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コトバダマシ  作者: 岡本 そう
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学生期 完結

 二人は残りの夏休みを宇野の家で優雅に過ごした。芳江は二人が帰省している間、随分寂しかったらしく、帰って来た時の歓迎ぶりはそれが反動して盛大だった。

 二人は早朝に起きだしては朝食の前に散々組手をした。そして朝から夜眠りにつくまで芳江の趣味に付き合っていた。芳江の同年代の趣味ともいえる寺巡りや美術館巡りといった物だけでなく、三人で映画館に行きいくつか映画を続けて見たり、ホテルのバイキングでケーキを散々食べつくしたり、夜の上品な色町遊びを少し垣間見たりもした。

 他にも芳江の家の日本庭園の一部で宇野の使用人が切り出してきた竹から流し素麺の装置を作って楽しんだり、浴衣を拵えて貰って三人で地蔵盆の祭にも足を運んだ。芳江は二人に負けじと金魚すくいや射的に夢中になった。二人は芳江と共感する楽しみが出来て嬉しかった。

 夢の様な日々が過ぎている中、真侍の胸の中では少しずつ何かが宿り始めていた。それは将来に続く大きな、壮大な目的になるものだった。学校に帰って来たばかりの少し沈んだ表情から、徐々に生気が満ちていく真侍の様子に、護も一つ何か決断をしたような風だった。お互いにそれに気が付いていた。とくに護は、過去母と共に日本を離れる時に似た感覚を覚えている。  

 おそらく真侍にとってそれと似た感情が芯に灯ったのだろう。そう推測できたが、あえてその胸中を口にしなかった。始業式が明日に差し迫った日、夏休みの最後の日を終えて三人で夏休みの思い出話に花を咲かせていると、護の携帯電話から短い着信音がけたたましく鳴り響いた。

「ああ、びっくりした…護ちゃん何やの?」

 芳江は自分を落ち着かせるように胸を撫でて護を見る。護は携帯電話の画面を確認した。

「さっき機内モードをオフにしたんだ。残りの夏休みを外部に邪魔されたくなかったから。もし足立のじいさんとばあさんから何か連絡があれば、直接こっちに連絡が入るだろうし、宮本家からの連絡はお前の携帯に入るだろ?」

 護の表情は面倒そうな物から、嬉しそうな表情へと変化していく。

「誰からだ?」

「Wたまき。珠樹委員長と環先生だ」

 護が画面を見せながら言った。真侍は画面を確認するために顔を近づける。会話が新しいほど下に重なっていくアプリケーションの画面だった。内容は「これだけ見てないのならもう生きてはいないのか」と言ったものだ。相当怒っていたようだ。最初の面倒臭いと言った表情の原因はおそらくこれだろう。

「何て内容だ?」

「こっちは委員長の方。文化祭に向けて劇用の衣装を作るから夏休み中にこちらに帰って来ていたら学校に来い。と言う内容だった」

「…わぁ、もう完全に無視だったな」

「面倒だから明日直接謝ろう」

 メッセージ欄に『既読』という印が付く事も構わず、護はその返信に手を付けなかった。

「で、先生からは?」

「そちらの方は大物がかかったさ」

 護は満面の笑みで環からのメッセージを見せる。

 

─…私の情報網だけでは分からなかったんだけれど、新藤先生に確認してもらったら、勝也が悪さをしていた時に組んでいた子達の名前は久利幹夫と岡田俊輔だそうよ。…─


 登校するための車の中で、珍しく護は沈黙を保っていた。真侍もしばらく風景を眺めながら静かに思案していた。

「今日、休み時間中に調べ物を手伝ってほしいんだが」

 沈黙を破ったのは護だった。

「調べ物?」

「ああ。俺はおそらく珠樹の方に今日殆どの時間を費やさないといけないだろうから、動けるのはお前だけなんだ」

「構わないぞ。宿題の借りもあるし」

「夏休み中のごみの収集日のチェックをして貰いたい」

「え?もしかして学校中の⁉」

「そうだ。特に本校舎や体育館から離れたごみ収集場だな」

「何で⁉」

「生徒会長が折れた竹刀を捨てるとしたら、地元に捨てるとは考えにくい。散々騒ぎになっている地域に捨てたら、犯人はこの近くにいますと名乗り出ている様なものだ。となるとそこから離れた場所、更に見つかりにくい所を検討付けると学校の、剣道部から離れた校舎に捨てるのが自然だろう」

