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コトバダマシ  作者: 岡本 そう
1/4

児童期

一言葉目。

「宇野 護」

 

 その子どもは、いつも教室の端っこに座って身を小さく丸め、本を読んでいた。そんなイメージが定着してしまうほど地味なのに、沢山いる子どもに埋没せず、どこかしら目に入る存在だった。

 その容姿もまた、記憶に残る要因の一つだったのかもしれない。


 吉岡環が学童保育所の主任を担当することになった年、新しい一年生の受け入れの為に職員達は遅くまで保育室に残ってひたすら作業をこなしていた。前主任だった新藤進一はサポートとして普段は第一保育室の常勤している。しかし本体組織が管轄している近隣三つの学童を管理する役職も兼用になったため、環が引き受ける事になったのである。

 新一年生は学校よりも早く学童保育所に入る事になる。前日が平日だったこともあり、卒所式での別れの涙を拭う暇よろしく、バタバタと入所の受け入れ準備に取り掛からなければならなかった。自分以外の常勤の職員たちが新入生のロッカーや下駄箱に名前のシールを張り付けている。環は机に向かって新入生の名簿と書類を再確認し、名札の名前もついでに確認する。それが終ると緊急連絡先や保護者の就労の書類、児童が歩く自宅までの帰路などが書かれた書類をファイルしていた。壁には、

“卒所おめでとう!”

の大きな文字の周りに、紅白の紙で作った花が散らされた看板が掛かったままだ。

 床には、

“入所おめでとう!”

の文字の周りに、色画用紙で作った可愛らしいひよこやウサギがランドセルを背負って笑っている看板が置いてあった。事務作業が終ったら、入所のお祝いの装飾に取り掛かろう。やることはまだまだある。期待と不安を胸から押し出すように深呼吸をして、作業をしていた職員たちがこちらを見て誰ともなく、ふふっと笑った。その笑顔も、どこか疲れている。

「キリのいいところで一段落つけましょうか。後で隣にも声かける」

「そうですね」という小さな返事を聞いて、それぞれまた作業に戻る。保育室は二室。こちらの第二センターには四十名。隣の第一センターには六十名。計百名の子どもが放課後や長期の休みで過ごす事になる。保育室は小学校の敷地内に隣接して建っている。おそらく隣の保育室でも新藤の指示で忙しく同じ作業が行われているはずだ。そのあと新藤は二つの学童の入所準備の確認に向かわねばならない。環は疲れたと口にしようとして控えた。新藤は自分の倍以上の仕事をしているのだ。疲れを振り払う様に微かに気合を入れて、在籍児童の名前と名札の確認をする。次は入り口に机を出して今年保育所ですごす児童たちの名札を学年ごとに並べなければならない。

 一段落つき、うーん…と立ち上がりながら背を伸ばすと、それを合図に職員たちも手を止めて休息の準備に取り掛かる。受話器を取って、窓から隣を見る。三月三十一日の夜の七時の暗闇には保育室の明かりと、空に浮かぶ月だけがこうこうと周囲を照らしていた。


 翌日。少しだけ疲れを残しつつも、子ども達にはそんな顔を一切見せず、職員達は入り口で新入生と在籍児を迎えた。朝はまだ冷え込むが、漂ってくる草木や土の匂いが春の訪れを思わせる。在籍児にまざってこちらに歩いてくる新入生は、少し緊張した様子なのですぐに分かった。中には保護者と一緒に登所してくる子もいる。不安な新入生と保護者を安心させるように、環は優しく微笑みながら「おはようございます」と屈んで子ども達と目線を合わせながら出迎える。その顔を見て、少し緊張が解消された新入生は母親と環の顔を交互に見てやがて手を放し、保育室に入っていく。「お預かりします」と送りに来た保護者それぞれに挨拶をし、保育室の中で待機している職員に預ける。十分もすると玄関に並んでいた新入生の列も無くなり、運動場や正門を歩いてくる子どもの姿もまばらになった。少し気持ちを楽にして、在籍児と会話していると、一人の子どもに目が留まった。

 その子どもは、ランドセルを背負って真っ直ぐこちらに向かってくる。髪形は今時はそう見ないおかっぱ頭で、どうみても美容室で切ってもらったようには見えない。明らかに素人が切った不ぞろいな物だった。近くに来ると、その子どもの整った顔と肌の色の白さが確認できた。服装は清潔だが、今の流行ではなく古風だ。

「おはようございます。今日からよろしくおねがいします。」

 その子どもが頭を下げた。

「おはよう。ここは学校じゃないから、ランドセルは入学式から使えばいいよ?」

 環が声をかけると、その子は無表情なまま少しだけ目を大きくした。

「知りませんでした。ごめんなさい。」

「謝らなくていいよ。でも重いでしょう?教科書もまだ持ってこなくていいし、持ち物はお弁当とか、自由帳とか筆箱なんかだから荷物は少ないし。明日はリュックサックで来たらいいよ」

はい。と子どもは頷く。それから子供は辺りを見回した。

「ここに九時に来るって教えられたからその十五分前に来たけど、皆もっと早く来てたんですね」

「学童は八時半から九時までだから、その間に来てくれたらいいのよ。幼稚園や保育所から初めて学校の中の学童に来るわけだから、初めての日だけ、一年生は九時に来てくださいとお父さんやお母さんに言っておいたのよ。だから遅刻じゃないよ」

