児童期 2
…ン。
…ッン。
「これからも、一緒に生きなくちゃだめだ」
…ドッ。
…ドッックン。
「生きなくちゃダメだ!」
…ドックン。
ドックン。
ドクン。ドクン。ドクン。
目を開いた。白い。ぼやける。
「…次は白か…」
呟いた。
「先生!宇野護君の意識が…戻りました!」
「血圧、心拍数、バイタル、安定しています」
「よし、保護者に連絡してくれ」
はい。と女性の声がして、静かに足音が遠ざかった。もう一度呟いた。
「…俺、死んだの?」
喉がカラカラだった。今まであんなに走った事は無い。全身筋肉痛のような痛みがあった。体を動かしたくない。
「その逆だよ。よく頑張ったね、君は生き返ったんだよ」
視界があんまりにも白くて、家じゃなくて天国か地獄についてしまったのかと思った。まだ視界がぼやけている。そうか、眼鏡が無いのだ。
「俺、どれくらい死んでたの?」
「…そうだな、二十分位かな。君の所の先生が、君が怪我してから救急車が着くまで的確な人命救助の処置をしてくれたんだ。ラッキーだったね。もう少し体に異常が無いが検査しよう。そうしたら部屋に行こうね」
そう言って医者は席を離れた。消毒液の臭いしかしない。懐かしい匂いはいつの間にか消えていた。
生きて戻って来れた。助けてくれた男の人はうまく逃げ切れたのだろうか…
ドッチボール大会の後、側頭部強打で意識不明になったという。検査で異常なしが確認されるまで入院を余儀なくされた。意識が戻った次の日、早速連絡を受けた宮本一家がお見舞いに来た。学童と病院から事故を聞きつけた義男と文は着の身着のままで家から飛び出していたので、由美達は入退院の用意と休息を取りに一度家に戻る様に交代を申し出た。二人を見送ってから隆の体の陰から出て来た真侍は、目を赤く腫らしていた。
「護が生き返らなかったらどうしようって、心配して泣き通しだったんだ」
真侍は何も言わなかった。だから代わりに隆が言った。口を強く結び、目に涙を浮かべている。
「来てくれてありがとう。真侍」
「…たりまえだろ…心配かけんなよバカっ」
真侍は声にならないような静かな声で言い、護を抱きしめた。真侍の体温は驚くほど熱かった。肩に落ちる涙も、荒い息も、触れた汗ばんだ肌も。生を感じた。護が生きる事を望み、生き返る事を願った親友の思いの強さに、引き戻されたのだろう。
「真侍…俺、いつでも、もう死んだって構わないって思いながら生きてたんだ。俺なんか生きてても何の価値もないって。ずっとずっと、長い事、そう思ってた。…でも、生きたくなった」
護の視界がぼやけた。そういえば眼鏡がない。だからか、と思ったが、違っていた。目頭が熱くなって、鼻頭がツンと痛んだ。護も泣いていた。声が震えた。
「…お前のおかげだよ。真侍。お前がいてくれたから、生きたい」
真侍は強く親友を抱きしめていた。鼻だけすする音が聞こえる。肩は熱い涙でさらに濡れた。
「護っ…お前ホンっトに、オオバカっ…勝手に死んだら許さないからなっ」
護は点滴をしていない方の手で真侍を抱きしめた。初めて誰かを抱きしめる事ができた。服越しに真侍の脈打つ鼓動が伝わって来た。
生きている。
生きて行く。
これからも、この親友と一緒に。
そして、自分を大事にしてくれる人達と一緒に。
護の涙が触れた部分が、真侍のTシャツを重い色に染める。変な模様の、あの赤いTシャツだった。
病院の待合室にいた。
「とにかく、何事もなさそうだって先生も言ってたし、ほんとに良かったよ」
隆が安心するように言った。
「本当に。明日新藤先生と吉岡先生が病院に来たいって言ってたけど、護くん来てほしい?」
「ううん、いい。異常が無ければ二、三日で退院できるって担当医が言ってた。退院は午後になるって言ってたからそれから学童に寄るよ」
「そういえば、もうすぐ三月も終わりだな。二人とも三年生になるのか」
言われて二人は顔を合わせた。
「最後の日に三年生の卒所パーティがあるはずだ。でも午前中だったかも」
「先生達に会いたいだけだし、顔出すよ」
「その後真侍の所に寄っていいかな?」
「義男さんと文さんが良いって言ったら構わないわよ」
「うん。ありがとう」
