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七人の刑事(前編)

 

挿絵(By みてみん)

  やわらかな陽の光が、海面をちらちらと照らしている。

 しかし、海を見下ろす岸に吹きつける風は、まだひどく冷たい。

 長い間片膝をついていたトッパーが立ち上がると、フロックコートが海風をはらんで黒い翼のように広がった。

「約束するよ…」

 足元の墓石を見つめ、トッパーは呟いた。

「あいつは…俺が捕まえる。…絶対に」



 

 ディック・カーチスは暗い路地に駆け込むと、表通りの様子を窺った。

(どうして…)

 荒い息を抑えながら必死に考える。

(どうしてあいつが俺を…)

 一年振りに首都に戻ってきた自分を、まだ覚えていたのか。いや、覚えていたとして、なぜあの人物が自分を狙うのか。

(だってあいつは…あいつは…)

 はっと気づいたとき、既に相手はすぐ横に立っていた。全身が黒い影と化していて、表情は全く分からない。ただ、その片手に握られたナイフだけはやけに光って見える。

「まっ待っ…!」

 伸ばした手を切りつけられ、カーチスはとっさに後退った。

(こいつ本気で…)

 そう悟った瞬間、腰に手が伸びていた。自分の大振りのナイフを抜くより先に、相手のナイフの冷たい感触が胸を貫いた。

(どうして…)

 崩れ落ちるディックの目が、まだ不可解そうに相手を見つめる。

 硬い音をたてて地面に倒れたカーチスを見下ろす黒い影は、徐に歩み寄るとその胸からナイフを抜き取った。とたんに黒い血があふれ、動かなくなったカーチスの体を浸してゆく。それをしばらく観察するように眺めていた影は、やがて遠くに見える表通りに目を向けた。

「足りない…」



「足りないと思いませんか」

「…何がだ」

 トッパーは半ばうんざりしながらも訊ねた。

「人数ですよ」フィセルは飽くまで無邪気に答える。

「たしかどこかの新聞に『選ばれた七人の警察官』とか書いてありましたよ。でも、ここにいるのは」

 フィセルが黙ってその場にいる人物を数え始める。

「そんなもん、一目見りゃ分かるだろ!」

 怒鳴るトッパーを「まあまあ」とノーマンが宥め

「たぶん、最後の一人は」と閉じられた課長室を指さし

「課長も数カ月前までは、私たちと同じ警官だったから。肩書はみんな同じ『刑事』らしいし」

「君は…」一番の年長者らしいダウニングが丸い顔をノーマンに向け

「課長と同じ地区の警官だったね」

「ええ」

「あ、そうなんですか。僕は首都の生まれですけど警官になってまだ日が浅くて…。それでも刑事になれて幸運でした!」

「私は」マチェックがのそりと鼻眼鏡を押し上げ「できれば警察署で内勤のままがよかったんですが」

 刑事部屋に響いた舌打ちに、一同が揃って目を向ける。一人だけ離れ、窓際に立っていたマクリーンが、馬鹿にした表情で五人を見返す。

「たしかに選ばれたみたいだな。どの地区からも厄介者が」

 そう言うなり、さっきのフィセルのように一人ひとりを指さし

「役に立たないお子様に、役に立たない事務係に、役に立たない田舎者」

 フィセルにマチェック、トッパーが揃って気色ばむ。更にマクリーンは続けて

「あとは役に立たないおっさんと、ただの課長のお気に入り」

 ダウニングが肩を竦め、ノーマンが苦笑する。「おい」とトッパーが一歩出て

「なら、あんたも体よく集められた厄介者ってことだろ。俺たちとご同様にな」

 被ったままのトップハットの下からトッパーを見据え、マクリーンは「ああ」と答えた。

「厄介者だったろうな。他の連中からすれば。いつだって自分たちより先に犯人を挙げちまうんだからな」

 思わず鼻白むトッパーの横で、扉が開いた。なかから顔を出した白髪に白髭のフォスが、温厚そうな細い目で一同を見回し

「ああ。もう全員揃っていたか。待たせてすまないな」

 フォスに促され、六人はぞろぞろと課長室へと入ってゆく。

「すまないな…もともとは肉の卸業者の事務所だったらしいが…長いこと使われていなかったらしい」

 そう言いながら上司が巻き上げる埃に、六人は揃って口を押えた。「さて」と、ようやく正面の課長の席に着き、フォスが部下たちを改めて眺める。

「だいたいのことはすでに聞いていると思うが…この度、警察局の新たな部署として、刑事課が設けられることになった。そして君たちは…」

 フォスが全員に微笑みかける。

「その栄えある最初のメンバーというわけだ。ただ…しっ…」

 上司の盛大なくしゃみに全員がびくついた。

「…すまない。ただし、まだこの部署は…何というか不安定でな。一応形式上は警察局のなかに含まれているが…警吏部の下につけるか上につけるか、はたまた局から独立させるべきか…全く決まっていない状態だ。何だねマチェック?」