 環は極めて優しく言った。しかしその子どもは少しうつむいて不満そうにつぶやいた。

「ばあさんめ…」

 声の高さと話す言葉づかいが釣り合わず、思わず吹き出してしまう。その人物が誰だか分かった。

「宇野護くん。で合ってるかな?」

「はい」

護は不思議そうに環の顔を見上げた。

「…初めてです、見ただけで名前言われたの」

「先生は魔法使いなのよ」

 もちろん冗談だ。でも保育所の引継ぎの担任からもらった「注意しておくべき児童」のリスト中にはその名前が一番最初にあった。


「 協調性が無い。

独りでいる事が多い。

態度が子どもらしくない。

家庭環境は一般家庭と著しく違い、両親が海外出張をしている。

市から四歳の時ネグレクト((育児放棄)であった報告あり。

両親からの愛情は欠落しているはずだが、本人からの要求行動は無い。

現在は母方の祖父母と生活している。」


そんな風に箇条書きしてあった。詳しくはその担任も知らなかったようだが、知らない内に両親が海外に出張に行っていたそうだ。二人とも大学か大学院の教授らしい。偉い立場なのだろうが、子どもをそこまで放置できるとは、一体どんな神経をしているのか…。言葉には出さなかったが、共感した二人は目を合わせて困った風に笑って頷いた。

 この子がそうか。

 思っていたよりも素直で、会話がちゃんと出来る。これなら、今からでも充分子どもらしく成長出来る様に手伝えるはずだ。

 環は学生の頃、と言っても社会人大学生で、働きながら保育士の資格を取った。友達にも保育士がいたので、自分で開拓しないといけない制度の実習先もコネでなんとか入れてもらった。実習に行く頃には保育所でアルバイトとして働いていたので、その場所がどんなところかをある程度は理解しているつもりだ。実習先はいくつか選択せねばならず、一つを児童養護施設に選んだ。家の近くにある事が選んだ理由でもあった。そこでは様々な理由で親と生活できない子どもや、親を亡くした子どもたちが生活している。予想していたほど過酷では無かった、とは思った。しかし生活を送る子どもたちは、何かしら欠如しているらしかった。距離を縮めたくて親しく話そうとすると、いきなり突っぱねられる。

「先生に何が分かるんだ!帰る所があるくせに!お父さんだってお母さんだっているくせに!」

 言葉には気を使っていたつもりなのに。そんな風に怒鳴られたら、いくつも年下なのにこちら側が怯んで泣きそうになる。思春期もあったのかな。と自分を慰めながら、どんな風に声をかけてやればいいのか悩む日々だった。情けない。受け入れてほしい。実習終了の三日前、ようやく介入されない、柔らかい拒絶のある空間から解放される。嬉しい気持ちもあった、でも、このままでいいのか?あと三日、いやまだ三日ある。ここの子ども達に受け入れられないまま実習を終えてありきたりな実習日誌を提出し自分は満足なのか。そうじゃない。本当に望んでいるのは心の豊かな交流で、子ども達に心を開いて甘えてきてほしかった。保育士になろうとしたのは、どんな子ども達とでも交流できる職業に就きたかったからではないのか?複雑な気持ちが混在して、その日の実習後、担当の前で泣いた。

「当たり前よ。同じ環境にいたって、一人ひとりの気持ちなんて同じじゃないし、理解できるわけないんだから。子どもだと思って相手していたら痛い目を見るわよ。でも、ほったらかしにするのと、見守るのは違う事。今は見守ってあげたらいいのよ。と言うより、最終的に私達にできる事は相談に乗って見守る事しか出来ないのよ」

と、笑って言われた。

 全く同じことを理解しようとすることがまず間違っていたのだ。しかし、話を聞いて、気持ちを想像することは出来る。静かに寄り添うことは出来る。そして一緒に最善を考える事が出来る。

 子どもとの関係で辛い事があった時は、その言葉を思い出して支えにしていた。学校を卒業して資格を取ってから、学童の職員にならないかと言って推薦してくれたのもその時に実習担当してくれた女性職員だった。

「色んな背景を持った子どもの上にエンドユーザーである保護者が付いてくるからね。ある種、施設とは違った問題山盛りだわ。でも、やりがいはある。休みはあってないようなもの。その上薄給。選ぶなら覚悟して」

 先輩の新藤はそこにいた。女性職員も新藤の後輩だった。確かにやりがいはあった。でも真剣に向かい合えば子どもも保護者もこちらを向いてくれる。それが自分の武器だ。と環は自分に言い聞かせ、三年目、上から主任に任命された。給料は少し手当が付くほどだったが、そんな事で頭を抱えている暇などはなく、やる事は沢山あった。生活が出来れば十分だった。三年で色んな問題を抱えた子どもと向かい合ってきた。保護者とも。だから今回だって、覚悟はしていたのだ。でも彼とは、案外早く打ち解けられそうだ。そのことに心なしか安堵している。いや、むしろ不思議と心が弾んでいた。無償の愛情が湧き上がって来る感覚と、希望に満ちた可能性がそこには混在していた。

 靴を脱いで下駄箱にあるはずの名前を探す護の姿を見て、微笑んだ。やがて下駄箱に靴を直した護が急に振り返った。

「魔法使いなんてこの世にいない。いるとしたら、テレビとかパソコンとかが作った偽物だ」

 仏頂面で淡々と言う。とても怒っているようで、それが逆に子どもらしく見える。大人はいつも、子どもに見え透いた嘘をつく、と。

「あら残念。あたし、魔法使いは信じてるんだ。護くんとは違う考えみたいね」

 笑うと、不思議そうな顔をして、しばらく環の姿を見ていたが、やがて部屋の中の保育者に促されて奥へと入って行った。靴下の裏が派手に破れていた。



§§§


 宮本真侍が宇野護と出会ったのは、小学校二年生の時だった。

 父が転勤になって、春休みの内に転校した先に入った学童に、護はいた。

父は私立中学の体育の教師で、母はスポーツジムで指導員をしている。一つ下の妹は幼稚園の年長の頃から体操教室やバレエ教室に通っている。そんな自分も父の持つ武道教室に無理やり付き合わされていたので、気が付いたら身体能力は他の同学年の子どもと比べると違いが出ていた。武道教室は母の職場のスポーツジムの一室を借りて主となる師範の手伝いをボランティアでしていた小規模の物だった。周りはほとんど大人だった。大人のペースで稽古していたので自然と能力は上がっていた。真侍自身は当初父の付き合いよりも友達と遊ぶ方がよかったのだが、その考えを払拭させ、その道にのめり込ませる出来事が起こった。交通事故に遭ったのだ。