「でも、もう収集後だったら証拠はないぞ?」

「そうとも言えない。夏休み中、特にお盆休み中なら学校内の食堂やごみ処理場だって休みになる可能性はある」

「分かった。じゃあ調べてみるよ」

「俺の方は夏休みに生徒会長が本当に受験対策用の講義を受けるために学校に残っていたかどうかを調べる」

「どうやって?」

「簡単さ。何のために珠樹の愚痴と趣味に付き合うと思っている?必要な情報もちゃんと仕入れておくさ」

「二つの情報が揃ったとして、どうするつもりなんだ?」

「相手は親分を意識不明の重体に陥れ、お前を刺した犯人だぞ?それなりの処分をすべきだろう」

「じゃあ、証拠不十分の場合は?」

「お前を刺したナイフの出所が分かったら、それも一つの証拠になるんだが…」

「結構どこにでも売ってるやつだって警察の人は言ってたな」

「まぁ、証拠にならなくても証言を引き出す為の材料にはなるだろうな。ちなみに、お前はどうしたいんだ」

「何を?」

「生徒会長が黒だった場合さ」

「それは、ちゃんとした処置をすべきだと思う」

「お前自身、恨んではないのか?お前の過去を学校で暴露された上に刺されたんだぞ?」

「まぁ、最初は腹も立ったし、戸惑ったし、不安だったけど、何だか今はどうでもいいって気がしてる」

「どうでもいい?」

「投げやりとか、それに対して考える事を放棄してるんじゃなくてさ。もっと大事な事が出来たんだ。それ考えてたら、そんな事、対して気にする事じゃないなって。代わりにお前がずっとおれの見たくない部分と向かい合ってくれたから、おれもそこと向かい合う事が出来た。それに、言葉だけじゃなくてちゃんと行動で示してくれたから、おれも過去だけに囚われないで、立ち上がって前を向かないといけないんだって思えるようになったんだ。だから、生徒会長がしたことに関して、おれ個人はもう水に流してるけど、罪は罪だからちゃんと清算してもらいたいと思うくらいだな」


 護は服飾科の被服室にいた。珠樹は驚くべき速さで仮縫いを進めながら口で呪文の様に散々小言を続けている。その間護は「ああ」と「すまん」の二言を発しながら、目は室内の観察に忙しかった。後ろの棚には沢山の種類の布があった。装飾に使う為の小物も沢山ある。そして隣の部屋には演劇部の衣装と小道具の部屋がある。

「何故演劇部の衣装を服飾科が管理してるんだ?」

「あんた、『ああ』『すまん』しか言わないと思ったら次は何なの?」

「ああ、すまん」

「宇野っ!」

 叱責されてもなお、護の視線はぐるりと辺りを見回している。もう言っても無駄だと珠樹は小言を言うのを諦めて作業を続けた。

「演劇部では管理出来ない量があるからよ。管理の仕方も悪くて、だからここでしてるの。現代劇で使う洋服ならまだ管理も簡単だけど、着物や単衣とか昔の時代の衣装とか、ドレスや民族衣装…そんな管理の面倒な物も沢山あるの。お金もかけて本格的に作ってあるから管理も手入れもきちんとしないと綺麗なまま保管できないでしょう。今回の文化祭は演劇部でも今ある衣装では出来ない劇をするらしくて、そっちも作らないといけないし、服飾科で出展する作品もあるから、早く手伝ってほしかったのに。散々メッセージ送ってるのに無視するし。こっちはお盆休み潰して殆ど学校に籠ってるのよ!」

 後半は八つ当たりで矛先が自分に向いている事に、護は不服に思ったが、また小言が始まりそうなので会話の内容を変えた。

「それは大変だったな。所で、お盆前から学校に戻って来たって?」

「ええ」

「生徒会長は学校にいたのか?」

「どうしてそんな事聞くの?」

「いや、もしかしたら地元が一緒かも知れなくて。帰省先で会った気がしたんだが受験対策講義にも出ると聞いていたもんで、人違いかと思っただけさ」

 珠樹は袖の部分を縫い合わせていた手をしばらく止めた。

「確か、夏休みが始まってすぐに実家でお悔やみがあったとかで帰省されてたと思うわ。宇野と地元が一緒かどうかは分からないけれど、そうだとしてもおかしな話ではないわね。生徒会で文化祭のミーティング中に何度か家の人と電話していたし。それから直ぐに受験講義をキャンセルしていたみたいだから確実な話よ。私はここが地元だから、先生達と文化祭の打ち合わせをする為に何度も学校に来たけれど、生徒会長はお盆前には帰って来て部活と追加の受験対策講義を受けていたみたい。何度も姿は見たし、文化祭の進展報告をするために部室まで行ったから」

「部室に行った時、生徒会長の竹刀、折れてなかったか?」

「変な事聞くわね」

 珠樹は思い起こすように一度手元から視線を外した。

「折れて無かったけど、新しい物だったみたい。大会に向けて新調したって部員たちに言っていたわ。ただ、まだ手になじんでないみたいだったけど」

 そこまで思い出して、また視線を手元に戻す。

「どうしてそう思ったんだ?」

「握りの感覚がつかめないとか言っていたの。でもその通り、打ち合いで何度も竹刀を落としてたわ」

「良く見ていたんだな」

「だって、生徒会長いつも煩いんだもの。集中している時は邪魔になるから声をかけるなって。特に稽古中は人が変わったみたいに乱暴で言葉も荒いし、キリの良い所で行かないと散々待たされるのよ。…そういえば」

「どうした?」

「いつもは遠巻きで待つ事になるから気が付かなかったけど、今回は生徒会長の追っかけをしてるその女子達が夏休みで居なかったから、近くで見れたんだわ。いつも人だかりになって部室の入り口や窓に近づけたことが無かったの。生徒会長の稽古、私、初めて見たけれど、確かに何かに熱中してる人は魅力的だというのは分かる気がした。最も、生徒会での威圧的な態度を知っている私としては、あまりお近づきにはなりたくないけど、女子って“身長が高くて頭が良くて堅物で強豪剣道部主将で生徒会長”という見た目と肩書きに弱い生き物なのね」