「あの」マチェックが挙げていた手を下ろし

「この部署が、ノーグ侯爵とバロール伯爵の意思で創られたという話は本当ですか」

「ああ」フォスが頷く。

「そう聞いている。まだ直接お会いしたことはないが…それがどうしたかね」

「俺たちが!」トッパーが身を乗り出し

「どうして選ばれたのか、教えてくれませんか」

「あ、僕も知りたいです」

 フィセルが手を挙げる。とたんにまたマクリーンが大きく舌打ちして

「いま聞いただろう?侯爵と伯爵が言いだしたんだ。貴族様を満足させるために警察局の上の連中が取り敢えず創った部署が、寄せ集め以外の何だってんだ。それとも」

 マクリーンがトッパーとフィセルを横目で見やり

「自分たちが選ばれたことにご大層な理由でもあると思ったのか?田舎者とお子様が」

「いちいち嫌味ったらしい奴だな…!」

 つかみかかろうとするトッパーを「まあまあ」とノーマンが押さえる。「つまり」とフォスを見やり

「いま以上に首都の治安を守るべきという貴族の方々が目覚めた『高貴なるものの責務』を代わりに果たすため、私たちは集められたということでよろしいですか課長」

 フォスは黙って苦笑する。

「しかし、さっきも言ったように、我々の立場はとても不安定だ」

 執務机の埃を指ですくいながら

「分かっているとは思うが、この部署がこの先どうなるかは、これからの君たちの働き如何に懸かっているということだ」

 ふっと吹き上げられた埃に、六人がそれぞれくしゃみをした。フォスはそれを目を細めて眺める。

「そういうわけだ。戸惑うことも多いだろうが、ともに頑張ろう。刑事諸君」



「…相当戸惑ってますね」

 屋台で買った揚げパンをかじりながらフィセルが言う。トッパーが忌々しげに振り返り

「仕方ないだろ!生まれも育ちも首都のお前とは違うんだよ!」

「教えてほしいならそう言えばいいのに」

 フィセルはパンの包みをポケットに突っ込み、トッパーの前を歩き始めた。

「えー、左手に見えますのがー首都を南北に流れる、ヴィンガム河でございまーす」

「お前…絶対馬鹿にしてるだろ」

「地方出身者をからかうのは都会人の特権ですから。逆もまた然り。えー、その河にかかるのが首都の交通の要、セントセシリア橋。僕たちはシシ―橋って呼んでますけど」

 フィセルの肩をトッパーがつかんだ。

「現場はどこだ」

「へ?」

「一週間前と五日前、『切り裂きジャック』が現れた場所だよ!」

「ジャック!?」

「まだあの事件はジャックの仕業と断定されたわけじゃない」

 二人の後ろを歩いていたノーマンが言う。

「君が…トッパーが言っているのは、身元不明の殺人事件のことだろう。あれを『切り裂きジャック』事件だと騒いでいるのは一部の新聞だけで…」

「まだジャックの仕業じゃないとも言い切れないだろ」

 睨みつけてくるトッパーから顔を背け、ノーマンはため息をついた。

「安易に過去と今の事件を結び付けないほうがいい。真実を見誤らせる」

「そうですよトッパーさん。都会の事件は田舎の事件ほど単純じゃないんですから」

「おーまーえーなあっ」

「うわっちょっとやめてくださいよ」トッパーに頭を抱え込まれ、フィセルがもがく。その落ちた帽子を拾い、ノーマンは澱んだ川面に目を向ける。

「課長は…どうしてあんなことを言ったんだろうな」


「これはテストだ」

 初顔合わせのとき、フォスは部下たちにそう言った。

「まず手始めに、いま巷を騒がせている再び現れた『切り裂きジャック』を捕まえてくれたまえ。そうすれば必ず、君たちは市民の信頼を勝ち得るだろう」


 首都警察に刑事課が設けられることが公式に発表され、実際に設置されトッパーたちが配属になるまでわずか四カ月に期間しかかかっていない。そこまで刑事課の発足を急いだのは、自治意識が強い首都の住民の反感を少しでもかわすためだと言われている。

