8月のセイレーン
ザアアアアア〜、ちゃっぽ〜ん、ザアアアアア〜、じゃっぽ〜ん、
私は、青い海の底で浮遊している。
深夜2時、頭の中で潮騒が鳴り響く。波間からかすかに遥の声が聞こえる。
「ねえ……ねえ……ねえ……
聞こえるかい? 聞いて欲しいんだ。
もう二度と離れ離れにならないように、もう一度、君を抱きしめさせて欲しい。
どこに居ても、君は僕を見つけ出す。光が指す方向に僕は居るよ。
僕を見つけ出しておくれ。そして、キスをしておくれ」
遙、私の恋人。薄々私だって気が付いている。
もう2度と会えないことは。
でも、もし彼が言っている事が本当だとしたら……
わたしは色めき立つ気持ちを抑えられないでいた。
彼の呼び掛けに応じて、もう一度彼に会いたい。
恋人の腕に抱かれたい。もはや私には、それにすがるしかないのではないか?
彼女が私の研究室にやってきたのは、夏の終わりの昼下がりだった。
学務課の職員から佐伯先生の講義を受けたいという若い女性が面接に来ていますよ。と告げられ、殺人的猛暑の中、研究室のある棟へ向かって早歩きする。
サマースーツの背中に汗が滴り落ちていく。紺色のスーツの肩に陽炎が立つ。
ジジジジジジィィィィィ……
蝉だけが終わる夏を名残惜しそうに悲鳴をあげている。
「お待たせしました!」
研究室のドアを開けると、やけに地味な女がソファーに座り、化粧っ気のない瞳を私に向ける。若い女と言われて何を期待していたのだ私は?
「当ゼミを受講したいというのは貴女かな? 経済にご興味がお有りですか?」
冷静になり矢継ぎ早に質問してしまう。
「ああ申し遅れました。教授の佐伯です。経済史を教えています。最近、学び直したいと言う社会人が多くなりまして、積極的に大学も受け入れている。それで、なぜ貴女は経済を?」
彼女は少し間があってから新NISAに興味があってっと呟いた。
「なるほど新NISAですか? 株高のニュースを受けて、興味を持つ方が多くなりましたがーー、正直私のゼミを受けたからといって、 投資の銘柄選びの足しになるとは考えづらい。それでも構わないですか?」
人生百年時代と言われる。老後二千万円問題など若者に将来の不安を煽って投資に目を向けさせようとしている。私の講義を受けても財テクの役には立ちませんよとあらかじめ釘を刺しておこう。その方が誠実だ。
「え、はい。それはーー」と答えて彼女は口をつぐむ。続く言葉は「構いません」という意味だろうと勝手に解釈する。
「そうですか? では来週の日曜日より、3号棟の208教室へおいで下さい。ああ、学会の会合など急用が入り休講になる場合がありますので登校されたら必ず掲示板で、教室番号講義時間を確認するように。
ではお待ちしていますよ」
業務連絡を伝えて、さっさと面接を切り上げる。詳細は職員の方から聞いてくれと思うのだが、学習意識の高い社会人は大切なお客様だ。抜けや手落ちがあるとすぐにSNSで叩かれる。評価は下げたくないし無用なトラブルは避けたい。それに、学生の数は年々減少している。教室の講義だけやっていれば済むような幸せな時代はとっくに過ぎ去ったのだ。
「よろしくお願いいたします」と彼女は座ったたままで頭を下げて、私を見上げる。
次の日曜日の講義に彼女は顔を出していた。私はマイクを使って講義を行なっている。
「経済学ほど更新を続ける学問は珍しい。貨幣経済は日進月歩で成長を続け、理論はすぐに古くなり通用しなくなる。皆さんは日々の消費活動を通じ、市場価格の変化に敏感になるセンスを養っていただきたい。
当ゼミがそのきっかけになれば幸いです」
教室のどれくらいが私の話を理解していているのか不明だが、私は真面目に講義を続ける。
「佐伯先生、さようなら〜」
「ああお疲れ様。また来週ね」
私は去っていく受講者に愛想よく手をあげて答える。
「教授!」
ハリのある声に呼び止めれて振り返る。あの女が立っていた。
「ああどうも。どうでしたか? 講義は」
「大変興味深く聞き入りました」
