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コトバダマシ  作者: 岡本 そう
3/4

学生期

二言葉目。

「宮本真侍」


 青山私立高等学校。山頂に建つ高校である。近辺は山に囲まれており、敷地は広い。

 昨年度に大きな建て直しがあり、それに伴いスポーツ学部、芸術学部、理工学部に分かれている。洗練されたデザインの本校学舎を中心に三つの学部の建物が囲む。一つ一つの建物に趣向が凝らしてあった。

本年度から有名大学も注目している私学の一つに入った。各学部の専門分野の入り口にあり、希望によってより専門的な知識を学べる。山上にあるため勉学や専門学に集中出来る。俗世から離れる分生徒は安全かつ健全に青春期を過ごせる。後者はあとで保護者が付けた、隠れた謳い文句だったが、全国では評判は悪くない高校だった。

 敷地の最南端に女子寮と最北端に男子寮が配置されている。全寮制ではないが、田舎の山奥という事もあり八割の生徒は寮生活をしていた。校舎同様、有名なデザイナーがデザインした制服の評判がよい。理由の一つに、進学に迷う子どもに蒔くエサとしては有効なものだった。親も子も、はっきりした進路がなければ謳い文句に誘われて入学希望者は右肩上がりになった。学力さえ釣り合えば、子どもを取り巻く環境は保護者として安心なものだった。

 適当に中学校を卒業した学生は、山中の田舎の割に青学の整った学習、生活環境にさそわれて入学する。ここを卒業したら将来迷う事はない。そんな意識を植え付けられる。しかし入学して数か月もすると、親の計略にかかった事に気付く。

 敷地内にはコンビニや買い物が出来る店が至る所にあるので生活必需品はキャンパス内で揃う。だが、友達と群れて遊ぶ場所が無い。思春期の年頃の男女がデートできそうなめぼしい所も一切ない。買い物できるところは常に教員や職員の目がある。

 息の詰まりそうなキャンパスから外に出て、自由を満喫しようと思ったら、山を二つか三つ超えなければならない。便利と見せかけて実は相当不便な学校だったのだ。

家から学校まで通う者もいる。山頂にはケーブルカーが通っている。これも昨年度の工事で取り入れられたものだ。授業のある時間帯だけ運営されており、山の麓や通学時間に問題ない地域に住む学生はそれを利用していた。

 他には良家の利用者が許可を得て車で通学している。そうでもしないと、校門から本校舎までたどり着くのに走って十分以上はかかるからだ。

 山頂に似つかわしくない豪華な造りの私立高校の本校学舎の入り口に、一人の男子学生が立っていた。

『自立・誠実・貢献』

 校風が威厳のある校長の像の下の石碑に彫られている。両方真新しい所を見ると、それも昨年度建ったものだろう。何処を取ってもまるで非の打ち所がない完璧をうたわれた高校に、返って居心地の悪さを感じる。まだ裏の事情を知らない男子生徒は像の背後にそびえたつ、校舎とは思えない洒落た建物、洗礼されつくした庭木をしばらく眺めた。

 初夏の風が、サラリと長い黒髪をなびかせる。新しい制服を身に付けた男子生徒は表情もなく本校学舎の職員室へと向かっていた。


 広大な敷地にある、本校学舎から遠く離れた広い芝のグラウンド。サッカー部の部室はそこに隣接してある。建て替えと共に知名度の高い部活は本校舎の近くに移動した。同時にそれはマイナーな部が目につきにくい不便な場所へ移動することでもあった。マイナーではないと言い切る部からは非難されるが、授業が終わって部室に移動するまで距離があるのは、宮本真侍にとって、ありがたい事だった。

 青学の運動学科で有名なのは野球、テニス、水泳、陸上、剣道、空手だ。サッカーはここ数年評判が低い。本校舎から部室はうんと引き離されているのがそれを証明している。もとあったサッカー部は、真侍が入学する頃に飛ぶ鳥落とす勢いで有名になったテニス部と入れ替えになった。真侍がサッカー部に入って二年目になる。人数の問題でフットサル部に変更した方が良いのではと言う議題も生徒会で上がっていた、と顧問が言っていた。

 正直、真侍にはどうでもいい内容だった。

 何もかも、忘れるくらい体力を消耗させられたらそれでよかった。体がへとへとになると、嫌な事も余計な事も考えずにすむ。

 クッションの悪い長椅子に座り、着替える。いつもと同じ作業を、いつもと同じ日々の調子で繰り返す。部室が遠いから、と早めに教室を出て一人の時間を作る。同じ作業の繰り返しでも、こうして独りの時間を作れることが、真侍にはありがたかった。どこにいても誰かがいて、学校にいると独りの時間を作るのが難しい。自分に関心の無い連中と無意味な会話をして笑う事は既に苦痛だった。同級生との交流は高校生活の三年間で困らない最低限必要な範囲で良い。

 もう二、三十分したらほかの部員も来る。それからウォーミングアップをして基礎をして、練習をする。他の部と違い、恐ろしい熱量で勝ちたい連中がいない分、持て余した体力を削るだけでいいから楽だ。

 準備を終えて外に出ようとした時だった。外が騒がしくなった。真侍は一瞬だけドアの方を見たが、時間を確認してまた視線を戻した。他のメンバーが来るには早い。時期的に、どうせ鹿やイノシシや珍しい野鳥などが出たのだろう。自分も入学した時は珍しくて野次馬に入った。まだ五月も半ばで、山暮らしの新鮮さが抜けない一年生が鹿だ鳥だと騒ぐのだ。真侍はめんどくさそうにため息を付いてから。

 …しかし妙だ。と顔を上げた。ここは本校舎から離れたサッカー部だ。部員たちが来る時間でもないのに人の声がするのはおかしい。騒ぎは徐々にこちらに近付いて来る。

 訝しんでドアの方に視線をやった瞬間。

 バンッ!

 いきなりドアが開いた。電気も点けずにいた薄暗い部屋の中に急に光が差し込む。

「何だ…?」

 誰だ?と聞きたかったが眩しくて目が開けられない。体が誰かと大きく接触した。誰かが抱き付いて来たのだと確認するのに時間はそう必要としなかった。視界が黒い事に気付く。逆光を受けてキラキラとしている何か。それは艶やかな髪だった。まるでテレビのCMで見た様な流れる黒髪。その髪からも、自分を抱きしめてくる何者かからもいい匂いがする。自分の腕の中に入って来る体は細い。女性か。しかし女性にいきなり抱き付かれる予定は今日は入っていない。いや、今日も明日も明後日も入っていない。一体これは誰だ?

「Oh…! I`m glad to see you finally!」

「うわあぁあ!すみません!」

 外人か⁉

 人違いだ。慌てて自分の体からその体を引き離す。真侍はその人の顔を見た。白い肌。顔の割に不格好に見える大きめの黒縁の眼鏡。何故かその眼鏡をどこかで見た記憶があったが、次に見た切れ長の目に、呼び起こそうという作業は忘却の彼方へ押しやられた。黒い瞳は大きい。何より印象的なのが髪だった。まるで平安時代の絵巻物に出てくる女性さながらである。

 同じ人間とは思えない作り物の様な人間だった。見た目はどう見たって日本人だ。しかし先程、英語を話していた。

「えっと、人違いでしょ?」

「I wonder why…You are Shinji?」

 外国の女性はハスキーボイスだと聞いたことがある。でも目の前にいるこの人物は、見た目は日本人なのに英語を話している。達者で何が言いたいのか聞き取れないが、かろうじて最後の“シンジ”は聞き取れた。

「いや、シンジだけど…君は誰?」

 すっかり混乱して使い物にならない頭を抱えながら、改めて相手を観察する。男子の制服だ。男か?それとも男装が好きな見た目が日本人の外国人女子なのか?

「すいません、おれ日本人みたいな外国人に知り合いいないんだけど…」

「I see! 日本語か!…日本語?この言語で合ってるのか?」

 ドアの所で一部始終を見守っていた野次馬連中に対して、その性別不明のコスプレ人が問うた。野次馬連中は興味深げに何度もうなずいている。

「良かった。さっき職員室でも大変だったからな。派手な謳い文句の割に語学専門の教師がほとんどいない事に驚いた…」

 呟きながら、男は長い髪を後ろに払いながらドアの外の野次馬を見る。

「案内ありがとうございました。明日からよろしくお願いします。もうお帰りいただいて結構です。では」

 形だけで一礼して強引にドアの前の人を追い払い、閉める。そしてまた真侍の所に戻って来た。頭の中が正常に機能しない真侍は、目を白黒させながらその人の行動を見守るしかなかった。

「あの…それで、誰?」

 包み隠さず言った。取り繕う言葉すら出て来ない。

「何だ、親友の顔も覚えてないのか」

 コスプレ人も真侍を上から下まで眺める。

「って言っても、俺もお前の顔忘れてたけど…まあ、小学二年の時の記憶しかないから仕方ないな。しかし、茶髪に側面刈り上げとか、良く隆さんが許したもんだな」

 変わりすぎだろう。と零した相手の言葉の中に紛れていた「小学校二年生」というキーワードを拾う。

 …まさか?

「護か?あの護?宇野護?」

「You`re right!」

「本当に宇野護?いや、変わったのはお前の方だよ!何だよその姿は!」

 言って真侍は過去の護の映像を必死で呼び起こす。自分よりも頭半分以上は小さくて、表情は乏しくて、並んで歩いていても後ろからついてくるようだった。

「なんかもう変わりすぎて…」

「どんな風にだ?」

「話し方ももっとボソッとしてたし。なんていうか大人しかったっていうか…」

 言いながら過去の護と目の前の護を照らし合せてみる。黒い髪はおかっぱから長髪になった。顔もパーツの位置的に大人らしくなったがそんなに大きな変化はない事に気付いた。眼鏡は大きくてサイズの合わないそれだった。今は顔の大きさよりも少しだけ大きい様に見えるが困るほどでもなさそうだ。体も子どもの頃から細かった。

 そう思えば、何がこうも彼を変えたように見せるのか。巧妙な間違い探しのようだ。腑に落ちない。

「お前だってもっと真面目だったろ。単純なところは変わってないけど。そのいかにも軽率な髪型は何だ?」

 護の率直な言葉は、真侍を沈黙させるのに十分だった。沈黙長さは、真侍の自省に比例した。

「俺はお前に会いに日本に帰って来た」

 俯いてしまった真侍に向かって、護は話し続ける。

「出国手続きをして、お前の居場所を調べて、転校手続きをした。話せば長くなる。そんなわけで明日からここで世話になるから挨拶に来たんだ。てっきり空手部にいると思っていたけどな」

「わざわざおれに会いに遠い国から帰って来たのか?」

「ああ、そうだ」

 何か変か?と問う護に、真侍は返答に困り、また黙り込んだ。

確かに小学校の頃、護は親友だった。しかしそれからもう十年近い時が流れたのだ。自分はそんな事をしてもらうほどの人間なのか、理解に苦しむ。

 護との別れは唐突だった。いきなり新学期から来なくなった。護が外国に行ったことを知らされたのは、その時の学童の担任の吉岡環からだった。

 母親が一人になるから、自分が傍にいてやらないと。と、父親の葬式が終わると迷わず母の仕事場のある国へ行ってしまった。

 宮本家の人に何も言わずに。真侍に挨拶もなしで。

 環から真侍あての手紙を受け取ったのは始業式後の事だ。


「真侍へ。

 短い間だったけど、仲良くしてくれてありがとう。

 お前は、俺が一番しんどかった時に、傍にいてくれたから、今度はお前が一番しんどい時に、傍にいるからな。

約束する。

 離れてても、ずっと親友だからな。

 さようなら。

                                                  宇野護より。」

 手紙の内容を読んでも、しばらくはその意味が理解できず、ほとんど毎日机に座るとその手紙を広げていた。穴が開くほど読み返し、次第にその手紙読まなくなった。気が付くと無くなっていた。実家のどこかにはあるのかも知れない。しかし記憶にない。もうその手紙がどこに行ったのか分からない位時間が経っているのだ。忘れても仕方ない。繰り返し読んだ内容だけは記憶にあった。

「一番しんどい時に傍にいるって約束したろ?」

「………」

 真侍は視線を落とした。何か激しい物が突き上げてきそうになった。

 …一番、しんどかった時


 薄暗い部屋の中。

 甦って来る記憶。

 どうしてこんなに苦しいのに、誰も何もしてくれないのか。

 誰でもいいから助けてほしい。

 そういえば、助けたって覚えはないのに、誰かが感謝してくれた。

 感覚だけは覚えている。

 なんて言う奴だったっけ?

 思い出せない。

 もういい。

 思い出せない相手なら、新聞の中に出てくるエライヒトタチと一緒だ。

 どうせおれを助けになんて来てくれない。

 だってそいつは、おれが苦しんでいる事を知らないだろうから。


 でも、そいつは誰だったっけ?


 そんな風に考えていた事すら、忘れた。思い出したくない苦しい記憶に蓋をするためにここに来た。そのはずだったのに…

「親の仕事場に情報が来るのが恐ろしく遅いんだ」

 護は申し訳なさげに苦笑した。

「何せその発掘現場はどんな相手だろうとそれに関わる一部の人間しか知らせてはならない決まりだからな。機密事項なんだと。うんと遠く離れた日本の、小さな子どもの情報は、ほとんど入って来ないに等しい」

 思い起こすように、護は遠くを見つめた。

「数か月前、俺自身の仕事で先進国に行った時、やっとネット上で知ったんだ。これでも最速で駆け付けたんだ」

 正当な良い訳を、護は真剣な眼差しで真侍に訴えた。

「…なんだよそれ」

「遅くなって悪かった…」

 表情を落として、護は力なく言った。真侍の声音は、護を責めるでもない。ただ困惑の一色だった。真侍は黙り続けた。今の状況の解釈と、過去に起こった事。その両方の出来事が今一気に解放されようとしている。

だが…

 真侍は自分の掘り返されたくない過去に、開こうとしているその蓋を閉じた。今は開く時ではないのだ。今は何も変わりたくない、しかし。

 変貌を遂げた親友は光の中にいる。自信に満ちた表情。洗礼された容姿。躊躇ない発言。凪の海の様に穏やかで静かな外見とは裏腹に、内面は活きる生気でみなぎっていた。目の前の友と今の自分はあまりに対照的だ。

 この感情は、怒りなのか妬みなのか。

 羨みなのか、喜びなのか…

 両方が混ぜ合わさっている様で、でもさっぱりわからない。

 急激な環境の変化に処理能力が追い付かない。たとえ正常な自分でもまともに理解できる自信もないかもしれないが。

「とにかくだ。状況を整理しないとな。とりあえず真侍は今日、惰性でやってるサッカー部を欠席して、宇野の家に行く」

「は?」

 昔の記憶から発掘されて再会を果たした親友が、今日の自分の予定をこちらの意見なく決めていく。

「なんで?」

「ああ。おばあ様の家が近いんだ。日本にいる間は厄介になる事になった」

 そういう意味ではない。言おうとしたが護はスマートフォンを取り出してテキパキと電話し始めた。迎えに来るように誰かに言っている様だ。会話しながら手で「さっさと行く支度をしろ」と指示する。指示されるままに制服に着替えると、護はさっさと部室から出た。

「ちょっと待てよ!」

 複雑な胸の内を抱えたまま、護を追って外に出る。すぐ外では野次馬がわんさか部室を取り囲んでいた。教員や職員までいる。一体何事かと眺めていたら、遠巻きに大人しいマネージャーが真侍に何かを訴えるようなまなざしを向けていた。同じくサッカー部員たちは立ち往生している。どうやって部室に入ろうかと思案している様だ。その近くに背の高い生徒会長までいる。厳格で有名なので、もしかしたらこの状況を注意しに来ているのかも知れない。

「何なんだ。護、これはお前のせいか?」

 前にいる、目線やや下の友に聞く。それにしても見事な黒髪だ。最近黒髪の日本人は少ない。特に同年代ではほとんど見ない。学校もこの娯楽のない状況に外見の風紀に関しては緩かった。 

「すみません、あの…」

 一眼レフカメラを首から下げた一団が人を押し分けてこちらに来ようとしている。

「面倒だな…」

 護が呟いた。それから大きく息を吸って一言。「家に戻るので失礼!道を開けて頂きたい!」と吠えた。やたら通る声だ。人が割れて道が出来た。護が歩いていくと、周囲の騒めきが大きくなる。そのくせ前を通ると野次馬は道を広げ、口をつぐんで離れる。

「一体どうなってるんだ…」

 疑問符で頭の中がいっぱいになる。

「説明は帰ってからする。ここだと落ち着かないからな。もっとも、帰っても落ち着かないかもしれないが…」


 玄関まで迎えに来ていた車に乗り込んで、小一時間ほど走って着いた所は上品な日本家屋だった。

「…家って。ここか?」

「ああ、宇野の家だ。父方の祖母が一人で暮らしてる。何人か使用人はいるだろうけど」

 もしかしたら、乗って来た車は専属のお抱え運転手と言う所なのか?真侍は振り返った。品のよさそうな年配の運転手がこちらに一礼して車を車庫に置きに行った。宮本の暮らしと大差ない足立の家の記憶しかなかったので、生活水準の違いに絶句する。

「…おれも同席してもいいのか?」

「俺の親友だから大丈夫だ。ただ、おばあ様はばあさんと違ってしきたりの厳しい資産家の宇野家に嫁いだ人だ」

 護の意図が読み取れず、真侍は黙って首を傾げる。

「ついでに多種多様の事業を展開している宇野グループを今でも現役で統括、管理している」

 気難しやだと評判なんだ。意地悪く笑う友人に、

「お、脅すなよ!強引に連れて来ておいていきなりそんな怖い人に付き合わせるなんて…」

と真侍は声をあらげた。護はそれに軽く笑ってかえしただけだった。怒る自分を無視したまま玄関口の引き戸の前に立つ。扉は自動で横に開いた。

「心配するな、相手は人間だ。一度会った事はあるけど、優しい人だから」

 屋敷に入ると広い玄関で宇野の当家、芳江が待っていた。

「お帰り、護ちゃん。真侍さん」

 芳江は着物に割烹着姿だった。年は重ねているが、上品な雰囲気があり、凛としている女性だった。

「ただいま帰りました、おばあ様。長らく一方的な手紙だけの連絡で申し訳ありません」

「何を言うてはるの。あんたの手紙がどれだけ私の支えになってくれた事か…。おかげさんで仕事にも張り合いが出てねぇ。さあさあ、玄関で長話せんと、中へお入りな」

 促される先に、作務衣姿の男性と小袖姿の女性が控えていた。護は静かに玄関を上がり、靴をそろえた。カバンと制服の上着を小袖の女性に預ける。真侍は一秒も瞬きせずにその一部始終を見て真似ようとしたが、緊張して脱いだローファーの片方は飛んでいき、慌てて振り返った時に一段高い玄関で脛を打ってうずくまった。

「緊張せんと、普段通りにしいな、真侍さん。護ちゃんも私の前でお行儀ようしてるだけやろうから、そんなに気にせんでええよ」

 あまりに可笑しかったのか、芳江は袖で顔を隠しながら肩を震わせている。大丈夫ですか?と作務衣の男性に助け起こされて気が抜けそうになった。護は呆れて真侍を見ている。

「行くぞ」

 芳江と中に入っていく護と、自分が飛ばしたローファーを取りに行く作務衣の男性の姿を交互に見た。綺麗に手入れされた護の靴の横にそろえて置かれた自分の靴は、踵が踏みつぶされてより一層自分を惨めにさせた。

 客間には夕飯の用意がされていた。絢爛な料理に、二人は揃って感嘆の声をあげた。楽にしぃという芳江の言葉に甘えて、二人は敷いてあった座布団をのけ畳の上に胡坐をかいた。まるで息を合わせたかのような行動に、芳江が笑う。疲れた、と言う仕草で護が眼鏡を外す。