「警察組織が創設されたときもだいぶ反発がありましたからね。警察より更に強い捜査の権限を持った僕たちは、当然敬遠されますよ」

 受け取った帽子を被り直しながらフィセルが言う。トッパーは舌打ちして

「分かってるよ。だからこそ課長が言ったように、ジャックを捕まえなきゃいけないんだろ」

 ノーマンとフィセルが顔を見合わせる。

「だからなトッパー、焦って誤認逮捕でもしたら信頼も何もないんだよ」

「そうですよ。首都の地理も知らないで突っ走ったら辻馬車にひかれるのがオチですよ」

「おーまーえーはいちいち馬鹿にしないと気が済まないみたいだなあっ?」

 じゃれあう二人に苦笑しつつ、ノーマンはまた河に目をやる。シシ―橋の下をくぐり抜け、魚からくず鉄など様々な物を積んだ小船が何艘も行き交っている。

 生活排水に加え、工事排水の増加によって悪臭を放つほどヴィンガム河の汚染が進み、そこで獲れる魚を食用として売ることはだいぶ前に禁止されたはずだ。

 あの小船に積んである魚は肥料用か、もしくは遥かに河を下った沖で獲ったものであることを、ノーマンは眉をひそめつつ祈った。

「二回とも凶器は見つかっていないんだろ」

 振り向くとトッパーも河を見つめていた。

「河にでも捨てられてたら捜しようがないな」

「凶器から犯人を絞り込めるなんて考える方が安直じゃないですかあ?」

 トッパーに首を絞められるフィセルにノーマンは微笑み

「そのあたりも()()した人間に訊いてみよう」



「たしかに、その二件は私が処理したが」

 がっしりした中年の男は三人を胡散臭げに眺めながら言った。巡羅警官のホッブズの家は職人や小売りの商人が暮らす下町の一角にあった。

「ほう。噂の刑事殿が早速お仕事ですか」

 黒いトップハットにフロックコートという刑事の存在は既に首都中の人間に知られているらしい。しかし、それは認識されているだけで認知されているわけではない。

「今更何を訊きにきたんだ?新聞に書かれている以上のことは出てこないんだ。そのときの新聞でも読み返すんだな」

 明らかに面倒臭げなホッブズにトッパーが

「些細なことでいいんだ。一件目と二件目で何か違っていた点とか…」

「違ってたさ」ホッブズは大きな鼻を鳴らし

「死んでいた奴がな。二度も同じ奴が死んでいたらそのほうが大事だ」

 フィセルがぷっと吹き出し、トッパーの目が据わる。かわりにノーマンが前へ出て

「二件ともあなたの巡回担当地区だったから、あなたの所に報せがきたわけですよね」

「ああ。どっちも真夜中だったからいい迷惑だったね」

「まさか二件とも、同じ人物が報せにきたわけじゃないでしょう」

 ホッブズは幾分鼻白み

「一件目のときは…顔見知りの娼婦だ。顔見知りってだけで馴染みってわけじゃない。血相変えて『人が死んでる』って飛び込んできたんだ。お陰で女房にしばらく変な目で見られたぜ。二件目は、昔の商売仲間の男で…こっちは真夜中って言っても明け方近い時間だった。そいつは朝の市で出すために農家に豚を仕入れに行った帰り道に、道端に人が転がってるのを見てご親切に報せにきたのさ。酔っ払いが寝てる、放っておいたら凍死しちまうってさ。それで見に行ったらとっくに死んでたってわけさ」

「なるほど。どちらも知り合いだったから、巡回中の警官を探すより直接あなたの家に報せにきたってわけですね」

 フィセルが納得気に頷く。

「昔の商売仲間というと」

 ノーマンに促され、ホッブズは諦めたように玄関ドアにもたれた。

「肉屋だよ。警官になる前はな。近所や周りの連中に請われてなったんだ。正直肉屋のほうが儲かったがね」

 その口調は暗に、お前たちとは違うと言っていた。巡羅警官は立場上は警察局に属しているが、それぞれが担当地域の住人によって推薦された人物である。微々たる給金は出るが、ほぼボランティアで地域の防犯を担っている。

「私たちも元は警官ですから、あなた方が仕事に誇りを持っていらっしゃるのはよく分かります」

 穏やかにノーマンに言われ、ホッブズは更に鼻白む。

「それで、あなたの目から見てその二件は同じ人物の犯行だと思いますか」

「さあな」ホッブズは頭をかき

「俺が言えるのは二人ともひどく刺されていた。体中な。それを新聞がかってに『切り裂きジャック』だなんて言い出したんだ。昔ジャックが現れたとき、俺はまだ肉屋だったんだ。あれがジャックの仕業かどうかなんて分かるわけがない」

「なるほど。それもそうですね」またフィセルが呑気に頷く。ぐいとトッパーが身を乗り出した。

「遺体は」

 三人が揃ってトッパーを見る。

「遺体はどこに運んだんだ」



 その建物は古く、巨大で、全体に黴が生えているといった印象だった。高い塀越しに植えられた黒い杉が、陰気さを弥増している。

「…ここに来る患者がいるのか?」

 心の底からトッパーが訊いた。この建物から誰かが元気になって出てゆく想像が全くできなかった。

「元は、貴族が慈善で建てた救貧院も兼ねた病院だったらしいけど…」

 ノーマンが言う。後をフィセルが受けて

「どう見ても生きた人間より死んだ人間が出ていくほうが多いって噂が立っちゃって、いまはほとんど遺体専門の病院になってるんです」

「…それは病院とは言わないだろ」

 錆びた門扉を開け、雑草の生い茂る敷地に足を踏み入れた瞬間、間近で轟音が鳴り響きトッパーは跳び上がった。見ると、病院のすぐ裏手に教会の鐘楼が覗いている。

「トッパーさん、別に外で待っててもいいんですよ」

 ニヤニヤするフィセルをトッパーは小突き

「いきなりあんなでかい音出されたら誰だって驚くだろ」

「裏の教会はこの病院と同時期に建てられたらしい」

 薄暗い廊下を先に行きながらノーマンが説明する。

「修道院も兼ねていて、この病院に来た人たちの救いと導きの役目をになってるってわけさ」

「ご親切なことで」

「その親切な場所が、首都で出た身元不明な遺体が運ばれてくる場所なんですからね。田舎者のトッパーさんはよく覚えておいたほうがいいですよ」

 もっとも奥まった通路の突き当りで、ノーマンが重い扉を押す。その先にあった光景は、トッパーが半ば予想していたものと、全く予想していなかったものだった。

 湿っぽいむき出しの壁に囲まれた部屋で、その上だけいくつものランプが吊るされた台に向かい、初老の男が黙々とメスを動かしている。台に置かれ、男が切り刻んでいるのが死体であることは無論トッパーにも分かった。だからこそ部屋に入る前に鼻で呼吸することを止めたのだ。