真侍に聞いてもらいたい事があった。あの、出来事。ここで話したら心配されるだろう。でも親友には自分の体験した事を話しておきたかった。
二日間ほど精密検査を受けて正常と診断され、護は退院した。護は二人の許可を得て、学童へ向かった。たった数日しか経ってないのに、とても懐かしかった。引き戸を開いて中に入ると皆が一斉に護を見た。
「護!よく来てくれたわね、お帰り!」
環は護を抱きしめた。護はそっと抱きしめ返す。環からはいい匂いがした。
「こんにちは。さっき退院してきた」
「そう。大丈夫ならこのまま学童にいてくれると嬉しいんだけど。三年生、今日で最後だし」
“卒所おめでとう!”の看板が壁を飾っている。
「そのつもりです」
「良かった。…あれ?なんでみんな静かなの?」
二人以外誰も話さないので、環は不思議そうに皆に問うた。
「…宇野、なんか違う」
「うん、違う」
「え?」
口々に何か違うと言う子ども達に、環は離れて護を見た。
「ああ!眼鏡!新しいヤツになってる。カッコいい!とっても似合ってるわ」
あの時、顔の大きさに合っていない眼鏡は壊れてしまったのだ。保育所にいる時に本ばかり読んで目が悪くなってしまった護に、取り急ぎで父が用意した眼鏡はその時で二回りは大きかった。壊れた眼鏡は医者が渡してくれた。護は文に買ってもらった新しい眼鏡の箱に、壊れた古い眼鏡を大切にしまった。父がくれた大事な物だ。新しい眼鏡は端正な顔立ちの護をシャープに見せた。眼鏡ひとつでこんなに変わるものか。
「宇野がダサくなくなってる」
風香が言うと、皆が笑った。達樹を入れた何人かの三年生が玄関に護を迎えに来てくれた。早速ドッチボール大会の話で盛り上がりながら、表彰状が飾られている所まで案内された。達樹はまるで自分が取ったかのように自慢したが、護は自慢して貰える事が誇らしかった。
「お前ら、三年生になったら、頑張って下の奴ら見ろよ!」
三年生からの激励を受け、二人は誇りと自尊心に満たされていた。
「ありがとう。四年生になっても学童にドッチボール教えに来て」
「当たり前だ!おれたちは後輩思いだからな」
「あ~ら達樹!ちょっと前まで自分が自分がだったのに、すっかり四年生の顔になったもんだわね」
「吉岡先生~っ!」
水ささないでよ、と口を尖らせた達樹に、またどっと笑い声が上がった。
卒所式に参加し終えた二人は、真侍の部屋にいた。護は気絶していた時に体験したことを真侍に話して聞かせた。暗闇の中の水際で石を積まされそうになった事や、大人がそこにいた人たちに無意味に石を積ませようとした事、帰らないといけない事だけ覚えていて、近くの人たちと一緒に逃げて意識を取り戻した。そして、助けてくれた人がいた事。
「それ、さいのかわらじゃないか?」
真侍が言った。
「さいのかわら?」
初めて聞いた、と護は真侍の言葉に耳を傾ける。
「ばあちゃんがまだ生きてた頃、一緒に買い物連れて行ってくれた帰りに、よくお地蔵さまにお参りしてたから、何でそんな事するのか聞いたんだ。じゃあ、水子の霊を助けるためだって。親よりも先に死んでしまった子どもの霊を、そう呼ぶって。親よりも先に死んじゃうのはすごく悪い事だって。だからさいのかわらで石を積みきらないと極楽にいけないんだ。でも悪いオニが一生懸命積んだ石を壊しちゃって、極楽に行く邪魔をする。だから時々こうやってお地蔵さまにお参りしたら、そのオニの目を盗んで極楽に行く手助けをしてくれるんだって」
「…じゃあ、あのえらそうな大人たちは鬼で、俺を助けてくれたのは、お地蔵様だったのかな」
「そうかも。良かったな!」
護は不思議に思っていた。真侍の祖母の様に、肉親の誰かがお地蔵さまにお参りしている所を見たことが無い。
「じゃあ、おれのばあちゃんの分が助けてくれたんだよ」
足し算の答えをすぐ見つけたかのように真侍が言った。そうなのだろうか。腑に落ちなかったが、真侍の答えを否定する理由も見当たらない。それに今日は嬉しい事の方が多かった。とりあえず腹に溜めていたことを聞いてもらっただけでも胸が楽になった。
「もう六時だな。そろそろ帰る」