「京料理は、やっぱり美しいな」

 吸い物の椀を眺めて品よく口を付ける。緊張している様子はないので、これが護にとって楽な所作なんだろう。真侍は自分の知識のなさに開き直って箸を取った。

「やっぱり日本食はええもんやってんね。そういうんは若い人達には遠いもんかと思うてたから、あんた達に出すんちょっと迷てんけど、美味しそうに食べてくれるから、作ってよかったわ」

「僕がいた一つの国はほとんど四季が無くて、年中同じものを食べていた時もありました。日本食は四季を感じられていいです」

 真侍は文の料理を思い出していた。

「日本は四季に恵まれた綺麗な国やわね。それやのに、あれが無い、これが欲しい言うて、目の前の恵みに気が付かへん人が多いわ。自分の周りにある物に気が付かんと、無い、欲しい、言うばっかりでだんだん人の心が貧しぃなっていってる。寂しいな、思うけど…時々こうやって気付いてくれる子がおる言うんは、私にとっては嬉しい事やねぇ」

 徐々に緊張も解けて来た事もあり、宇野家の客間は賑やかになった。護と芳江が会ったのは、哲司の葬式以来らしい。手紙は護から芳江へ、一方的に近況として送っていたのだそうだ。護は会えなかった家族に自分の話をして芳江にすぐに打ち解けた。対する真侍は子どもの頃の人懐っこさを出す事はなかった。性格が落ち着いたわけではない。品があるわけでもない。活気が消えてしまったと言った方が正しい。

 察するように護が小学生時代の話を持ち出したので話題が少し弾んだ。初めて会った時のこと。学童の先生がお母さん代わりだったことや、ドッチボール大会でのこと。宮本家に泊まりに行くのが楽しみだったことに対しては、真侍も足立家に行くのが楽しみだったと返した。芳江は始終を微笑みながら頷いて聞き、二人のドッチボール武勇には芳江も会話に入り、その時はどんな風だったかを事細かに聞いた。給仕が食後のお茶を運んできたころ、

「新学期になって急に海外に引っ越したって聞いたときは本当に驚いたけどな…」

 少し視線を落として真侍が言った。芳江が麦手餅と冷えた玉露を二人の前に静かに置いた。

「お前や隆さんたちに会うと、日本を離れる決心が鈍りそうになったんだ」

 もう護の生活に足立の祖父母や宮本家の家族、学童の仲間たち、そして何より、自分に最も近くなっていた親友が、親よりも優先される存在になっていたという。

「でもその時の母親があまりに壊れてしまいそうだったから、ついていこうって思ったのさ。放っておけないだろう。実際九年ほど一緒にいたけど、女性一人は脆いもんだって思ったよ。仕事が忙しくて現場に交流する人が多かったから父の死を紛らわせる事が出来たけれど。家には大抵俺の方が先に帰っていたし、母さんが孤独になる時間が無かったからもっていたようなもんだ」

 護は淡々とその時の状況を語る。真侍にとって、母親はまだまだ自分を守ってくれる存在だ。でも護にとっての母は既に傍にいて守る存在になっていた。玉露を口に運ぶ友人は自分よりも線が細く見える。でもいつの 間にか、うんとたくましく成長したのだ。

 言葉の通じない外国で、彼自身が孤独でなかったはずはないだろうに…

「それで、こっちに来て大丈夫だったのか」

「ああ、母親に新しいパートナーが出来たからな」

 護は流そうとしたが、芳江は動きを止めた。護は芳江に向き直る。

「おばあ様、どうか腹を立てないでください。これは僕も望んだことなんです。親の事ばかり考えて自分の事が考えられなくなりそうだったし、自立するために始めた仕事では母の職場から長期で離れないといけない場所にあったし。…相手は外国の、年上の考古学教授で、僕も安心して母の元から離れる事が出来ました。父が亡くなって五年も経っていましたし」

 芳江は複雑な顔をしていたが、「母の中では父が一番ですよ。」と護が笑って言ったので少し表情を和らげた。

「仕事って、お前もう働いていたのか?」

「ああ、自立するためには必要だったからな。現地の小学校に行ってた時に、案の定黒髪だとか、小柄だとか、男のくせに白いとか細いとか、日本人とか、まぁ変えられそうにもないどうしようもない所をつついていじめられそうになってな。でもどうしようもないから、そこを逆手に取ってやったのさ」

 丁度日本のアニメーションの竹取物語が話題になってた時期でもあったらしい。高く評価されていたので、便乗して脚本を立て、学芸会で講演したという。黒い真っ直ぐな髪と色白の容姿が主演で役立ったと言う所まで聞いて、餅を頬張っていた真侍は思わず吹き出た。周りに黄粉が散る。

「お前、かぐや姫やったのか?」

「ほかに誰もできないだろう。日本人は俺だけなんだから」

 芳江から玉露のおかわりを貰いながら、護はニヤリと笑った。芳江は嬉しそうに二人のやり取りを聞きながら机に散った黄粉を布巾で拭きとっている。

「おれに目を付けたのは先生と保護者でな。「清少納言」だとか「紫式部」だとか「大和撫子」だとか散々囃し立てて写真取りまくってた。その中に偶然有名なカメラマンがいて、雑誌で取り上げて貰えたんだ。海外の大人は日本の文化に深い興味を持ってるから、いいネタになったんだろう。それが予想外に高評価されてモデルへの道まっしぐらと言うわけさ」

「…モデル?」

 親友が、海外で、モデル?それでこの髪形か?この微妙に近寄りがたい雰囲気はモデルの空気なのか?

「まぁ、モデルになりたかったわけじゃないけど、実際金になったし、早く自立したかったのは確かだから、チャンスを無駄にしなかっただけさ」

と言っても向こうのプロ根性は見上げたもんで、稼ぐには相当の努力が必要だった。と護はいう。

「疑うならお前のスマホで検索してみろ。大文字の英語で“MAMOLU”って入れてたら写真の一つや二つ出てくるだろ」

 それは一つや二つ所の騒ぎではない、何万、何十万というヒット数で真侍の携帯の画面に表示された。先頭のオフィシャルサイトというものからファンサイトまでズラリと並んでいる。代表的な画像として、おかっぱからショートボブ、長髪へと変わる。モード、モダン、ポップ…様々なジャンルの写真がある。写真を捲っていくと、かぐや姫姿の物があった。まだ小学生の顔は凛としていたがいとけないものもある。美しい少女の様だった。歌舞伎で幼少期に女形をする役者を思わせる。

「撮影の仕事で都会に行った時に、偶然お前の事故の記事が引っかかったのさ。事故の起きた年を見て大急ぎで出国手続きに行ったよ。それから事務所にもマネージャーにも散々怒られるわ反対されるわで、日本の文化学びなおしてくるから、頼むから行かせてくれって説得して。一年の休暇をもぎ取ったその足で飛んできた。ちなみに事務所の社長、俺の髪に保険金かけてるからな、お前のせいで髪が傷んだら責任とれよ」

 護はからかう様に言い、菓子を口に運ぶ。冗談なのか本気なのかは定かではないが、写真の中の護と全く同じ護が座って自分と同じ和菓子を並んで食べている。

 真侍は自分自身が現実に存在していない存在かのような気がした。それとも護が幻影なのか。そもそもモデルと言う仕事はよく耳にするが、その実は良く知らない。日本のモデルに関しては、テレビで彼らの日記を取り上げ、流し見ていても記事の内容に親密感を覚えるくらいだ。なのに目の前の護は隣に座っているのにとても遠く感じる。

「日本のモデルの感じと随分違うな」

「さあ、日本のモデルの仕事はどんな風かは分からないが、会社によって仕事の内容や基準、ルールも様々だろうな。俺の所は私生活まで厳しかった。どこで誰が見てるかわからない分、普段の自分とモデルの自分の境界線を作らない様に意識を高くしろと言われてるんだ。まぁ、元の生活との違いはほとんどないから見た目に少し気を遣ったくらいだな。この髪が商品の内は、俺はこれの手入れに時間をかける。この容姿が商品なら、大切に扱う。当然だ」

 多くの写真の中でとても繊細に映る護は、幼い頃同様気はたくましく海外で生活していた。

「俺の事はいいさ。いい加減お前の話をしてくれよ。その為に日本に帰って来たんだからな」

 話を振られて、真侍は黙り込んだ。友と離れてから全てが違いすぎて、真侍は自分の事を話すのが億劫だった。

 あの事故以降、人前に出るのも嫌で、話をするのも苦手になった。もう二度と、心から誰かと羽目を外して騒ぐなんて言う事は出来ないと思った。したくもなかった。目立たないようにそっと息を潜めて生きたかった…

「ごちそうさまでした。とても素晴らしい夕食でした。おばあ様、少し体を動かせる場所はありますか?」

 護に聞かれて、しばらく護の部屋になる予定の、離れの客間なら充分だろうと芳江が返事をした。

 二人は離れの客間に移動した。


「二十畳はあるな…」

 真侍は立ったまま入り口にいた。そこは何かを彷彿とさせる。思い出しそうな記憶から逃げようと、目線で護を探した。護は自分より先に到着した荷物の所に行き、カバンを置いて靴下を脱いだ。きちんと止めてある襟のボタンをいくつか外して寛げる。髪は上の方で一つ縛りにした。

「日本は外国に比べたら、物凄く平和な国だ。俺も向こうにいる間に二、三か所は違う国に住んだけど、歩いていていつ撃たれてもおかしくない国もあった」

 真侍が武道をしていた事を思い出して外国の道場で合気道を習ったと言いながら、護はスタスタと部屋の中ほどに歩いていく。真侍はその意味を察した。

「…やめてくれ」

 真侍は焦点も合わさずに首を横に振った。視線はここではなく、遠い過去に行こうとしていた。

「舐めるなよ。外国はボケっと歩いていたら銃弾は飛んでくる、金品狙って普通にナイフ持って殺しに来る。見た目が良けりゃ拉致して人身売買なんて日常茶飯事だ。お前が趣味でやってる武道がどのくらいなのかは知らない。でもこっちも毎日命がけで生きて来たんだ。お前の鈍った技位で俺は怪我なんてしやしない」

 護は普通に立っている。不思議な雰囲気だ。モデルとしてのオーラでもない。ただ立っているだけでもない。天井から床まで一本の見えないワイヤーの様なものが通っている感じだった。真剣勝負で対峙する相手が出すそれだ。

「やめてくれ!」

 真侍は叫んだ。護は静かに見守っている。目が合った。視線が外せなくなった。

「…逃げたんだ」

 真侍は目の前の誰かに言った。

「おれは、おれから逃げた」

「いいから、来いよ!」

 護は顎で合図する。真侍の背中に冷たい汗が流れていた。真侍は動かない。いや、動けない。二畳以上も離れていたところにいた護が、まるで音も無く間近に来た。膝が外れるような感覚があって重心が崩れる。天井が回る。ドサリ、とみっともなく畳の上に転がった。

「立てよ」

 護が言った。

「嫌だ…!」

 真侍はそのまま強く目をつむる。耳は両手で閉じた。目を閉じているはずなのに、浮かぶ光景。広い体育館。自分は道着を着て対戦者と向かい合っている。頭と体は必要な防具に包まれている。対戦者は強豪中学の、一つ年上の中学三年生だった。


 小学校三年から、またひたすら武道に打ち込んだ。親友と離れて寂しかったのは護だけではない。他に友達は沢山いたはずなのに、心を打ち解けられる親友は護しかいなかった。その事に、護がいなくなってはじめて気が付いた。どこにいったのかもわからない。手紙も電話もメールも出来ない。何の連絡の手段も無い。もう二度と会えないのだろうと思った。

 死んだのと変わらないじゃないか…

 その寂しさを埋め合わせる様に中学に進学してからは競技空手に夢中になった。自分から表情がなくなり、それと引き換えに隆々とした筋肉と競技用の技だけが驚くべき速さで身に付いて行った。いつのまにか父の武道の稽古にも付き合わなくなり、日々のほとんどを空手に費やしていた。そうして手に入れた全国空手道中学生の部の決勝だった。

 相手は今年の、この決勝戦が最後の試合だという事もあり、白熱した試合になった。どちらも食い下がらない。次第に募る両者の苛立ち。力はほとんど五分五分だった。しかし真侍はどこかで自分の方が優位にあると過信していた。父から叩き込まれた武道。最近でこそしてはいないが、小学一年の頃、そのおかげで命拾いしたのだ。


 …父の武道は体に染みついている。


 真侍はお守りの様に、その事を心にしまっていた。一瞬の油断だった。相手の上段蹴りが真侍のメンホーを掠った。頭に衝撃が走った。防具がずれたせいで視界もずれる。焦りと苛立ち。

 …負けたくない!

 審判の「待て」の声は同時だった。すでに体が動いていた。咄嗟に出た技は競技空手用の動きではなかった。一撃必殺。一度自分の命を救った武道。体に空気の様に入っていた癖。絶対に相手に向けてはいけない技…

 気が付いたら、自分は部活の顧問や審判に抱えられてどこかの部屋に連れて行かれる所だった。遠くで救急車の音がする。朦朧とする意識の中で、少し前の記憶を辿っている自分がいた。 

 自分の虚趾が相手のみぞおちから斜め上、心の臓にむかって防具越しに抉り込んでいく。まるで水の入った皮袋に足先がすべり込んでいる感覚。不思議に体が軽い。足が一本の鋭い刀になり、相手に刺さっていく。相手が倒れた。静まる会場。次の瞬間大声が頭上から降って来た。

 真侍は呆然と立ち尽くしていた。


『宮本真侍選手。全国空手道選手権中学生の部。決勝戦反則負け。相手側、意識不明の重体。数日後に意識は回復したが、意識不明状態の時に一時心肺停止。脳へ酸素が回らず右手側の神経細胞が壊死。宮本選手所属の中学空手部顧問監督不行き届き、および指導不足により空手部顧問解雇。宮本選手、当面謹慎処分。』


 これが新聞で目にした事実だった。

 たった数行の地域紙で取り上げられた文面。一面の見出しには興味のない政治家の不正や、芸能人のめでたいらしいニュースが大きく取り上げられている。自分のしでかした過ちは、人の命を奪う恐れがあった。そして命こそ助かれど、中学生で背負っていかなくてはならないハンディキャップを負わせてしまった。この自分が…

 ここは、おかしい。人ひとりの命。人ひとりの人生が狂わされている時に、大人は税金の行き先を追って大人同士で潰し合いをしている。有名人の幸せや失態で騒いでいる。何の役にも立たない、どうでもいい情報であふれかえっている。

 真侍は毎日両親と相手の見舞いに行った。両親は相手の両親に責めるだけ責められた。頭を下げっぱなしの両親はみるみる内にやつれて行った。それでも毎日謝りに行く。面会を断られた日も多くあった。両親は自分や妹の世話を後回しにして毎日仕事の後、リハビリ病院や神経細胞を回復させるための病院をしらみつぶしに探して電話した。妹は口を聞かなくなった。真侍にも両親にも近寄らず、遅くまで家に近寄らなくなった。両親と子ども達の会話の時間は、両親が病院を探す時間になった。真侍の相手はテレビと携帯ゲームになった。食事は買って来たものが並ぶようになった。母も父も睡眠不足で苛立っていた。時に怒鳴り合う事もあった。

ある日、我慢できずに家を抜け出して、足立の家へ行った。そとから眺めるだけだった。そこには護の気配が無かった。

 誰も助けてはくれない。偉い大人たちの争いの元である多額の税金があっても、真侍の問題は解決できないだろう。そもそもそんな大人たちに助けてほしいかもわからない。何をどうして欲しいかが分からない。

幼いころの様に沢山のお菓子や、護が妹にあげた外国の古いコイン、ドッチボールの勝利といった欲しい物が、真侍には明確にできなかった。

 昔の護が、今の自分の様に、誰とも話さず、生きるのに必要な分だけ栄養を取り、本を読んで時間をつぶしていた事を思い出した。

 今の自分は、護の本がゲームになっただけだ。ただ重い空気だけが、ずっと胸の上に乗っかっていた。

 毎日が徐々に狂い始めていた。小さなひび割れが堆積し、大きな亀裂になっていく。もう元通りにならないだろう。そう思われるほど崩壊寸前だった宮本家にストップをしたのは足立の祖父母だった。

いよいよとなった時に助けてほしい。と通っていたのはどうやら恵美だった。遅くまで宮本の家に近寄らなかった代わりに足立の家に行っていたのだ。護の親友の妹は、昔いた男児二人の代わりに随分近い距離にいたようだ。

 始めは一週間に一回だった。段々会いに行く回数が増え、滞在時間が長くなった。事情を聞かれて「実は…」となった。しかし恵美は家族を信じていた。だから、いよいよ人の手が必要になったら、以前仲が良かった足立の祖父母の言葉なら由美も隆も聞いてくれるだろう、と義男と文に頼んでいたそうだ。

 バラバラになる寸前の宮本家に現れた文が、由美と恵美を足立の家で預かり、宮本の自家では義男と隆と真侍が残った。文はそれから数日間、何度も食事を運びに来た。隆と真侍の様子を見に来たのと、由美と恵美の様子を伝えにも来た。義男は散らかった家の片づけと身の回りの整理をし、夜は隆と二人で病院探しを手伝った。

 結果から言うと、義男のつてで脳外科専門の大学病院で負傷相手の回復手術が可能になった。ようやく向こうの家族とも和解して、この大きな事件は幕を下ろしたのだ。

 しかし、真侍の心の傷は癒えなかった。家族が崩壊しようとした時、人の心の裏側を初めて見た。罵り合い傷つけ合う両親や、自分に冷たい妹。それよりももっと冷酷な学校側の態度。話しかけても無視する友達。あいつと喋ると殺される。遠くで聞こえる。誰も信用できなくなった。自分の中の武道でさえ信用できなかった。家族は爆発物を扱う様に悍ましいほど丁寧に真侍を扱った。おそらく、どう接していいか分からなかったのだろう。

 当時の真侍にはそれが鬱陶しくてたまらなかった。遠くに行きたかった。家族と離れたかった。家からうんと離れた高校を選んだのはそれが理由だった。家族も環境を変える事に賛成してくれた。家を離れたい一心で勉強して高校に合格した。

「厄介払いしたいとか、そういうわけじゃないわよ!本当に!」

 学校の寮に入るため、新幹線に乗る直前に見送りに来ていた母が、たまらずに真侍の背中に向かって叫んだ。振り返ると、母は懇願していた。父は穏やかに笑っていた。

「いつでも帰ってこい」

 静かに言われた。帰る場所は、取りあえずあるようだ。心のどこかで安心した。

 高校の寮生活で、遠い所から来た真侍の事件を知る者は誰もおらず、大人しい学生として見られた。普通に勉強して、普通に生活した。高校では名が知れるほどの空手部だったが、真侍の事件はもう二年も前の話題で、毎日新しく更新される関心の薄い話題のニュースの中にそれは埋没していた。強豪揃いの高校で、中学二年で退部した真侍の情報など、砂漠の砂粒に等しかった。好都合と、真侍は影が薄れつつあるサッカー部に入部し、毎日武道を忘れるかのように基礎練習をこなして体力を使い切った。入学して最初の夏、試合があるからと言って帰省しなかった。みるみる日に焼け、鍛えられた体と、不愛想だが男らしい顔つきが女子の間で隠れて人気があったようだ。しかし真侍は相手にしなかった。もう人に近付くのが怖かった。顔見知りになった相手とも適当に付き合っていた。だから深く傷付くこともない。興味のない話題に適当に乗っかって、外さない程度に笑っていれば、今風の高校生の集まりの一部に見えた。それでいい。このまま一年経てば、武道への関心など無くなってしまう。また一年と繰り返し、そして卒業してどこかの大学に行って適当な所に就職すればいい。