 理解できないのは、その死体の傍らに女性が立っていることだった。黒で全身を覆った修道女らしき女性は、初老の男同様三人が入ってきたことにも気づかず、一心に祈りを捧げている。が、フィセルが遠慮なくその沈黙を破った。

「シスター!」

 はっと顔を上げた修道女がこちらを見た。大きな瞳と小さな口をした、まだ若い女性であることをトッパーは見てとった。

「まあフィセル、お久し振り」

 場違いなほどにこやかに挨拶をする修道女とは反対に、初老の男は忌々しげに鼻を鳴らす。

「何だ。どいつもこいつもよってたかって人の仕事の邪魔をしにきて。よっぽど暇なのか?」

 トッパーは幾分むっとしたが、ノーマンとフィセルは気にする様子もなく

「すみませんドクター、こちらも仕事でして」

「そうだよドクター。それを言うならドクターこそ死体を切り刻むのは仕事と言うより趣味でしょ」

「まったく、相変わらず口が減らないな」

 一人話についていけないトッパーがノーマンにささやいた。

「…知り合いか?」

「ああ、私は警官のときから何度か。フィセルは…」

「僕は昔、ここの救貧院にいたんです。シスターともそのときからの知り合いです」

「サラと申します。フィセル、立派になりましたね」

「へへー」

「ノーマンはともかく、お前みたいな子供が刑事とは世も末だな」

「いえ、私もそんな優秀な警官だったわけでは」

「そうだよドクター、どうして選ばれたかなんて誰も分からないんだから」

 解剖中の死体をはさんで世間話をしている四人を、一歩下がった所からトッパーは奇異な目で眺める。

「ところで、何しに来たんだお前たち」

 ようやくドクターヘンリーが水を向けてくれ、トッパーはほっとする。

「一週間前と五日前に、こちらに運ばれてきた遺体についてお訊きしたいんです。どちらも身元不明で処理されていたはずですが」

 そこまで言ってノーマンがちらりとシスターサラを見た。フィセルも首を傾げ

「シスターはここで何をしてるの?」

「この子も暇人の一人さ」

 ドクターヘンリーは今度は死体そっちのけで傍らの棚を漁りながら

「ここに身元不明の遺体が担ぎ込まれるたびに祈りにやってくるんだ。相当な暇人だ」

「そんな言い方しないでくださいドクター。私は少しでも亡くなった方の救いになればと」

「シスターらしいと言えばシスターらしいけど…ずっとお祈りしてるの?ドクターが解剖してる側で?」

「暇人だろ?」

 ドクターが死体の顔の上にどさりと薄汚れたファイルを広げ、一同はぎょっとする。

「ああ、これだな。一週間前と五日前。どちらも運び込まれたのは一体だから、間違いないだろう」

「その、遺体の状況は」トッパーが身を乗り出す。ドクターは汚れたままの手で顎を撫で

「状況…『やたらめったら刺されていた。』ここに書いてある」

「具体的には」

「具体的も何も、それしか書いていない」

 トッパーが鼻白む。フィセルが呆れて

「相変わらず記録をとるより切り刻むのが優先になっちゃうんだから」

 ノーマンもおずおずと

「ドクター、ここに遺体が運ばれてくるのはあくまできちんと記録を残すのが条件ですので…」

「分かっとるわ!」ドクターは荒々しくファイルを閉じ

「そもそも手配書のなかから似た人間を照らし合わせようにも、顔がズタズタに切られているんだから無理に決まってるだろ。そうだ、思い出してきた。私はちゃんと義務は果たしている」

