸びていた。
◇
応接間は広かった。
暖炉には火が入っている。けれど、部屋の空気はどこか冷えたままだった。
椅子にかけていた男が立ち上がる。
ヴィクトル・ヴァーレンシュタイン公爵。二十一歳。私の──今日から、夫となる人。
整った顔だった。切れ長の目、通った鼻筋、社交界で噂になるのも頷ける造作。ただ、その目に温度がない。私を見ているようで、何も見ていない。窓の外を眺めるのと同じ視線。
「初めまして、公爵閣下。メルヴィス伯爵家長女、セラフィーナと申します。本日より──」
「形式はいい」
遮られた。
ヴィクトルは窓際に寄りかかったまま、こちらを一瞥する。顎を少しだけ上げる癖がある人だった。見下ろしているのではなく、最初からそういう角度でしか人を見ない。
「愛するつもりはない。政略結婚だ。父上同士の取り決めに従っただけの話で、君に何かを期待はしていない」
一語一語、丁寧に突き放すような口調。
嘘はないのだろう。知っていた。この婚姻が両家の利害で決まったものだということくらい、馬車に乗る前から承知している。
でも。
面と向かって言われると、胸の奥が少しだけ軋む。少しだけ。
「……では、お互い様ですわね」
ヴィクトルの目が、初めてわずかに動いた。
「私もあなたを愛するために参ったわけではございません。ですが、嫁いだ以上はこの家のためにできることをさせていただきます。それだけのことです」
沈黙。
暖炉の薪が爆ぜる小さな音だけが、広い応接間に落ちた。
「……好きにしろ」
それだけ言って、ヴィクトルは部屋を出ていった。長い脚。靴音が廊下に遠ざかる。振り返りもしない。
(好きにしろ、か)
唇の端が少しだけ持ち上がりそうになるのを堪えた。
──好きにさせていただきます。
◇
応接間を出ると、老執事のハインツが廊下で待っていた。
「奥様、太后様がお会いになりたいと仰せです」
太后様。義母──マルグリット・ヴァーレンシュタイン。先代公爵の未亡人で、現在は公爵邸の東棟で療養していると聞いている。
案内された部屋は、応接間とはまるで違っていた。
小さい。けれど、窓辺に花が飾られ、棚には丁寧に並べられた茶器があり、空気がやわらかい。暖炉の火が、ここではきちんと部屋を温めていた。
寝台の傍らに、細い女性が腰かけている。銀色がかった髪を緩く結い、頬はやせていたが、目元にはやさしい皺が刻まれていた。
「あなたがセラフィーナね」
声も、やわらかかった。
「はい。本日より、お世話になります」
「まあ、堅いのね。もっと楽にして頂戴」
マルグリット様は微笑んで、私の手をそっと取った。痩せた指。少し震えている。けれどその掌だけが、この屋敷で初めて温かかった。
「寂しい屋敷でしょう。息子は不器用な子だから、嫌な思いをさせたかもしれないわね」
「いえ、そのようなことは」
「いいのよ。……あの子の言いそうなことは、だいたい想像がつくもの」
少し困ったように笑う。その拍子に、小さな咳がこぼれた。一度、二度。三度目は少し長く、マルグリット様は口元に手巾を当てた。
「お加減が……」
「大丈夫よ、いつものこと」
手巾を下ろす。笑顔に戻る。でも、その布地に薄く赤いものが滲んでいたことを、私は見逃さなかった。
「セラフィーナ。寂しい屋敷だけれど、どうか居心地よく過ごしてね」
……この方だけだ。
この広い屋敷で、私の名前を呼んでくれたのは。
◇
夜。
あてがわれた自室は西棟の奥にある。主人の居室がある本棟からは廊下ひとつ分離れていた。距離を置かれている、ということだろう。構わない。
荷を解く前に、まず一つだけやることがある。
机の上に燭台を置き、書棚から帳簿を引き出した。公爵家の過去三年分の収支記録。嫁ぐ前に父から言われたことがある。
「家を知りたければ、まず帳簿を読め」
革表紙を開く。指先でページを繰る。
……数字が、ひどかった。
商会への支払いが相場の二割増し。穀物の卸値は周辺領地より三割も低い。出費の項目には用途不明の金額がいくつも並び、収入の柱であるはずの農産物取引は、明らかに不利な長期契約で縛られている。
先代の放漫か。いや、それだけではない。
(この契約を放置し続けた、今の当主の無関心だ)
帳簿を閉じる。指先に、古い革の匂いが残った。
窓の外は真っ暗だった。星も見えない。遠くで風が鳴っている。
──好きにしろ、と言ったのはあなたですからね。
燭台の灯りの中で、私は二冊目の帳簿を開いた。