 それがこれからの自分の未来だ。

 その予定だった。


 空気が鋭く動いたので、真侍は咄嗟に横に身をひるがえした。真っ直ぐな木の棒が、真侍のいた場所の中心で留まっていた。丈だ。その先が畳から寸での所で静止している。避けなければ確実に当たっていただろう。

「殺す気か?」

 正気かと真侍は護を見た。長い丈を構え、鋭い目でこちらを見ている。

「まだ体は武道を覚えていたな。殺してしまうかと思った。安心した」

 フッと笑いながら恐ろしい事を言う友に文句の一つも言ってやろうとした時、ヒュン。と丈が風を切った。慌てて左手で取る。

「お前、なんでそんなもん持ってるんだ?」

「来いと言ったのに来ないから、こうして俺から仕掛けてるんだ」

「冗談はやめろ」

「冗談?俺はいつでも本気だ。生きるために必要なら何でも取りに行く」

 海外の護身教室の師範の元で死にもの狂いで稽古した。自分の体である商品を傷つけない様に、そして命を守るために。生き延びる大抵の技術は最短で身に付ついた。友の口から出る情報は淡々としていて現実味はないが、身のこなしから偽りでない事が分かる。

「日本は便利で贅沢すぎだ。だから人の命が物の価値同様に扱われるんだ。失敗したり、事件を起こせば騒ぎ立てて危険人物のレッテルを張る。自分を守るために他人を平気で傷つける。人でも物でも傷がついたら価値はなくなる。不良品だ。どうしようかと考える間もなく、日々目新しい物に移り変わり、人はそれに目先を変える。いつの間にか、昔の不良品の事なんて葬り去られてる」

 護の言葉が、自分の事を言われている様に感じる。

「…おれは、物じゃない」

 真侍の呟きを聞いてから護が丈を引こうとした。しかし真侍はそれを強く握った。

「おれは、不良品じゃない!」

「そうか」

 丈がそのまま反転した。強く握っていたせいで、真侍は巻き込まれて畳の上に転がった。しかし今度は軽やかに転がり、身を起こした。

「ならなんだ?」

 護は丈を捨てた。対峙して立つ。真侍も向かい合った。

「分からない。でも、生きてる。物じゃない」

「なら腐らずに生きろ。昔、親に迷惑をかけるのは当たり前だと俺に言ったのはお前だろ、真侍」

「そんな事、分かってる。でも…」

「じゃあ親の思い通りにならないのが子どもだ。お前の両親は壊れなかった」

「分かってる!」

「生きるという事は汚い事だ」

 護が動いた。音も無く素早い。真侍は気配を取ろうとした。右手のみ後方にしてつかもうとしたが、サラリとした黒髪の感触だけを掴んだ。

「でも、時に美しい事だ。髪を掴むなよ。弁償だぞ」

 ふふっ。と笑い声だけが聞こえて体が倒れた。また足を掛けられた。構わず受け身を取って立ち上がる。

「弁償でも責任でもなんだってしてやる!」

 今は、護に一撃でも返してやりたい。視線は声や、長い黒髪が流れる方を忙しなく追う。実態を掴むかのために手を伸ばして掴もうとした所で倒される。苛立つ。悔しい。そんな気持ちで受け身を取っては護の姿を捉えようと追う。ワンテンポ遅いのか、どうしても翻弄される。息が上がる。しかし相手は呼吸ひとつ乱れていない。自分に無駄な動きが多いのか…。そう言えば、サッカーの基礎練習等は、体を疲弊させるためにしていた。本来の武道は、いかに自分の力を使わず、相手の力を利用して倒すかだ。そう父から教わった。

「思い出したみたいだな」

 体の動き方が変わったらしい。護の姿が目の端に入る様になった。しかし視界に入るとスルリとすぐに姿を消す。柔軟な体なのだろう、視線を下へやると直ぐに上方から後ろへ、上へやると下方から後ろへ回り込もうとする。咄嗟に振り返ると死角から側面に入ろうとする。しかし入られないところを見ると、こちらも隙が作れない様に動けていると言う事だ。

 ふうっ。と護の呼吸が見えた。向こうも疲労が出始めたのだ。真侍は先を読んできき手とは逆手で後方を捉えた。

「甘い」

 右手を取られた。「相手の先の先を読まないとな」、と後ろにひねられて倒れる。

 関節を逆に抑えられて勝敗が付いた。二人とも息が上がっている。真侍の額の汗が畳に染みていく。身動きが取れない。「参った」の意味で、左手で畳を軽く叩く。しかし、固められた逆関節は解かれない。不思議に思って起こせない上体を上げようとすると、更に強く抑えられたので、真侍は再び畳に突っ伏す事になった。

「何だよ…参ったって。動けないから放せ」

「…」

 護が何か言ったが言葉が途切れて聞き取れない。真侍は息を殺して耳を傾けた。

「生きてくれ…頼む」

 今度はハッキリと聞こえた。

「忘れているなら思い出せよ。俺を生かしたのはお前だぞ。一緒に生きろと言った」

 ポツポツと熱い雫が真侍の頭から少し離れた所に落ちた。

「一人で勝手に、死んでるみたいに生きるなんて許さない。ちゃんとお前の声の届く所にいるから、助けがいる時は言えよ」

 友の痛烈な言葉に体の力を抜くと、抑えていた力が解放された。急いで確認しようとしたら、もう護は部屋の隅に歩き出していて、手拭いで顔を拭っていた。

「お前ズルいぞ!」

「何がだ?」

 後ろ姿で手拭い越しに答える。

「泣いてたろ?」

 肩を掴んで無理矢理振り返らせようとする。

「泣いてない」

「涙が畳に落ちてたぞ」

「汗だ」

「目も赤い」

「コンタクトがずれた」

「顔も鼻も赤い」

「体を動かしたから顔が火照っただけだ」

 勢いで言った護は、「ふんっ!」と口をへの字に曲げて手拭いを取って見せる。額も濡れているがシャツも濡れている。確かに涙か汗か分からない。

「さてと、風呂に入って来るかな」

 護は素早く着替えを鞄から出して、眼鏡を置き部屋を出て行った。

「…お前!コンタクトじゃないだろっ!」

 トトトトっ。

 出て行った足音が速くなって遠ざかった。

 その代わりに、違う未来が静かに真侍に歩み寄っていた。


 翌日。真侍は静かに目を覚ました。そのままぼんやりと天井を見つめる。昨日の放課後から今日にかけて、まるで何年も経ったような感覚がした。

 数年間で鬱積していた重い、暗い霧が少しずつ晴れてくるようだった。心の奥に閉じ込めてあった物を昨日護との乱取りと共に吐き出せた。今は無駄な荷物を捨てて心も体も軽い。朝、今の様に気持ちよく目覚めたのは何年振りだろうか。枕元に清潔な自分の制服があった。そういえば入浴している内に無くなっていた。寝間着が置いてあったので気にも留めていなかったが、洗濯してくれたようだ。行き届いた芳江の心遣いに感謝した。体を起こすと隣に寝ていた護の布団はなく、本人の姿もない。寝過ごしたのかと時計を見ると、まだ六時だった。普段であれば寮の布団でまだ熟睡している時間だが、二度寝するほど疲れてもおらず、さっさと身支度をすませた。洗面台に行き、顔を洗っていると小袖姿の女性が来て、それに必要なものを置いてくれる。

「芳江様も護様も客間にいらっしゃいます」

 そういうと一礼して去った。返事をして客間に向かう。二人は向かい合って談笑していた。その中に入ると朝食の準備が整えられ、三人で食事を済ませてから学校に行く準備をする。

 宇野の家から学校までは車で高速道路を使ったら三十分ほどで着く。始業は八時半からなので八時に着くように出発した。帰って来た護が一年間この世間ずれした状態で通学することにやや呆れつつ、反面心の置けない親友が隣にいる事にどこかで感謝した。

 しかしそれは、今日からしばらく、真侍にとって非日常的な生活を経験する幕開けでもあった。


護は日本芸術を専攻していたので芸術学部に入っていた。真侍はスポーツ学部だった。だが選択教科以外の数学や現代国語、英語などの普通教科は午前中の同じクラスで学ぶ。選択教科は午後から行われ、生徒たちは自分が専攻した各学部に移動する。よって一組は様々な学部の生徒が入り混じった四十名で成されている。それが十クラスあるので一学年で四百名。三学年合わせるとおよそ千二百名だ。

よく同じクラスになったものだと思ったが、どうも宇野の人達が裏で手を回したようだ。護がそのような事を車内で言っていた。改めて権力の恐ろしさを感じつつ、自分の周囲の権力者達が善人で良かったと安堵した。

予測していたが、芸術学部所属の人間は勿論の事、そういった事から疎い学部からも野次馬が護の見物に来た。護は野次馬たちをいちいち構っていなかった。話しかけられたら聞いたことの無い言語を使って「言っている意味が分かりません。ごめんなさい」と身振り手振りを使って回避した。写真撮影は護の所属している会社からきつく止められているらしく、各クラスの担任達から会社の許可なく撮影したら罰金が出ると通達された生徒は携帯のシャッターを切ることは無かった。

 護は転校してから学校にいる時は選択科目以外の真侍と行動を共にしていた。存在が目立つ護と一緒にいる真侍も自然と目立つ。真侍もいつのまにか適当に付き合っていた友人たちとは離れて護と共に過ごしていた。

部活の練習もさっさと切り上げて宇野の家に行き、護と乱取りしたり手合せをした。週末には宇野の家に泊まりに行き、建前かと思われていた護の日本芸術の研究にも付き合っていた。芳江が能や歌舞伎といった日本芸能に誘ってくれたので一緒に連れて行ってもらった事もあった。

護にはまともに取り合ってもらえない生徒達は、何故真侍とは一緒にいるのか、と騒ぎ始めたので「幼馴染で昔から遊んでいた」と言っておいた。

 しかし、どこにでもお節介な人間はいるもので、それを良く思わない生徒もいた。協調性や調和を尊び、一致団結を優先する人種だ。同じクラスの女子委員長もそちらの人間だったようだ。真面目な優等生で成績は学年で常に一番。ついでに男子からすると“女子”という所が厄介の種だった。変に正義感があるから秩序を保たせようとする上に“すべての女子の味方”という立場に君臨していたのである。

「宇野君だっけ。転校してきたばかりで慣れないのも分かるし、お仕事の事も分かるけど、そろそろ宮本以外の人とも打ち解けないといけないんじゃない?」

 昼食時に食堂に移動しようとしていた二人に後ろから勇ましく声がかかった。廊下では早速何人かの人だまりができている。

 真侍は暇な連中だと思いつつ、「委員長。こいつはいいんだよ」と、咄嗟に護の前に出ようとすると、

「宮本は黙っててよ。それともあんた、彼のボディガードなの?」

 勇敢な委員長は負けじと腕を前で組んで進み出る。護は白亜の壁を見つつ鼻歌を歌っていた。有名な洋楽だった。

「何よ気取っちゃって。モデルか何か知らないけど、宮本と日本語でベラベラ喋ってるのは知ってるのよ?それなのに普通科の授業中は寝てばかりいて、先生に注意されても日本語通じないふりして。この卑怯者!」

 何か委員長の逆鱗に触れる事でもしたのだろうか。だとしたら厄介な人物に目を付けられた。真侍は一刻も早く委員長の説教から逃げ出したかった。目の前で怒鳴る委員長をどうしたものかとため息を付いたら、後ろからそっと護が前に出た。

「そちらこそ、後ろの女性のボディガードなのか?それとも、期末テストで俺に成績を抜かれたから八つ当たりか?山田珠樹委員長」

「テストの結果なんてまだ出てないじゃない!今日の午後に出るんだから。そんなにテストに自信あるわけ?」

 名前を呼ばれた委員長は顔を紅潮させた。同時に後ろで赤面して固まっているのは栗毛色の髪を可愛らしくショートボブにした背の低い女子だった。

「結果なら出てる」

「何なの?出てない結果知ってるとかありえないんだけど。まさか先生に取り入ってるわけ?」

 怒りが心頭している山田珠樹の後ろで背の低い女子が山田珠樹のジャケットの裾を引く。勇ましい山田珠樹の身長が普通の女子からしたら高く、その後ろに頭が半分隠れる程だったので標準的な身長ではあるのだろうが…

 海外でモデルをしている護は日本人の特徴をモデルとして起用されたので、その基準からしたら身長は低い。証拠に仁王立ちしている山田珠樹と穏やかに立っている護はほぼ同じ身長だ。それより頭半分ほど大きい真侍が、護越しに見え隠れする山田珠樹の後ろの人物を覗いた。

「もしかして、高橋萌乃さん?」

 真侍が言った。護が首を傾げたので、真侍は続けた。

「サッカー部のマネージャーだよ。確か今年からだったはずだけど…」

 そう言っただけで護は口元に笑みを浮かべた。

「なるほど、そう言う事か…」

「何がそう言う事なんだ?」

「うるさいわね!話があるのはこっちなのよ!」

「こっちとは、山田さんのテストの結果の方?それとも、高橋さんの私情の方?」

 護は穏やかに微笑みながら言った。その表情に女子二人はたじろいだ。挑発するような言い方をされて余計に怒りが上昇しているのに、この男の表情は女性の怒りを鎮めるほど美しい。珠樹は少し混乱して護と後ろを交互に振り返った。

「萌乃、ほら、自分で言いなよ」

 後ろにいた萌乃を促すように肘で突いた。萌乃はモジモジしながら体を半分だけ珠樹から覗かせた。立派な木から除く小鹿のようだ。

「えっと、その、最近宮本君、練習の時最後まで残ってないから、どうしたんだろう、って心配してたの。その…あの…」

 言葉をつづけ辛そうに萌乃が護を見る。護は「何?」と問う様に小首を傾げた。護の仕草と萌乃の態度に業を煮やした珠樹が、とうとう大きく一歩前に出た。

「海外でモデルしてたらしいけど」

 珠樹が語調強く護に大股で詰め寄ったので、その分護が同じだけ小股で下がり、真侍は二人を追い、小鹿のマネージャーも木の移動先に付いて行く。背景の野次馬も移動して階段の広い踊り場まで来た。

「宇野君本当に男なの?」

 止まって珠樹が確認する様に言った。

「は?」

 二人の声がそろった。野次馬は成り行きを静かに見守っている。

「普通に生徒から写真取るのだって、偶然背景に入っても先生はダメって言うし。罰金とか言われて皆怖がってる。その上、言葉通じないふりされたら誰もあんたに近付けない」

 真侍は困惑した。しかし護はさっさと移動したいと言う様にチラチラ階段の方を見る。珠樹が近づいた。彼女の感情のヒートアップと同調して彼女の顔もアップになる。周囲は珠樹が何を言わんとしているのか、ただ静かに聞いていた。

「あんた本当は女で、宮本の彼女なんでしょ。海外でモデルになって戻って来て、宮本とくっついてるんでしょ!どう?間違ってる?宮本は異性交流が楽しいから部活も途中でさぼって寮にも週二日しか戻ってないんだわ。…風紀を乱すのも大概にして欲しいわね!」

 真侍は呆れてひっくり返りそうになった。

「それはないよ!こいつは正真正銘の男だ」

「嘘よ!男がこんなに綺麗なわけないじゃない!」

 周囲がざわつき始めた。「確かに」とか「え?女なの?ま、綺麗な顔してるしね」「宮本に隠れたモデルの彼女がいたって?」「それにしても胸無いなぁ。モデルだからか?」等々、言葉が飛び交っている。

護の容姿や所作は男の粗雑さは微塵もないし、他の女性のそれよりも品がある。しかし幼少期に父と三人で一緒に風呂に入った時は男だったはずだ。確認はあえてしていないが、間違いないはずだ。もし女の子だったら父が一緒に風呂に入らないだろう。でも恵美とは一緒に入っていたっけ…。それは肉親だからか。真侍は必死で考えた。

「宮本が黙ってるのが証拠よね!」

「いや、これは黙ってるわけじゃなくて!」

「論より証拠よ!」

 言うが早いか、珠樹は護の制服の襟をつかんで左右に引き裂いた。ジッパーできちんと閉まっていた詰襟のジャケットは布が裂ける音を立てて開かれた。恐るべき怪力だ。流石に「アッ!」と野次馬たちから声が上がる。

「やめろ!これは酷いぞ!」

 真侍は声を荒げ、横から護と珠樹を引き離そうとした。怪力同士で力が相殺しているのか二人は動かない。いや、女子である珠樹に加減している真侍の方が押され気味だった。目の端に、大人しそうにもじもじしていた萌乃が、眉を釣り上げて真実を窺っていたのが見えた。珠樹の両手は護の襟を強くつかんで離さない。

「こんなのすぐなおしてあげるわよ。私、服飾デザイン専攻だから朝飯前。下にワイシャツ着てるし問題ないわ。本当の事を教えなさい!」

 真侍がよそ見した隙に珠樹がジッパーの壊れた制服を左右に大きく「パン!」と開いた。確信をもって護の胸のあたりを見る。そこにはうっすらした筋肉らしきものは付いていたが、女性らしい膨らみはない。

「そんなはずは…」

 珠樹は唖然として目を見開き、片方の手で護の膨らんでいない胸元を触った。

「…Ouch!That is offensive!」

 叫んで護が蹲った。流石に珠樹が慌てて離れる。

「…ご、ごめんなさい。私…」

「一体何の騒ぎだ?」

 いきなり野次馬の塊が割れた。そこから一人の男子学生が足早に歩いて来る。頭一つ大きい。真侍と同じくらい身長がある。胸元には五芒星の金のバッチが付いている。中央に「青山」と刻印された文字は紺色で、金に縁どられている

「生徒会長だ」

 誰かが言った。その言葉に護が顔を上げ、生徒会長の方を見た。

「何の騒ぎかと聞いている」

 黒い髪を短く切り、太い眉に一重で細い目の、いかにも真面目そうな男子生徒だった。

「あの…私、その…」

 珠樹は震えていた。顔は青ざめている。後ろの萌乃はしっかりと珠樹の後ろで縮こまっていた。

立ち上がった護は片手でジャケットを抑えながらスルリと前に出て生徒会長と向かい合った。護の姿で珠樹と萌乃が隠れる。

「I forgot all about it! I`m sorry from the bottom of my heart…」

「さて、僕には君に謝られる様な事は何もしてはいないが?」

「失礼しました、岡田俊輔生徒会長。先生方にご挨拶に行った時に一度ご挨拶に伺う様に言われていたのです。お会いできて良かったです」

 護が頭を下げた。岡田俊輔は無表情で続けた。

「何の騒ぎだと聞いているのだが、君には英語で聞いた方が良いのか?それとも他の国の言葉の言葉か?」

「騒ぎなど起きていません。ただ、時差ボケが中々治らず、寝不足と貧血気味で倒れそうになったところを宮本真侍君が助けようとして、つい私の胸倉をつかんでしまったんです。その拍子に制服が破けてしまいました。それをたまたま通りかかった服飾科の山田珠樹さんと高橋萌乃さんに直せないか相談していました」

「…宮本、相変わらずの馬鹿力だ…。で、どうしてこの騒ぎになるんだ?」

 岡田は変わらず無表情だったが、ますます苛立っている。

「それは、ここの人達が…」

 護は一度俯き、顔を上げる時に長い髪をなびかせた。

「私をただ眺めるだけのために、良くいらっしゃるものですから…」

 真侍は呆れ果てていた。しかし周囲の野次馬を含む珠樹も萌乃も呆然と護を眺めていた。有名人のオーラというものに飲み込まれているのだろう。

「やれやれ。今年の二年は程度が低いな。自分のする行動には慎みを持ってもらいたいものだ。低レベルな事は一年に真似をされたら恥だという事を知っておいてほしいね。上級生としての誇りをもって行動して頂きたいものだ、転校生の宇野護君。…くれぐれも三年の校舎にまで被害を及ぼさないでくれたまえ。受験シーズンに入ろうとしているんだからね。諸君も、昼食の時間が終らない内に早く昼を済ませるんだな」