「山田珠樹はそういう女子の中に入らないわけか」

 護が小さく笑って言うと、珠樹は怒った表情を投げて来た。

「馬鹿にしないで!私はそんな見た目だけに弱い女子じゃないわ」

女子でも同等にされたくない。という珠樹の怒りのエネルギーは、再び手元に集中し始めた。スピードを上げて服の仮縫いに意識を注いでいる。

「確かに。お前は屈強な女子だ。それに潔い。俺としてはそんな女子の方が魅力的だと思うがな」

 クスリと笑って目を閉じ、大人しくされますという意思表示をした護の肩口を縫い合わせている珠樹の頬が赤く染まった事に、誰も気が付くことは無かった。

護が予想したとおり、真侍との誤解は綺麗に無くなっていた。しかしモデルの護に対しての興味は薄れなかったようだ。

 新学期早々、護が珠樹によって裁縫室に拉致され、缶詰にされる事およそ五時間は経っていた。にもかかわらず、野次馬が男女問わず賑々しく付いて回っていたが、珠樹も護も気に留める様子もなかった。いい加減二人が裁縫室から長時間出て来ない事に飽き始めた野次馬が一人減り、二人減り、最後まで窓の近くにいた女子がいなくなってなお、珠樹は作業を終えるまでの集中力と、それに対する護の忍耐は尽きなかった。

「ありがとう。これで後は一人で作業が出来るわ。お礼になにか私にしてあげられる事はあるかしら?」

 ようやく仮縫いのすべてを終えた珠樹が後片付けをしながら護に言う。護は携帯に受けた真侍からのメッセージに返信しながらふと顔をあげた。その方向には演劇部の衣装が保管してある部屋があった。

「あるかも知れない」

 その様子に、珠樹は少し首を傾げ、同じ方向を見た。


 真侍が護と再会したのは夕方の事だった。部活で遅くなる生徒以外はさっさと帰宅していた。

 真侍は休み時間に本校学舎のごみ収集場へ走り、終業の鐘と共に広い敷地内のごみ収集場を一つ一つ回っていた。部活には適当に顔を出した。とりあえず、と思って顔を覗かせたが、萌乃の顔を見るなり夏休み前の記憶が思い出され、うんざりしてしまった。

そして気が付いた。

 もう自分はサッカー部に未練は無くなったのだと。

 さっさと部室を後にして最後のごみ収集場を覗いた所で護に連絡を入れた。返信はすぐ来た。

─こちらも準備は終わった。今日、日が落ちてから仕掛ける。それまでに裁縫室に集合。

 真侍は手の中のメモを落胆した気持ちで見つめてから集合場所へと向かった。


 日が傾き、薄暗くなった剣道部の部室。生徒会長の岡田俊輔は面を取り、片隅で自分の右手の防具を見つめていた。部員はもう全員帰っている。いつもいた追っかけの女子もいない。しんと静まり返った空間に一人佇んでいるその男は、誰が見ても苛立っていた。左手で竹刀を持って何度か勢い任せに振るう。しかし利き手である右手の様に繊細で強い突きやしなやかな払いではなく、荒々しく分散した当たりだ。目の前にある巻き藁を感情に任せて打つと、何度目かで竹刀は左手から離れた。溜息にすら乱暴さを交えながら竹刀を拾いに行く。

「遅くまで稽古に精が出ますね」

 入り口から声がした。

「お前は…」

 そこに立っている人は、薄暗がりの中でぼんやりと、白い光を纏っている。それは着ている物がそう見せているのだと、視界が定まって岡田は思った。長い、黒い髪が結ばず下ろしてある。それが白いと対照的な印象を持たせた。古典の教科書で見た白拍子の衣装だった。

「宇野護」

「はい」

「なんの様だ。軽々しく剣道部に入るな。例え身内でも手の内を明かさないのが剣道部のルールだ」

「そうですか。だから最近、あなたに熱を上げる女子生徒がこちらに来ないわけですね」

「用がないならさっさと出て行け」

 忌々しそうに言い放つ岡田に対して、護は気にせず続けた。

「右手、どうしました?」

 護は防具の上から長浜の右手首を見た。咄嗟に隠す。まるで見透かされている様だったのだ。

「怪我をなさっているのですか?」

「関係ない」

「あなたから見ると、随分ひ弱な一年生からの小手突きでも竹刀を落してしまうほどだったそうですね。転んで捻挫したか、或は豪傑な男にひねり上げられたか」

「お前に説明する必要は無い。出て行け」

「こちらにはあるんです。岡田俊輔生徒会長。森塚勝也さん達からは丸太というあだ名でしたね。そして、谷岡中学の生徒を金で操って桜ヶ丘中学の生徒を恐喝させていた首謀者のMでもある」

 岡田は無表情だった。

「勝也を意識不明の重体まで痛めつけ、俺の親友である宮本真侍に傷を負わせた。ちなみに、学校の壁に「宮本真侍は犯罪者」だという貼り紙をしたのもあなたです」

「一体何の根拠があって失礼な事を言うんだ。僕は宮本真侍なんて奴は知らない。有名なモデルか何だか知らないが、名誉棄損も良い所だ。僕の学校からさっさと出て行け。さもなくば追い出してやる」

