果たしてそれは誰の妄言なのか
青春と言ったら何とも聞こえがよく感じる。
学校では級友と談笑し、部活ではチームメイトと共に汗を流し、放課になればマックでお喋りし、一緒に帰路に着く。
休日は仲の良いグループでショッピングしたり映画館に行ったり、カップルは同じイヤホンで夏色を聴きながら自転車に2人跨り坂を下っていくのだろう。
それを彼ら彼女らは青春と呼ぶ。かけがえのない宝物だと謳う。
たとえその中に一生思い出したくない程の辛い経験があろうと、二度と味わいたくない程の苦渋に満ちた挫折があろうと。
それらさえ青春という二文字は、概念は、立派な大人になるために必要な経験だと美化する。
都合の良いように解釈し、脚色、乃至は除却する。
青春と一括りにされることで裏、逆、陰の存在は強引に隠されうる。
さも青春はただ一様に美しいもので、それは疑う余地もなく紛うこともないない不変の事実かのように。
その中に不利益を受けた者など到底居るはずないと叫ぶかのように。
そもそも青春というもの自体曖昧であり、それについて考えることさえも野暮なのかもしれない。
それは分からない。
しかし分かることがある。
青春はいつか終わる。
諸行無常であり不変不滅はあり得ない。
言うまでもない。
だがかえって意識する機会は多くない。
いや、意識しないようにしているという方が正しいかもしれない。
青春という何が起ころうとも意味のあることとして美化することのできる都合の良い箱庭に収まっていたい。
そのような思いが生まれることは必然だろう。
それ故うわべだけの関係、顔色をうかがって機嫌をとる、取り繕って接する。
中身が空っぽなカタチだけの関係を築く。
そのような関係に意味はあるのだろうか。
青春という虚飾の中に自分がいることを盲目に信じこみ自己陶酔しているだけに過ぎないのではないか。
そんなことでしか得られない青春に価値などあるのだろうか。
俺は教室の窓から外の風景を眺めつつそんなことを思い、この日最後の授業を終えた。