 魔法にかからなかったのは護を良く知る真侍だけではなかった。生徒会長、岡田俊輔は現れた時から忠告を残して去るまで一切表情を変えることはなかった。

「…風変わりな生徒会長だな」

 護がジャケットを脱ぎながら言った。自分の才能を最大限に利用して、周囲に騒ぎを起こす自分の方が風変わりじゃないか、と真侍はまた呆れた。

「職権乱用だ」

「処世術と言ってほしいな」

「お前、ただでさえ目立つんだから、もう少し大人しくしてくれよ」

「お前は不良女子の父親か?」

 笑いながら真侍の諫言を受け流す。

「あの…」

 野次馬に埋没していた珠樹が護に近づいて来た。

「これ以上確認の為に服を破かれると、シャツまで縫ってもらわないとならなくなるが?」

「待って、違うの!ちゃんと謝りたくて。酷い事をしてごめんなさい。ジャケット、直させてもらってもいいかな?」

「俺の知ってる“タマキ”さんは、皆威勢が良くて男勝りだが、性根は心優しいらしい。ぜひお願いするよ」

「ありがとう。あと、生徒会長からも守ってくれて感謝してる。生徒会のミーティングの時、あの人、先生が尻込みしちゃうくらい厳しくて有名なんだ。先生が生徒会長の意見を飲まされるときだってあるくらい…だから気を付けてね」

「肝に銘じておくよ」

 護は肩をすくませて見せ、ジャケットを珠樹に渡した。

「宮本も、ケンカ吹っかけちゃってごめんね」

「いや、おれは別に問題ないけど、護だけは傷つけないでくれ。責任とらなくちゃいけないから。約束なんだ」

「…え?」

 珠樹と萌乃が固まった。解散しようとしていた野次馬たちも動きを止めた。真侍たちの会話に耳を澄ませるように静まった。今度は護が呆れてため息を付く方になった。

「お前の言葉の選択は破壊力抜群だな」

「え?何が?おれなんか悪い事言ったか?」

「大いに」

 護は真侍に、その場にいる全員の様子を知らせるために視線を巡らせた。青ざめて下がる者。赤面しながら見守る者。

「あんた達、そういう関係だったの…?」

 珠樹は神妙な表情で二人を見た。

「そういうって?」

「海外では公に認められた国もあるみたいだけど…まさか自分のこんな身近に…」

 ショックを受けて額を抑えている珠樹に、理解に苦しむ真侍。やれやれと呆れた護は真侍の肩に手を置いた。

「まあ、そう言う事なのでよろしく。このことは非公開で、内密にして頂きたい。プライベートなので」


「お前っどうしてくれるんだよ!」

 食堂ではない本校学舎から離れた小さな休憩室で、真侍と護は芳江に作ってもらった弁当を広げていた。幸い休憩室を占領しているのは二人だけだった。弁当を抱えながら、真侍は盛大にため息を付いた。

「どうって?」

「おれ達同性愛者だと、あの場の全員に勘違いされてるって事だろう?」

「そうだな」

 護は別段気にする様子もない。

「何でそんなに普通でいられるんだよ。平気なのか?」

「特に問題ない」

 弁当が視界に入らない真侍に対し、護は淡々と食事を進める。

「お前、まさか本当にそうなのか?」

 護が箸を止めた。心底呆れた表情で真侍に軽蔑のまなざしを投げた。

「阿呆。そんなわけないだろう。俺の性別は男で、好きになる対象は女性だ。気色悪い事を言うな。お前の方はそうなのか?」

「え?」

「お前は同性愛者で、俺とお付き合いしたいのか?と聞いてるんだ」

 真侍が吹いた。護は弁当箱の蓋を盾にして飛んでくる真侍の唾をかわした。

「そんなわけないだろう!おれだって普通に女の子を好きになる方だ!」

「それは良かった」

「全然良くない!お前はとりあえず一年間の学校生活かも知れないけど、おれはあと今期も含めて二年間ここにいるんだぞ?ずっと勘違いされたまま二年も…」

 真侍は行き先真っ暗だ。と大きくため息を付いた。

「大体なんであそこで勘違いされるようなことを言ったんだよ」

「それはそもそもお前が言ったんだろう」

「おれは何も言ってない」

「“護を傷つけるな。責任をとらなくちゃいけない。”と言う言葉は今の日本の女子には十分に勘違いされてもおかしくないそうだぞ」

「え?そうなのか?」

「まぁ、そうらしいな。だからお前の言葉はその力と同じくらい破壊力抜群だったわけだ。お前の言葉で取り繕うと余計に状況は悪化しただろうからな」

「そんなことは無いって絶対!きっと真剣に伝えたらわかってもらえたさ!」

「じゃあ、どんな言葉で誤解を解くつもりだったんだ?今言ってみろ」

「だから、あの時は、お前が傷つけられそうになったから…えっと、お前が傷付いたら俺が弁償とか責任取らないといけなくて、一緒に生きるって約束したし。でもおれ学生だから金もないし…だからおれが就職するまで責任取れないからやめてくださいって」

 これでは勘違いしない方がどうかしている。護は唖然とした。

「…言わないでよかったな」

「なっなんでだよ!」

「趣旨がずれている上に、その弁明ではあの連中の誤解に拍車をかけるだけだ。俺のモデルでの契約条件の話と幼少の頃に交わした生きる話を混ぜ合わせるから混乱するんだ。俺達の記憶を知らない他人が聞いたら、当然理解できないぞ」

「だってさぁ…」

 護の頭髪や容姿にいくら保険金がかかっているかは真侍には分からない。でも大事に扱わねばならない事は分かってる。そして子どもの頃、その護が命の危機に面した時に救った事がある。今は護が真侍を窮地から救ってくれた。誰にも、何にも代えられない絆で繋がっている自分たちは誰にも恥じることなく親友だ。

 真侍は今、この友情が何より大切だった。ようやく抱えていた霧を晴らしてくれたのだ。今は護の存在が心の拠り所と言っても良い。それを言葉に出したら「同性愛者」だと言われる。言葉は難しい。そもそも女子同士は仲良く手を繋いでいてもただの「仲良し」なのに、男子だと偏見を持たれるのは納得いかない。別に男である護と手を繋ぎたいという欲求があるわけでもなし…

 何を言っても護に納得してもらえる言葉が見つからない。言い返せそうな言葉が出て来ない代わりに腹の虫が鳴いた。空腹を思い出して、真侍は割り箸を割った。ふて腐れる真侍の弁当箱の中に、護は自分の海老天を放り込みながら言った。

「どうせ真実なんて生きている人の数だけあるんだ。俺は俺が普通の男だと分かっている。お前はお前が普通の男だと分かってる。お互いにその事実を知っていればそれで十分だと俺は思うけどな。さっきの騒ぎなんてどうせ野次馬の一過性のもんだ。こっちが神経過敏に反応する方が損だぞ。普段通りに過ごしておけばすぐに忘れ去られる。日本中で目立ったニュースが報道されたらすぐに過去の産物になるさ」

 “それやるから機嫌直せ。”と護が目で合図する。無茶苦茶な気がするが、何だか言いくるめられてしまった。

「そういえば、あの高橋という女はお前に気があるんだな」

 口の中の海老を吹き出しそうになった。護が先手を打って弁当箱の蓋で真侍の顔面を抑える。蓋をはがした真侍の顔がご飯粒やソースで汚れたが口の中の海老は尻尾の先が僅かに出ただけで留まっていた。

「マネージャーが?何で?」

 もう護に向かって怒る言葉も気力もなく、おしぼりで顔を拭う。

「廃部寸前のサッカー部のマネージャーに今年なったなんて、お前に惚れてるからだろう。練習に来ないお前にヤキモキしていた。おまけに俺と始終行動を共にしているから近寄れない。見兼ねた女勇者山田が加勢した。そんな所だろう」

 なるほどな。護は、あの状況でそこまで観察していたのか…。真侍は関心して箸を取り直した。

「まぁ、悪い気はしないけど…」

 厄介な事が起きたら誰かの後ろに隠れてしまう女子は、大人しいとか奥ゆかしいとか言うよりも、卑怯な気がした。時に正義感を振りかざして男勝りで厄介だが、珠樹の方がずっと人として魅力的だ。護への謝り方も潔くて好感が持てる。

「そんな気はおれには持てないな」

 同感だ。と護が茶を飲み、何度か喉が動いて机にカップを置いたときには、倍ほどある真侍の弁当が半分以上消えていたので、護は微笑した。


 各々午後の授業を終え、ホームルームの為に自分の教室へ戻っている時だった。

「宇野君、大変!」

 珠樹が駆けて来た。手にジャケットを持っている。

「もう直ったのか。すごいな」

 言われて珠樹が「ああ」と手のジャケットに一瞬視線をやったが、すぐに視線を護に戻す。

「そうじゃなくて、ちょっとこっちに来て!」

 珠樹が護の腕を掴んだ。とても強い力だ。確かに女子だが真侍に負けない剛腕だ、と護は納得した。どんどん人をかき分けて行く。引っ張られるままに廊下の中央辺りまで来た。今日、昼前に騒ぎが起こった場所だ。

「一体何なんだ?」

 真侍との中を誤解して冷やかしの相合傘でも書かれたのか。暇人だなと、面倒そうに壁を見ると、今日出た期末テストの成績表が貼り出されていた。

 白い壁に模造紙一枚分の通知欄。その一番上に、一枚貼り紙があった。内容を見て…相合傘の方がまだ可愛げがある…。と護は貼り紙を剥がす。


 期末テスト 成績

 一位“宇野護”

 二位“山田珠樹”


 という文字が現れた。

「どうかしたのか?」

 真侍も遅れてやってきた。人だまりの中心に護と珠樹がいたので近寄って来る。

「委員長が成績良いのは当然だけど、一日中普通科授業の時に寝てる護がなんで一位なのかは確かに理解できないよな…」

 壁の成績表を見ながら言う真侍の言葉は二人が注目している内容から外れていた。護は貼り紙を隠さなかった。護の手の中の貼り紙を見た真侍は表情を険しくした。

『宮本真侍は犯罪者』

 この学校に真侍の過去を知る者がいる。しかも、悪意を持っているようだ。



 二年生の一学期を終え、真侍と護は新幹線に並んで座っていた。今年は護も日本に帰って来たので二人で帰省することにした。期末試験の後に起きた騒動と貼り紙の一件は両者それなりに気かける宿題になったが、前者は早速消えそうな兆候を見せた。

 次の日には珠樹には嘘だとばれた。そもそも言い出したのは彼女であったが、それにしても珠樹は思った以上に利口だった。それに服飾センスも抜群で、破かれたジャケットが持ち主の元に戻る時、体に合い、前のデザインよりも粋な仕上がりになって返って来たのだ。それはモデルである護をより目立たせることになった。

貼り紙の一件でその礼を言いそびれたので、次の日教室で珠樹が登校してきてから、護はすぐに珠樹に会いに行った。

「良くしてもらって気に入ったよ。ありがとう山田さん」

「珠樹でいいよ。山田でもいいし。私も呼び捨てにさせてね、宇野」

「ああ、構わない。好きに呼んでくれ」

「OK!あと、お願いがあるんだけど。時々ショーに出す服のデザインのモデルになってくれる?今の私の体と護の体系ってあんまり変わらないから」

「褒められてる気がしないな。ついでにお願いと言うよりは強制と言う気もする…まあ、引き受けよう」

「やったあ!ありがとう!」

 じゃあ。と自分の席に戻ろうとした護を珠樹が呼び止める。

「…あのね。本当は分かってたの。宮本と宇野がちゃんと友達同士だって…ごめんね」

「全くだ。真侍に海老天を献上する羽目になった」

 護はわざと無表情にいってから、笑った。

「しかし授業で寝てるのにテストを上位とったからって悔しがられるとはな…。とりあえず断っておくが、俺は向こうで大学課程を終えたんだ。もう通過した内容だから寝いても点数は取れる。職権も乱用していない。祖母の力添えも無い。だから教師に取り入ってるわけじゃない事は分かって欲しい」

「実力で一位取った事も分かる」

「今日からちゃんと授業を受ける。それで構わないだろう?だから俺達の勘違いされてる誤解を解くのを手伝えよ?」

 珠樹は少し黙った。何故か呆れた様に一瞬視線を護からそらせる。何か言いたそうだったが、やがてフッ、とため息を付いて「いいよ」と返答した。

 後者の貼り紙事件にいたっては、しばらく学校全体に貼られていた。

 普通に考えたら相当たちの悪いいたずらで、真侍の気持ちが沈み込まなかったのは芳江が「性の悪いたずらする子ぉはまだおんねんねぇ」と大きく捉えなかった事と、「力仕事はお前に任せるが、言葉と頭の事は俺に任せておけ」という心強い友がいたからだ。護から言わせたら「普段体の筋肉ばかり使っている人間はあまり頭の筋肉を使わない方が良い」という事だった。

 真侍は言われた通り、第三者の護から見てちゃんと向き合わない問題かどうか判断してもらう方が気が楽だった。考える事を放棄したのでなく、過去の事をほじくり返して考えても仕方ない事だと思ったのだ。

 夏休みに入って一月以上も学校を離れたらそんな愚かしい事をした人間も頭を冷やすだろう。という判断に落ち着いた。楽しい夏休みを前に、二人とも嫌な事はさっさと忘れる事にしたのだ。

「山田が物わかりの良い奴で助かったな。二学期になって戻る頃には何事もないように皆忘れてるさ」

「だといいけどな。それにしても護、委員長の名前良く知ってたな。仕事のおかげで人付き合いが上手くなったのか?」

「いいや。そもそも人付き合いは嫌いだ。生活に支障が出ない様にする程度さ」

「まあ、委員長はクラスのまとめ役だし筋金入りの優等生だから、知り合いになって味方にしておいても損はないか」

「山田と教室で個人的に挨拶したわけじゃない。そもそも四十人もいる人間の中から委員長を探し出すほど俺はクラスに関心はないぞ」

「そうなのか?」

「そうさ。そもそもお前が腐ってないか心配で戻って来たんだ。別にあのクラスがどうなろうが知ったこっちゃないさ」

「じゃあいつ知ったんだよ。彼女が山田珠樹だって」

「お前と山田がやり取りしてる時に壁に貼ってあるのを見たんだ」

「おれと委員長がもめてる時に?…でもあの時、成績の結果は貼り出されて無かった気がするけど…?」

 真侍とて学生だ。自分の成績の順位は一応気になる。成績が貼り出されていたら自分がどの順位にいるか確かめる事くらいはする。

 護は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに何か思い出した様だった。

「成績表はあの時すでに貼り出されてた。ただ白い紙で覆われていたから壁に見えて皆気が付かなかったんだろう」

「え?何でそんな手間な事したんだろ?」

「それは、昼前に廊下が込み合うからだろう。皆学生である以上自分の成績は知りたいだろうしな」

「それもそうか。それで委員長の名前と成績順位が分かったんだな」

「…とするとおかしい」

「何がおかしいんだ?」

「俺が見た時はまだ成績表の上にあの貼り紙は無かった。何せ俺と山田の名前の上に貼ってあったんだからな」

「どういうことだ?」

「成績表を覆っていた紙の上に貼るといくらなんでも目立つ。流石に先生に見つかるだろう。じゃあ覆っている紙の下に貼ったことになる。だとしたら、あの貼り紙は俺が成績表を覆った紙越しに見てから、それを取るまでの時間に貼った、ということになる」

「それって、あの人数の中に犯人がいるってことか?」

 途方に暮れた様子で真侍が言った。

「冷静に考えてみて、あの中にどれくらいお前の過去を知っている人間がいるんだ。お前を脅して得する人間は相当少ないだろうしな。それにあの事故の事で個人の詳細を検索するなんて、気軽にできるもんじゃない。未成年の事故でもあったんだ、プライバシーは厳重に保護されているはずだ。俺だってぼやけて得た情報からじいさんとばあさんに確認の電話を入れたんだからな」

「じゃあなんだってあんな面倒な事したんだろう…」

「俺とお近づきになった事を妬んだ愉快犯だとしても、それが動機ならリスクの方が大きいな」

 護は独り思考を巡らせている様だった。しかし、しばらくして顔を上げた。

「悪い。嫌な事は忘れるはずだったな」

「いや、別に悪い気はしてない。むしろ解決してくれた方がおれとしてもスッキリするよ。お前が日本にいてくれる内に面倒な事をその頭でなんとかしてくれるんだろ?」

「便利グッズみたいに言うな。最終的にさっさと忘れろ、で片付けるかも知れないぞ」

「おれはお前の性格を良く知ってる。どうせ気になったらとことん追求するんだろ?」

 真侍は機嫌良く言った。護は真侍を見すえる。

「じゃあ仮説を立ててみるか」

「うん」

「お前と山田が言い合いをしていた時間は、四時限が終った十二時半。その時点では成績表に貼り紙はなく、白い紙で隠されていただけだった。これは確かだ」

「成績表を貼り出すのは先生か生徒会のメンバーだし、同じ学年の成績表は見られないはずだから一年の生徒会役員か三年の生徒会長になると思う。青学の生徒会は三年の生徒会長と副会長が二年生の山田珠樹で、補佐役で書記の一年生だったはずだ」

「じゃあこのことを知っているのは先生達と生徒会メンバーという事になるな。山田は二年だから外れる」

「うん」

「俺が山田に連れられて貼り紙を見たのが六時限が終って教室に帰って来た四時半」

「四時間。犯行可能な時間が長すぎるな…」

「いや、そうでもない。五時限、つまり一時半から芸術学部の服飾科がこの校舎で授業をしているし、先生も出入りしている。生徒が成績表に細工をしようとしたら注意されるだろう。結構高い所に貼ってあったから、短時間でしようと思ったらお前並に身長があるやつでないと貼る事は不可能だ」

「じゃあ、授業中は除外か?」

「そう考えるのが妥当かな。昼休憩の時、と考えたら、俺達が休憩所に着いたのが一時過ぎだ。授業は一時半から始まる」

「その三十分間か?」

「クラスで昼食を取る連中もいる事を考えたら、その時間の犯行は危険だな。いつ誰が廊下に出てくるか分からない」

「十二時半から言い合いが始まって一時に解散した。五時限の一時半からホームルームまで四時半の時間帯に出来ないなら一体いつできるんだ?」

「可能性があるとしたら、やはり昼休み、俺達が言い合いをしている最中だな」

「ええ?あの時?それは無理だろう。人だらけだったぞ?」

「だからさ」

「…どういう意味だ?」

「こう考えてみろよ。あの時注目されていたのは俺達だ。野次馬たちは全員俺達のやり取りを見ていた。犯人が野次馬の中に紛れ込んでいたとしたら、紙一枚をこっそり貼るくらい、造作もない事なんじゃないか?」