 交通事故は真侍が小学校一年生の時に起こった。新一年生になった春、寒い日の事であった。朝から母に無理やりダウンジャケットを着せられて不機嫌だった活発な真侍は、学校からの帰り道、友達とどちらの足が速いかを競っていた。

 その時かけっこのライバルでもある友達から「足が速い方が、今度給食のおかわりをゆずる」という話を持ち出されて、楽しそうなので参加していた。普通で走っても楽しくないから、教科書や給食当番のエプロンの入っている重たいランドセルや図書室で借りた絵本の入った手さげかばんを持つハンデを付けての短距離走だ。始めは電信柱から電信柱へただ走っているだけだった。

 ガシャガシャ音を鳴らせて、荷物に振られながら走る。

 同着。

 じゃあ次は横断歩道を渡り切るまで。

 ガシャガシャガシャガシャ。

 同着。

 それに慣れてきたころだった。次の道路の角を曲がったら、もう真侍の家に着く。そうすれば勝負する場所はなくなってしまう。それはハンデをエスカレートさせる為の要因になった。急に友達が向こう側の道路に向かって走り出した。

 危ない。と言おうとしたが、車が来る気配はない。実際に友達は向こう側に難なくたどり着いた。勝ったと喜ぶ友人に、ズルいと言ったが、わざと聞こえないふりをされた。真侍としてはこのままではいられない。それを止める大人も友達もいない。気が付けば、交通量の少ない片側一車線の道路の横断歩道のない場所が二人の競う場所になっていた。交通ルールではそんな危険な事をしてはいけない事は、両親や先生から教えられていた。危険な事だと二人の頭には入っていた。

 しかし、だ。勝ちたい一心で真侍は真っ直ぐ走り出す。走り出す旅に道路の角から車が出て来ないか確認した。いつも母親から言われているのだ。大丈夫。でも、それをするから一歩先に出るのに遅れてしまう。悔しい。しかし隣の友人は肩で息をしている。次、やったら勝てそうだ。真侍は“よそ見”せずに真っ直ぐ走った。先に向こう側に到着した。勝ったと喜んだら、友人は引き分けだから最後の勝負だという。負けるもんか。真侍は走った。瞬間、反対車線の車が真侍を引き飛ばした。

 誰か何か叫んでいるが、声が遠くて聞き取れない。

 とてもゆっくり、ふんわりと宙を飛んでいた。さっきまで重たかったランドセルも全く重たくない。無重力。と思った瞬間、急に体が重くなって地面が近づいて来た。

 バン!とランドセルごと背中から車道に叩きつけられて、何度かタイヤのようにゴロゴロと転がった。大きすぎるランドセルから腕が抜けて解放された。転がる速度が緩やかになると、片腕を開いて手で地面を叩き、両足を交差させて天に上げる。今度は緩やかに背中をついて腰、お尻を付けて勢いよく立ち上がった。勢いが付きすぎてよろめいた。

「あーびっくりした」

 体があちこち痛い。でもダウンジャケットと長ズボンは外傷から真侍を守った。打って痛いだけの腕をさすっていると、隣に止まっている車の運転手と、歩道に突っ立っている友達が、呆然とこちらを見ていた。すぐに運転手は車から降りて来た。

「僕、大丈夫か?」

 運転手は真っ青な顔をしている。近くの家から騒がしく大人たちが出てきて、その中には真侍の母親もいた。皆血相を変えてこちらに向かってくる。

「あちこち痛い」

 運転手に向かっていう。人ごみをかき分けて母親が真侍の傍まで来た。

「どうなったの⁉」

 それは真侍に向かって言った言葉だが、運転手の方にも投げられた言葉だった。

「急にその子が歩道を飛び出して来て、慌ててブレーキを踏んだんですけど、間に合わなかったんです…確かに、僕、彼をはねてしまいました。でも、彼はすごく、その…」

 まだパニック状態でもある運転手が誰にも焦点を合わせずに言った。

「地面に着地してから、コロコロ転がって、それからクルッと立ち上がったんです。本当に…」

 どうなっていたのかわからない様子だったが、母親は心当たりがあるのか、一瞬だけ安心したように笑った。かと思うと、いきなり鬼の形相になって真侍の頭に拳骨を落とした。

「このバカ息子!一つ間違えたら死んでたよ⁉」

 真侍は車で打った体よりも母の拳骨痛さに大泣きした。母親は心配して出てきてくれた近所の人たちと、運転手に頭を下げて謝っている。

「えっとあの、お母さん。彼はどうなって無事だったんですか?偶然?」

 謎が頭の中に残っている運転手は、まだうろたえている。

「この子、毎晩父親に布団の上で受け身の練習させられてるんです。多分3つの頃からしてるから、癖になってたのね。でもおかげで助かりました。あなたも、安全運転でね」

 まばたきを忘れて「はい」とか「ありがとうございました」と言いながら、運転手は車に乗り込みエンジンをかけた。それから慌てて助手席のカバンから名刺を取り出して窓を開けた。

「これ、僕の名刺です。もし息子さんに体調の変化があったら、いつでも電話してください」

「まぁ、ありがとうございます」

 名刺を見ると、有名な生命保険会社の名前があった。なるほどね、と母はエプロンのポケットに名刺を入れて、べそをかいている息子の頭をなでた。

「運がよかったわね…でも、これ以上驚かせないで頂戴よ…」

 ごめんなさい。と言いながら握った母の手は暖かかった。そして、トボトボと歩きながら、先程の事を反芻していた。

 …転がらないといけないのは、だんだん力を逃がすためだったんだ。

 父親から幾度となく、布団の上で言われたことは、その時はさっぱり理解できなかったが、実際に体験してその意味を理解した。ランドセルと厚手のダウンジャケットがクッションになって衝撃を和らげてくれたのもあるが、受け身をとらなければ撥ねてもう一度地面に叩きつけられていただろう。車のボンネットに当たった体側には大きな青痣ができ、他に腕や肘、尻にも幾つか青痣と擦り傷があったが、骨には異常はなかった。仕事から帰宅した父親は豪快に笑って褒めてくれたが、本当は心配だったのだろう、真侍の登下校にはしばらく母親の見送りがついた。