今日退院した事を思い出し時計を見て、護は帰る支度をした。一階に降りると、由美は丁度誰かと電話で話している所だった。挨拶するために少しテレビの前で留まる。見慣れた女性のアナウンサーがきびきびとニュースを読み上げる。
『六時のニュースです。子役タレントで小児がんを発症していた少女が病気を克服し、復帰一作目のCMの撮影を終えました。本日初放送です。ご覧ください…』
テレビには二つお下げの女の子が紺色の上品なワンピースを着てピンクのランドセルを背負いクルクルと可愛く回って笑顔を振りまいている。見たことのある女の子だな、と護はぼんやり眺めながら由美の電話が終るのを待っていた。
『たった七歳の小さな体で、良く病気と戦いましたね。本当に奇跡だと思います。これからの活躍、大いに期待しています。…次のニュースです』
「護君!」
ぼんやりとテレビの画面を見ていた護は、由美の声で振り返った。由美は大きく目を見開いておろおろしている。
「どうしたの?由美さん」
「おっおか…帰って来たからすぐ、帰って来てって!」
「…え?」
「お母さんが帰って来たんですって!」
それを聞いて護と真侍は弾丸の様に駆け出した。袋小路を真っ直ぐ走って足立の玄関をくぐる。鍵を開けてもらう為に扉を叩こうとしたら、いきなり扉の方が開いた。そこにはピンク色のツーピースを来た女の人が立っていた。
「…お母さん?」
護が言った。ほとんど写真で見た記憶しか残っていなかった。写真と同じ顔の母がそこに立っている。嬉しいはずなのに、護は突っ立ったまま母を見上げていた。
「護っ!」
護の母、紗世はその場で護を抱きしめた。
「色々おじいちゃんとおばあちゃんから聞いたところで、たった今宮本さんのお家に伺う所だったのよ」
護は母を抱き返した。痩せて、少し疲れている体だった。護は母の背を優しくなでた。これが、母の匂いだったのか。母の匂いは、もう思い出せないくらい遠い記憶になっていた。紗世は護の頭を何度も優しくなでた。
「怪我したそうだけど、大丈夫だったの?今日退院してきたばかりなんでしょう?」
「何ともない」
後ろにいた真侍が所在なさげにしていたので、護は慌てて真侍を紹介した。
「彼が、宮本真侍。俺の友達」
「はじめまして、こんにちは」
真侍は紗世に頭を下げた。紗世はとても嬉しそうに真侍を見つめた。
「あなたの話も沢山聞かせてもらったわ。護が大変お世話になってます」
「…は、はい。こ、こちらこそ、お世話になって頂いてます」
「どうか、これからも、護の親友でいてやって頂戴ね…」
「はい」
「お母さん、お父さんも帰って来てるんでしょう?」
確か一緒に帰ってくると、カードに書いてあった。父に会いたい。会って抱きしめてもらいたい。寝室で寄り添ってくれた匂いの記憶だけが印象にある父。
「ええ。帰って来てる」
護は振り返らずに靴を脱ぎ捨て、家の奥に入っていく。紗世は静かに護の後を追った。残された真侍だけが、紗世の表情の変化に気が付いた。
和室には義男と文だけがいた。座卓の上には文が持ち帰ってくれた、壊れた眼鏡が入ったケースの横に、見慣れない帽子が置いてあった。
「あれ?お父さん、台所?それとも二階にいるの?」
「護…」
義男が神妙な面持ちで護を見た。
「座って、護。真ちゃんもいらっしゃい。今、お茶をいれるわ」
文が立ち上がった。立ったままの護の後ろを紗世が通り過ぎて帽子の前に座った。真侍は座っていいものかどうか護と紗世を交互に見て、義男の横に座った。
「お父さんね…」
紗世は一気に涙声になった。
「死んでしまったの。発掘中の事故で…これしか…」
紗世は帽子を握りしめてボロボロと涙をこぼした。
「この帽子しか残らなかった…」
護はしばらく何も言わずに立っていたが、紗世の手から帽子を取って見つめた。
…お父さんが、死んだ?
全く実感がわかない。「嘘でした!」と後ろから現れるのではないか、とさえ思う。振り返ってみたが、父の姿は当然ない。懐かしい匂いがした。帽子から。小さな頃、寝室で嗅いだ匂い。
…父の匂い。
「嘘だっ!」
護は帽子を握りしめて、家から飛び出していた。靴も履かずに走った。やっと会えると思ったのに、死んだだって?