岡田が左手の竹刀を握りしめる。護は無視して話し続けた。

「なるほど。あなたがどうして真侍や俺に危害を加えたかったのか、ようやくわかりましたよ」

「何?」

「ここが、この学校があなたの世界の全てだったんですね」

 護は音も無く、剣道部に入り込んだ。光は護を覆っている。その様子を、岡田はその姿を忌々しく睨みつけた。

「自分が一番で絶対的な存在になれるこの学校に、自分よりも目立つ存在が現れた。俺です。始めは気にしていなかったけれど、同じ視線にいた真侍にまでスポットが当たり始める。まぁ、あいつは気付いてないが、本来のあいつは男女問わず人気がある存在だから。今までそれを隠し通して来たのは本人の意図的な意思からで、そうしなくなったから自然と目を引いても仕方なくなる。…だがつまり、あなたは自分が誰からも称賛されるべきこの学校で、自分以外の存在の人間が目立ち始めた事が面白くなかった」

 岡田は動かずに護を凝視している。

「でも俺を攻撃しようにも材料が無い。お母さんが再婚されたそうですね。俺の母も再婚したんですが、淋しくはないですか?」

「ふざけるな!」

 岡田の語調が強まった。

「去年から学校が大がかりな建て替えをしたそうですが、裏で岡田さんのお父さんが出資しているのでは?生徒の立場で先生に強く意見できるのも、そうであれば理解できる。でもいくら学校と癒着して思い通りになるあんたと言えども、俺の情報は宇野の組織と事務所が絡んでいるから手の出しようがなかった」

「呆れた想像力だな」

 吐き捨てる様に言われるが、護は構わず続けた。

「でも真侍は違う。どういう人間か調べようと思ったら調べられない事もないだろう。職員でも校長でも自由に動かせる優等生の生徒会長が、ただの生徒の内申書を見る事くらい造作もない事でしょうからね。そして弱みを知った真侍から攻撃することにした」

「バカバカしい。何を根拠に言ってるんだ」

 暗くなった部室の明かりを点ける者はいない。薄暗い部屋には岡田と護だけで、誰もいる気配が無かった。岡田は自分の荷物棚に寄り、竹刀を置いた。防具も脱いで置く。物音が止むと換気扇の音だけがやけに耳に障った。

「あの時、あの場所に貼り紙を出来るのはあなただけだ。成績表の上からさらに大きな白い紙を貼って置けば、あの場では余程壁に注目する人間がいない限りは気が付かれることはない。でもいた。俺です。あなたはあの野次馬の中に紛れ込んでいて、他の連中が俺達に気を取られている隙に、例の貼り紙をした。あなたの身長ならば数秒あれば出来るでしょう」

「仮に僕がそれをしたとして、そんな偶然が起こるか分からない場に居合わせられるか?お前の言っている事は推測にしては適当すぎるようだ」

「同じ生徒会の山田珠樹に、俺が男かどうか怪しい、真侍との関係は男同士の割には常に行動が一緒で不自然だ。もし俺が女で異性交流があったらそれは風紀を乱す事になる上にスキャンダルで学校の評判が悪くなる。とでも言い続けていたら、真面目な山田の事だ、切っ掛けさえあれば直ぐに物申しにやって来るだろう。あなたは、真侍の事を調べにサッカー部に偵察しに行き、高橋萌乃が真侍に好意を寄せている事に気付いた。それを利用して焚き付けた。宇野護は女以上に美しい。本当は女なんじゃないか?いつも一緒にいるみたいで最近では部活の練習にも身が入っていないようだ。とでも吹き込めば、生徒会役員と同じ教室の生徒なら風紀面で注意して貰いに頼るのもおかしくはないし、山田の性格を知る生徒なら大抵そうするだろう」

 ふわり。と、窓から風が入ってくる。その風が護の髪と衣装を揺らす。まるで幻想的な風景に、しかし岡田は興味すら示さなかった。

「証拠は?」

「ありません」

 嘲笑した岡田の表情に、護も薄く笑っていた。その様子に、岡田は不愉快な表情を張り付けた。

「何がおかしい」

「しかし、真侍の事は知っていた。あなた自身、真侍を知らないという割に、俺の制服を破った事を知ると真侍の事を馬鹿力だと言った」

「たまたまサッカー部の様子を見た時にあいつが馬鹿力を使っている所を見たんだ」

「ではやはり、サッカー部の、いや真侍の事を調べに来ていたんですね」

「違う!生徒会長として、廃部寸前の部を調べただけだ」

「生徒会長の管轄外でしょう。そんなに生徒思いだとはお見受けしませんが?」

「それは僕が決める事だ。失礼なやつだな」

「それにしたって、サッカー部の練習で腕や手を使う事は少ない。いくら真侍でもボールを持っただけで破裂させはしないでしょうからね」

 護は心当たりがある、という風に続けた。

「ただ、昔真侍のドッチーボールの剛速球を嫌と言うほど経験していれば別の話です。親分を庇って仕方なく受けていたなら、記憶に焼き付けられても仕方ない事でしょう。ちなみに、俺の制服を破ったのは真侍ではなく山田珠樹です」