 その日を境に、真侍は父の道場には毎回ついて行き、日曜日は中学生の空手部に混ぜてもらった。寝る前の布団の上での合気道の稽古にも真剣になった。誕生日のプレゼントには、流行のゲーム機ではなく、道着が欲しいとねだった。そうするとどこかで父も喜んでくれる事も知っていた。心配をかけた。だから安心してほしかった。

 父と稽古の日々に一年が過ぎたころ、父の転勤が決まった。

 私立学校の姉妹校への転勤で、今の住まいとそんなに離れているわけではなかったが電車で三つは離れていた。四人家族でマンション住まいも狭くなってきていたので、これを転機に家も購入することになったのだ。大きくなれば、兄と妹で個別の部屋も必要だろうという両親の配慮もあった。小学校での生活を一年間過ごした頃、転校することになった。転校先でも同じように、毎日学校に行って勉強して友達と遊び、ヘロヘロになるまで武道の稽古をして毎日を過ごすのだろうと思っていた。転校しても生活のスタイルは大きく変わらないだろう、と。しかし、家を購入したので、やはり母も勤めに出なくてはならず、勤務先を変えなかったので交通に時間がかかる様になってしまった。行くのに小一時間はかかる。朝は父や真侍と一緒に七時半に家を出て、帰りは六時を回る。だから、真侍は学童保育に入所することになった。前は母の勤務先と家が近かったので、真侍が帰る頃には母は家にいたし、一つ年下の妹も幼稚園だったので母もパートでしか働いていなかったのだ。妹が小学生になったのと、母も正社員で働き始めたのがきっかけになった。生活で変化するとしたら学童での生活が増えるくらいだろう。

 そう、思っていた。


 学童は学校の敷地内にあった。保育室はまるで、半分家で半分学校の様な不思議な所だった。学校の教室みたいに机があるわけでなく、長い座卓で何人か子どもが集まって学校の宿題や塾の勉強をしている。勉強が終った子ども達は外で遊んだり、部屋の中で自由に過ごしている。正面に学童の先生用の机が二つ、皆が見える方向に横並びになっている。机の周りにはいつも子ども達がいて、先生と子ども達は何か喋っている。真侍は入所した当初、少しその様子を離れてみていた。先生は三人いた。机は二つなのに、いっつも机に座っていなくて、自分たちの様子を見たり、おやつを作ってくれたり、お掃除をしてくれる、お姉さんみたいな先生。若い男の先生は外で沢山一緒に遊んでくれる。勉強も教えてくれるし、背も高い。もう一人は少し癖のある長い黒髪をポニーテールにしていた。名は「吉岡環」という。すぐに覚えた。それはこの教室で一番偉いんだと言わないばかりに前の机にふんぞり返っていたからではない。自分たちの傍でいつもよく笑い、子どもたちの近くにいつもいるような気にさせてくれた。部屋にいるだけで安心感があった。いつも“味方だよ”というメッセージを全身から発していた。だから、しばらくしてから環と話をしてみたくなった。いつも先生の机に集まっている子ども達のように。

「先生、お母さんみたいだ」

「あらそう?ありがとう」

 にっこり笑って、「嬉しいな」と言ってくれた環がとても嬉しくて、何かお手伝いしたい。役に立ちたいと思った。でも、真侍は「何かお手伝いしてほしいことある?」と環には聞かなかった。父からはいつも「相手の動きをみてから、必要があれば動け」と教わっていた。やや武道マニアな父とその影響を大きく受けて育っている息子は、ことあるごとに「武道は人生に通じる」とすべてに照らし合せて生きていた。だから、今回も環が何をしたら「ありがとう」と感謝してくれるのか、しばらく観察することにしたのだ。すると、ある一定の人物に注意を払っていることが分かった。

 宇野護。

 同じ学年だという事以外はほとんど情報はない。話したことがないので視覚的な情報しか無かったのだ。

外見は色が白くて髪形は絶対真似したくないくらい程ざっくり切られたおかっぱ頭だ。今ではおしゃれな子供向けの眼鏡も多いのに、デザイン性もなく大人のサイズで、彼には合ってない黒縁の眼鏡をかけている。いつも保育室の本棚の近くか隅の方で体を丸めて本を読んでいた。

 自分とは全く違うタイプの人種だった。なぜ、環が護に注意を払っているのかは、視覚的情報、観察して分かった。彼女は机での仕事が一段落したら、まず初めに声をかけるのが護だったからだ。「たまには外に出たら?」「友達と遊ばないの?」といったありきたりな言葉ではなく、読んでいる本の内容に興味を示したり、自分が持っている本を貸したりしていた。護は学校の中で見かけても無表情に近かった。その護が環と話すときだけは表情を出した。特に褒められたり、頭をなでられたりしたときは本に顔を埋めたりもした。一度、本に顔を埋めた時、横からどんな顔をしているのか覗き見たら、目をつむって恥ずかしそうに笑っていた。

 …笑ってる…

 発見だった。学校ではあまりに表情を出さない上に似合わない眼鏡をかけていて、あの髪形なので確か陰で「カッパメガネ」なんて相当酷いあだ名を付けられていた。それに対して真侍は関心はなかったが、笑っている護を見た時は、なにか特別な秘密を見てしまったような、知ってしまったような、不思議な感情が胸に入り込んだ。それは、安心や喜びに似た感情だった。

