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猫神は見守る

梅雨明けの風と溜息

作者: 翡翠
掲載日:2026/01/06


 私は猫である。


 体色は黒で、名前はクロベエや黒饅頭やお萩など色々あるが私が本名を乗る事はない。

 主以外に付けられたその名前が気に入らないのもあるが、私は猫だ。

 猫は喋らない、それが現代の常識である。

 だが私は油を舐め続けた猫であり、生まれは江戸時代であり徳川綱吉を見たことがある立派な化け猫だ。

 化け猫だが心を表現する方法を獲得しても、人外は相変わらず肩身の狭い思いをしている。

 だが私は喋らないだけで、思考と心があるのだ。

 それは他の動物もそうだし、そこにあるお地蔵様でさえ同じなのだ。

 化け猫の私が言うのだから間違いない、万物には魂が宿っているのだ。

 だから、文句の捌け口に使う人間達には辟易してしまう。

 話し掛けられても、返事は出来ないし返さない。

 私に何かを求めるのは、諦めてほしい。

 そう、お願いだから。

「ねぇ~君、聞いてよ~!」

 こんな住宅街、しかも深夜に大きな声で私に話しかけないでほしい。

 本当に、どっかに行ってほしい。

 せっかく、初夏の空気を堪能していたところなのにこんな喧しい女に絡まれたくないのだ。

(本当に鬱陶しぃ、何なのだ?)

 我慢ならず、横目で睨む。

 見た目は二十代で厚化粧と酒と私の座っている隣から漂ってくる胃液の臭いのせいで、鼻がもげそうだ。

「ねぇ! 聞いている?」

 聞いてはいる、喋らないだけだ。

 真横から大声を出されて耳も痛いし、これ以上この女が興奮する前にさっさと移動しよう。

「君が聞いてくれるまで、ずっと話し掛けるからね!」

 逃げようとした矢先、私は抱えられてしまった。

「いい? もう一度言うよ?」

 分かった聞くから、その堪えがたい口臭を私に向けるのは止めてくれ。

 人間ならば、溜息の一つでも吐いていた場面だ。

 それからやれ彼氏と別れただの、上司のセクハラがウザいだの永遠と私に愚痴を(ほう)ってくる。

 物言わぬ私に愚痴るくらいなら、同族に聞いてもらうなり上申書を書いた方がよいのではないか?