 岡田は深い皺を眉間に寄せた。誘導尋問されているのは明らかだった。護もそれを隠そうとはしない。

「竹刀を新調されたそうですが。前の物はどうしました?」

「答える必要はない」

「真侍に折られた。俺達を襲ったあの商店街でだ。右手のその傷も真侍に握られて出来た物でしょう」

「これは稽古中に転んで捻挫した。打ち所が悪かっただけだ」

「丸太と呼ばれていた巨漢を勝也親分にも負けない立派な体躯に鍛え上げるのに、格闘技を散々されたのではないですか?剣道はその一部で、強豪である青山高校は自分が君臨するために来た。学業も相当励んでおられたんでしょうね。文武両道の人が、剣道の命でもある右手首を捻挫するほどに転倒するとは、なかなか考えにくい。受け身くらいとれそうですけれど」

「僕だって完璧な人間じゃないさ」

「完璧な人間はいない。でも、完璧になろうとするあまり、足元が見えない事もある」

「どういう意味だ」

「真侍に折られた竹刀は、実はまだごみ収集車に集められてはいませんでした」

 空気が変わった。岡田は僅かに目を見開き、護を見はる。

「お盆休み後でも夏休み期間中で、ごみの収集は学食がある本校学舎しかしていませんでした。あなたはわざと目につかない遠くの施設のごみ捨て場に折れた竹刀を捨てましたね?」

「確かに僕は竹刀を新調した。それが折れた事を理由にしたとしよう。でもそれがどうして宮本が折った僕の竹刀という事になる。何の証拠もないじゃないか」

 岡田は冷静に言っていたが、言葉尻には焦りを含んでいた。

 風が吹く。

 護の髪が、大きくゆらいだ。

「あの時俺達を襲った竹刀は、俺の髪を打った。その時、俺の髪は竹刀の弦に引っかかって何本か千切られました。真侍が折った証拠は無くても、俺の髪が絡まっていたら、それは立派な証拠になる。俺の髪は黒い。この学園で黒く長い髪の人間は中々いないでしょう。あなたの竹刀が練習中に折れたとしても、長い黒髪が絡まる確率は極めて低い事だ。人目に付かない様に暗くなってから処分したのが仇になりましたね。暗い場所で、黒髪は目立ちにくい…。ついでに言うとあのナイフも警察に証拠品として提出しました。あなたの指紋や血痕が出なくてもシリアルナンバーでどこの誰が買った物かが分かるそうです。日本と言う国はセキュリティが甘いのか厳しいのか解りにくい国だが、今回に限っては両方に感謝しますよ」

「嘘をつくな」

「嘘なんかじゃない」

 リン。と鈴の音がした。護が白拍子の袖の中から取り出した五十鈴の音だった。一定の拍子で音を鳴らし、窓際まで静かに歩みを進める。

「髪の語源を知っているか?」

 窓の前まで行くと、何度か鈴を素早く鳴らした。そして踵を返し、歩みを進め、一定の拍子で鈴をならす。

「髪は元来、神を宿すものだそうだ。昔から出家する時に髪を剃り落とすのは、自分の中の荒神を落とす為だった。高貴な身分の人間が身を窶すのに髪を落とすのは傲慢な神を落とすためだ。今でも力士が引退して断髪するのはその名残。そして─」

 護は一層強く鈴を鳴らした。岡田は瞬きも出来ずその一部始終を固唾をのんで見ていた。

「この俺の、宇野も祖先を辿れば、霊名名高い陰陽師の末裔である。時代は平安から鎌倉、室町、江戸と過ぎて分家されて行った。俺はその中でも先祖がえりを果たした者だ。その俺の髪がまとわりついたんだ、そう簡単に取れるわけがない…」

 神々しくもあり、狂気じみてもいた。薄暗い空間に黒い髪がまるで生き物の様になびいている。外の月明かりを受けた、白拍子の衣と、護の肌が一層青白く浮かび上がらせた。

「馬鹿なこと言うな!竹刀は本校舎のごみ収集場に捨てた。きちんと証拠が無いように確認したんだ。お前の髪なんて付いていなかった!ちゃんとこの目で確認したんだ!」

「言っているだろう。俺の髪は人のそれよりも神が宿りやすいんだ。友人に傷を負わせた事で恨みも強くなっている。知っているだろう?恨む力と言うのは昔から何よりも負のエネルギーがある事を」

 ゆるり。ゆるり。と歩みを中へと進めていく。

「俺は神代。神の権化」

 神々しさと不気味さが混在していた。闇の黒と、月明かりと、服の白がそれを際立たせている。護が何かの化身に見えた。

「神の力の前で懺悔しろ」

「ふざけるな!」

 恐怖を払拭するように岡田が叫び、護に向かって飛びかかっていた。護は扉を大きく開けて素早く体を廊下側にひっこめた。その刹那、空を切る音と、バリバリと電気音が護のいた場所で鳴った。それは岡田の手の中にあった。右手にはスタンガンが、左手には刃幅の広いナイフが握られている。