「おれにはそっちの方が危険だと思うけど。俺と同じくらいの身長の人間はあまりいないから、流石に大きい身長の奴がごそごそしてたら、だれかが気付くだろう」

「紙に覆われた成績表に気付かないくらい注意力の無い学生が、同じ服を着て屈んだ生徒に気付くとも思えないけどな」

 確かに。真侍自身も成績表に気付かなかったのだ。それは自分も注意力が無い事を認めてしまうが、普段通り白い壁にわざわざ注意を払う生徒はいないだろう。

「青学に身長がお前くらいの人間はどれくらいいそうだ」

「さぁ…バスケ部とかバレー部には沢山いるだろうな」

「同じクラスの奴は?知り合いとか」

「同じクラスのヤツはいるかも知れないけど、知り合いはいないかな」

「心当たりはいないか…」

「ああ、生徒会長ならだれでも知ってる。身長も高いし」

「一年の書記はどうだ?」

「小さくて小太りの男の子だったよ。いつも生徒会長に怒鳴られてた」

「とすると、犯人は生徒会長の線が固いか」

「ええ?」

「生徒会長は三年で成績表を貼る事が出来る」

「そんな条件で決めつけちゃうのか?」

「身長もあるからあの時間帯に野次馬に紛れて貼り紙を貼る事ができる」

「こじつけっぽいな」

「だな。お前、生徒会長と面識はあったのか?」

「全くない。ついでに言うと生徒会長は委員長にさらに真面目の鎧を着せた様な人間だぞ。剣道部の主将で、試合で何度も優勝してるし」

「動機なしか。お前と面識があって過去を知っている可能性があれば事件はほぼ解決なんだが…」

「おれは生徒会長の顔も名前も、この学校で初めて知ったんだ。委員長が同じクラスだから、何かあると教室に来たことがあった。でも生徒会長に恨まれるほどお前みたいに目立ってないし、直接話した事もないな」

「考えるのはいったんやめだ。…寝る」

 護は眼鏡をを外して長い髪を横で一つに結び、アイマスクをした。上に変な目が描いてあったので真侍は爆笑するのをこらえるのに必死だった。


 新幹線を降りたら蝉の声が頭が割れそうなほど降って来た。護は背伸びをしてから結んでいた髪を上の方で手早くまとめて帽子をかぶった。目立つのは顔も性格もだが、その髪もまた目立つ要素の一つだ。顔だけなら余程海外の情報に精通している人でない限りは分からないだろう。

「親父が迎えに来てるはずだから、行こう」

 二人してリュックを背負って改札へ行くと、向こう側で隆と由美が嬉しそうに手を振っていた。真侍も一年ぶりの両親に、少し懐かしさを感じた。

 宮本の家では二人の帰省の宴が出来ており、足立の祖父母と恵美が席に着いていた。義男も文も立派になった護の姿に喜び、二人と再会できた喜びに涙ぐんだ。恵美は二人がいつも帰って来るのと変わらないような不愛想な挨拶を二人の兄にした。今年高校一年生になり、地元の公立高校に進学してバレーボール部に所属したらしい。髪は短く切り、ノースリーブとショートパンツからしなやかに伸びた腕と脚は、白いが健康優良児という無言のメッセージを発している。

 自分の家族達が野次馬の様にやってこなかったので護にはありがたかった。再会の乾杯をしてから二人はしばらく近況報告に忙しかった。

 空が薄暗くなりかけた頃、護は文と義男と共に足立の家に帰った。帰り際に二人は、帰省中に久しぶりに懐かしい場所を訪れる計画をしようと約束をした。学校であった事件は両方家族に打ち明けることは無かった。

 次の日、昼前に真侍が足立の家へ足を運んだ。ほとんど変わりのない家の中に、子どもの頃に戻った錯覚を覚える。護の部屋に上がっていくと机の上に参考書や宿題が積まれていた。

「お前、宿題持ってきてたのか…?」

「当然だ。一月半分の宿題を最後の一週間でするお前と一緒にするな」

「正確には三日だ!」

 真侍が自慢するように言ったので、護は呆れた。

「お前、来年大学受験するんだろう?そんな調子で大丈夫なのか?そこまでは俺は助けてやれないぞ」

「正直、進路に迷ってるんだ。お前みたいに早く自分の才能に気付けたわけでもないし。大学って言っても金はかかるしな」

「高校出てすぐに就職は今の日本では厳しいだろうな」

「両親にも貯えが無いわけじゃないだろうけど、おれの次は恵美が受験控えてるし。適当に選んで中退して別に転入したり、四年間大学に遊びに行くつもりで通う余裕があるわけじゃないからな。何になりたいのかちゃんと決めて選ばないといけないのは分かってるんだけど」

「そう思える学生も少ないだろうさ。言っておくけど、俺だってモデルになりたくてなったわけじゃない。偶然のチャンスを掴んだだけだ。それに見栄えはいいけど、一つ間違えば明日の仕事がない世界だから相当覚悟がいる」

「お前こそ勉強なんてもう必要ないんじゃないか?仕事もあるし名前もその世界では通ってるんだろ?」

 机の上の宿題を捲ると最後の数枚を残してほとんどの教科が終っていた。

「お前、これ一日でしたのか?」

「終業式から暇が出来たら適当にしておいたんだ。…断っておくが俺は宿題を写させるような友情は持ち合わせてないぞ」

「分かってるよ」

 護にきっぱりと言われてふて腐れた真侍は、自分のどこかに楽出来るかもしれない、という考えがあった事に少し恥じた。

「今はどの世界でも幅広い知識を持ってるやつが上部を占めてる。だから勉強はしておいて損はない。最も、俺も大学課程は終わってるけど、向こうでやる事が勉強しかなかったから終わったようなもんだ。子どもの頃とやってることが変わらなくて笑えるよ…」

 その隣にさらに高く積まれているテキストを見ると日本の文化、歴史と日本芸能、日本の習俗、縄文時代から現代までの衣食住の移り変わり、といったタイトルだった。

「これもあるのか…」

 真侍は心底嫌そうな顔をしてテキストから遠ざかった。

「それは興味のある分野だからもう終わった。好きな科目からやるとテンションも上がるしな。…学問や知識は裏切らないから知る価値はある」

「お前見てると普通が何なのか分からなくなるよ」

「普通?そんなもんは人間が自分本位に勝手に作り上げた持論だろ?」

「でも今の日本は“普通”じゃないと変人扱いされて社会からはみ出し者扱いされる」

「普通に生きれるが、今の人生じゃないのと、変人扱いされて今の人生を歩むなら、俺は喜んで変人扱いされるな」

「もう充分変人だよ」

「それは最高の褒め言葉だな」

 護が声を上げて笑った。

「…お前が羨ましいよ」

 “普通”の環境に意識しすぎて行き先を見失ってしまっていた真侍は、普通にも変人にも属していない気がして、それが引け目に感じる。

「結局のところ、到達して初めて変人の道だったか、普通の道だったかに気付くもんなのさ」

 いつの間にかうつむいていた真侍は弾かれた様に顔を上げた。目の前の友は自分の心を見透かしている様に笑んでいる。

「お前は、いや俺達はまだ道の途中だ。俺はとりあえず普通の日本国籍の十七歳男子が歩む道を歩き損ねたから変人の道に行かざるを得なくなった訳だが、この先はどうなるかなんておれ自身だって分からない」

護は自分に言い聞かせるように言った。

「まぁ、今の日本国籍の十七歳男子の生活に魅力は感じないから、このまま進むんだろうし、最終的に変人と呼ばれるんだろうけどな。お前も仲間に入るのならいつでも歓迎するぞ」

 護は笑う。真侍もつられて笑った。

「ああ。その時はよろしく頼むよ」

 二人で笑っていると下から昼食の声がかかった。


 昼食を済ませてから炎天下の下、二人は文に変わって食材の買い出しに出ていた。護は日焼け止めクリームをありったけ塗って、薄い長袖の白いシャツを着てシンプルなジーンズを着こなし、長い髪は上にまとめて帽子で隠しサングラスをかけていた。自分自身が商品価値を生む職業は大変だ。と隣の友人の重装備を見ながら思いつつ、ランニングにハーフパンツの気軽さに、真侍は安心した。道の途中で子どもの頃ドッチボールの練習をした公園の前を通る。暑さが猛威を振るう中、そこでは見るからに不純な中学生が四人ほどたむろしている。煙草臭い。どうも喫煙している様だ。その様子を横目で見て流そうとした二人の耳に、嫌な会話が聞こえてきた。

「お前持って来たんだろうな?」

「…持ってこれません」

「支払期限は今日だろ?」

「でも、ぶつかったからって慰謝料って…」

「えらい方がな、昨日お前にぶつかられた肩が抜けたっていってんだよ」

「ちょっと当たっただけです。それに肩が抜けている人が、僕の事をこんなに叩きのめすことなんてできないでしょう…」

「おい、上級生に言いがかり付けんのか?お前はちょっと当たっただけかもしれないけどな、当たられた方が被害者なんだよ」

 四人の内の気の弱そうな一人が恐喝されている。しかしその気の弱そうな生徒は毅然とした態度で立ち向かっているようだ。二人はそちらを窺うと、ひ弱そうな一人は顔も体も痣だらけで絆創膏や包帯が巻かれている。

「じゃあ、僕も被害者です。ちょっとぶつかっただけで竹刀で滅多打ちにされたんです。僕だって病院に行って被害届出す事だってできます!」

「ああ?おれ達を脅すってのか?お前学校でもっと酷い目に遭わされてぇのか!」

「いや、それとも今、ここで酷い目に遭わせる事もできるぜ」

「そうだな。どうせ暇だし」

「いい考えだ。年上の言う事が聞けないなんて根性叩き直す必要があるしな」

 その時恐喝されている少年が顔をあげたので、丁度立ち聞きしてしまった護と真侍の二人と目があった。

「おい。こんなにクソ暑い中、外を歩いているバカ野郎なんて殆どいないんだ。“道路に人がいる”ふりはよせよ」

「どうやら俺達はあの連中の言う“クソ暑い中外を歩いているバカ野郎”らしい…」

 その声が聞こえたのか、三人は驚いて振り返った。真侍は複雑だった。事件から三年は経っているが、地元では有名なニュースになった。自分の顔を見て当時の事件を思い出し、名前を呼ばれないか、と内心焦った。しかし目の前の恐喝されている少年を助けたいのも事実だった。中学の時の見覚えのある制服を着ている所を見ると、どうやら自分の後輩にあたるらしい。

考えている間に、護は真侍より前に出た。

「心配するな。手は出さない。手が傷付くし、保護用の手袋をつけ忘れたからな。まさか日本でこんな場面に出くわすとは思わなかったけど…ま、手も出させないさ。お前、嫌な事を思い出す様だったら下がってろ」

 自分自身の技が人を傷つけてしまうかもしれない、という体感のフラッシュバックは護と手合せしていても時々おこった。ただ本来の武道としての感覚も取り戻しつつあり、スポーツの技の癖を抑えつつもあるのだ。

「バカ言え。お前に何かあったら俺が責任をとる!」

 まだ言ってるのか。と言ったような顔をして護が笑うと、唖然としていた三人組が声を荒げた。

「誰だお前ら!」

「気にするな。通りすがりのバカ野郎だ」

「じろじろ見てるんじゃねぇよ」

 ケンカを売る風に三人が寄って来る。

「だったらこの炎天下に恐喝なんてするな」

「俺達がどこで何をしようが、お前らに関係ないだろ!」

「全くその通りなんだが、会話があまりに耳障りだったんでな」

 護はその生徒達を居丈高に見下ろした。観察する様に順に見まわす。

「見た目通り、頭が悪そうだ。体が小柄なら頭も比例して小柄なんだろうな」

「おい、煽る様なこと言うなよ」

 言いたい放題言っている友に、真侍は焦る。

「煽ってないさ、真実だ。嘘は付けない性質でな」

 護も真侍と比べたら背は低いが、三人組からしたら大きい方だ。体は細いが身形が整っている分だけ凛として見える。後ろの真侍は体躯も立派で、睨んで見下ろされたら怯むだろう。

「背が低い分、足も相当に短いんだな」

 ズボンを低くずらして履いている三人組を観察していた護は、遠慮なく見たままを言葉にすると、三人組は徐々に怒りを露わにし始めた。

「うるせぇ!これは流行なんだよ!」

「流行?お前らそれが自分に似合っていると思っているのか?家に鏡が無いんだな」

「ふざけるなっ」

「ふざけてなどいないさ。真実だと言っているだろう?全く、恐喝と小汚い身形に時間を割いているなんて、中学生の貴重な時間をドブに捨てているような物だな。髪形もレゴブロックだかニューブロックだか知らないが、みんな同じで区別がつかんな」

「ツーブロックだよ…」

 隣にいる若干髪色とスタイルの違う、しかし同じ髪型にしていた真侍が赤面して言った。怖くはないが、傍若無人な友人の発言にいささか恥ずかしさをおぼえる。恐喝されていた少年はそのやり取りに思わず吹き出していた。三人組のターゲットは今や護である。帽子と大きなサングラスの謎の男に徹底的にこけにされて頭に血が上っている。

「野郎…三人まとめてぶっ殺してやる」

 主犯格らしい一人がポケットからナイフを取り出した。真侍が顔を険しくする。護は平然としていた。

「そんなちっぽけなナイフで俺を殺せると思ってるのか?殺傷能力があるのはわずか五センチほどの刃だけだろう?できもしない事を言うもんじゃない」

 護は呆れて言った。三人組は纏まって護に掛かっていく。こうなったら仕方ない。当ては子どもだし、フラッシュバックするほどの場面でもない。真侍も加勢した。すれ違い際に一人の背中を突くとあっさり地面に突っ伏した。そのまま移動して恐喝されている少年を背で庇う様に立つ。護はするすると二人の滅茶苦茶な攻撃を躱して足を引っ掛け、瞬時に転倒させ、手から離れたナイフを取り上げた。

「俺を殺したいなら銃でも持ってくることだな。まぁ、弾丸が心臓に当たれば殺せるだろうさ」

 ナイフをハンカチに包んで鞄に直す。

「これは未成年を恐喝した証拠品として没収だ。明日学校からの呼び出しは逃れられないぞ。覚悟してとっとと帰れ」

「くそっ…!」

 もう一度立ち上がって掛かってこようとする三人組を護は鋭く見下ろした。

「何だ、やるのか?今度は手加減しないぞ。俺の腕の刀は加減が分からないからな、うっかり手が滑って人体にあるあらゆる急所にこの腕が貫通したら命の保証は出来ない」

 まるで本当に腕が刀のように見えた。抜刀し、構える。

「その覚悟があれば来い」

 狂気じみた笑顔をはりつけた護がにじり寄ると、三人組は舌打ちをして走って行った。

「ありがとうございました」

 三人組が見えなくなってから、背後から声がしたので護は振り返った。先ほどの少年だ。

「お前も阿呆だな。何故わざわざ金が払えないと言いに来るんだ」

「僕が来なかったら、家に来られるから…」

「両親は家にいないのか?」

 隣で立っていた真侍が聞いた。

「母だけ。でも仕事が夜遅くまであって、日中はほとんどいないんです。家に来られて部屋の中を荒らされても困るし。だから僕だけが傷付くならその方がまだいいから…」

 二人の男に同情の表情はない。

「今回の事は警察に通報するなり学校に連絡するなりして対処出来るが…あとはお前自身がどうするかだな。下手したら本当に死んでたかもしれない」

 護は鞄の上から軽くナイフのある場所を叩いた。

「でもさっき、そんなのでは死なないって…」

「そんなものははったりだ。嘘も方便というやつさ。お前のその細い体なら刃が五センチあれば充分心臓に達する。まぁあの連中がそんな殺人のテクニックを知っているとは思えないが、お前が無防備な態度であるなら、あのバカ頭達にでも仕留められるぞ?」

「じゃあどうすればよかったんですか⁉」

「そんなもん知るか。俺に聞くな」

「…自分で言っておいて無責任だな」

「俺は善人でも正義の味方でもない。別にこいつがどうなろうが俺の知った事じゃない」

 護は淡々と続けた。

「自分の命は自分で守れ。もう母親に守ってもらわないといけない子どもでもないだろう。最も、お前がどうなろうが構わない母親なら別だろうが…。他の家族と自分を比べて恵まれているかいないかを自分で決めつけるな。お前はお前なら、生き方は自分で選べ。考え方と環境は自分でしか変えられないものだ」

 少年は泣きだしそうだった。しかし下唇を噛み、拳を握りしめて耐え、護に言われたことを聞いている。

「お前はやられっぱなしじゃなかった。毅然とした態度で立ち向かっていた。そこに感心したから助けたんだ。でも、自ら危険に突っ込んでいくのは無謀だ。相手をよく観察してどうなるのかちゃんと自分の頭で考えろ。勇気と無謀は別物だ」

 それだけ言い残し、護はさっさと公園の外へ歩き出した。

「悪いな、あいつ口悪くてさ…。でも、あいつがもっと小さい頃、あいつは自分一人で生きていたんだ。君と同じ年には日本語の通じない国で本当に母親と二人で生活していた。人間は、強くなれる環境に放り込まれたら、きっと他の人よりも強くなれる。それがあいつの強味なんだ。だから君も、負けずにがんばれよ」

 肩を叩いてから、真侍は護の後を追った。背後から、少年の視線を感じつつ…

 間もなく真侍が走って追いつくと、護は何事もなかった様に歩いている。汗一つ掻いていない。

「なあ護」

「何だ?」

「お前の腕、本当に刀になるのか…?」

 サングラスの下の目が驚いた様に丸くなり、真侍を見た。それから笑ったから笑わないかの微妙な表情をする。

「試してみるか?」

「試す?」

「お前を真っ二つにする」

「冗談いうな!」

 ははは。と護は声を上げて笑った。

「もういい」

「拗ねるな」

「拗ねてない」

「何故そんな事を聞くんだ?」

「言わない」

「からかって悪かった。だから教えろ」

「…何か命令口調なんだよな」

「癖だ。堪えろ」

 まぁ、知ってる事だけど、と真侍は盛大にため息を付いた。

「あの時、お前の腕が本当に刀みたいに見えたんだ」

 真侍はあの三人組との最後の対峙の場面を思い出していた。スラリと抜刀したような腕。隙の無い動きは、まるで映像で見た暗殺者のようだった。

「本当に殺してしまうかと思った」

 護は真侍の不安を解く様に優しく笑った。

「俺の腕はただの腕だ」

「良かった…」

「ただ、言葉って言うのは不思議だな。俺が“俺の腕が刀だ”と言ったからそう見えたんだろう?」

「うん。まぁ、仕草もそうだったと思うけど」

「それはまぁ、仕事で得た物だな。言葉と見せ方、経験や自信のある態度なんかで、人はその人の事を信用して“そうなんだ”と思い込んでしまう。それが無知の領域でならなおさらさ。例えそれが偽りであっても、知識が無いとそう信じ込ませる事は以外と簡単なんだ」

 真侍は沈黙した。眉間にしわをよせている。頭の中を疑問符で埋め尽くされる。

「もう少し具体的に説明しよう。俺は男で、性別的にも普通だという事は分かってるな?」

疑問符が頭上にまで並んでいたのか、友人の言葉に「ああ」と返答する。

「その真実は俺達二人の事実だ」

 同意を求める様に聞かれたので頷くと、護は帽子を取った。中から長い黒髪が零れ落ちる。それを襟足の所でふんわりと結んだ。胸のあたりにタオルを入れ、シャツの裾をズボンに入れてそれが落ちない様にする。帽子とサングラスをトートバックに直して肩の所にかける。そのついでに肩にかかっている髪を払う。男性だ、と言われなかったら誰もが女性と間違えるだろう。

「行くぞ」

 護は真侍の腕を掴んだ。

「え?ちょっとどこに行くんだよ?」

「お前に先入観と言うものを見せてやるのさ」

 そう言ってニヤリと自信ありげに笑う。道路は人通りのある所へ出た。護は行きかう通行人の一人を捕まえる。声をかけて土地勘のない人を装う。声を聞いたら男とばれるのではないかと真侍は内心ひやひやしたが、声量を絞り、高く優しく囁く様に出たそれに、男の物だと気づかれなかった。学生のカップルがデートで知らない土地に来たのか、と思われていたらしく、声をかけた年配の女性は親切にこれから行くスーパーの道順を教えてくれた。