そんなのは許せない!どうしたって会いたい。
会いたくて会いたくて仕方なかった。
お父さんにもお母さんにも。
毎日会えないさみしさを、一生懸命押し殺していた。真侍が家族とけんかしたり仲良く話したり、めんどくさがったりしている事すら羨ましくて。だから一生懸命に見ないふりをした。
文や義男に心配をかけない様に、夜、布団の中で声を押し殺して泣いた。
「お父さん、お母さん。なんでいつも僕の傍にはいてくれないの。会いたいよ。会いたいよ!」
そう枕に顔を押し付けて叫んだ。お風呂に潜って怒鳴って泣いたこともあった。
クリスマスカードで帰国の知らせを知った時、どれほど幸福に包まれたか。きっと真侍も、真侍の家族も、義男も文も、吉岡先生だって、想像できない。
待ちに待って、やっとその時が来た。それが…
「嘘だっ!」
お父さん。
どうして死んじゃったの?
抱っこしてくれるって言ってたじゃないか。
その時のことを想像して、俺は凄く恥ずかしかったけど、でも凄く嬉しかったんだよ。高い高いしてもらった記憶が無いから、すごく楽しみにしてたんだよ。
それなのに…
どうして死んじゃったの?
滅茶苦茶に走った。息が切れた。喉の奥から血の味がした。それでも走った。何だろう。少し前に同じくらいいっぱい走った記憶がある。こけた。運動場だ。握っていた帽子が近くに投げ出された。それを掴んで引き寄せる。一緒に懐かしい匂いが届いた。
あの時と同じ匂いだ。
「…なくて……な…」
さいのかわらで助けてくれた、その人の最後の言葉を思い出した。
「抱っこできなくて、ごめんな」
一気に涙があふれ出た。
「…お父さんだったんだ…あの時…あの時、助けてくれたのは…お父さんだったんだ」
転んだまま何度も父の名前を呼んだ。
「お父さん!」
会いたかった。
会いたかったよ。一度で一瞬で良かった。記憶にちゃんと残る様に、会って抱きしめてほしかった。隆が、真侍や恵美にそうするように…。
それだけで良かったのだ。また仕事で離れ離れになっても、その幸福な感触と体温と、匂いの記憶があれば父を思い出す事が出来れば、またこの場所で頑張れる。そう自分にいい聞かせて耐えて来た。確かな記憶を心に焼き付けたかった。高価な物も、豪勢な食事もいらない。
ただ一度抱きしめてくれるだけでよかった。
心からそれだけを望んでいた。それだけを。しかし護を抱き上げるその手はこの世にはもうどこにも存在しない。二度と触れることのできない場所へ行ってしまったのだ。
体の中が空っぽになる。空っぽなくせに胸の周りが息が出来ない程痛く、強く締め付けられる。その苦しさは、痛さは、何という言葉で表せばいいのか。どう叫べば楽になるのか。分からない。頭が重い。痛い。空っぽな体は表現できない痛みで、おもいで、張り裂けそうだ。
そこで意識が途絶えた。
護は小学校の運動場で倒れていた所を環に保護された。保育室で意識を取り戻した護は、退院日だったことも考慮され、病院に戻ったほうがいいのではと大人たちに進められたが、頑として家に帰ると言ってきかなかった。
環は足立の家に連絡し、一緒に歩いて家まで送り届ける事にした。
歩く道で、護は今日家に帰ってから起きた事を環に話した。真侍だけに話したさいのかわらでの事も、父が自分を救ってくれた事も。
そして父を失った痛みを、なんと表現したらいいのかも。
環は黙って護の言う事を聞いていたが、急に護の脇に両手を差し込んで抱き上げた。去年と比べると、随分大きくなったね、環はそう呟いた。
「護、あんたが必要なら、あたしがお父さんの代わりをしてあげる。お母さんの代わりも…代わりしかできないけどね。学童に来てくれたら、ううん、いつでも、私はあんたのお父さんにもお母さんにもなる。そして何より大切な友達よ」
「吉岡先生…」
環に抱き上げられて、少しだけ脇が痛かった。ぐんと世界が高くなった。空気の温度が変わった。
「先生はずっと、お母さんの代わりをしてくれました」
「本当に?」
環はゆっくりと護を下ろした。
「それは、嬉しいな。私も…護みたいな息子がいたらってずっと思っていたの」
二人はまた、歩きだした。環が“手を繋ごう”とさりげなく手を差し出したので護はその手をしっかり握った。
「護が大事な内緒の話を聞かせてくれたから、先生も一つ、内緒の話をするね」
独白のように、環は話し出した。
「先生、本当は息子がいるの。もう何年も会ってないけれど…今年で五年生になるわ」
「会えないの?病気?」
見上げてくる護に、言った本人は首を横に振った。