「お前みたいな薄気味悪い奴が僕の学校にいて良い訳がない。僕の力で追放してやる。やっと手に入れたんだ。勝也の子分でも、誰の子分でもない。僕自身が主である場所を。やっと僕に光が当たる時が来たんだ。それなのにお前が現れて、話題はいつもお前たちになった。この学校の話題の中心は、僕でなければいけないのに…」

 岡田の言葉は半狂乱になって行く。

「僕はここでは優等生で、優秀な成績と剣道でこの学校を有名にしてやった。母親の再婚相手の馬鹿医者なんて、裏で暴力団と繋がってるからのし上がっていったんだ。学校があいつらに融資してやっているのも僕のおかげだ。そんな汚い金を使ってここまでこの学校を大きくしてやったんだ。だからこの学校の馬鹿な大人達も僕には逆らえない。ここは僕の城だ。僕が支配者だ」

 岡田の左手が護を狙った。護は身をひるがえし、一歩下がった。岡田は追って廊下に出る。

風が吹いている。

 部室内では感じなかった、些か強い風だ。しかし気にせずに護の方へと殺意に満ちた視線を追わせる。右手ではバチバチと火花が散る音がする。左手のナイフは背後に隠されていた。白く、長い着物と黒く長い髪が追い風に流れている。後ろに大きな人影があった。

「宮本真侍…」

 怒りと憎しみに満ちた音で、岡田はその名を呼んだ。真侍は黒い服に身を包んで短い木刀を持ち、岡田と対峙していた。数秒間の睨み合いが続く。青い非常灯が廊下を不気味に照らし、風は徐々に強くなっていく。護は鈴の音を響かせた。一歩ずつ下がるごとに鈴を鳴らす。

「宮本真侍。その名は真実たる力をもった侍。八百万の神の権化、宇野護の命によってその体には風神を宿らせ、足は韋駄天。只今より祈りによりて、人でなき神の力を解放させる」

 護が右腕を上げて五十鈴を激しく振るった。口では何かを唱えている。強風が吹く。まるで嵐の様に。岡田は恐怖に満ちた表情で護に襲いかかった。護の背後から真侍の腕が素早く伸びた。木刀が掠る。岡田の右手のスタンガンがバリバリと青白い火花を散らす。同時だった。真侍の木刀がひるがえり、岡田の小手を強く打ってそれを叩き落とした。続いて岡田を襲うのは真侍の黒く、強靭な蹴りだった。追い風が後押しするように力を加重させている。岡田はそれを横に避け、右手にナイフを持ちかえた。

「この人殺し。お前は犯罪者だ」

 いやらしい笑みを浮かべて、岡田は目の前の真侍に呟いた。

「対戦相手を殺した感触はどうだった?忘れられないだろう?僕も一緒だよ。優等生は退屈でさぁ。だから地元に戻ると箍が外れて暴れたくなるのさ。逆らえない相手を滅多打ちにする感触は最高だろ?助けてっていう望みを絶ってやる時の、あの快感は最高さ。勝也の野郎、あの吉岡って女に毒気抜かれやがって、すっかりつまらないヤツになっちまった。でもそのおかげで僕が地元でも一番強いヤツになった。丸太は雌伏じゃない。Mになって帰って来たんだ。最悪最恐のMに。どうしてMって言う名か教えてやるよ。昔はあの辺の連中は勝也の名前に皆ビビってた。でも今は、僕が勝也の場所を略奪してやった。報復だ。昔の連中が、僕が愚図でのろまだった勝也の子分だった事を知った時表情ったら最高に見ものだぜ。あのビビった奴らのバカ面!怖くてちびりそうになるガキどもの顔。その後本当に滅多打ちにされて半殺しだ。でも、お前は殺しちゃったんだっけ?」

「殺してない」

「殺したのと一緒だろ?そいつの人生メチャクチャにして相手の家族もお前の家族もグチャグチャになったんだからなぁ」

  ぎゃはははははは。

 廊下に響いた下品な笑い声は、風の中に消えた。

 鈴の音がした。

 岡田は我に返ったように笑いを止める。

 鈴の音がした。

 強い風の中で尚、美しく響いている。

「言葉は力を宿すもの。使う方法によって人を救い、または人を潰す。俺は言霊師。俺の言葉は力が宿っている」

 護は真侍に向かい合った。

「真侍、もう力を解放しても良い時だ。お前の力が、誰かを傷つけることは無い。名の通り、真実、侍は人を守り、生かす存在だからだ。お前がその名である限り、命を奪う拳は出せない」

「護…」

 護は強くうなずいた。

「今、お前にすべての世界を渡って来た風の神、風神の力が宿っている。真侍、お前は風の神だ。この風は全てお前がおこしている」

「本当か護?」

「本当だ」

 強く、風が吹いている。

「行け」

 護はもう一度鈴を鳴らした。また風が強くなる。真侍は床を蹴った。木刀を振り下ろす。岡田がナイフでそれを受けた。勢いで木刀の先が切り落とされた。岡田がナイフを翻そうとした。瞬時の出来事だった。岡田は背に強い衝撃を受けて昏倒した。真侍の右回し蹴りがその背を強打したのだ。動かなくなった岡田を確認してから、護は廊下の電気を点けた。