 真侍と護が深く関わる出来事が起きたのは、それからすぐの事だった。


 学童から降所していたときのことである。二人は帰る方面が同じだった。真侍は他の友達と喋ったり、妹を含めた一年生が通学路から車道にはみ出さないように気を配っていた。だから護の事を特に気にする様子もなかった。護はいつも無言で空を見上げていたり、ほかの子どもの様子をただ何となくみているだけだった。護はメインの通学路から先に小道に入り、皆に小さな声で「じゃあ」と言って別れる。

毎日そうだった。

 その日も護はみんなの顔も見ずに小声で別れの言葉らしき事をつぶやき、脇道に入って行った。真侍たちもそんな護を適当に見送った。明日から夏休み前の短縮授業だ。授業時間が短い分何をして遊ぼうか。と相談しながら歩いていた。鬼ごっこ?どろけい?たまにはドッチボールもいいな。と話を弾ませる。順番に人数が少なくなり、真侍と妹の恵美、同級生の友達が二人だけになった。

「そういえば、今年も谷岡小学校の学童とドッチ大会をするんだって」

話題の中にドッチボールがあって思い出したのだろう、一人の友達がぼやいた。

「ホントに?」

「去年は最悪だった。やだなぁ」

 真侍たちの通う小学校からおよそ三十分ほど歩いた所にある小学校の学童は、地区内で管轄が同じらしく、他校交流会が盛んに行われていた。余計な先生達の配慮だと子ども達は思っていた。二年生になって引っ越してきた真侍はまだ交流会には参加したことはないが、友達の話だと「最悪」らしい。

「へぇ、どんな感じに?」

その「最悪」がいきなり来ない様に、どんなものかを聞いて心構えをしておかなくてはならない。真侍は友達に交流会の様子を聞いた。

「あいつら先生の見えないところでズルしてさ。砂掛けたり蹴ったりするんだ。またそんなんだったら嫌だなぁ」

 友達の一人が言った時、

「おい、誰がズルして勝ったって?」

 正面から声が聞こえて真侍たちは飛び上がった。目の前には、いかにも乱暴そうな、自分よりも背の高い男の子が立っている。浅黒く日焼けした肌が半袖半ズボンから飛び出している。頭は丸刈りだった。腕も足も擦り傷や青痣だらけで、活発に体を動かしている様子がうかがえる。『親分』って感じだ。その男の子の後ろにひょろりと痩せた『キュウリ』の様な男の子と、寸胴でぬぼっとした『丸太』のような男の子が一人ずつ、彼を左右から守るように立っていた。

明らかに親分と子分といった様子だ。

 真侍の頭の中で、母がうわさ好きの隣のおばさんと立ち話していた内容がよぎった。

「真ちゃん、こっちの桜ヶ丘小学校でよかったわねぇ。もう少し離れいて商店街のお向かいだったら谷岡小学校だった所よ。

 谷小に通う子どもたちはねぇ、商店街で商売人として働いている家庭の子供が多くて、元気は元気なんだけどねぇ…。損得や勝ち負けにこだわるのよねぇ。商店街の連帯感なのか、仲間意識が強くて家族同士みたいに仲間を大切にするのはいいとは思うんだけど、子ども達はまだ分別がつかないでしょ?トラブルも多いみたいよ~?

 桜小の子どもたちは生活水準の高いお家の子たちが多いでしょ?習い事をしている子どもがほとんどだし、その習い事もクラッシックバレエやバスケットボール、サッカーの他にも、英語やフランス語とか大人顔負けなのよ。ヴァイオリンとかクラリネット習う子もいるんだって。金持ち喧嘩せずってやつよねぇ…ほしいものは十分に与えられるんだもの。その分子どもらしい執着心なんかが無くって、物への関心が薄いらしいけど…。親の職業の自慢や自分の習い事の自慢なんかしょっちゅうしてるわよ~。こっちはこっちで面倒な自慢争いみたいなものがあるみたいだけど…。ま、あなたの所はそんないさかいからは遠いでしょうけどね。真ちゃんも素直に育ってる感じだしねぇ。うっとおしいのがどこにでもいるのよ~…」

 大人の事情や自分の知らない世界の話なんて自分とは無関係だと思っていた。どうでもいい争いなんか見たくなかったし、聞きたくなかった。大人が知っている事は、大人になれば知る事だと思っていた。子どもは子どもらしく生きていればいいって…大人はいつも言う。だから、毎日好きな事に熱中したし、日々遊ぶ相手が誰かいればそれでよかった。楽しければ良かった。なのに、今、真侍が経験したことのない恐怖が目の前にある。

「お前らが負けたのは、お前らの作戦が悪かったからだろ?おれ達は別にズルなんかしてないしな!」

 頭の上から強い言葉を浴びせかけられた。心臓が跳ね上がった。耳の奥までドキドキと聞こえる。二人の友達が、慌てて真侍の後ろに隠れた。

「変な言いがかり付けるんなら、痛い目見るぞ!」

 頭に降る声。今にでも殴ってやろうかと拳を振り上げる親分に、

「そうだそうだ!カっちゃん、空手習ってんだぞ!」

キュウリが言った。

「学校で一番強い六年生とけんかしてやっつけちゃったんだぞ!」

丸太も言う。親分はニヤニヤしながらこちらににじり寄ってくる。真侍は後ろの二人をかばいながらじりじりと後ずさる。父からずっと教えられていた言葉が真侍の頭の中で大きくこだましていた。


 …相手が誰だろうと、絶対に傷つけてはいけないよ。真侍が“武道”を習っているんだったら、余計だ。本当に強い人は、自分や大事な人を守るためにその力を使わなくてはいけない。