「先生早くに結婚してね。相手は十歳も年が上の人で、先生も若くて何も知らなかったから、その人の言う事を聞いていれば問題ないって思ってた。向こうの家族に最初の三年が肝心だって言われて、実家にも戻れなかった。気が付いたら、親も、友達も離れて行って、私の周りには旦那さんと旦那さんの家族しかいなくなってた。田舎の大きな家でね、毎日毎日お家の仕事して、先生その時仕事してなかったから、ある時旦那さんに「自分らしく生きるためにお仕事がしたい」って言ったの。でもダメだった。家を守るのがお嫁さんの仕事だ。外で働いたら家が滅茶苦茶になる。って聞き入れてもらえなかった。そうこうしたら赤ちゃんが出来たの。嬉しいはずなのに、嬉しいなんて感情が分からなかった。赤ちゃんをお世話していても、毎日休みなしで家事をして、それから旦那さんが独立して事業を始めたからそれも手伝ったわ。寝る暇もなくて、毎日毎日子どもを背負って仕事して家事して…いつか自分が何のために生きてるのか、分からなくなっちゃった」
環は護に微笑みながら言った。微笑んでいる環の顔が、何だかとても苦しそうに見えて、護はもう一度、しっかり強く手を握った。
「死のうとしたの。普通に買い物に行くふりをして家を出てね。最後に、もう何年も会っていない両親に会いに行ったの。母親は昨日会ったみたいにお話ししてくれた。隣のおばさんの声が年々大きくなって、生活の様子がほとんどわかっちゃう事や、幼馴染に初孫が出来た事。プランターの家庭菜園に夢中な事。どうでもいいことばかり話して、最後にね、「何年も会ってなかったけど、元気にしてたの?」って聞いてくれたの。毎日毎日繰り返しで、やる事は全部同じで、ゴールのないことが積み重なっていく。私に与えられた事は私のする当たり前だったから、私の事を気にして聞いてくれる人なんて、誰もいないと思ってた。結婚して初めて泣いたわ。私の事を気にかけてくれる人がいたんだって…」
護は環の話と自分を重ねていた。
かつて、友達は誰も自分に関心がなかった。まるで空気みたいに。いてもいなくても同じ存在。その中で環は初めて自分の事に興味を示してくれた先生だった。
「そんな様子を見て、母が、「家は安心して帰りたくなる場所のはずでしょ?あんたの“家”は本当に“家”なの?」って言ってくれたの。その内に父も帰って来て、もう“あの家”に帰らなくていい。って言ってくれたの」
環は短く息を吐いて、ゆっくり吸う。そして話す覚悟をするように笑った。
「でも、子どもが…“あの家”には息子がいる。連れて帰らないと、って思った。思った瞬間怖くて、体が震えた。あの“家”に行ったら、また言いなりにされる。また生きている意味のない生活に戻されるかもしれない。そんな恐怖に打ちのめされた」
「先生は戻らなくていい!そんなところに、帰らないで!」
護は、その場面に直面したかのように声を荒げた。いつしか握った手は汗ばんでいた。環は護とつないだ手を握りなおして、微笑んだ。
「…ええ。私、帰らなかった。父がね、「もういい。お前が元気な体で帰って来てくれただけで十分だ」って言ってくれたの。号泣したわ。父に許してもらえた事と、そして、息子に会えない、気がおかしくなりそうな苦しさで…」
微笑んでいたはずの環の表情が歪んだ。目に涙があふれた。
「ふふっ。やっぱり、まだ駄目ね。もう十年以上も経ってるのに、自分の子どもの事だと泣いちゃうね」
環はあいた方の手で涙を拭った。
「それからね、まあ、何度か子どもを取り返そうと努力したんだけど、ダメだった。私、十九で結婚したの。学歴も職歴もなくて、仕事もない母親に育てられるよりも、立派な家もお金もあるお家で育てられた方が良いって言われて、私が引き取る事を認められなかった。向こうの家族にも、家も子どももほったらかして自分勝手に家を出た女なんて信用できない。二度と家の敷居を跨ぐなって言われた」
「先生にそんな家なんて絶対行かせない。俺が、先生がどんなに皆を大事にしてるかそいつらの前で証明してやる!」
「ありがとう、護。そう言ってくれるだけで、もう先生は救われてるの。先生、離婚してから必死で勉強してこの仕事に就いたの。自分の子どもの傍にいれない分、他の子ども達の傍にいて、力になろう、子ども達の気持ちが少しでもわかる先生になろうって、勉強したの。だから今、とっても幸せよ?」
「私、不幸せそうに見える?」と環に言われて、護はようやく冷静になった。
「すごく嫌な家族だけど、その家族のおかげで吉岡先生に会えたのなら、少しだけ感謝してあげてもいい」
「良かった」
環はにっこり笑った。