 どうやら身元不明の遺体のなかに犯罪者がいないかどうかを確認するのも、このドクターの役割らしい。

「ちゃんとあの警察署から送られてくるぶ厚い手配書で確認したぞ私は」

「さっき確認できるような状態じゃなかったって言ったじゃん」

「顔がズタズタの…一週間前と五日前…」

 それまで考え込む様子だったシスターが顔を上げた。

「ドクター、もしかしたらあのご遺体じゃないでしょうか。最初の方は黒い毛並みの…次の方は茶色い毛並みの…」

 言われてドクターは、何かをたぐるように湿っぽい、薄暗い部屋の隅を見る。

「ああ…そうだ…あれは二つとも、たしかに顔はひどく傷つけられていたが、それに比べれば体のほうはきれいなものだったな…致命傷の腹や胸の傷を入れても数えるほどで…」

「それに…その二つのご遺体には、何か共通点がありましたよね」

 このシスターは天の導きだけでなく捜査の導きまでするのか、と三人の刑事はサラを見る。ドクターはまるで啓示を受けるように

「そうだ…あの二つの死体は…どちらも肺がそんなに汚れていなかった」

「肺!?」トッパーの素っ頓狂な声で、夢から引き戻されたように仏頂面になったドクターは相手を睨んだ。

「あんた、首都の人間じゃないな」

 またしても田舎者扱いされるのかと身構えたトッパーに、「見ろ」とドクターは解剖中の死体を示した。

「これが肺だ。本来はもっと鮮やかなピンク色をしているが…真黒だろう?煙草のせいじゃない。この男の歯に脂はついてないからな」

 固太りの中年男の死体でドクターが説明する。

「この男の死因は肝硬変だが、首都に住んでいれば肺はだいたい汚れてくる。長く住めば住むほどな」

「じゃあ、その二人は首都の人間じゃないってこと?」

 トッパーの傍らからフィセルが身を乗り出す。ドクターが首を振り

「言っただろ。()()()()汚れていなかった。首都に出てきてまだ間もなかったか、もしくは首都をしばらく離れていたか」

「それは…」何かの手掛かりになるかも知れないと、トッパーの胸は高鳴った。

「まあ、田舎の人間でも鉱山で働いていれば肺も汚れるだろうしな。大した参考にはならない」

 トッパーの高鳴りは一瞬で消えた。

「さあ、もういいか」

 ドクターが飽きたとでも言うようにまたメスを持った。

「あんまり無駄話をしていると死体の鮮度が落ちるんでな。シスター、あんたももう帰りなさい」

 半ば追い出されるように部屋を出た四人は、薄暗い廊下を並んで歩く。

「シスター、いくら()()行為でも解剖中の死体の側でお祈りするのはどうなの?」

 フィセルの言葉にトッパーもノーマンも小さく頷く。シスターサラは幾分むきになって

「でもフィセル、知ってるでしょう。ここに運ばれてくる方々は皆可哀想な境遇で、祈りを捧げる人もいないんですから。それに…さっきのお話の二人の方も、たしかむごい亡くなられかたをしてるとあのときドクターが」

「それはっどういう」思わず訊き返したとたん大きな瞳に正面から見つめられ、トッパーは言葉をのむ。

 シスターは小さく微笑み

「ええ、何でも、胸やお腹といった、出血の多い所を刺された失血死だと…。ですから、どちらもすぐには亡くならず、しばらくは苦しみが続いたんじゃないかと仰っていました」

「にこやかに言うことじゃないけどね」フィセルが肩を竦める。ノーマンが顎に手をあて

「つまり…相手がまだ息があるうちに顔を傷つけたってことか」

「それは」トッパーは眉をひそめ

「相手にかなりの憎しみを持っているか、もしくは…」

 快楽殺人者という言葉は、シスターの手前控えた。

 そんなやりとりをしてるうち、病院の外に出たときにはすでに陽が傾いていた。そこでようやくトッパーは、自分が何をドクターに訊き忘れていたのかを思い出した。

「あ…切り裂きジャックとの共通点を訊き忘れてた」



「共通点ですか」 

 マチェックは鼻眼鏡を押し上げ難しい顔をする。

 刑事課の事務所の上は、警察署から運び込まれた膨大な資料の山になっていた。それをマチェックとダウニングが二人で懸命に整理している。そしてそれを、トッパーは窓際で眺めている。

「ああ、何せ、五年前の『切り裂きジャック』の事件のとき俺は首都にいなかったから…何か当時の資料でもあればと」

 二人は聞いているのかいないのか、黙々と埃のなかで格闘している。トッパーはため息をつき、窓の外に目をやる。下を覗くと、階下にあたる課長室の窓も開け放たれていた。恐らくフォスも、まだ積もった埃と格闘しているのだろう。

 見ているとけたたましい音をたてて辻馬車が事務所の真ん前に停まった。どうやらこの建物の正面が停車場になっているらしい。馬車から降りた数人はそのまま一階にある花屋へと吸い込まれていった。

 割と繁盛しているんだなどとトッパーが考えていると、「ありましたよ」とマチェックが声をかけた。

 差し出されたのは、黄ばんだぶ厚いファイルだった。

「資料といっても、ほとんどが当時事件について書かれた新聞記事です」

 埃に鼻をかみながらマチェックが言う。ダウニングも小さな目をしばたかせしばたかせ

「あの事件はあらゆる新聞がこぞって面白おかしく書き立てたからな。そのせいで事件の真相が見え辛くなったとも言える」

「そしてまた今度の事件も面白おかしくしようとしているってわけか」

 ファイルをめくりながらトッパーが呟く。

「見れば分かると思いますが」マチェックが拭いた鼻眼鏡を戻しながら

「警察の捜査資料と新聞記事の内容がほぼ同じなんです。きっと、警官のなかで情報を売った人物がいたんでしょう」

 たしかに、捜査資料にある被害者の傷の個所が描かれた図が、そっくりそのまま新聞にも載っている。

「つまり」腰を伸ばしたダウニングが息を吐き、そこにも資料が積まれた長椅子に腰かけた。

「新聞さえ読めば…いや、見ただけで、誰もが『切り裂きジャック』になれたし、これからもなれるってわけだ」

 トッパーは顔をしかめた。それでは『切り裂きジャック』を捕まえるなどいうのは雲をつかむ話になる。少なくとも、首都の人間全員を容疑者にしなければならない。

「しかし、今回はジャックとは関係ないんじゃないか」

 ダウニングが天井を見上げながら言った。マチェックも棚にファイルを並べながら

「どちらかというと、前科の事件とは相違点のほうが多いですよね。被害者にしても」

 トッパーはファイルをめくる。確かに、前回の『切り裂きジャック』の被害者は女性、もしくは子供だ。身元不明にしても今回の被害者はどちらも男だ。

「新聞はむりやりジャックと結び付けたいみたいですけど。傷のつけ方も前回は顔が分からなくなるほど切り刻むなんてことはなかったはずですよ」

 資料の遺体の図を見ながら、トッパーはドクターヘンリーの言葉を思い出す。前科の場合、どちらかというと体のほうに傷が集中している。だが今回は、体のほうはきれいなものだったとドクターは言っていた。