強いんだぞ!って自分の力を見せつけてはいけないんだよ…


「うちのお兄ちゃんだって強いんだから!毎日お父さんとブドウしてるんだから!」

 後ろにいたはずの恵美が横に並んで急に言い返した。

 余計な事を…

「何だと?生意気な奴…!」

 のっそりと言ったのは丸太だ。肉に埋もれた目を無理やり開いて恵美を見下ろしている。恵美は怖気づかずに小さな体を仁王立ちさせ、兄の前に立ちはだかった。

「お兄ちゃんは強いんだから!お父さんの次にだけど!」

 目下のツインテールの片方が、ソーセージの様な太い指に掴まれた。恵美が「痛い」という声を上げる前に、真侍は咄嗟にその肉付きの良い手首をつかんでいた。

「放せよ」

 真侍の指が、ムッチリとした手首に食い込む。

「妹に乱暴するな。放せ」

 特に力を入れて握ったわけではないが、慌てて恵美の髪を離した丸太の手首は赤く真侍の指の跡を残していた。手首をさする丸太を不機嫌に親分が見る。

「チビのくせに、本当に生意気だな…」

 一触即発の雰囲気に、後ろの二人が震えあがる。頭一つか二つも大きい乱暴な隣の小学生だ、怯えても仕方ない。勇敢過ぎた妹は怯えていないが髪を引っ張られて不機嫌だった。要するに、この乱暴者たちのケンカの相手をまともにできそうなのは自分しかいない、という事だ。

 走って逃げるぞ。と、後ろの二人に言おうとしたが、二人とも縮みあがってしまいガタガタと震えるばかりである。一人なら、なんとか逃げきれそうなのに。自分の横で髪形ばかり気にしている恵美と友達二人を残しては逃げられない。三人が徐々に壁に追い込もうとしてくる。そうなるともう逃げるチャンスを作ることもできない。親分が拳を大きく振り上げた。真侍は反射的に恵美の前に出て背を向け、妹の頭を両腕で抱え、その拳を体で受けようとした。

 その時。

「吉岡先生ー!」

 さっき小道で別れたはずの護がこっちに大きく呼びかけながら、今まさに殴り合いしようとしてい自分たちが見えてないかのように横を通り過ぎていく。

「先生こっち!聞こえないのかなぁ…。吉岡環先生―!」

 護が脇道に入り、曲がって姿が見えなくなった。その様子を七人はしばらくポカンと見つめた。

「カっちゃん、やばくない?」

 呟いたのはキュウリだった。

「…本当だ、吉岡ってあいつの事じゃないか?」

 親分を見ながらぼんやり言ったのは丸太だ。どうやらこの場にいる全員が環を知っているようだ。女性の先生の中ではかなり活発で、叱る時は子どもだろうが大人だろうが注意する正義の塊のような人だ。もしかしたら、去年親分たちは、環と交流会で知り合っていたのかもしれない。この乱暴者達なら、叱られて記憶に残っていてもおかしくはない。

「あいつメンドクサイやつだったよなぁ…うるせーし」

「行こうぜカっちゃん」

「仕方ねぇな…。言っとくけどな、今度の大会でもボロ勝ちしてやるからな!覚悟してろよ」

物凄く憎たらしい顔をして、三人組は走り出した。

「…助かったぁ」

 しばらくしてから友達の一人が半べそを掻きながら言った。

「早く帰りたいよぉ…僕ドッチボールなんか絶対したくない!負けるだけだもん!」

もう一人が混乱して言った。

「なんなのあいつら。ムカつく!先生に言いつけてやるんだから!」

 真侍は凹みきっている二人とさよならをして、怒り狂う妹の手を引き、護が入って行った脇道を覗いてみた。そこには吉岡先生も、その姿を追って行った護もいない。環が個人的に護の親にでも会う予定だったのだろうか…

「こら!真侍!恵美!」

 後ろから聞きなれた声がして、驚いて振り返った。そこには自分の母と環の姿があった。

「母さん。吉岡先生…」

「あんた達…こんな時間まで帰ってこないから心配したでしょう…」

「あれ?母さん、仕事は?」

「今日は早く終わったのよ。それにしても何時だと思ってるの?もう家についててもいい時間でしょ?六時よ?」

 学童を出たのは五時、家から学校まで二十分程度。さすがに心配されても仕方ない。

「二人が帰ってこないから、お母さん心配して学童に電話くれたんだよ。もうとっくに家に着いててもおかしくない時間だって言ったら、探しに行くっていうから、私も一緒に二人を探してたんだよ?」

「見つかってよかったわ…」

 母は安心したように吐息をつき、環に向き直った。

「先生お忙しい時に、申し訳ありませんでした」

「吉岡先生ごめんなさい」

 深く頭を下げる母の横で、兄と妹は一緒に頭を下げていた。その時にふと真侍の頭に疑問がよぎる。

「吉岡先生、いつからおれの事探してたの?」

「電話もらってからだから、三十分くらい前かな?君たちを帰して、ちょうど先生達でお話を始める前だったから」

 という事は、護の家で家庭訪問などなかったのだ。護は嘘の演技をして真侍たちを助けたことになる。

「真侍君が、うちに帰ってこないなんて、何か事故にでも巻き込まれたんじゃないかって…心配したのよ。何かあったの?」

 環は不安を隠さなかった。だから心配したのだ、という事が伝わってくる。けれど落ち着いた口調は責めずに真侍に問いかけた。背を屈めて、真侍を真っ直ぐ見つめている。大きな瞳が優しく真侍に問いかけていた。安心できる目だった。

「内緒にしてくれる?」

 少しだけ考えてから、聞く。その様子に、環も母も静かにうなずいた。だが真侍が言おうとした瞬間、恵美が先に口を開いた。

「谷岡小学校のでっかい人たちに叩かれそうになった!メグなんて髪の毛引っ張られたんだよ!お兄ちゃんが助けてくれたけど」

 二人は眉根を寄せて「えっ?」と声をあげた。そして確認するように真侍を見る。今度は恵美に邪魔されないように真侍が話した。

「でもぼく達も悪かったと思う。その人たちの悪口、かなり大きな声で言ってたから…それで、たまたま通りかかったその人たちと、ケンカみたいな感じになって、殴られそうになったときに…宇野君が助けてくれたんだ。すぐそこに吉岡先生がいるみたいなフリしたから、あいつら帰っちゃって…みんなケガせずにすんだ」