「俺、先生の味方だ。俺だけじゃなくて、先生を知ってる子ども全員、吉岡先生の味方だよ」
「それは凄いわ。私は世界一の超幸せ者だったのね!」
環が驚いた顔をして笑ったので、護も嬉しくなった。自分が幸せに出来る人がここにもいる。環を幸せにしていたはずなのに、いつしか自分が幸せな気持ちに包まれていた事に気が付いて、護は胸がじんわりと温まるのを覚えた。
「護、私と初めて会った時の事、覚えてる?」
「もちろんです」
顔を見ただけで名前をいい当てた人は初めてだった。笑顔で話してくれた優しい印象。大抵とっつき辛いと大人の方から関心を示さなくなるのに、環だけは初見も今もその印象通りの人だ。
「あの時、私があなたの名前を顔だけで言い当てられたのは、魔法使いだから。って冗談で言ったら、護は「魔法使いなんてこの世にいない。いるとしたら、テレビとかパソコンが作った偽物だ」って怒ってた」
「…あまり覚えてないな…」
記憶力はある方なのに、と護は頭をかいた。環は優しく笑う。
「でも、やっぱり魔法使いはいるのよ」
「え?」
護は驚いて立ち止った。さもいま“奇跡”が起こったかのようだったから。
「どこに?」
「ここよ」
「ここ?」
意図が理解できず、護は辺りを見回して首を傾げる。環の視線は護から外れない。
「あなたの事よ、宇野護くん」
「俺が?」
そう。言って環は穏やかに笑った。
「あなたの言葉で私、ずっと長く持っていた心の荷物が軽くなったもの。…そう考えていたらね、ドッチボール大会の時に最後の底力を出して勝てたのは、あなたの言葉があったからじゃないかしらって思ったの。護の言葉は人を癒したり、動かしたり、勇気付けたりする不思議な力があるのね。だから、言葉の魔法使いね」
「言葉の、魔法使い…」
護は環の言葉を繰り返すように呟いた。
「そう。言葉って魔法みたいでしょ?正しく使うと人を元気にできるけど、間違って使うと傷つけてしまうわ。だから、護には他の人を元気にできる、いい魔法使いでいてほしいわね!さあ、お家に着いたわよ」
足立の家に着くと、連絡を聞いた宮本家の人間までそろって護の帰りを待っていた。
その日護は、一つ、秘めた事を胸に灯して眠りについた。
宇野哲司の葬式が行われていた。棺は空だった。遺影の顔は何年前の物か、顔は泥で汚れてはいるが、元気そうに笑っている。
護は父の死に実感がわかず、号泣している喪主の母の横で表情なく座っていた。宮本家の人々も学童や学校の先生も見た顔が焼香に参列している。護の無表情さに慣れなくなった真侍や環たちは心配して寄り添おうとしたが、護は遠慮した。自分でもこの感情を何と呼べばよいか、まだ言葉に出来なかった。
母の様に泣けたらいいのに。でもそれは、父の愛情を感じたくて、言葉に出来ない言葉を叫んだあの瞬間、出尽くしてしまった気がした。それほどまでに、父との実際の記憶は少なく、だからこそ熱望した。想像上で両親を慕い、幸福をイメージしていた時間の方が長い。隣で泣いている母に同情しようにも、共にした時間が短すぎる。頭の中で創り上げていた幸福な家族のイメージは霧散してしまった。驚くほどあっけなく。だから実感がわかない。
しかし生活の支えを与えてくれた両親が、自分の大きな支えだったことは確かだ。家族の愛情は宮本家の、足立家の人間が与えてくれた。それは護にとって生きて行く上での大切な経験をもたらした。父や母からの愛着がどんなものか。祖父や祖母の違った形のそれ。兄弟のような存在。親友との絆。それらが護の心を満たしてくれた。豊かにしてくれた。大きな幸福で包んでくれた。自分にとって何が大切なのかを気付かせてくれた。
今、隣で泣いている自分の母は、とても弱弱しい。子どもと過ごす時間がなくとも自信を持って仕事をしていた二人は溌剌としていた。その二人は護の自信に繋がっていた。だからこそ余計に今の母の存在が脆く、弱く感じる。涙と一緒に体が枯れて、しまいに溶けてしまいそうだった。どんな風にすればそれが止められるかわからず、護は静かに横にいるしかなかった。
葬儀場は無機質な雰囲気が漂っていた。大勢の参列者からは温度も気配も感じない。
急に温度が上がった。生きた人の気配だ。護が確認する様に顔を上げる。それは無機質で冷えた空気を、高温の太刀で空間ごと切り裂く。足早に歩く、怒り猛った一人の老女だった。
小柄な老女は、綺麗に髪を結い、黒い和服だ。足音はない。無駄な動作なく歩みは早い。表情は硬く、取り巻いている空気は怒りに満ちている。連れる空気の層が熱い。周囲の様子の変化に隣の母が顔を上げた。
バシッ!