「そうですか? それはよかった。学生と同等と言うわけにはいかないが、噛み砕きすぎては学びにならない。どの程度教えていくか? 試行錯誤の最中です。ところで何かご質問でも?」
「いえ、特には……」
と女は言葉を濁す。
「ではなぜ私を?」
呼び止めたワケを聞きたかった。
「実はーー」
「何です?」
「2年前の事故のことでお聞きしたいことが」
「2年前の事故? ……あなた、マスコミの方ですか?」
私は訝しんだ目を向ける。
「え? いいえ」
「私の講義を受講されたのは、何か思惑があってのことですか?」
「いえ、別にそう言うわけではーー」
「(溜息)はぁ〜」
私はあからさまにため息を吐いて、
「野次馬根性で講義を受けられては困る」」
と呟く。
「決してそういうわけでは」
彼女は否定するが、事故のことは当時マスコミで随分騒がれたし、奇跡的な生還者として私はマスコミに大きく取り上げられた。関心が湧いて近付いて来る女性もいたが、私は学者だ。事故の犠牲者の追悼のためにも積極的にカメラの前で事故の経緯を伝えようと勤めていただけだ。売名ではない。
「では、これで失礼しますよ」
「あ、教授……」
私は彼女から一刻も早く立ち去りたかった。
忌まわしいあの事故の記憶に飲み込まれてしまいそうになるからだ。
少しだけ秋らしくなった空を眺めながらキャンパスを歩いていると不意に女性の声に呼び止められる。
「教授!」
「またあなたか? 今日は受講日ではありませんよね?」
「すいません。教授は確かーー」
言いたいことはわかっている。
「ええ、私はあの事故の生き残りです。奇跡的に助かりした。それが何か? もう忘れてしまいたい過去だ」
「教授は……もしかすると……私の恋人の、生まれ変わりかもしれないんです」
「は? はあ⁈ ち、ちょっと、突然何を言い出すんです。私があなたの恋人の生まれ変わり? 理解不能だ」
「私の恋人も、あの船に乗っていました」
「あなたの恋人もあの船に? そうですか……それはお気の毒でした。 だからと言ってーー、私が恋人の生まれ変わりという発想はあまりに飛躍しすぎている! 一度、精神科の受診をオススメする。では」
「待って下さい!」
立ち去ろうとする私に女は追いすがってくる。
「分からない人だな。あなたの年齢から推測して、恋人は私より随分年下のはず。先に生まれた私に、あなたの恋人に生まれ変われるはずがない!」
「そうでしょうか?」
女は引き下がる気はないとばかりに私の袖を強く掴む。
「よしてくれ! あれは不幸な事故だった。遺族が病むのも無理はない。しかし……すまないが、もう私に付き纏わないでいただきたい! 当ゼミも辞めていただく」
「それは出来ません!」
女はヒステリックに叫ぶ!
「出来ない? なぜ⁈」
私もつい声を荒げてしまい、周りを伺う。
「良いか? これは脅しではない。これ以上、私に近づくな。もし見かけたら、ストーカーとして警察に通報する。本気だ」
こういう手合いにはハッキリ言ってやらないとダメだろう。
女はうなだれて、
「そんな事言わないで、遥……」
と突然甘えたような声で呟く。
「え? は、遥? 私は遥ではない」
「思い出して、遥」
「やめろ! だから遥ではないと言っている! あんたっ……おかしいぞ! 用があるので失礼する!」
私は、急に女が怖くなり、慌ててその場から逃げ出した。
数日後の夕暮れ、私は彼女のアパートの前で待ち伏せして、彼女が帰ってくるのを待っていた。
「やあ」
彼女を見かけると、気まずそうに片手を上げる。
どうやら立場が逆転して、今度はこちらが呼びかける番になったようだ。
「あなたに会えないかと、ノコノコこの辺りまでやって来たんだ」
「なぜここが?」
彼女の問いに、自嘲気味に、
「すまない。実は……ゼミの申込書で住所を確認した」
と答え、
「まるで私の方がストーカーじゃないか!」
と吐き捨てると、
「近づくなと警告した私が、
待ち伏せなどして、戸惑っているでしょうね? ……あのぅ、お時間はありませんか?