「じゃあ…課長はどうして『切り裂きジャック』を捕まえろなんて言ったんだ?」

「さあ」マチェックが背中を向けたまま首を傾げる。「あれじゃないか」ダウニングがマチェックに顔を向け

「ジャックの事件が起きたのは、たしか課長が警官のときの管轄だったろう」

「ああ。そう言えば」

「だからといって、新聞の適当な記事を真に受けているわけでもないだろうがね」

 トッパーは苛立たし気に頭の毛をかき回した。上司にミスリードされては無駄に混乱するだけではないか。

 ふと窓の下を見ると、黒い影が建物から出てゆくところだった。トップハットの下にちらりと覗いた髭で、それがマクリーンだと分かった。マクリーンは通りを渡り、足早に歩いてゆく。トッパーは考えるより先に三階から駆け下りていた。

 

 懸命にマクリーンの背中を追いながら、トッパーは内心舌打ちしていた。

 周囲の人間が、まるで邪魔でもするかのように次々と目の前に立ち塞がる。正確にはただ行き交っているだけなのだが、人をかわしながら歩くということに慣れていないトッパーは、ぶつからないようにするだけで精一杯だった。

 それでも、田舎育ちで自信のある目の良さと足の速さで何とかマクリーンを見失わずに後をつけたが、それも途中までだった。

 気がつくと河の側まで来ていた。この前フィセルとノーマンと通った場所だった。向こうにはフィセルがシシ―橋と呼んでいた巨大な橋が見える。何でも、首都に入る人間も首都から出る人間も大抵はこの橋を通るらしく、かくいう自分も田舎から出てくるときに渡った。橋の大きさと堅牢さ、そしてその両端にそびえる歴史のありそうな古い塔に圧倒されたものだ。

 首都の通りや建物は勿論、裏道から抜け道まで把握していると豪語するフィセルならば、マクリーンを見失うこともなかったかもしれないとトッパーは思わず弱気になった。

 広く、それでいてどこまでも濁った河の水も、忙しなくこちらの行く手を阻む無数の人々も、全てが自分を拒絶しているように思えた。

 首都の人間なら肺が汚れている。

 シシ―橋の上を絶え間なく行き交う人々を遠目に眺めながら、ドクターヘンリーの言葉を思い出していた。それはつまり首都に暮らしている限り、頻繁に田舎に逃げ出せる貴族や富裕層でもなければ長くは生きられなということだ。そんななかでも日々慌ただしく生活を送る首都の人間に、トッパーは何だかやるせなくなり吐き捨てた。

「街全体が生き急いでいるようなもんじゃないか」

 そしていずれ自分もそうなるのかと思うと、背中にうそ寒さを感じた。

「トッパーさん?」

 突然呼ばれて半ば跳び上がるようにトッパーは振り向いた。見ると買い物らしい荷物を抱えたシスターサラが立っている。

「ああ、やっぱり。お仕事中ですか」

 相変わらずにこやかに訊ねてくる相手に、トッパーは「え、あ、まあ」と口ごもりつつ答えた。シスターは目を細め「今日は気持ちのいいお天気ですね」と言った。トッパーはとっさに「え」と訊き返したが、シスターは構わず

「空が晴れてて風が少し冷たくて。私、今頃の気候が一番好きです」

 晴れているといっても空は薄靄がかかったように白っぽく、空気は埃っぽくて煙たい。冗談を言われているんだろうか、と相手の顔をまじまじと眺めるトッパーにまたシスターは微笑み

「濁っているように見えますが、ヴィンガム河の水はいまの時期が一番きれいなんですよ。上流から雪どけ水が流れてきて」

「そう…なんですか」

 信じられないという顔で河を見るトッパーにシスターが何かを差し出した。そのほっそりした手の平には、真っ赤なリンゴが置かれている。

「ご存知ですか?リンゴは冬を越した方がおいしくなるんですよ」

 田舎育ちのトッパーは勿論知っていたが、どこまでもにこやかに言う相手にまた「そう…なんですか」と答えるしかなかった。

「じゃあ、お仕事のお邪魔をしてすみません」

 やはりにこやかに頭を下げ去ってゆくシスターの後ろ姿を、トッパーは片手にリンゴの冷たさを感じながら見送った。

(不思議な人だな…)

解剖の場に平気で立ち会ったり、おまけにそのときのことを事細かに覚えていたり。

 ふと、シスターがくれたリンゴが、小さな記憶を呼び起こした。あの少年も、首都に来るときあの橋を渡ったのだろうか。あの、首都に入る人間を品定めするような橋を。

 トッパーの足は自然と、シシ―橋のほうへと向いていた。

 