 だが、そう思っても私は何も言わない。

 何故なら、私は猫だから。

 何も出来ない、猫だから。

 女の喋りは止まらず、愚痴りに愚痴り十分弱。

「は~すっきりした!」

 腕が痺れたのか、満足したのか分からないが女が突如私の身体を放す。

「ありがとう! 黙って聞いてくれて、また来るね」

 大きく手を振りながら、酔っ払い女は去っていく。

 それを、黙って見送る私。

 名残惜しいのではなく、また戻ってきた時の為に用心しているのだ。

 やがて見えなくなった、背中を確認して。

『はぁ~』

 溜息。

 それが私の今日発した、最初の言葉だ。



 次の日


 ここは裏路地、現在は黄昏時である。

 薄暗くて湿り気のある空気が、立派に立った髭にまとわりついてくる。

 確か今は七月、梅雨明け直後の季節だったと記憶している。

 そのせいもあってか、しばらく鬱陶しい雨が降り続いていたがここ数日は晴れの陽気が続いていていよいよ本格的な夏の到来を告げに来ているようだ。

 喉の渇きを潤す為、水たまりに近づき自分の顔を写した。

 そこにあったのは紛れもなく額の狭い顔があり、その顔と見つめ合う。

『さて、どうしたものか』

 猫舌で水を掬いながら、私は途方に暮れている。

 化け猫の私を持ってしても、難解な場面に直面していて水を飲み終えた私は頭に手を置いた。

 私的には悩ましく頭に手を置いているつもりなのだけど、水たまりに映った姿はとても愛くるしい格好になってしまっている。

 格好は愛くるしいが、私は本当に困っている。

『あの女、何故いるのだ?』

 思考を巡らす、だが考えれば考える程に頭が痛くなってくる。

 その原因は、昨日のあの女だ。

 昨日の深夜に会ったあの女が、私の縄張りで私を探しているのだ。

 それに何故か大量の猫缶を持って私を探していたので、怖くなり自分の住処からこの寂れた飲み屋街もどきの裏路地まで逃げてきた。

『一体、いつになったら帰れるんだ?』

 現状の理不尽さに、何かだんだん腹が立ってきた。

『あそこで座っているのが、私の唯一の楽しみだというのに!』

 世の不条理に腹を立て、水溜まりを得意の猫パンチで揺らす。

 だけど水面を揺らしても揺らしても一向に気は晴れず、水面に映る猫のおでこは狭いから皴が寄っていても怖くはないし迫力がない。

『はぁ~』

 溜息。

 数分間、パンチを続けて悟る。

 暴力で気は晴れない事を、化け猫である私が……数百年生きた私が悟った。

『仕方がない、帰るか』

 哀愁と悲壮感を背負った背中で、水溜まりから踵を返す。

 辺りが暗くなり飲み屋が始まれば、もっと質の悪い尾酔っ払いに絡まれてしまうかもしれない。

 あの女がいるのあれば、適当に周辺で時間を潰すし最悪また見つかってしまっても沈黙してやり過ごせばいい。

 我ながら、よく判断したと私自身を褒めてやりたい。

 自己肯定感を高めつつ、意気揚々としかし油断なく帰宅を試みる。

 酔っ払っている人間を見つけては外壁に張り付きやり過ごし、撫でられそうになれば足音も立てずに足早に去る。

 さながら、(しのび)の様に家路につく。

 そうして歩くこと数十分、住宅街が見えてきた。

 油断はしなかった。

 だが、仏はどうやら私の事が嫌いらしい。

『……はぁ』

 思わず、溜息が零れる。

 私の視線の先、私のお気に入りの場所に先客がいた。

 それはあの時の女ではなく、くたびれた中年の男だ。

 衣服は軽装で迷彩柄の上着から覗くシャツの柄はニートの文字、ズボンはハーフパンツで靴はサンダルと本当にラフな格好である。

 そいつは、私が来たことを視線では捉えている。

 だが、他の人間の様に愛でる事はしなかった。

 それにも驚いたが、私の視線はその男の左腕に注がれていた。

 その左腕には包帯の様な肌色の何かが巻かれており、どうやら怪我をしているようだった。

 その痛々しい姿は、私の知る唯一の人間を連想させる。

 怪我をしても諦めずひたすら自分にできる事をやり、前を向いて進んでいったあの人を思い出させた。

 恐る恐る近づき、(にお)いを確かめる。

 包帯を巻いている人間は大概の場合、嫌な臭いをしているのだがこの男からはその臭いはしてこない。

 それに、怪我をして動けないわけでもない様だ。

 臭いと安全を確かめてから私が傍まで寄ると、か細い声で男が私に向かって話し掛ける。

「すまない、お前の縄張りか?」

 聞き取りづらい、昨日の女の方がよっぽど声が出ていた。

 あまりに聞き取りづらくて、私は男の隣に座る。

「すまないがもう少しだけ、ここに居させてくれ」

 貼り付けたような笑み、それはこのジメジメとした梅雨明けの気温よりも陰湿だ。

「家に、帰りたくないんだ」

 うな垂れる男、その男の横顔を横目で見る私。

「先週、会社を追い出された」

 それは、解雇とゆう事なのだろう。

「この左腕の怪我のせいもあったんだが、休み過ぎだからお前はいらないってはっきり言われたよ」

 左袖をまくる、私に見せつける為ではなく思い出す様に目を細める。

「それ自体は、納得できなくても理解はしているつもりだった」

 男の、独白。

「何せ、生産能力の落ちた従業員に価値はないさ」

 皮肉げに笑う、その陰湿な感情を口にするときだけ男は生気を取り戻す。

「それでも他の職場で自分の培ってきた能力を使って会社に貢献できるって思っていたから、これからも納得は出来ないままなのかもしれない」

 未練がましいくはあるが、男は会社の悪口を言うことはない。

「どうしようもないのは分かっているし、次を探さなきゃいけないのは分かっているのさ」

 男は冷静で、先を見通すことは出来ている。

「でも体が動かなくて、結局はハローワークには行けなかった」

 でも、男は肝心なことが分かっていない。

「俺は、また会社の都合で辞めさせられるのが怖いんだ」

 またお前はいらないと言われるのが怖いと、男は掻き消えそうな声で私に言った。

「なぁ、俺はどうすればいいと思う?」

 きっと、返答など期待していないのだろう。

 人間とゆうのは、やはり黙って捌け口になる存在が必要な生き物なのだろう。


『私が思うに、お前さんは自分の今が分かっていない』


 だが、私は敢えて答えた。

「え? ね、猫がしゃべった――」

 突然聞こえた自身以外の声に、男は困惑している。

 まぁ、当然の反応ではある。

『黙って聞け』

 私の言葉に、男が黙る。

 だが男の疑問には答えず、私は自分の言いたいことを言うことにした。

 今まで我慢して人間の愚痴を聞いてきたんだから、たまには私が言い返してもいいと思うのだ。

『お前さんは、私の(あるじ)に似ている』

 不器用なあの笑顔を、私はずっと憶えている。

『もう数百年も前の話だ、主は一般的な農民でな……いつも不作で苦しんでいたし不器用なくせに見栄っ張りでいつも誰かに笑われていた』

 飼い猫である私にでさえ、呆れられていた始末だ。

『でも、私は主が努力していることを知っていた』

 人前で失敗しそれでも少しずつ良くなっていく主の姿は、とても凛々しかったし誇らしかった。

『だから、少しずつではあったが周囲の人間達は主を笑わなくなった』

 下向きに努力を重ねている姿を、大勢の人間が見てくれた。

『だが、主はその努力のせいで死んだ』

 無理が祟り、そのせいで私は主を失った。

『頑張る事は大切だ、だが頑張り時を間違えればただの自傷と変わりない』

 そんな事で死なれては、寝覚めが悪い。

『そう急がんでもお前さんの頑張りを見てくれる人間達はきっといる、今は休んでまた頑張ればいい』

 男は顔を伏せたままだ、だが男からの返事を待つ気はない私は足音も無くその場を後にする。

『私にしては、らしくない』

 今まで私は、人間との会話をしてこなかった。

 でもあの男を見て、何故か黙っている事が出来なかった。

 きっと私は、あの思い詰めた顔を主と重ねてしまったのだろう。

 だから、私は伝えた。

 主に伝えられなかった、その言葉を。


 〝休んで、頑張れ〟


『頑張って、欲しいものだな』

 誰もいな事を確認して、そう呟いた。


 その後、男がどうなったかは知らないし知る気もない。

 だが、一つ確かな事がある。


 それ以来、私のお気に入りの場所にあの男が来ることはなかった。


                                      FIN

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