乾いた音がした。母は赤くなった頬を抑えていた。目の周りが同じほど赤い。護は一連の出来事が速すぎて、何が起きたかわからなかった。
「この泥棒猫が。やっぱり泥棒猫の娘は泥棒猫なんやな。ようもうちの跡取りをこんな形で返してくれたなぁ…」
老女は冷ややかな目で母を見て、吐き捨てた。声は大きくはない。けれど、その辛辣な言葉は遠くまで届くように鋭い。周囲がざわめく。文が慌てて駆け寄ってきた。
「芳江ちゃん、やめて」
「…文か。泥棒猫の親玉やな。その娘にお返しするのは一発で充分や。棺は空。お骨もない。十年も連絡よこさんとこんな状態で連絡してきて、私の怒りがこれでおさまっただけ良しとしいや」
老女は母に香典を叩きつけて踵を返した。来た時と同じように音も無く、熱い体で空気を切り裂いて行った。文も義男も母に駆け寄り、具合を心配している。唖然としている母を置いて、護はその老女を追う自分を止められなかった。
葬儀会場を出た角の、小さな地蔵が祀ってあるところに、老女はいた。小さく屈んで手を合わせている。閉じていた目を開いて、地蔵を見上げる老女の表情は静かで、そして深い悲しみに満ちていた。
「…あの」
護は老女に声をかけていた。恐怖はなかった。
「おばあちゃんでしょう?」
父方の祖母だと直ぐに察した。老女は静かに立ち上がった。
「護です。宇野護」
はじめまして、と頭を下げる。しわがれた白い手で、そっと頭を撫でられた。顔を見ると、目に涙が浮かんでいた。
「…堪忍え。大事な人を取られて、大事な息子まで取られて、どうにも腹が立っててなぁ。おさまりきらへん怒りの持って行き場が、どうしてもあんたのお母さんになってしもうてん…」
そっと喪服の袖で目じりを拭う仕草はとても上品だった。どこか、文を思わせる。
「お地蔵さんに毎日毎日お願いしてたって、哲司はこんな形で帰国してもうた。結婚に反対したら、縁切る、言うて家出て行ったきりで。子どもが生まれた、言うんも文から連絡があったんよ」
老女は視線を斎場に戻した。逡巡しているようだ。護は首を横に振った。戻らなくていい。そう言葉を掛ける代わりに、その老女の手を握った。
「私は宇野芳江。あんたの言うた通り、あんたのお父さんの方のおばあちゃんやね。文とは幼馴染で、小っちゃい時に京都の町で生まれた頃から一緒におったんよ。双子や言われるくらい仲がようてね…」
葬儀会場の近隣にあった喫茶店で、二人は話をしていた。
「それが、義男さん言う人が現れてから関係がおかしなってしもうてん。元々義男さんは私のお見合い相手やってんけど、どういう縁の繋がりなんか、文と義男さんはどっかで出会うてたんやね…駆け落ちして、音信不通になったわ。それからしばらくして、私は別のお見合い相手と結婚して、一人息子が生まれた。それが哲司。主人は年の離れた昔からの資産家でなぁ、大学の教授やってん。それ見て育った息子も同じように育ってくれたわ。ある日その息子が結婚した人が出来た、て連れて来たんがあんたのお母さん。それがまた何の因果で連れて来たんか、義男さんと文の娘やった」
芳江は上品に紅茶のカップを持ち上げて一口飲んだ。護も目の前の餡蜜の寒天を朱色の漆塗りの匙ですくった。
「私もまだ若こうて、ずっと恨んでたんやろうね。許す気になんてなれへんで、大反対した」
「…今もですか?」
目の前の、穏やかに微笑んでいる芳江からは「恨み」という言葉は不釣り合いだった。芳江はいたずらっぽく笑って首を横に振った。
「時間がね、お薬になったんよ。今は天国に行った主人も、私を大事にしてくれたさかい。さっきのんはね、十年分の溜ってた気持ちの解放やね」
ふふっ。と優しく笑って、芳江は角砂糖を一つ、カップに落とした。
「まさかこんな形で再会するとは思わへんかったけどね…」
細い指先でティースプーンを品よくかき回す。
「許そう。許そう。思て、やっと落ち着いたと思たら、空っぽになって帰って来たなんて、ホンマに呆れてまうわ」