 橋の中央では、馬車や荷馬車が列をなして行き交い、その両端を人々が歩いて渡っている。

 首都に来るとき乗り合い馬車を使ったトッパーは気づかなかったが、馬車にしろ歩行者にしろ首都に入る場合は首都側から見て左側、出る場合は右側を通ると決まっているらしい。

 そうとは知らず左側の歩道に出てしまったトッパーは、向かってくる人々の流れのなかでしばし立ち竦んでいた。

 はっと何かを感じ振り返った。背後には首都側に建つ塔がそびえている。人々はその下に開いた巨大なアーチの下をくぐって首都に入ってゆく。造られたのは何百年も前らしいので、塔というよりは巨大な城門と呼ぶ方が正しいのかもしれない。

 トッパーは人々の邪魔にならないように端により、欄干にもたれた。真下を流れる河の水は、濁ったまま河口へと流れ出てゆく。意外なほど海が側に広がっていたのに驚いた。

 臭いを放つヴィンガム河の水が流れ込んでも青く輝く海を、ぼんやり眺めていたトッパーはまた振り向いた。塔に幾つも開く窓穴のひとつで、さっと影が動いたように見えた。今度は人の流れに乗って塔へと引き返したトッパーは、塔の壁面をぐるりと探る。すると河に面した壁に、ちょうど人ひとりがくぐれる大きさの穴が開いていた。

 トップハットを被り直すと、そのまま足場になっている欄干をつたい、真っ暗な穴のなかへと潜り込んだ。黴と埃の匂いが入り混じった空気のなか目を凝らすと、上へ続く階段があった。とりあえず、影が見えた窓の辺りを目指し階段を上ってゆく。

 上りながらトッパーは確信した。明らかにここに出入りしている人間がいる。

 階段に積もった埃が、真ん中だけ薄くなっている。それに通路の所々にあるろうそくの溶け残りや燃えカス…。 

— 人がいる。

 そう思った瞬間、階段の上を影が横切った。

「おいっ!」

 トッパーが階段を駆け上がる。警官をやっていた頃からの習性で、逃げ隠れする相手は追い詰めずにはいられない。獲物はこの塔の内部を知り尽くしているらしく、迷路のような通路を迷いなく駆け抜けてゆく。だが幸い、動きはそれほど速くない。

「待ちやがれ!」

 影は通路の突き当りを右へと曲がった。同じく右へと曲がったトッパーは一瞬立ち止まる。その先も通路だとばかり思っていた場所は小さな部屋になっていて、隅では小柄な老人がうずくまっている。一つだけ開いた窓穴からは、対岸に建つ塔が覗いていた。

「あんた…」

 部屋に置かれた鍋や皿と老人を見比べ、トッパーが呟く。

「ここに住んでるのか?」

 もつれた白い毛の先から、怯えた大きな目でトッパーを見つめていた老人は、突然身をひるがえし抱えていた何かを窓の外へ投げ捨てようとした。トッパーはとっさにその腕をつかむ。

「おい!やめろ!」

 骨ばった老人の体を抱え込み、その手から投げ捨てようとした物を奪い取った。

「これは…」

 それは、トッパーにも見覚えのある冊子だった。警察関係者にだけ配られる、手配者の人相書きが載ったぶ厚い手配書だ。

「どうしてこれが…」

 トッパーが老人を見る。老人はまた隅にうずくまってこちらを窺っている。その細い肩をつかみ

「おい、何であんたがこれを持ってるんだ」

 老人は怯えて頭を振る。

「おい、答えろ!うわっ」

 背中を殴られたトッパーはつんのめった拍子に壁に頭を打ちつけた。

「いってえなおい!」

 怒りに顔を上げた先に、こちらを見下ろすマクリーンの目があった。思わず間の抜けた顔になるトッパーを、マクリーンは冷たく見据え

「答えてほしいのはこっちだな。刑事が刑事を尾行なんてふざけた真似したあげく、こんな所にまで図々しく入り込んだうえにギャアギャア騒ぎやがって」

 その声音から、マクリーンが心底怒っているのが伝わってくる。しかし、自分が背中を殴られたのではなくマクリーンに蹴飛ばされたのだと気づいたトッパーも立ち上がり

「そっちこそ人を足蹴にしといて偉そうなこと言うなよ!現にあんたをつけてきたらこの怪しい場所に行き当たった。何か後ろ暗いところがあるからそんなムキになってんだろ!」

 マクリーンが冷めた表情のまま鼻を鳴らし

「たまたまだろ?つけてきた?途中で巻かれたくせにか?」

 トッパーがぐっと詰まる。

「たしかにお前がここに辿り着くとは思わなかったよ。田舎者の野性の勘ってやつか?全く迷惑極まりないな。言っておくが、ゲイズを」

 マクリーンはまだ隅で震えている老人に顎をしゃくり

「問い詰めても無駄だ。口がきけないからな。読み書きもできない」

 トッパーが怪訝そうに老人とマクリーンを見る。

「まさか…手配書を渡したのはあんたか?この人に何をさせてるんだ」

「お前に答えてやる義務はない」言いながらマクリーンは落ちていた毛布をゲイズにかけてやる。

「分かったらさっさとここから出ていけ」

「そうはいくか!」トッパーは詰め寄ると手配書を差し出し

「もし民間人を捜査に関わらせていたなら問題だ。まして」

 ちらりとゲイズを見やり

「金を払ってやらせてるとしたら」

 マクリーンが素早く手配書を奪い取るともう片方の手でトッパーの胸倉をつかみ上げた。

「寝言は寝て言えよ田舎者」

 間近で凄むマクリーンの目は殺気を帯びていた。

「金を使ってるから何だって言うんだ。田舎じゃどうか知らんが首都(ここ)の人間は金でしか動かない。それで一人でも多くお尋ね者を吊るせるなら目出度いことじゃないか?まして」