近くのファミレスで、少し話ができないだろうか?」
と懇願する。
ファミレスに席に着くと注文を簡単に済ませ、私は周囲に気を遣いながら話を始める。
「実は、あれから困ったことが起こっていて、あなたはそのぅ……もしかして、催眠術のようなものを、使えたりはしないだろうか?」
「私がですか?」
「え? ああ」
「使えないですね」
「使えない? 本当に⁈」
「ええ」
女は腑に落ちないという顔をする。
こちらだって突拍子もない話をしていることは理解している。
「……そ、そうか……いや、 あなたに遥と呼ばれたあの日から、妙な夢を見る様になった。
元来夢というのは奇妙なもので、脈絡もなく秩序もない。しかし……見ず知らずの他人の夢に入り込んだりはしない。あなたは、そういう経験はお有りですか?」
私の奇妙な問いかけに、
「いや、ないです」
と女は首を傾げる
「そうですよね? それで……とても困っている。毎晩あなたが、私の夢枕に立って、呼びかけてくる。それだけではなくーー」
私は躊躇いながらも素直に告白する。
「そのぅ……口づけをしたり、そのぅ……体を重ね合わせたりする。あ、これはセクハラではなく、事実を申し上げている」
話をして女の様子を伺うが、女の無表情さがかえって不気味に感じた。
「無礼を承知で申しますが、異性としてあなたに魅力を感じたことはない。興味を持ったこともない。なのにーー夢の中で私は、あなたに夢中になっている。長い間会えなかった恋人のようにあなたを求めている。催眠術か何かで、私に暗示をかけたのではないかと尋ねたくて、待っていんです」
「そんなことはしません」
「しかし私は学者だ。心霊現象や超心理学のたぐいは信じない。この夢はどうしても説明がつかない。もし何かの暗示をかけたのなら、すぐにでも解いてもらいたい!」
「だから暗示はかけてません!」
「否定されるが、あなたは怪しい! どうして私の講義を受けたんです?」
「それは先生が遙のーー」
「また生まれ変わりの話ですか? どうしてあなたの恋人が、年上の私に、生まれ変われるというんだ⁈」
「私だって分かりません」
「はあ〜……あああああ〜もう!」
ドン!
私は頭を抱えて、思わず拳でテーブルを強く叩いてしまった。
1ヶ月後、私は夕暮れの公園に佇んでいる。子供たちの遊ぶ声が辺りに響いている。
その雑踏の中から、
「教授……佐伯教授……」
と呼ぶ声が聞こえて
「あ、ああ、どうも……」
と私は弱々しく振り返る。
彼女は、ベンチに並んで腰掛け、
「顔色が悪いですよ」
と気をつかうように尋ねてきた。
「最近、あまり眠れてなくて……」
「大丈夫ですか? ゼミは?」
「ああ……大学はーー休職した」
彼女は私の顔を覗き込み
「……良かったら私の部屋に来ますか?」
と提案する。
「え? あなたの部屋へ行っても良いのか?」
彼女はアパートの部屋のドアを開けて、私を招き入れる。
私は思わずはっとする。
「あああ……、ま、間違いない。夢で見た部屋だ。
ここで私は……あなたを見つめ、キスをした!」
彼女は躊躇う様子もなく
「では、してみますか?」
とサラリと言う。
「してみる? とは? 貴女とキスを? いや、しかしそれはーー」
「私はかまいませんよ」
「だが……そ、そうだな……このままでは頭がおかしくなりそうだ。
確かに何かのヒントになるかも知れない。分かった。キスをして構わないんだね?」
彼女をじっと見つめる。
彼女はコクリと頷く。
私は彼女を抱きしめと
「ううん、あ、ああ、」
彼女と唇を重ね、舌を絡ませる。
その刹那、事故の記憶がフラッシュバックする。
「ああ、ああああ……」
私は、立ちくらみがして、その場に力無く座り込む。
「大丈夫ですか?」
「あ、いや……大丈夫だ。少し休んでいればすぐにおさまる。
それより、君の恋人の写真を見せてもらえないだろうか?」
彼女は写真を取りに行き、戻ってくる
「ありがとう」
写真には彼女と温厚そうな青年の笑顔が写っていた。
「……あ、ああああ君が遥くんか……。そ、そうか……君は私の、一つ前の席に居た青年か」
脳内で激しくシナプスが活動を始め、鮮明に事故の記憶が蘇る。
あの日、波浪警報が出ていたにも関わらず、穏やかな天候だったため、私たちを乗せた観光船は港を出航する。
だがすぐに、船は高波にさらわれ、暗礁に乗り上げた。
ギギイギギイイ
衝突で船底は破損し、海水が轟々と音をたてて侵入して来た。水位は瞬く間に腰の辺りに達し、船は大きく傾いて、海中へ引き摺り込まれる。身動きが取れなくなった私は、死んでしまうのだと観念した。