「とりあえずガムテープで動けない様にしておこう。おい珠樹、もう出てきていいぞ」

 剣道部の部室から珠樹が出て来た。複雑な表情をしていたが、護の顔を見るなり早速小言を飛ばした。

「何でもお礼言ってとは言ったけど、各部室の窓を順番に開けていくの、物凄く大変だったんだから。ちょっと人使い荒すぎ。あんた達がやり取りしている間部室に忍び込むの、ものすごく怖かったし」

「怪力の珠樹が良く言う」

 護が笑って言う。

「どうでもいいけど、衣装汚してないでしょうね?貸したのバレたら怒られるのは私なのよ?」

「山田委員長様の手に掛かれば多少破いた所であっという間に魔法の力で直してくれるだろう?」

 屈託なく笑う護と、一層怒りを露わにする珠樹。ポカンとしているのは真侍だった。

「護…なんで教えてくれなかったんだよ」

「…何がだ。今回のお前の動きはちゃんと教えた通りだ」

 お疲れさまだったな、と護は笑顔で言う。

「違うよ!お前がナントカ師だか魔法使いだったって事だよ!」

「は?」

 今度は護がポカンとする方だった。

「風の神様の力をおれに宿すなんて聞いてなかったぞ。びっくりするじゃないか!でもそのおかげでちょっと体の感覚取り戻したけどさ。しかし、すげぇ力もってたんだな」

「宮本、それ本気で言ってんの?」

 言ったのは珠樹だ。

「本気も何も、あの風は風神の物なんだろ?」

「宇野ッ!」

 叫んで珠樹が護を睨む。

「敵を騙すにはまず身内からだ」

 ははは。と護は軽く笑った。

「どういうこと?」

 狐につままれたように、真侍は護と珠樹を交互に見た。

「言霊師は言葉ダマシってことさ」

「…ちょ…それってどういう事だ⁉」

 真侍は目を白黒させた。

「つまりさっきのはぜーんぶ宇野のはったりって事」

 呆れて珠樹が言った。

「はったり?嘘って事?だって風もすごい吹いてたじゃないか!」

「全部の部室の扉を開けて風の通り道を一か所だけにしただけさ。お前の夏休みのプリントが通気口に張り付いていたので思いついた。悪臭を排出する換気口の風力、それも全部の運動部の分を一か所だけ開けた扉に集めるとなると、相当な風圧になってもおかしくはない。まぁ、そのために五時間以上は珠樹のモデル人形をしたんだ、これで貸し借りなしだろう」

 護は可愛らしく笑った。珠樹はそれを不服そうに見る。真侍は状況過程を飲み込むのに必死だった。

「証拠がほとんどなかったんだ。お前の調査の結果、本校舎のごみ収集は殆ど毎日来ていたみたいだし、遠くのごみ捨て場に証拠を捨てるほど生徒会長も知恵が回らなかったのは誤算だったけどな。そんなわけで、状況と言葉の思い込みで大抵の人間は騙されると言う所を利用させてもらった。前にも言っただろう?良い意味でも、悪い意味でも、記憶を利用する。後者は大勢だと難しいが、独りだとたやすいな。今回に関しては生徒会長が悪の親玉だったんだから、だまし合いも折半って事にしてもらいたいね。おかげで自白証言が取れたんだから問題ないだろ?事件解決で変態生徒会長にはこの学校から退場してもらおう」

「それなんだけど…」

 珠樹は携帯の録音機能を再生して、眉間に皺を寄せた。

「風の音が邪魔でほとんど証拠の音声が拾えて無いの」

 護と真侍は言葉を失った。

「ふん…風の神様の力は偉大過ぎたか…」


空港のロビーに護と真侍はいた。その一角にある居心地の良いカフェに、二人は腰を下ろしていた。窓際の大きなガラス越しに二人は空を見た。横並びに置いてある豪奢なソファが二人の体を沈める。

 あれから、岡田俊輔は警察に引き渡した。会話の一部始終を録音している、という文句は彼を出頭させ、自白させるのに充分な証拠として残った。護も真侍もいくらか警察に事情聴取を受け、大人たちに散々説教を食らわされて事件は幕を閉じた。学校と岡田の父親の運営する病院は、暴力団と癒着している疑いで摘発され、行く末は案じられている。その結果に二人は興味はなく、護は日本をたつ事にした。真侍もこれを機に、新しい目的で学校を探すという。

「今度は勝手に消えなかったから許してやるよ」

「俺としては、今度はお前の旅立ちを見送る役をしたかったんだがな」

 護の返答には少しの皮肉と、そして期待と喜びの色があった。

「仕方ないだろう、おれはお前と違って自立してないからな、学校も新しく探して卒業しなくちゃいけないし」

「そんなことは無いさ。ここにいるとつくづく俺も子どもだと痛感させられる」

 護が諦めたように吐息を漏らす。

「家族は家族を心配するもんだ」

 真侍がしっかりと言った。そしてサイドボードに置いてある大きなマグカップに入った珈琲にスティックシュガーをもう二本追加していた。

「またどっかに行くとは思ってたけど、こんなに直ぐだとは思わなかった」

 ミルクと砂糖で珈琲の苦さが消えた飲み物を一口含み、真侍が言った。

「お前がどうしようもなくグダグダだったら一年は残るつもりだったさ。でも、もう心配なさそうだから、俺は俺の夢を追う事にした」

「オフクロさんの所か?それとも、事務所に戻るのか?」

  真侍はそう言ってからはっとした。護に怪我させたことや、髪を傷めた事を思い出したのだ。護から事務所の社長の事を聞いたことは無いが、真侍は外国の映画やアニメに出てくるような太ったマフィアのボスが、自分に向かってマシンガンを乱射させ、穴だらけにする所を想像して身震いした。伺う様に護を見ると、護はカップに視線を落としていた。目を閉じで首を横に振る。そして確信した様に目を開いて真侍を見た。そこには強い光があった。