「護が?」

 呟くように吉岡先生が聞くので、うん。と、うなずく。

 うなずきながら、自分のすぐ傍を走り去っていった護が、吉岡先生がいるような振る舞いをしていたのを思い出していた。


何故、護は自分を助けたのだろうか…


 助けてもらう様な恩は売っていない。母と二人で並んで帰りながら、そんなことを考えていた。全然知らない仲ではないが、かといって仲がいいわけでもない。困った人を助けるほど正義感のある子どもでもない。助けてもらう理由が見当たらない。だから不思議で仕方ない。

「宇野君にお礼言わないといけないね」

「うん」

「真ちゃん、その子のお家分かるの?」

「…たぶん」

 一緒に遊んだことも、話したこともない。でもあの小道は、たしか袋小路になっていたはずだ。突き当りに行くまでに民家の中の表札で同じ苗字の家を探す事はできるだろう。

「一回お家に帰ってから、ご挨拶しに行ってみましょうか?」

「うん」

 本人に直接確認したい。ほとんど面識もないのにどうして助けてくれたのか。

 家へ帰ると父が妹と留守番することになり、真侍は母と再び出かけることにした。


 宇野の家はすぐに見つかった。小道を入り、袋小路の正面が宇野の家だった。

「ここ、確か裏が骨董品のお店だわ。足立骨董店。古い家具の修理の仕事もしていて、母さん和箪笥の取っ手が壊れた時に一度直してもらった事があるのよ」

ということは、この反対側に店があって、こっちは家なのか。家には木製の表札に「足立」と彫ってあった。その下に貼り付けてある白いプラスチック製の板に「宇野」と油性マジックで名前が書かれていた。だから護がこの家にいるのだろうと分かった。とても子どもが住んでいるような気配はないほど静まり返っているが…。

 母は少しだけ躊躇したが、意を決して玄関口をくぐり、扉を叩いた。

「こんばんは、お忙しい時間にすみません。宮本真侍の母ですが…」

それだけ話しかけて、二人は静かに中の気配を伺った。しばらくすると、中から軽い足音が近づいてきた。はいはいはい。と、足音と同じような返事があった。間もなく玄関の電気が灯り、横開きのガラス扉の鍵を開ける音がした。

「何か御用ですかな?」

 出てきたのは顔からはみ出さんばかりの老眼鏡をかけた小柄なおじいさんだった。七十歳前後だろうか、まだしっかりした顔つきだ。二人の顔を興味深げに交互に見ていた。奥からはご飯の炊ける匂いが漂ってくる。先ほどの印象とは違い、廊下の奥から台所の光が見える。視界に入って来た家の中の様子は、年数は経っているが丁寧に手入れされていて清潔だ。

「すみません、ご飯時に…」

 出て来た人物の優しい雰囲気に安心して、母の由美は頭を下げた。

「今日は家の真侍がそちらの宇野君にお世話になった様で、一言お礼をいいたくて」

「それはそれは」

 おじいさんは目を大きく見開いた。分厚いメガネがそれを余計に大きく見せて、とてもおかしかった。

「おーい護!友達がきてるぞ!」

 中の、二階に呼びかける様に言って、二人に家に入る様に促す。

「狭い所で散らかってますが、どうぞ上がって行って下さい」

「いえ、玄関先で失礼します」

 母が恐縮して言う。

「護に友達がいたなんて、わし達も嬉しいんですよ。あなたの所も忙しいでしょうがわざわざ訪ねて下さったわけを、少し詳しく聞かせてくれませんかね?」

 由美と真侍は顔を見合わせてから、もう一度頭を下げて靴を脱いだ。


 真侍は足立の家の二階にいた。そこに護の部屋があった。一度玄関の横の客室に通され、そこに護も降りて来たが、言葉数は少なかった。代わりに真侍がたどたどしく今日あった出来事を護の祖父母に話して聞かせた。お礼を言いながら由美が護の頭を撫でると、足立の祖父から二人ともしばらく二階にいるように言われた。大人同士で話をする、という合図だろう。いつもなら退屈な時間を潰さなくてはならないが、しかし今日は真侍にとって好都合だった。真侍としても護に、何故助けてくれたのか理由を聞ける。確かに、同じ小学校の児童ではあるが、友達というほど親しくもない。あの状況なら、関わりたくないと思うのが自然な気がしたからだ。

 案内された護の部屋は、自分のそれと全く違っていた。子ども部屋にしては広い和室だ。いや、部屋にある物は机と本棚しか無かった。だから広く感じるのかも知れない。殺風景だった。古い大人用の机は誰の物だろうか。護用に買われた物ではない事は確かだ。大きな本棚は壁に二台。辞書や辞典、広辞苑、伝記、歴史書、様々な専門書と申し訳程度の小学二年生用の教科書が詰まっている。本棚の上には地球儀があった。この部屋の中で飾りと言うものは、その地球儀くらいしか見当たらない。

「宇野、今日はありがとうな。妹もいたから助かった」

 何だかここにいるのが変な感じがして、真侍はお盆の上にのっている水ようかんとグラスにいれられた麦茶を見つめながら言った。尻の下にある座布団も分厚くてバランスが悪い。それをどけてそのまま畳の上に座りたい気持ちを抑えながら、護が何か言うのを俯いたまま待つ。護の無表情であろう顔を見る勇気が、どうも出なかった。