「倒れそうになって手を伸ばすと、遥さんが私の腕を掴み、非常口まで引っ張っていき、船外へ押し出した。非常口のドアは、私が出ると水圧でピッタリと閉まって微動だにしない。船は横転し、多くの乗客を乗せたまま沈んでいく。投げ出された私は、助かりたい一心で手足をかき続け、やっとの思いで海面に浮上したがーー遥さんの姿はなかった。彼は二度と……浮き上がっては来なかったんだ」
「なぜ助けに戻ってくれなかったの?」
女が問い詰める。
「いやもちろん、できるなら助けに戻りたかった!」
「ウソ!」
「ウソではない! ウソでは……いや、すまない……
渦を巻いて沈んでいく船内に……戻る勇気がなかった……」
「そう……どうぞ」
彼女はコップに水を入れ、差し出した。
私はそれをゴクゴクと飲むと、一息付き、
「私は……私は君の恋人を……遥さんを、
見殺しにしたんじゃない。それだけは信じて欲しい!」
私は彼女に許しを乞うと
「それから」
ゾッとするような冷たい返事が帰ってきた。
「え? そ、それから? それからーー」
私は急に悪寒を感じ不安に襲われる。
「私だって犠牲者なんだ。なのに自分が生き残って、なぜか罪の意識を感じている。遙さんが亡くなったのは、私のせいでは無いんだ。あれは不幸な事故だったんだ」
理解してくれと私は声を絞り出す。
「浮上して辺りを見た。船のデッキから放り出されたのか、当初は十数名浮かんでいたはずだが、北の凍えるような冷たい海水に体力を奪われ、時が経つにつれ、一人二人と波に飲まれて消えていく。数時間後、沿岸警備隊に救出されたが、助かったのはわずか4人。乗組員乗客あわせ87名中、たったの4名だったんだ」
私は一気にコップに残った水を飲み干す。
「みな無言で、毛布にくるまれ病院へ搬送された」
「らしいわね」
「らしい? ……君は知っているか? 他の生存者にも会ったのか?」
「ええ」
と彼女はうなずく。
「ではなぜ、私を遥くんの生まれ変わりだと決めつける? 他の男性とは思わなかったのか?」
私の問いに、彼女は不機嫌そうに
「1人は会ったが、あれは違ったわね」
と呟き、そして、私も会ってみたいか? と尋ねる。
「え? ああ、会えるのかい?」
貴女はゆっくりと頷いて指差したのは、部屋の隅の暗がりにある、
若い女性の部屋には不相応な業務用の冷蔵庫だった。
私より若い男性を試してみたが、恋人の生まれ変わりではなかったので保存してあると言い
「キスをすれば分かるのよぉ〜」
とケタケタ笑う。
私は思わず息を飲み込む、背筋が凍り、早くこの場を離れろと本能が告げている。
「遥さんは本当に私の命の恩人でした」
と謝辞を述べ
「カレの生まれ変わりでなくてとても残念だ。では、これで失礼する!」
と立ちあがろうとするが、足に力が入らない。
「あ……」
足がもつれ、前のめりになり、床に這いつくばる。
そんな私を、女はゾッとするような冷たい目で見下ろし、
「大学教授のように偉そうで自信満々な男が一番騙しやすい」
と語る。
待たされている間に、研究室のスペアキーを盗んだこと。ウォータータンクに幻覚剤を投与したこと。その後も執拗につけ、薬漬けで泥のように眠る私の枕元で、恋人の降霊術を行った事を明かした。
「でも、遥ではなかった。キスをすれば分かる。あなたが遥かどうか?
もし遥なら私の名前をーー」
女は顔を近づけると
「言ってご覧なさい!」
耳元でヒステリックに叫ぶ。私は意識が朦朧としながら
「え? き……君の名前かい? 君の名は確か?」
「恋人の名前を忘れるわけがないわよね? 言って、私の名前を?」
チョッキン
どこから取り出したのか?耳元で大きなハサミの音がする。
「き、き、君の名は〜」
申込書に名前が記入されていたはずだが 薬が効いているせいなのか、記憶がおぼろげで思い出せない。
「なぁに?」
チョッキン
「思い出せないの?」
女は鋏を持ち上げ。
「あ、ああ、き、君の名は何だっけ? ああ君の名はーーき…き、きみの……きみの、名は!」
グッシャッ!
ハサミが私の右耳をから脳まで達する勢いで差し込まれる。
チョッキン
私の命の糸が、プツンと切り落とされた。
ザアアアアア〜、ちゃっぽ〜ん、ザアアアアア〜、ちゃっぽ〜ん、
私は、深い海の底に居る。目の前に浮かんでいるのは遥くんか?
両手を広げ、海藻に足をからまれて、冷たい海の底で、腐ることもなく漂っている。
これは私の見ている夢なのか? そうだ。きっとこれは私の夢なのだ。
良かった。私は生きている。するとーー
遥くんの隣に浮かぶ見覚えのある若い女性がギロリとまなこをむいた。そしてーー
「うわっあああああ〜」
バッタン!
私は大型の冷蔵庫に先客と共に保管された。だが、私にはまだ意識はある。
誰か助けてくれ〜! 深海のような暗闇の中から叫ぶ声を誰か聞いてくれ〜!
誰か……助けて……