「最近この辺物騒でねぇ。夜になるとここいらで通り魔が出るとか…。外で飼ってる犬が棒で叩かれたとかって話も良く聞くのよ…。夏休みが始まって楽しい気持ちも分かるけれど、あまり夜遅くまで遊ばないで、お家に帰ってね」

 一度礼を言って、二人は年配の女性と別れた。

「ああ暑かった」

 そう言って護は鞄から帽子を出すと、手早く髪をまとめてその中にしまい、サングラスをかける。シャツを寛げて中のタオルを取り出した。

「どうだ?あのおばさんの記憶じゃあ俺は女だぞ」

「お蔭で変な汗かきっぱなしなんだけど、おれ…」

 ははは。と護は笑う。

「俺達は男で、ただの友達だ。でもこの姿で行ったら、恐らく女性とはさほど間違われないだろう。つまり人間の記憶なんてのは曖昧で、見たことのある物やそれに近い物に真実が偏る。だから見たことのない、知らない事の説明を「その筋の専門家」らしき人物に当然の様に言われただけで信用してしまうものなのさ。誰も腕が刀の人間なんて見た事ないからな。そんな奴がいて、それらしく振舞ったら俺は武道の達人さ。考え方を変えれば、自分が持っている確かな記憶すら、一つ疑惑という染みが出来たら徐々に広がって行って自分の記憶が信用できなくなる。本当にそうなのか。証拠は確かか。じゃあ法律は。なんて上げていけばきりがない。世の中の“正しい”は自分自身だ」

「お前が前に、真実は自分達の中にあればいいって言ってたけど、そういう意味だったんだな」

「そうだ。いかに自分がブレない為の経験を積んで知識を得るか。それが生きて行く上で大切なもんだろ。じゃないと他人の嘘か誠か分からん物に振り回される事になる」


二人は買い出しを済ませたその足で懐かしい場所に訪れていた。母校の敷地内にある学童だった。二人が出会った場所であり、友情を育んだ場所である。そこには吉岡環の姿は無かったが、新藤進一は健在していた。まだ沢山の児童が残っていたので、二人はOBとして一緒にドッチボールをして遊んだ。児童が降所してから、新藤は懐かしい二人との再会に懐古の情を表に出した。

「来てくれてすごく嬉しいぞ!立派になったなぁ二人とも。真侍も元気そうで何よりだ。護なんか生きてる内に会えないと思ったぞ」

 大きなマグカップにアイスコーヒーをざぶざぶ注いで二人に渡す。全く遠慮のない風に、居心地の良さを感じた二人は空いた椅子に腰を掛けた。

「全くです。環先生はどうしました?」

 護が聞く。並んでいる新藤と護を見て、真侍は二人の格好がよく似ている事に気が付いた。

新藤も髪を伸ばして一つ括りにし、眼鏡をかけている。長い髪は適当に縛ってあるだけだし、眼鏡はフレームの無い物だ。新藤は顔も体もどこから見ても男性の逞しさしかない。護は新藤の容姿を真似ようとしていたのだ、と真侍は二人が向かい合って話している所を見て初めて気が付いた。

護にとって、吉岡が母なら新藤は父だったのかも知れない。もしくは、自分が大切に思っていた初恋の相手、吉岡環にとって、新藤は敬愛する上司だったので、それを模倣したのではないだろうか。いずれにしても妙に見た目だけ似ている二人を、真侍は不思議な形をした、けれど深い家族の愛情を見る目で眺めていた。

「ああ、吉岡は今北海道にいる」

「え?転勤ですか⁉」

 二人とも驚いて視線を新藤にやる。

「違う違う。流石にそんなに遠い転勤はないぞ。住む家を探しに行ってるんだ」

「住む家?吉岡先生、引っ越すの?」

「そうだな、他人のプライベートを口外するのは好かんが、まぁ過去の桜小学童の英雄達だからこっそり教えよう。実は寿退職で今季で辞職だ」

「ええ⁉」

 思わず立ち上がったのは護だった。危うくコーヒーを零すところだった。真侍は護ほどは驚かなかったが、続きの話を聞くために耳を大にした。

「しかも相手は、お前らの過去の天敵、勝也だ」

「勝也?」

「ドッチ大会のガキ大将だよ!」

 二人は絶句した。

「吉岡も、まあ色々しんどい事を抱えている奴で、支えになるなら再婚はして欲しいと思っていたが、まさか相手が勝也だとはなぁ…。勝也も小学校の高学年から中学生の頃がピークで荒れていて、相当問題起こしてたんだ。その時は俺も谷小の担当に変わっていたから近くで勝也が見れてな…今考えたら、家の事情や兄弟の問題、あいつも色々抱えてたんだろう。でもそれが人に迷惑かけて良い理由にはならない。俺と吉岡は時間があれば勝也に会いに行って話した。環も情緒不安定な勝也の状態を小学生のころから見ていたわけだから放っておけなかったんだろうな。それで中学二年の夏に改心して北海道の農業の高校に行くって言ったんだ。家族や環境から離れたかったのかもな。それが結果的にいい方に転がったわけだな」

「…環先生は幸せそうでしたか?」

「ああ。幸せそうだったよ。勝也の奴、吉岡の見守りをずっと好意と勘違いしていたらしくて。馬鹿だよなぁ。小学生の時から吉岡に気があったらしいが、それも本当に結婚に結び付けるなんて、大した根性の奴だよ」

 新藤は呆れながらマグカップに口を付けた。二人は静かに新藤の話の続きを待った。

「吉岡も最初は冗談だと思っていたらしいが、あいつ、長期の休みごとに帰って来て吉岡を口説きに来てなぁ…。子どもだと思ってたのに、帰ってくるたびに成長した大人の顔して帰って来て。高校卒業したら農家に就職して勉強して、いずれ独立するから一緒に来てくれってうるさいのなんの」

 その時の様子を思い出したのか、新藤は一瞬うんざりしたが、直ぐにその表情は笑みに変わった。

「吉岡もそんな勝也の一方的かつ情熱的アプローチに最後には根負けして、OKしたってわけさ。勝也の実家の八百屋を活性化させたいんだと。あいつのところ三兄弟で繁盛してる八百屋でもないから、自然に高校だけ出た長男が実家を継いだ。三男は隣で自家農園の野菜を使ったレストランをするのが夢なんだそうだ。高校卒業したら調理の専門学校に進学するらしい。で、次男の勝也は八百屋とレストランのもとになる道を選んだ。で、卒業したら住む家を探してるんだとさ。…全く、縁っていうのは不思議なもんだよ」

 電話が鳴ったので新藤は「すまん」と片手を立てて受話器を取った。護は少し呆けている様にも、そして深く考えているようにも見えた。やはりまだ心のどこかで「吉岡環」を特別大事に思っていたのだろう。その思いが母を慕う愛情なのか女性への愛情か、それとも一人の大人に対する尊敬か…。もしかしたら全部かも知れない。大人ではないので酒を飲んで話を聞いて慰めてやることは出来ないが、ファミレスで晩御飯くらい奢ってやろうか。それとも、買い物を足立の家に届けたら文が夕飯を作ってくれてごちそうになることになるか…真侍がそんな風にこれからの事を予測していたら、いきなり現実に引き戻される内容が耳に飛び込んできた。

「吉岡?今どこからかけてるんだ?え?北海道?ああ、どうした?…え?落ち着いて話しろ。…何⁉勝也が襲われた?」

 最後の言葉に三人は顔を合わせて表情を険しくした。


 森塚勝也は、以前護が意識不明で運ばれた病院に搬送されていた。

 北海道には環一人で滞在していて、勝也は用事があってこちらに先に戻って来た。その日に誰かに襲われたらしい。何か棒の様なもので滅多打ちにされ、全身打撲で重体と診断された。一人北海道にいた環は森塚の家から連絡を受け、直ぐに戻る準備をしてから新藤に連絡をしてその間勝也の様子を見てほしいと頼って来たのだ。すぐに戻るとしても半日はかかる。

 護と真侍も新藤と共に勝也の様態を確認しに行った。既に森塚の家族は揃っており、新藤と話込んでいた。新藤と勝也もかなり交流が深かったらしく、勝也は新藤を兄の様に慕っていた事が会話から推測できた。

「吉岡もすぐ来ると言っていました。大丈夫、あの悪ガキ大将の勝也だ、ちょっとやそっとで倒れたりしないですよ」

 新藤が安心するように声をかけ、勝也の面会の許可を得て三人は病室に入った。

勝也は頭にも腕にも包帯が巻かれており、顔も肌が見えている所は紫色に変色していた。打たれた所は腫れあがっている。しかし腫れていなくても立派な体躯をしているようだ。あらゆる体のパーツが隆起しているのは筋肉だった。おそらく農業で鍛えられたのだろう。肌も焼けて健康そうだ。眉毛は太く、当時の悪童の面影を残していた。

 瞼も唇も腫れて赤黒くなっている。

「むごい…」

 真侍が顔をゆがめた。新藤は包帯の巻かれた頭が出ている所を励ますようにおさえた。

「大丈夫だ。もう少ししたら吉岡が来るからな。お前の大事な環だぞ。やっとの事で口説き落としたんだろう?ちゃんと二人で幸せになれよ。だから死ぬな」

 そのまま勝也の手を新藤がしっかりにぎる。護はツカツカと勝也に近づき、誰にも聞こえないような小さな声で何かささやいた。何を伝えたのか、真侍には聞こえなかった。

 言い終えて護が病室を出たので、真侍も慌てて後を追った。新藤と勝也の家族に一礼して病院を出た二人は、学童の冷蔵庫に買い物袋を預けている事を思い出した。

「ヤバい」

 護は急いで鞄から携帯電話を取り出す。着信履歴に足立の家の番号がいくつか残っていた。

「ある種家族中の誰よりも最強だからな、あの婆さん…あの人に口で勝てない…」

眉をひそめて携帯画面を眺めていたので、真侍が画面を覗きこんでから護の手の中から携帯を取り上げた。

「おい!」

「おれに話させてくれよ。ちょっと話したい事があるし」

 そのまま発信すると、直ぐに文が出た。

「こんばんは。あー…真侍です。寄り道するって言ってたけど、遅くなりすぎちゃってごめんなさい。ちょっと知り合いが事故に遭ってお見舞いに行っていたんです。それで…」

 護への説教に待ち構えていたのだろう文に、真侍は先程あった事を説明した。買い物したものを学童の冷蔵庫に入れてきてしまった事も。

「お願いがあるんですが…おれ、高校の寮でいっつも護とか宇野のおばあちゃんにお世話になってて、今日はこのまま護に夕飯奢らせて下さい。たまにはちゃんとお返ししないとオフクロに怒られますから。あ、メシ食ったらちゃんと護送りますんで、大丈夫です…はい。それよりおばあちゃんとおじいちゃんのご飯大丈夫?え?もうあるやつで用意した?いいなぁ、おれもおばあちゃんのご飯食べたかったです。はい、また遊びに行った時にご馳走になります。では、おやすみなさい」

 真侍は通話終了のキーに触れてから画面を閉じ、護のトートの中に電話を入れた。

「じゃあ行くか」

「…俺、時々お前が確信犯的犯行に及んでいるんじゃないかという気になる」

「は?」

「いや、何でもない」

 素っ気ない直結の孫よりも、時に少し遠慮のある孫の言葉の方が効果的である事を、真侍自身に自覚はないようだ。数少ない年よりの楽しみが孫の存在である事を、逆手にとれるほど真侍の知恵は回らない。しかし文の説教を延々と聞かされずに済んだ護は無言で真侍に感謝した。

「お前の驕りだそうだし、片っ端からオーダーするか」

「おい!ちょっと待て、おれの財布はお前の財布みたいに底なしじゃないんだよ!毎月少ない小遣いでコツコツやってんだからな」

「勘違いするな。俺の財布だってちゃんと底はあるさ。使う時と使わない時のメリハリがあると言ってもらいたいね。普段必要のない物に浪費しているつもりはない。お前もさっさと自立しろ」

「…お前、高校生に言うセリフじゃないぞそれ」

「成功に年も方法も関係ないね。やったもん勝ちだ。さて、何食うかな」

「おい!ファミレスだしな!注文はおれがするからな!」

 

 有名なイタリアンレストランのチェーン店である。二人は向かい合って注文した物を頬張っている。

「驚いた。期待以上に味が良い」

「そうか?お前どこででも良い物ばっかり食ってるイメージしかないから、ちょっと安心した」

「他人に作ってもらって、なおかつそれなりに味が付いていたら大抵は美味い」

 海外での生活はあまり質が良くなかったのだろうか。護は日本に帰って来てからどんな食事も残していなかった。

「まぁ、他の客席が近いのと、値段の関係で学生が多くて煩いのが難点だがな。そこまで贅沢は言わん」

「いや、言ってんじゃん」

 真侍は呆れて言ってからミートスパゲッティの皿から四分の一ほどをフォークで巻き取って一口で頬張る。護はドリンクバーのセルフカフェが面白いらしく二回目のカフェラテを注ぎに行っていた。適当に食べていると空腹を思い出したのか食欲がわいて来た。リーズナブルが売りの場所で良かった。追加注文の為にメニュー表を開いていると護が足早に戻って来た。

「追加するけど、お前何がいい?」

「静かにしろ」

 護の返事が声を潜めた鋭いものだったので、真侍はメニュー表から顔をのぞかせた。護は真侍に声を出さないように合図した。どうやら護の後ろの席にいる学生らしき団体の会話を聞いている様だ。

「だから、病院送りにされたヤツは絶対帰って来たMの仕業だって!」

 病院送りにされたヤツ…勝也の事だろうか?二人は目を合わせた。真侍はさりげなくメニュー表を机のうえに広げる。さりげなく二人で見ているふりをした。

「M、裏じゃあ相当悪い連中とつながりあるらしいぞ。新しい父親がそっち系らしい」

 真侍はオーダーで店員を探すふりをして護の背後を見た。頬に傷を入れる仕草は、物騒な相手を示していると察する。店員が見当たらない風を装い、またメニュー表に視線を戻す。

「機嫌悪いと誰にでも因縁つけて、ケンカ吹っかけて、最近じゃあ中坊だけじゃなくて大人にも相手になってるってさ。後ろにそっち系が出来てからやりたい放題で、憂さ晴らしのためによその家の犬とか酔っ払いとか年寄とか、無差別に襲いまくってるって」

「ちょっと恐喝して金巻き上げてただけの時は良かったのにな。パシリはしたけどおれらにも分け前くれてたから、いい小遣い稼ぎになったのに…それも最近エスカレートしてるっていうじゃん?おれらそろそろはなれた方がいいんじゃね?」

「そうだな。病院送りも案外マジ話っぽいしな。そっち系に連れて行かれる前にさっさと離れた方がかしこいかも」

「でもその病院送りになったヤツとM、どんな関係だったんだろうな。いくらなんでも憂さ晴らしで病院送りにするほどMだってムチャしないだろ」

「中学くらいまで、子分だったって。でも高校生になるし、進学したいからもうやめるっていう話になってから相当モメた上にケンカ別れしたらしい。でも高校になって別々の所に行ったって聞いたけど、今年の夏にたまたま会ってMが裏切りの復讐したって事かなぁ」

「さぁな。Mが狂ってるって話も出てた。そっち系のヤバいつながりから薬にも手を出してるんじゃないかって。この夏は特に、帰って来てから相当荒れてるみたいだ。桜中のパシリが金巻き上げて来なかったからってその三人相当ボコられたらしいぞ」

「新学期始まって、そいつら来なかったらどうする…?」

 冗談でなく、悲壮感が会話の語調からうかがえた。

「そういや去年だったけ、母親が再婚したの。そのすげぇ金持ちがそっち系なら、ありえなくないよな」

「…オレ来年受験だし、もう抜けたいよ」

「オレら全員そうだろ。そう簡単に抜けられるのかな?」

「いざとなったら全部Mに脅されてやらされたって言えばいいんだよ。全員でやめるって言ったらさすがのMでも諦めるだろ」

「中坊脅して金巻き上げてる内にさっさと抜けたら良かったなぁ」

「オレらも桜中や病院送りの奴みたいにボコボコニされるかな…」

 思い思いの不安を口にしている中、誰かの携帯電話が鳴った。家の者かららしく、帰宅するように言われて、谷岡中学の学生と思われる連中はぞろぞろと席を立った。

「今の話、勝也の事と関わりがあるのかな?」

「おそらくな。そのMって言うのが学生の主犯だろう。もしかしたら思っていた以上に厄介な組織が絡んでいるかもしれないな。どうする?」

「あいつらの話、聞いてしまった以上引くわけにはいかないよな…」

「ちょっと出過ぎた子どものおもちゃだとしか思っていなかったが、これは早急に渡すところに持って行った方がよさそうだな」

 護は鞄の上から、ハンカチに包まれてる物の上に手を置いた。


 追加注文はしなかった。早急に二人は近くの交番に行こうとしていた。互いの家に連絡をしたら隆が車を出そうかと言ったが、二人でいるから心配ないと断った。交番なら車を待つより歩いて渡しに行った方が早い。しかし一番近くにあった交番は空だった。最近の物騒な話の影響で夜回りに行っているようだ。

それでは、と二人は少し遠くにある県警に行くために近道の住宅地である路地を進んでいる所だった。ここも車を待つより徒歩で行った方が早いと判断したのだ。

「大きな通りは警察官もいたけど、流石にここにはいないな」

「まぁ、ここは問題が起こってる場所とは離れてるし、心配ないだろ」

「だが谷岡中学も近くにある。油断はしないほうがいいな」

 住宅地を抜けて商店街筋を抜けた先に県警がある。人通りの多い大通りは安全だが、遠回りだった。二人は安全と時間の短縮を天秤にかけて、近道の方を取った。

 護は自分が経験した過酷な状況と比べると日本の治安の良さにどこか安心している節もあった。その力量は真侍も了承している。それに昼間不良たちに向かい合った時、真侍は多少自分の腕にも自信を取り戻していた。もし、何かあったとしても、二人でなら切り抜けられる自信があった。

 薄暗いシャッターの閉まった通りを行く。古びた薬局の使っていない色あせた象の人形や、もうとっくに終わっている告知広告がさらに気味悪さを演出している。二人は左右別々に確認し慎重に足早に進んだ。

はがれかけた立て看板の影を確認し、使われていそうにない電話ボックスの横に、山になっている無機質な粗大ごみの傍を通る。フランチャイズのフライドチキン屋の大きな白髪の男性の人形の陰に人がいないのを調べると、すぐそこに出口があった。向こう側の明るい街灯に二人はほっとする。次の瞬間、正面から大きな物音がした。空を切る音と共に護が振り向く。

「後ろだ!」

 真侍は護から突き放すように押され、シャッターに体を打ち付けたが、それがクッションになり反動で立ち上がった。遠目で後方にある粗大ごみが散らかっているのが見えた。あそこに隠れていたのだ。護の顔が苦痛で歪んでいる。

「護⁉」

「大丈夫だ。何本か髪が持っていかれた」

 護の視線の先に、黒いマスクをかぶり、竹刀を持った大男が立っている。竹刀の弦やつなぎ目から黒く長い髪が何本か絡まっているのが見えた。どうやら竹刀が当たったのは護の黒髪だったようだ。もう日も暮れていたのでレストランを出たままの格好で髪も結ばずにいたのだ。

「お前がMか?」

 相手は何も答えない。竹刀をヌラリと持ったまま近づいて来る。相手の視線が護の鞄に行ったので護は鞄を背にやった。左腕の自由がそれで取られる。鞄を脇に投げようかと考えたが、その拍子に中に入っているナイフが出てきたら持って逃げられる可能性もある。長い髪も邪魔だが、今は結んでいる余裕がない。