 手配書をゲイズに放り投げ、マクリーンが替わりにポケットから取り出した物にトッパーは目を見張る。

「自分が掏られていても気づかないような間抜けが刑事じゃな」

 目の前にぶら下げられた銀の懐中時計に手を伸ばそうとしたトッパーをマクリーンが突き飛ばす。

「分かるか?これを故買屋から買い戻すにも金がいるんだ。首都の()()()()が理解できないんならさっさと田舎に帰って家畜番に戻るんだな」

 トッパーはうつむいたまま歯をくいしばっていたが、やがて落ちていたトップハットを拾い、黙って部屋から出ていった。



「もしかして…その老人に監視をさせているのかもしれない」

 ノーマンが考え込みながら言った。フィセルも頷き

「シシ―橋に住んでるってことは、橋を渡って首都に入る人を監視してるってことですよね。そして手配書を持っていたってことは…」

「首都に入ってくる…正確には、首都に戻ってくる犯罪者をその老人にチェックさせていたということか?いやはや」ダウニングが首を振り

「しかし、そんなことが可能なのか?」

「昔…犯罪者を見つけるのが()()()うまい警官がいたんです」マチェックが自分の机から顔を上げ言った。

「仲間うちでは、どうせ裏社会の人間と繋がっていて、その連中から情報を買っているんだろうと言われていました。けど、いち警官にそんな金があるわけがない。本人曰く」

 鼻眼鏡を押し上げ、マチェックが同僚たちを見渡す。

()()()()()そうです。目付き、身振り、歩き方、服装、その人物全体を見ただけで」

 一瞬、事務所全体が静まり返る。

「つまり…そのゲイズという老人がそうだということか」

「すごい!そんな人がいたらお尋ね者を捕まえ放題ですよ!」

「だが、その老人はマクリーンに個人的に雇われているようなものだろう?」

「たしかに一般の人にやらせるのはどうかと思いますが…その人にとっても貴重な収入源なのでしょうし」

 トッパーは窓際で黙って仲間たちの会話を聞いている。ガラス越しに映る無数の窓の灯が、善人が灯すものなのか、悪人が灯すものなのか分からなかった。これがもし犯罪者の灯だとしたら、自分たちが犯人を捜し駆けずり回ることに、意味などあるのだろうか。

— 必ず捕まえてやる

 あのときの少年の声がよみがえるとともに、ポケットに銀の懐中時計がないことがトッパーの胸を更に重くした。



「犯罪者を見極める目なんてのを持ってる人間がいるなら…つくづくうらやましい」

 事務所からの帰り道、トッパーはぽつりと呟いた。並んで歩くノーマンはトッパーをちらりと見て

「あれは、仮定の話だ。マチェックの言う警官の場合は分からないが…ゲイズ老人の場合は単純に、手配書と同じ顔を瞬時に見つけられるだけかもしれない」

「…それだけでも充分すごいさ」

 陽が落ちても大勢の人が行き交う通りを眺め、トッパーが言う。簡単には人を信用しそうにないマクリーンが、金を出して雇っているのだ。やはりゲイズの目は優秀なのだろう。

「俺はどうして刑事に選ばれたんだろうな」

 自分でも愚痴っぽくなっていると分かってはいたが、吐き出さずにはいられなかった。

 賑やかな周囲の人々の声が、別世界のもののように感じる。

 隣でノーマンが気遣う気配がした。

「まあ、得手不得手が誰しもあるだろう?それにほら、農家の人なんかは家畜の顔を一匹一匹見分けられるって言うじゃないか」

「…お前も馬鹿にしてるのか?」

「いや、そうじゃなくて」ノーマンは首を振り

「それも充分にすごいって話さ。要は育った環境というか、慣れなんじゃないかな。犯罪者を見分けられるってことは、そういう環境にいたからって可能性もあるだろ」

 歩きながらトッパーは考え込んだ。蛇の道は蛇とは言うが、それならば犯罪者を効率よく捕まえるには犯罪者が最適ということにならないだろうか。事実、犯罪者と区別がつかない警官も田舎であろうと少なくはなかったが。

「…噂を知ってるかトッパー」

 トッパーは隣を見る。暗がりのなか、トップハットを目深に被ったノーマンの表情はよく分からない。

「刑事に選ばれた人間は皆…過去に犯罪で大切な人を失っているって…」

 またあの少年の面影がよみがえり、速くなった動悸をトッパーは懸命に押さえながら

「さあ、な…俺には心当たりがない」

「…そうか」ノーマンは小さく微笑み

「私もだ。やっぱりただの噂だな」

 二人はそのまま黙って、賑やかな通りを歩いてゆく。嘲笑うような高い嬌声が、星のない夜空にいつまでも響いていた。



 


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