「知らない言葉を探しに行く」

「…知らない言葉?」

「ああ。世界は広い。まだまだ知らない場所がある。知らない国があって、知らない言葉があって知らない神様がいて、知らない風習がある。日本語の表現は細かいと言われているけど、それがどこまで真実なのか、俺は知らない。もしかしたら、日本語表現よりももっともっと沢山の繊細な表現や意味をもった言葉がこの世界にはあるかも知れない。逆に少ない言葉が多く意味を担って使っている国だってあるかも知れない。俺はそれが知りたいんだ」

 護は楽しそうだった。そんな楽しそうな護を見て、真侍も破顔した。

「護、やっぱりお前の使う言葉はすげぇ力を宿してると思う。おれに風の神様が宿っちゃうくらいに!」

「え?」

「色んな奴がだまされちゃう位に、お前の言葉には力がある。だから本物の言霊師になってくれよ」

「…本物の、言霊師」

「そう。良い言葉で人を救う、言霊師」

 護は静かに珈琲を飲んだ。

「俺の言葉に、誰かを変える力があるだろうか」

「少なくとも、宮本真侍を変える力はあったぞ」

 真侍の自信に満ちた答えに、護も満足そうにうなずいた。

「それは大きな心の支えになりそうだ。そういや、お前はどうするんだ?」

「とりあえず、学校は卒業するよ」

 少し冷めた甘い飲み物を、豪快に飲んで真侍が答えた。

「今は、教師になりたい。新藤先生みたいな、吉岡先生みたいな、あとおやじみたいな先生…というか、武道家にもなりたい」

 最後は少し照れて言葉が小さかった。

「とにかく、生徒にとって最高の先生になってやるんだ!」

 護は嬉しそうにうなずいた。

「いつか、一緒に仕事が出来たら楽しそうだな。言葉で世界を変える言霊師と子どもに人気の教師」

「世界の教師か!悪くないな」

 真侍は目を輝かせた。世界中の子ども達が幸せになれる教育をして、家族の様に触れ合える教師。人との、子ども達との間に壁は無い。最高だ。真侍は空想で希望を膨らませた。

「先進国では情報の届かない密林の地に最新の技術を入れようとしている所もあるんだ」

 夢心地にいた真侍は、護の神妙な空気で現実に戻って来た。

「でもその土地を守って生きる人たちは拒んでいる。きっと体で解ってるんだ。物資や知識の豊かさを、家族との交流や人との繋がりと引き換えに得ても心は豊かにならないって事を。彼らの使う言葉数は少ない。でも充分に分かり合えている」

 護は中空を眺めていた。それは窓ガラス越しの、遠い遠い国に注がれていた。

「彼らは自分に必要な物をその日必要な分だけ使う。食べ物、衣類、時間、全てだ。例え災害にあっても誰も恨みはしない。だれも欲深く無く、お互いを支え、あるものを分け合って生きている。それで満たされているんだ」

「そんな所に、教育は必要なんだろうか…」

 出鼻を挫かれた思いで、真侍は少し肩を落とした。

「それは、お前が決める事じゃない」

「だって、さっき必要ないみたいに言ってたじゃないか」

「そんな事は言っていない。誰にも世界を知る権利はある。そういう世界がある事を知ったうえで、学ぶ、学ばないは相手に選択権があるものだ。お前の与える教育が、新しい世界に羽ばたく子ども達の手助けになるきっかけになったら、それは素晴らしいと俺は思う。一方で今の生活を選び、守り続ける者もきっといるだろう。決めるのは誰かじゃなくて、自分自身さ。自分の主は自分でしかないんだからな」

 空港のアナウンスが聞こえた。護のマグカップの中にはまだ珈琲が半分も残っている。しかし護は立ち上がった。

「じゃあ、またな」

 真侍は残りの飲み物を飲み干して立ち上がろうとした。しかし、護はもう先を歩いている。

「ちょっと待てよ。搭乗口まで見送るって!」

「それは遠慮する」

 護は立ち止って言った。

「あまり仰々しく見送られると、今生の別れの様な気がしてくる」

 友の声が、少しだけ震えて聞こえた。

「今度はおれが、お前のピンチの時に駆けつけてやるよ!」

 背を向けた友は、一瞬だけ振り返ろうとしたが、また姿勢を前に戻した。

「…期待している」

 少し笑ったように肩を震わせて、その姿が離れていく。友の姿が見えなくなるまで、真侍はその場で見送った。

 

                                               終

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