「やはりそうだな。狙いは何だ?」

 護は少しでも時間を稼ごうとした。相手が一人だけなら二人でかかったら問題なく倒して相手を警察に引き渡す事が出来るだろう。隙を作ったら真侍も攻めに出る。しかし相手は中々隙を見せない。持ったままの竹刀の先を後ろに構え、間合いを分からなくする。手練れのやり方だ。剣道三倍段と言う言葉もあるが、自分達が得意としているのは体術だ。相手の力量が読めず、手練れかも知れないとなると、逃げた方が得策か…。一瞬の逡巡だった。後ろに下がった途端、背後から何者かに棒で叩かれた。咄嗟にその陰に真侍が上段蹴りを食わらせる。サンダルが邪魔でしっかりと踏み切れなかった。力が分散されて頭をかすめただけだが、それでも体当たりで相手が逃げるのに十分だったようだ。真侍はサンダルを脱ぎ捨てて護に駆け寄った。

「大丈夫か⁉」

「…ん」

 背を強く叩かれてうまく呼吸が出来ないようだ。背を軽く、何度か叩いてやると呼吸を取り戻した護が叫んだ。

「逃げろ真侍!」

 相手の数が分からない。しかし正面からした物音がMの仲間が出したのものなら、複数いる可能性もある。自分達の力が最大限発揮できない分、分が悪い。

「鞄が…」

 護が鞄を持っていない。取られる。と思った瞬間、竹刀が頭上から降って来た。真侍がそれを右手で受け止め、そのまま右回しにひねり上げ、ボキリと折った。

「この馬鹿力がっ!」

 男は二人から鞄の方に顔を向けた。竹刀を投げ捨てる。その隙に真侍は護を助け起こし、逃げようとする。護も方膝を立て、背中の痛みに耐えながら立ち上がろうとする。しかし自分を覆う様にしている真侍が邪魔で立ち上がれない。真侍が動かない事を不審に思い、護は真侍を見た。額には脂汗が球の様に張り付いている。いくつかが顔を伝い、滴り落ちた。真侍は歯を食いしばって何かに耐えている。

「…真侍?」

 護の顔のすぐ傍に真侍の左腕があった。左手は汗と血で汚れている。視線を上にずらすと、真侍の左手は何かをしっかり握って放さない。男の手があった。男の手には、見覚えのあるナイフの柄。それは護の鞄の中にあるはずのものだった。そのナイフの先半分が真侍の右の肩と腕の境に突き刺さっている。

 それ以上刺さらない様に。ナイフを抜いて次の一手が襲いかからない様に、真侍は左手で男の手首を剛力で握りしめていた。

「真侍!」

 男は鞄の方に行ったのではないのか?護は素早く鞄の方を盗み見ると、鞄の中身が辺りに散乱していた。運悪く、この男の近くにナイフが滑り出たという事か。

「もういい、放せ!」

「ダメだ。お前を怪我させるわけにはいかない」

「バカっ!お前の右腕が使えなくなるぞ!早く放せ!」

「大…丈夫…だ」

 男の力負けになった。血と汗で滑る真侍の掌から、男はナイフを持つ右手を引いた。折れた竹刀を拾い上げて商店街の反対方向に走り去る。

人の気配がなくなった。どうやら相手達は主格のMを含み二人だけのようだった。

「…逃げたな」

 真侍は刺さっているナイフを息も絶え絶えに抜いた。血が溢れ出る。護は鞄からタオルを出して傷口をきつく縛った。白いタオルはすぐに赤く染まり、結び目を伝って地面に落ちた。

「警察が直ぐ近くにあってよかった」

 真侍の夏着が血で汚れていく。地面にはいくつか血だまりが出来た。護は散乱した物の中から自分の髪ゴムを素早く見つけて真侍の傷口より上に巻き付け、止血した。ほんの少し、出血量が少なくなったようだ。

「これなら歩けそうだ。このまま警察署に行こう」

「ダメだ。救急車を呼ぶ」

「心配性だな。大丈夫だって。救急車を待つよりすぐそこの警察署に行った方が速いだろ。救護室もあるだろうし」

「ダメだ!」

 近くに落ちている携帯電話を取り上げ、画面上を忙しなく指が動く。

「…護。お前本当に」

 うつむいている護の携帯を持つ指先がわずかに震えていた。真侍は何か彼に言おうとしたが、その左手は力なく下がった。


 暖かい日差しが差し込む庭。子ども達の屈託ない笑い声が響いて、おやつの時間だよ。と声をかけると、賑やかな声が近くなってリビングが明るくなる。優しい、薄暗い部屋の隅々まで原色の絵の具をぶちまけた様に、二人の男の子と一人の女の子が笑ったり言い合いをしたりしながら、テーブルにのったおやつを覗きこむ。先に手を洗ってくるんでしょう?と怒った表情で、でも言葉尻は優しく言うと、三人の声はまたワイワイと洗面所に遠ざかっていくのだ。

 飲み物を入れにキッチンへ向かう。グラスを三つ出して、一つにはオレンジジュースと二つには炭酸ジュースを注ぐ。自分のマグカップを出そうとして、急に視界が暗くなった。振り返って外を見ると、さっきまで日が差していたベランダは重たい色になっていた。

 いいお天気だったのに…。

 そう呟きながらマグカップをグラスの横に置いて窓に歩み寄ると、一瞬、強烈な光が辺りを覆った。由美は咄嗟に耳を塞いで身をかがめた。また闇。次に天が割れそうな轟音。稲妻だ。嫌だ、と思いながら雨が降る前に洗濯物を取り込もうと外へ出る。突如の豪雨。また重たい空が光る。同時に嫌な音。洗濯物は諦めよう。あっという間に自分もびしょ濡れになった。ほんの少しの時間だったのに、靴下もぐっしょり濡れて泥まで跳ねている。溜息をつき、それを脱いで洗濯機に汚れた靴下を入れに洗面所に行く。部屋の中は真っ暗で、外は空から今にも雷が落ちそうな音を立てている。電気を点けなくては、と壁のスイッチを触るが、電気が灯らない。どうやらさっきの落雷で停電したのだろう。玄関にあるブレーカーを上げに行かないと。そういえば、子ども達は大丈夫だろうか。何かあれば、いくら肝の据わった恵美でも女の子だ、泣き叫んでもおかしくない。

「恵美?」

 名前を呼んでみた。返事はない。他の二人がちゃんと守ってくれているのだろうか?

「真ちゃん、護ちゃん、大丈夫なの?」

 二人の名前も呼んでみた。しかしその二人からも返事が無かった。廊下で何かに躓いた。暗くて足元が見えなかった。急いで空いた方の手を地面に付き、体を支えて転倒は免れる。廊下に何か置いた覚えはないのに…。また恵美か真侍が廊下にランドセルを置きっぱなしにしているに違いない。そう思って足元の物をみると、それはごみ袋だった。

「…え?」

 ごみは今朝捨てたはず…。傍にあるごみ袋に視線を向けようとして、周囲の景色も視界に入って来た。うず高く積まれている何かに囲まれている。顔を上げた。ゴミだらけだった。袋に入っている物もあれば、空のペットボトルや菓子袋も散乱している。汚れている洗濯物もあちらこちらにある。

「どうなっているの⁉」

 玄関までのたった数メートル先まで、両端に積んであるごみが今にも雪崩落ちて来そうだった。逃げ込むようにキッチンに行くと、さっきまで綺麗だったオープンキッチンまでも、ごみで埋め尽くされている。食べ散らかしたコンビニの弁当。ビールの空き缶や空の酒瓶が積まれている。

「嘘…」

 呆然として壁で体を支える。暗い部屋についたままのテレビが写しているのは砂嵐で、ノイズ音が雨の音と一緒くたになって聞こえる。フラフラとテレビのチャンネルを取りに行く。ガラステーブルに乗っているそれを取りあげて電源を切る。チャンネルを置こうとした。ガラステーブルに乗っている物が目に入った。ガラスのグラスが三つとマグカップが一つ。ガラスのグラスは一つだけ、洗ったように綺麗に空になっている。残りの二つのグラスは汚れている。その底に粘着質の元は液体だった物がこびりついている。一つは透明で、一つは赤褐色だ。オレンジ色だったかも知れない。マグカップには埃が積もっている。

 これは、夢だ。しかもうんと悪い夢。

「そう。これは夢だ」

 聞きなれた声がした。愛する人の声。

「あなた…」

 振り返ると、汚れた格好の隆が立っている。

「だから、早く片付けてくれないかな?君は主婦だろう?主婦が家にいるのになんでこんなに家が汚いんだ?ただでさえ俺は職場で嫌な思いをしているのに、家に帰って来てまで嫌な思いをしたくないんだけど?」

 狂気じみた笑顔で見下すように自分を見ている夫は、夢であるにしてはやけにリアルだ。

「私、知らないわ!さっきまで綺麗だった」

「何寝ぼけたこと言ってんだよ。誰も片づける奴がいないのに、片付くはずないんだから」

 隆は面倒そうにソファの上に重なっている汚れた洗濯物を乱暴にのけてそこに座った。ガラステーブルの空いた所に持っていたコンビニの袋を置く。何度も見慣れた弁当とビールを袋から取り出した。

「何がおかしかったのかなぁ。俺が真侍に武道を教えた事が悪かったのか?」

 缶ビールを開ける音。弁当箱のテープを外す音。テレビがついて、どうでもいい情報番組の声が聞こえて来た。そこに映るのは、護。有名になって成功した護。かつて、ここで真侍と一緒に遊んでいた彼。彼だけがなぜ…

「こいつ、両親から虐待受けてたんだろ?なのに、なんでこいつだけ成功してんだ?」

 隆が背中で言った。

「俺達の子どもはなんで成功しないんだ。ちゃんとした教育を与えてやって、ちゃんとした両親がそろってるのに、何でだ?たった一回の事故で、何でおれの家族がこんなになっちゃったんだ」

 缶を握りつぶす音がして、由美は身を縮めた。

「そうか…お前が善人面して、護を構ったりしたから、あいつの不幸が俺達にふりかかって来たんだ」

 由美は顔を上げた。もはや隆は土気色をしている。

「俺達の不幸は、あいつが全部持って来たんだ」

「違うわ!」

 由美は叫んだ。隆の姿をした、隆でないものに。

「彼のせいではないわ!誰のせいでもない!」

 これは、私だ。私自身の、誰にも知られない様に出さなかった言葉。とてもとても、深くて黒くて、考えない様に、見ない様にしていた私の心。

「護ちゃんを受け入れたのだって、偽善じゃない!そうしたかったからよ。子どもは皆の子ども。恵美も真侍も、他の子どもも皆、みんなの子どもなの!彼にお父さんやお母さんの存在を知ってもらいたかったからよ。だってそうでしょう?護ちゃんのお母さんやお父さんだって、本当は護ちゃんと一緒に家族として過ごしたかったはずよ!それが出来ないから、私がそうしようと思ったの!」

「本当にそう言えるのかな?」

「え?」

「護の両親はただラッキーって思ってるだけかもよ?仕事に邪魔な子どもを育てなくても良くって、金さえある程度渡しておけば適当に見てくれるヤツがいるんだって。それに護だって別に感謝なんてしてないかもしれないぞ。だから、真侍も俺達にも何も言わずに母親の所に行ったんだろ?」

 真侍が家を離れて、彼の部屋を整理している時に見つけた、護からの手紙。それは真侍の大切な宝物入れに入っていた。白、緑、青、茶、そして黒の帯。護からもらった変な模様の赤いTシャツ。その上に、何度も何度も読んだのであろう、色が変わって擦り減った手紙。そっと開いて読んだ。そこに詰まった二人の気持ちと絆。男の友情なんて、由美には分からないけど、でもまだそれが続いているなら…

 護ちゃんは、きっと真ちゃんを助けてくれる。きっと。それが友達ならば、必ず。

「消えてよ」

「は?」

「あなた、夢なんでしょう?だったら消えて!」

 由美は自分の前に立っているものを睨み返した。

「私は私の意思で護を大事にしたわ。恵美も真侍も。そして旦那様も、足立のおじいちゃんとおばあちゃんも皆私の大事な家族なの!護のご両親の事が分からないのと、私が護を大事にすることは別の事よ!護が成功する事と、真侍が事故を起こして私達家族が大変な思いをする事も別の事だわ!」

 それに、結局は足立の祖父が真侍を怪我させた相手に良い医師を紹介してくれて、手術も成功し、何の障害も残こる事無く快復したのだ。それだけじゃない、由美の家族を救ってくれたのは足立の祖父母だった。そうだとしたら…

「私は護がいる事に感謝しているわ。私の大事なもう一人の息子よ!彼がいたから人間関係が豊かになった。真侍だって、彼がいたから人生が変わったのよ。人生で親友と言える友達になんてそう巡り合えるものじゃない。だから、真侍はラッキーだったの。普通ではない経験をさせて貰えらのだから…」

 人と出会う事、付き合う事は時として億劫で面倒なことかもしれない。でも、この世界を創り上げているのは人で、人と人の繋がりが色んな可能性や奇跡を生み出している。

「私はこれからも護の母親の一人よ。これからも私の大事な三人の子ども達を見守っていくわ」



「お母さん?」

 はたと目が空いた。さっきまで目を開けていたのに、目の前には恵美がいた。

「あら?」

 由美は体を起こした。背に暖かい掌があてられている。

「恵美…」

「泣いてるからびっくりした。お父さんがね、足立のおじいちゃんか電話がかかって来たって、今用意してるの。お母さん、ソファで寝てたから起こしてって言われて来たの。大丈夫?」

 トタトタと音がして、リビングに隆が現れた。

「ああ由美、大変だよ。今警察とじいちゃんから電話がかかって来て……どうしたの?」

 隆は呆然として泣いている由美に驚いて、持っていた車のキーを取り落とす。泣いているはずの由美は笑いだした。

「ごめん。何でもないの。…ってことは無いね。顔洗ってくるから車出す準備していて。車の中で話すよ。とってもバカげた夢見ちゃったもんだから。恵美は行く?」

「行くってどこに?」

「どこって、まず足立さんの所に寄っておじいちゃんとおばあちゃんを乗せてから警察ね。多分悪さをしてお世話になってるだろうウチの悪ガキたちを迎えにいくのよ」


 宮本家と足立の祖父母は、県警から連絡を受けて着の身着のままで警察署の救護室に飛んできた。護は取調室で事情を話し終え、救護室に向かう所で五人に会った。二人は救護室で保護者の四人からこっ酷く説教され、恵美からは冷めた一瞥を投げられてから無事を安心された。真侍の傷は、護の止血のかいあって軽傷だった。警察署を出るころには出血は止まっていた。

「全く、お前らは本当に…。もう高校生だとか偉そうに言うけど、まだまだ子どもなんだからな!交番に持っていくだけだって言ったから許したんだぞ、俺は!それなのに勝手に遠くの県警の方までいって、挙句の果てに危険だと分かってる所に自分達から首を突っ込んで行くなんて!このバカ!」

一人だけ隆の拳骨を受けた真侍は不服に思ったが、それ以上に沈んだ表情の護を見て、自分の幼さと不甲斐なさを痛感した。

「本当にすみません。真侍の為に帰国したのに、こんな事になってしまって…」

「護も無事でよかった。けど、まだ未成年だってことを忘れちゃいけないぞ。俺達にとっては、真侍もお前も、大事な息子なんだからな」

 隆の、大きなごつごつした手で無造作に頭を撫でられる。何故か、昔頭を洗ってもらった記憶が甦って来た。

「…はい…」

 …家族なのだ。隆も由美も、そして真侍も。

 遠い国から面倒な手続きをして、仕事の責任も放り出して、一刻も早く戻りたかったのは、この家族の無事を自分の目で確認したかったからだ。電話やメールでの間接的な確認でなく、ちゃんと苦悩を乗り越えられたのか。家族の中が不穏な空気になっていないか。自分が一緒にいた時の、あの理由のない喜びと楽しみと穏やかな時間に満ちた空間。自分の安全基地に亀裂が入っていないか、護自身で確認したかった。

危機に瀕していたら自分が助けねば、と。

 かつて自分がそうしてもらったように…

 しかしそれは驕りと言うものだったようだ。真侍に怪我をさせ、探求心と過信から危険な場所に首を突っ込んで行った。結果自分達の家族に心配をかけた。一人の時は危険な場所から遠ざかっていたのに、真侍と一緒だと、さも自分達が無敵になったかという錯覚をしてしまった。

「おれも、ちょっと気が抜けてたと思う。悪かったよ。おれが怪我して、こんなに友達とか家族に心配かけるなんて思ってなかったからさ」

「お前だけのせいじゃない。俺も行動を変更する時にちゃんと隆さんに連絡するべきだった」

「護は、物心つく前から何でも一人でしていたわね。みんなそれは知ってる。それが自信につながっている事も。でも、独りで生きて来たと思わないで。私達も、宮本さん達も護の家族よ」

 護は頭を垂れて文の言葉を聞いていた。大抵の事は経験していた。生き延びる自信はあった。だから外敵から身を守る手段にも過信していた。それが仇となって心配をさせ、駆けつけてくれた家族に何と言えばいいのか言葉が見つからなかった。

「自信を持つことは良い。しかしな、現状を見極める冷静な考察が大切なんじゃ。そして自分自身こそ、粗末にはしてはいかんのだよ。自分自身を大事にすることが、最大の親孝行じゃ。特に若いうちは無鉄砲になりがちじゃからのぅ」

 義男は大きくなった真侍の、怪我をしていない方の肩を優しく叩いた。空いた方で護の背も叩く。

「変な事件に首を突っ込まないで。約束してね?」

 真摯に、二人を見つめて由美が言った。真侍と護は顔を見合わせてから、由美に向かって深くうなずいた。


 残り十日で二学期が始まる。両家族の付き合いに忙しかった二人は、週末に学校に戻る予定にしていた。そして真侍は芳江が送ってくれた大量の夏休みの宿題と向かい合う寧日を送っていた。護が芳江に頼んだのだ。怪我の事もあり、家で大人しく過ごすための材料にもなった。

護も真侍が怪我をしてから事件の話に一切触れようとしなかった。真侍は面倒な問題の山に進退谷まると、事件の事を掘り返して護に話を振ったが、護は知らぬ顔を通した。それならばと学校で起きた貼り紙の事を話題に上げても、護は流し目をくれるだけで取り合わない。仕方なく真侍は分厚い問題集に視線を戻すしかなかった。

 確かに学校では真侍の過去を暴露するような貼り紙はしてあったが、実際に校内で危害を加えられたわけではない。それにトラウマを抱えていたとしても、学校という安全圏内で真侍に怪我を負わせることは難しいはずだ。学校では護もともにいる事が多い。護は真侍ほど武道に長けてはいないが、それでも安全ではない所で暮らすための体術は心得ている。不安を先取りして未知の脅しに怯える事も無かったのかも知れない。

護が真侍の言葉を頭の端に置きつつも取り合わないのは、自分の過信からの失態と祖父から言われた冷静な諫言があったからだ。

「阿呆な事ばかり言ってないで今の問題と対峙しろ。学校の阿呆はきっと夏休みですっかりそんな事も忘れてるのが関の山だ」

 護は目の前にある進みそうもない真侍の漢文の訳に補助のレ点をかき込みながらテキパキと答えた。普通科目の問題集はまだ半分以上ある。

「そっちの事件よりもこっちの方がよっぽど事件だ。さっさと終わらせろ」

 取りつく島なし、といった態度の護と目の前の現実に真侍は落胆した。前にある漢字の列がだんだん見たことの無いような文字に見えてくる。

「…降参する。頼むから答え写させ」

「駄目」

 にべもない。最後の言葉を聞く事もなく、護はピシャリと言った。

「夕方には環先生に会いに行くんだろ?」

「ああ」

「そう言えば、親分のヤツ、怪我の回復は順調らしい」

「らしいな。意識の方はしっかりしているのか?」

「短期間の記憶がまだあやふやだって」

「あれだけ集中的に頭を狙われたんだ。頭の中か多少いかれていても当然かもな…」

 言葉とは裏腹に、護の表情は沈痛なもので。

「五体満足だったのが不思議だな…昔からお前並に頑丈だ」

 真侍の傷はもうふさがっていた。小さな傷跡は残ったが、本人は全く気にしていない様子だった。

「一緒にすんなよ」

「まぁ、確かにな。親分が馬鹿力の持ち主かどうかは知らん」

 護がせっつく様に問題にレ点と、先に訳すべき漢字に丸を付けていくので、真侍は仕方なく漢文の世界に戻った。ほんの僅かな一瞬、護がよそ事を考えている事に真侍が気が付く事はなかった。