そっと横を向く。泣きそうになる顔を護に見られたくない様に。
「お地蔵様…」
「えぇ?」
「芳江おばあちゃんがお地蔵さまにお祈りしてくれてたの。僕、そのおかげで助かったんです」
「えぇ?」
驚いて芳江が護を見る。護はおかしそうに微笑んでいた。
「僕、一度怪我して死にそうになったんだ。でも、さいのかわらって言う所でお父さんに助けてもらった。きっと、おばあちゃんがお祈りしてくれてたからだね」
夢みたいな話…だけど、と護は信じてもらえそうにない話を、芳江にした。芳江は黙って聞いていた。変な子どもだと思われてもいい。でも、今、ここに、三人を繋ぐ何かがあったのだ。
「ホンマにぃ…。ほんなら、お地蔵さんみかけてお祈りしてたんも、無駄にはならへんかってんねぇ。…文も紗世も、憎たらしいけど、護ちゃんみたいな可愛い孫がおるねんから、感謝せなあかんわね」
二人は目を合わせて微笑んだ。
「いつか…遊びに行っていいですか?」
「ええよ。今からでも大歓迎やわ!」
「良かった!でも、僕これから、しばらくここを離れないといけないんです」
「どっか行くのん?」
護は静かに頷いた。その意図をすぐにくみ取った芳江は、口角を上げて甘くなった紅茶を飲みほした。
「やっぱり、アンタの母親は憎らしいわ。おじいちゃんもお父ちゃんも、そんであんたも取って行ってまうねんからなぁ」
「今の母を、放っておくことは出来ません…」
「遊びに来てくれんの、待っとくえ」
「はい。ここには僕の大事な人達が沢山いるんです。だから、なるべく早く帰ってきます」
「お母ちゃんに、堪忍て伝えといてね。おばあちゃんにもね」
それから二人は、しばらく自分達の話をして過ごした。その日が父の葬式である事を忘れてしまいそうになるほど、溌剌とした笑い声や楽しそうな会話が喫茶店に響いていた。
吉岡環の報告文」
児童名 宇野護。
性別 男。
学年 小学新三年生。
保育士、指導員としての現状報告。
小学校一年生から学童保育を利用。
保育室での様子。
人とのコミュニケーションを取りたがらない。あまり自分の事を話したがらない。大人からの介入を拒む。小学校一年生の時は友達と呼べる子どもがいなかったが、二年生になってから同じ保育室の宮本真侍とよく遊ぶようになる。夏ごろから他校とのドッチボール交流会の事を意識し始め、二人が主体となり学童の子ども達と協力して勝利へ導く。その事が自信につながったのか、学童でも生き生きとし、活発になった。
家庭での様子。
母方の祖父母と同居。経済状況は普通。両親は外国で働いているため、面会出来ない。宮本真侍と友達関係になってから家族で交流し、現代の家庭的愛情を経験している。表情が豊かになり、他の児童にも優しく接するようになった。
二年生の三学期、父との死別により、母の職場である外国に移住。日本の教育状況、保育状況が現地での学校でどのように役立つかはわからないが、宇野護は一年間で子どもとして欠落していた愛情を両親以外の大人から多く受け、また親友の存在で感情や表情が一般の子どもの様に溌剌と生活出来る様になったと感じる。保育所からの引継ぎの時点で問題視されていた内容は全て問題なく解決したと考える。海外に移住しても彼らしく自信をもって生きて行けるように指導、支援して頂きたい所存である。
最後に、私個人の見解であるが、彼が自信を持って生きられるようになったおかげで、多くの人達を(私も含む)前向きに出来る力がある様に思う。根拠はないが、その力を伸ばしてやる事が、彼の将来に役立つと考える。彼と過ごせた二年間は私にとっても貴重な体験であった事は確かである。もう一年間の成長を見守れない事は遺憾であるが、現地の教員の方々にもそれを感じて頂ければ幸いである。
以上を持って、報告文、兼、委任状とする。
桜ヶ丘小学校 学童保育所第二保育室
主任指導員 吉岡 環
(学生期に続く)