学校に戻る新幹線の中。真侍は座席で残り三分の一までに追いつめた宿題と向かい合っていた。ここまで来たら自分が秀才に思えてくる。真侍は乗り気で数学の問題集のおさらいと応用問題に取り掛かった。と言うのも、分かりやすい護の指導あればこそだった。並ならぬ体力と集中力で二日ほど徹夜してここまでこぎ着けたのだ。新幹線のささやかな揺れにも気に留めず、どんどん問題を解いていく。隣に座った護も何も言わない。眠っているのだろうと気にかけなかった。数学の宿題を終えた所で隣の護に目をやると、彼は眠っておらず、神妙な面持ちで窓の外を眺めていた。

「護?」

 一時間もじっとこうしていたのだろうか。どうしたのか、と言う意味も込めて、真侍は名前を呼んだ。

「…もう忘れようと思っていたんだが」

護は唐突に切り出した。

「やはり今回の事件、俺なりに思う事があってな」

 残っている化学と家庭科の薄っぺらい問題集への意識はその本の厚みと同じく、真侍の関心は一気にそちらに向いた。

「聞かせてくれよ」

  護はほんの少し躊躇したが、覚悟してため息をついてから真侍の席の折り畳みテーブルから化学の問題集を取り、話を始めた。

「…今回の件。つまり、お前の過去を知る者が貼り紙でお前の過去を暴露した件、そして俺達が帰省してから起こった親分の件、Mと言う男、全部繋がっているんじゃないかと思ってな」

「へぇ?」

 真侍は素っ頓狂な声を上げた。遠く離れた学校と実家の事件に一体何の関連性があるのか、真侍にはさっぱりわからなかった。護は問題集を開くと、答えを写しているかの様なスピードで次々に問題を解いていく。

「最後に環先生と親分に会いに行った時の事覚えているか?」

「ああ、覚えてるよ」


  親分が事件に遭った数日後、北海道に住居先を探しに行っていた吉岡環と再会した二人は、その変わらなさに驚いた。小学生の時の、あの空気と空間からそのまま連れて来たようなエネルギーと若さを保っていた。

二人は夏休み中、環に会いに行くついでに親分の様態を見に行っていた。親分の回復は目覚ましく、意識が戻った時、突然訪れた見慣れない顔ぶれに、親分は「誰だ?」と聞いてきた。ドッチボールで戦った桜小の真侍と護である事を告げると、急に当時の事を昨日今日起きた事の様に話すのだ。どうも記憶がその時の物と混同しているらしい。

 最後に会ったのは昨日の事だ。病室を訪れると、そこには親分しかいなかった。環は席を外していた。何度か見慣れた二人に、懐かしそうに親分、勝也が話出した。

「そう言えば、昨日キュウリと丸太が会いに来た」

 二人は目を丸くした。

「キュウリと丸太?」

「ああ。今度はもっと特訓して、お前らには負けないからな」

 そこで検温と検査の時間だと医師と看護師が現れて、勝也から話を聞きそびれてしまった。遅れて病室に来た環に病院内のカフェに誘われ、二人は惜しむように話をした。

「あなた達も変わっていなくて安心したわ」

 真侍は「ええ?」と反論の声を上げたが、それは中身の本質的な物の事を言われているのだと、護は静かに頷いた。

「所で先生。昨日キュウリと丸太が親分を見舞いに来たって、本人が言っていたけど…」

「え?昨日?」

 環は逡巡するように視線を天井にやった。

「昨日は勝也の退院手続きやなんかで事務所とか言えとか森塚の家とかバタバタしていたから気が付かなかったなぁ…」

「びっくりしたんです。俺達昔、あいつら三人の事を親分、キュウリ、丸太ってあだ名をつけていたんです」

「そうそう。親分に知らせたつもりなんてないのに知ってたからびっくりしたよな」

「あら、そうなの!面白い偶然ね。確かにあの時の三人はそのままの形容がピッタリだし、子どもの頃なんてみんな知ってる言葉が少ない分、同じ事を考えるのかも知れないわね」

「メガネ。みたいに?」

 護が故意に眼鏡を触ってから笑ったので、二人も笑った。

「ああ、丸太君は分からないんだけど、キュウリ君の方はね、本当に久利って名字だったの。おかしいでしょ?見た目も細長かったから、キュウリってあだ名になっちゃったんでしょうね勝也が繰り返し言うものだから、私も覚えちゃって」

 環はコーヒーをストローで一口飲んでから「ああ」と思い出したように言った。

「そう言えば来ていたわ。正確には来ていたように思う、だけど。病室から背の高い男の人が出て行く所を見たから、それがきっとお見舞いに来た久利くんだったのね」

「丸太は一緒じゃなかった?」

「さあ、丸太君は見なかったけど…あの体格だったら、絶対後ろからでも分かるわね」

「じゃあ二人バラバラに帰ったのかな?」

「それも妙な話だな」

「何か予定が入っていたとか」

「そんなに気になるなら、後で病棟の看護師さんに聞いてみる?」

 カフェを出て、看護師に昨日の森塚勝也への来客があったかどうかを聞いてみたが、家族以外「久利」という名前は記録されていなかった。丸太の様な容姿の男が来なかったかも尋ねてみたが、同じく名前はない。昨日もそれ以前も、新藤と環、森塚の家族以外の人が勝也の病室に訪れていた記録はなかった。

「変ね。勝也ってばまた記憶が混乱していたのかも知れないわね。最近は随分正常になってきたって先生から言われていたはずなんだけど…退院前にもう一度調べて貰わなくっちゃ」


 真侍は護の話で昨日の一場面の記憶を辿っていた。

「キュウリと丸太が親分の所に来たかもしれないし、来なかったかも知れない話だな」

 思い出し終わって前に置いてあるペットボトル飲料を飲み終えるころには、真侍の家庭科の宿題も護の手によって片付けられていた。

「親分、環先生、看護師。三人とも言っているとこはバラバラだ」

「まぁな」

「この中で発言が一番信用性が高いとしたら、それは」

「…看護師?」

「そうだ。親分は記憶が曖昧、環先生は忙しくて病室にいる時間がバラバラ。だが来訪者の記録は確かな物のはずだ。となれば必然的に看護師の証言が正しいという事になる」

「でも、それが何なんだよ」

「不可解だな」

「不可解?」

「もし本当に家族だけしか来ていなかったら、病室から出て行った後ろ姿で環先生が気付くはずだ。先生が声を掛けないのも変だし。だからそれは親分の家族ではなかった事になる」

「まぁ、そうなるな」

「来たのがキュウリなら記録から名字で分かる」

「じゃあ、やっぱり親分の記憶違いだった?」

「そうなったら環先生の発言がおかしくなる」

「昨日親分はおれ達に“キュウリと丸太が会いに来た”って言ったんだぞ?」

「現状の記憶が定かじゃない親分の話で、それがあだ名で呼んでる過去の話か、続いている今の話か、正確な所が分からないだろう?」

「…うん」

「それが今のキュウリと丸太の話だとして、まず一つ目の疑問は二人が一緒に来たかどうかだ」

「バラバラに来た?」

「違う。看護師の話からして、キュウリ…つまり久利は来訪していない可能性が大だ。となれば丸太だ」

「でも環先生が丸太みたいな体格の人は見かけなかったって」

「それは言葉の先入観だ。“丸太みたいな”と思うとそういう人間を探してしまう。だが丸太だって俺達と同じ時を過ごして来ているんだ。九年もしたら体系位変わっていても不思議じゃない」

「じゃあ、環先生が見た背の高い人がもしかしたら丸太?」

 護は頷いた。窓際の縁に肘をついて風景を目に移しながら話を続ける。

「背の高い人が痩せた丸太だとしよう。旧友の事故を聞きつけて見舞いに来たとして、どうして名前を伏せる必要がある?」

「さぁ?親分の家族に知られたくなかったのかな?」

「あいつらは小学生の頃からの付き合いのはずだ。親分の親族に来訪を知られたくないくらい仲が悪かったら、まず見舞いには来ないんじゃないか?」

「それもそうだ」

「何故名前を伏せてまで親分を見舞わないといけなかったのか…」

「…そいつが犯人だからか」

 護は頷いた。

「親分が無事だと聞いて、自分が犯人だと告発される可能性が高くなった。親分の頭を集中的に狙ったと見える犯行の手口から、丸太は本当に親分に殺意があったかもしれない。でも生きていた。親分の生死を確認しに行ったらキュウリだと勘違いされるくらい体が変わっていた。親分が「キュウリと丸太が来た」と言ったのも、過去の二人の記憶と現在の記憶が混乱したんだろう。事故後の記憶の取り違いかな。丸太が犯人なら親分の本名ぐらい知っていておかしくない。年の近い兄と弟がいる事も知っているとしたら、名をかたって病室に入ることだってできるだろう」

「じゃあ親分が生きていて仕留めなかったのは、記憶が無かったからか?」

「というよりも、病院内でそんな物騒なこと出来ないだろう」

「確かに」

「仕留めるなら人気のいない所だが、病院にいる限り問題ないし、環先生にはあっちを立つ前に連絡を入れておいた。まだ不審者が捕まらないから親分と離れない様にしてくれってな。ついでに丸太の本名を聞いてみたんだが、学校が違うから分からないらしくてな。あだ名の方が目立ち過ぎていて聞いたような気もするが覚えていないとも言っていた」

「面倒な話だなぁ。でも、丸太が親分を襲った犯人として、その犯人はあの辺の不審者と同一人物だって事だろう?」

「そうなるな」

「おれ達を襲ったのは丸太って事か?」

 護は隣にいる友人の肩にある、今はもうふさがっている傷を見た。

「俺達を襲ったのは丸太で、あの辺でたむろしている阿呆の主格Mも丸太だと考えよう。そして学校で貼り紙をしたのも同一人物だとしたら?」

「ちょっとまてよ!Mが丸太まではいい。でも、学校の貼り紙も丸太⁉」

 護の視線は傷から真侍の瞳に移った。その眼差しは確信めいていた。

「丸太の頭文字がM。あだ名が丸太のままだと親分の腰巾着の記憶の方が強いからな。ま、あの年頃の馬鹿が思いつきそうなことだ。そして学校の貼り紙をした人物」

「生徒会長の岡田さん?」

「実は環先生に岡田俊輔という名前を聞いたことがあるか聞いてみたが、やっぱり記憶にないらしい。病院を訪れた人物の体格が背の高い男ならキュウリだと思われても不思議じゃない。が、腕の立つ剣術、それに、その当時のお前の事を知っていても不思議じゃない環境にいた所を考えると、やはりその筋は濃いな」

「こじつけ過ぎる気もするなぁ。だって、おれ岡田さんと会ったのはこの学校に来てからなんだ。おれの過去を知ってる可能性は無いよ。ついでに言うと、岡田さんは女子の間ではほぼ一番と言っていい位人気がある。頭が良くて、ちょっと古風で、そして顔もいい。丸太の容姿とは全然違う」

「容姿なんて本人の努力次第で変えられると言ったろ。問題は中身の方だ。親分が個性が強くてどんな奴かは大体見当がついていたが、他の二人は影が薄かった分掴みにくい」

護は何かを思い出すように窓の外の風景を眺めて深呼吸をした。

「真侍、覚えてるか?夏の前、貼り紙の事件があった日の事」

「そりゃあ覚えてるさ。おれにとってはすごく嫌な日だったからな」

「じゃあ、生徒会長が現れた時の事は?」

「うーん…」

 人の群れを割って出てきた事と、その態度がとても居丈高だった印象が思い出される。

「何かとても偉そうだった事は覚えてるけど」

「じゃあ、珠樹が俺の制服を破いたときの事は?」

「何だかお前が無駄に色気を出していた」

「阿呆!」

 護は解き終わった家庭科の問題集を丸めて真侍の頭を叩こうとしたが、反射的に彼の右手が見事にそれを受け止めて流した。護は真侍に攻撃する事を諦めて話を戻した。

「俺が制服を破いたのを珠樹じゃなくてお前のせいにした時さ。その時にな、生徒会長はこう言ったんだよ。「相変わらずの馬鹿力だ」ってな。お前の事を知らない奴が“相変わらず”なんて言うか?」

 真侍は必死に思いだそうとするが、難しい。

「あの覆面男もそうだ。初対面で竹刀を折られたら普通は怯むぞ?でもあいつも「馬鹿力がっ!」って言ったんだ」

「おれがそうだって知ってたって事か?」

「そう考えるのが自然だな。可能性があるのなら確認してみる価値はあるだろう。生徒会長の竹刀がどうなっているか調べてみたら分かるだろうし。最も夏休み、生徒会長は帰省せずに学校で大学受験勉強対策の特進クラスに入る予定だったようだが、それも調べたらすぐに分かるだろう」

 護は丸めた問題集を真侍に渡した。それを受け取った真侍が中を開いて見てみると、答えが書かれている所々に鉛筆で下線が入れてある。

「コレ何?」

「ああ、学期初めの学力テストで多分出るだろう山だ」

「そんなん分かるのか!」

「…教科書を読んだら大体どこが出るかなんてわかるだろう。日本の高校の教科書は親切なもんだ。重要な所が太線になっていたり色があからさまに変えてあるんだからな。テストに出ますよ、と言ってるみたいなもんだ」

 関心して問題集を捲っていくと問題は実に丁寧に仕上げられている。今持っている問題集の山も張ってもらえないだろうか、と一通り見終わった問題集から顔を上げたら、護はへんなアイマスクを付けて眠りに落ちていた。


 学校の最寄り駅に到着すると迎えの車が停車していた。初老の運転手が荷物をトランクに詰めるのを手伝いながら、再び真侍は現実離れした護の環境を一緒に体験している不思議さに包まれていた。夏休み中自分と同じ目線にいたのに、学校に帰って来た瞬間に少し離れた存在に感じる。

「お前と俺の間に距離なんてない。もしあるとしたら、お前が勝手に想像して創り上げてるだけだ」

「何だよ急に。おれは何も言ってないぞ?」

「言葉に出さなくても表情や目が俺から距離を作ってたぞ?もっとも見当外れなら俺の思い過ごしだろうが…」

 そう言って護は先に車の後部座席に乗り込んだ。

「なんで護には隠し事が出来ないんだろうな」

 一言漏らして自分も車に乗り込んだ。

「時には言葉よりも態度のほうが伝わる事もあるんだ。非言語は言語よりも伝える力がある。言葉にするとより正確化されるが、体現と言葉が繋がると、より力を生み出す事になる。だからな、お前が俺の状況を見て距離を取ったとしよう。そして俺とお前の差が環境や成功の違いであることを口にしたら本当にそうなって溝が出来るだろう。でもそうじゃない。お前がお前自身の才能に気付いて過去や現在の環境に恥じることなく自分を磨き、俺とお前が同じ目線にいるんだと気が付けば、そんなことは気にならなくなる。人間の間に距離も溝もない」

「簡単に言うなよ。おれ達の年でやりたい事を見つけて没頭してるやつなんて少ないぜ?」

「お前は家族にも友人にも恵まれている。挫折も経験した。後はその中から自分に必要な物や自分がどうなりたいか、逆になりたくないものは何か、を常に考える事だな。武道で人を傷つけた。でも武道は自分を救ってくれる。武道が好きだ。というなら、人を傷つけない様にその事ばかり考えたらいい。そしてそれをどう他の人に伝えたらいいか考えたらいい」

 真侍は車の外から外の景色を眺めた。

「…正直な、まだ少し怖いんだ。お前のおかげで大分向かい合えるようになったけど、他の人と組んだり、咄嗟に手を出さないといけない場面に遭遇した時、手加減が出来なかったり、逆に加減しすぎて大事な人を守れなかったり、そんな事を考えると武道を続けるのが怖い」

「じゃあ廃部寸前のサッカー部で活躍の場を待つか?」

 その問いに、真侍は真摯に見返した。

「それも違う気がする」

「なら、怖い事とひたすら立ち向かえよ。怖くなくなるまで」

 友人は安心して笑った。

「…怖くなくなるまで?」

「そうだ。向かい合って恐怖を感じなくなったら克服した別の世界が広がってる。でも逃げ続けたら、一生その恐怖に追われ続ける事になる。どっちでもいいさ、お前の人生だ。お前が選べよ」

 それからしばらく、真侍は護に言われた事を静かに考えていた。


 宇野の家に行く前に、真侍の荷物を置くため、先に学校へ向かった。学校に着くと真侍は自分の寮まで荷物を下ろしに行った。大量の宿題が入った紙袋はその重さを物語る様にずっしりと下に沈み、真侍の指に食い込んだ。真侍は両手に紙袋、前と背中はリュックでふさがり、扉をあけられない。見兼ねた護が真侍の前で先導についた。

 辺りは暗い。街灯が所々点いているが、足もとは暗かった。玄関から寮までは本校舎を過ぎて、スポーツ学部の体育館の前を過ぎ開ければならない。警備員の通用門しか開いておらず、車で入れなかった事を呪いながら真侍は黙々と歩いた。護は飄々と前を歩いている。一つくらい持ってくれてもいいのに、と内心独りごちながら、右手に嫌な感触を感じた。「ビリっ」という音と共に紙袋は持ち手を真侍の手に残して下に落ちた。「あ」という言葉と同時に、地面に宿題の冊子やプリントが散らばる。仕方なくもう一つの紙袋を下ろして拾おうとすると前のリュックが邪魔でかがめず、面倒だと思いながら前のリュックを下ろそうとすると背中のリュックのショルダーストラップが邪魔しており、そちらを先に下ろさねばならない状況だった。

「護~。ちょっと助けてくれよ」

 先行く友人に助けを求める。自分の面倒な状況に舌打ちしながら後ろのリュックを下ろしていると、護は笑いながら「大変だな」と近づいて来た。その時、更に運悪く一陣の風がふいた。宿題のプリントを舞い上がらせ、二人はプリントを拾いに翻弄させられた。暗くて視界の悪い地面だが、プリントは白く探しやすかった。集め終わったプリントを重石代わりの冊子の下にはさみながら、どうやって持とうかと護に相談しようとした真侍は、護がじっと立っているのに気が付いた。護の視線の先には体育館がある。更にその一部にその視線は注がれていた。プリントが壁に張り付いている。護は歩いてそのプリントを取りに行った。

「…通気口か」

「ああ、部室な。夏の運動部は最悪だからな。夜じゅう換気しないと部室が大変なことになる。特に剣道部は、防具がある分毎日換気しないとえぐいらしいからな」

 護は通気口からプリントを剥がして、しばらく考え込んでいた。やがて何かを思いついた様に口元を緩めて立ち上がり、真侍の荷物が置いてある方へ歩き出した。

「ちぎれた紙袋、俺が持とう」

「やけに親切だな。助かるけど…」

「助かったのは俺の方さ」

「え?何で?」

 真侍はポカンと護を見る。

「生徒会長の本性を暴き出す仕掛けを思いついたのさ。お前のプリントのおかげでな!」

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