「別に」

 護は端的に答えた。真侍の向かいにきちんと正座している護も、そっぽを向いて他所に言っている様だった。そういえば、まともに声を聞いたのも初めてだ。不愛想な感じは拭えないが、助けてくれた理由は聞きたい。真侍は思い切って正面を向いた。

「なんで助けてくれたんだ?」

 真摯に聞いた。その声を聞いて護がこちらを向く。目が合った。これも初めてかもしれない。

「宮本が、先生を大事にしてるから」

「…先生?」

 真侍が首をかしげる。

「俺の知る限り、先生は吉岡先生だけだ」

 驚いた。

 確かに、真侍は環には喜んでもらいたいと思っている。大好きな先生だ。しかし、それは学童の中での事だ。小学校では真侍と仲良くしてくれる担任の先生の役にも立って喜んでもらいたいと思っている。特別に環だけが大事な先生でもなかった。先生の中でも特別に好きな先生でもあるが、その内の一人だと言っていい。

「俺が尊敬できるのは、吉岡先生だけだ」

 瞬きもせずにきっぱり言う護に、真侍は驚いて目を瞬かせた。

「学校にも先生はいるだろ?」

「鬱陶しく構ってくるだけの、教育委員会の回し者だ」

 …?

 真侍は護の言っている事がさっぱりわからず、「?」が頭の中を埋め尽くした。

 ウットオシイ?

 キョウイクイインカイ?

 マワシモノ?

 聞いたことの無い言葉の連続だ。

「俺の気持ちをわかって近寄って来てくれるのは、吉岡先生だけだ」

 きょとんとしている真侍に、護はわかりやすく言った。

 そういえば、環はいつも一段落ついたら護に優しく声をかけていた。


「今日は恐竜の図鑑読んでるんだ。そんな分厚い本読んでるんだね」

「もう学童の本棚の本は読んじゃったのね。じゃあ今度、先生が読んでた本貸してあげるわね」

「図書館でいっぱい本借りて来たんだ!その本、先生も子どもの頃読んだわぁ…懐かしい!最後主人公がね…!……ごめん、最後のネタばらししちゃだめよね」


 こんな感じだった。

環の言葉は、いつの間にか護の心の中に信頼と尊敬を積み重ねていったのだ。護を取り巻く大人が子どもに対して与える、庇護するべき世界は、真侍が思っている以上に狭いのかも知れない。両親の気配が無い家。子どもらしくない殺風景な部屋。あらゆる先生達に求めていない教育以外の愛情。

 それと比例して様々な知識は深いのかも知れない。年齢の割に大人びた言葉や喋り方をするし、いざという時に知恵が働くところは部屋の中の本の量が裏付けている。

「子どもが怪我したら先生が悲しむから助けたんだ」

 環を悲しませたくないためか…

 そういう気持ちは、何だかよくわかる。そうそう多分、

「吉岡先生ってさ、なんかお母さんみたいなんだよな」

 お母さんを悲しませたくない。交通事故に遭って心配させた母の顔を思い出しながらポロッと言った真侍の言葉に、護はピクリと反応した。急いでうつむいた頬が赤く染まっている。

「そういやお前、お父さんとか、お母さんは?」

「お前って言うな」

 俯いたときにずれた眼鏡を直しながら、護が言う。

「護って言え」

「分かった。おれの事も真侍って呼んでいいぜ。で、護んとこのお父さんとお母さんは?」

「今海外にいる」

「へぇ!すげぇ!かっこいい」

 真侍には想像出来なかった。両親が海外で働いているなど。

「だから、じいちゃんとばあちゃんと一緒に住んでるのか?」

「うん」

「いつから海外で働いてんの?」

「多分三年くらい前」

「三年⁉三年って言ったら、お前が五歳くらいの時⁉」

「お前!お前って言うな!」

「…お前も言ってんじゃん」

 一瞬の静寂の後、二人は顔を見合わせた。何だか間抜けで可笑しくなった。だから二人は大声で笑った。


「あの子の両親は、忙しくてな。仕事を楽しんでやっておるし、わし達も随分年が行ってから出来た一人娘で…だから、わしらも中々注意し辛くてなぁ。…大学と大学院の考古学部の教授同士で結婚して、護を生んでからも日本中飛び回って化石だの遺跡だのを発掘しに行っては、色んな大学に講義や講演会なんかしておりました」

 一階の客間では真侍の母の由美と、護の祖父、義男、祖母の文が座卓を囲んで話をしていた。文が慣れた手つきで急須から湯呑に茶を注いでいる。緑茶の甘い香りが客室を包んだ。

「まぁ、素敵!そんな仕事からは縁遠いものですから、憧れます」

 出された緑茶と水ようかんを受け取りながら、由美が笑顔で答える。

「人としては成功者なんでしょうけどな。でも、親としては果たしてどうなのかと言われたら、決していいとは言えないんですよ、真侍君のお母さん」

 義男は湯呑を持ち上げて表情を落とした。代わりに文が口を開く。

「四つになる護が、独りでマンションで生活しているのを発見したのは、保育所の先生達だったんです」

「四つで独り暮らし?」

 由美は気が動転した。

「勿論、四つの子どもが…ほとんど五歳近くではありましたが、それでも一人で生活するなんて、とても出来るものではありません。それでもあの子は、一人で保育所に行って、一人で生活していたのです」

「でも、保育所は両親のお迎えが無いと子どもは引き渡しできないはずでは?」

「今は、共働きのご家庭が多いから「ファミリーサポーター」なんていう制度があるそうですね。保育所や幼稚園、塾の送迎のお手伝いをして下さるかたがいらっしゃるとか…。そういったものを利用していたそうです。私どもを始め、保育所の先生も、近隣の方も、半年間護が一人だと、全く気が付かなかったんです」

「そんな…」

 呟いてから由美は絶句した。

「護の両親は、そういった申請だけして、海外へ出張に行ってしまったのです。後から聞いた話ですが、本当は護も連れていくつもりだったのだと…。でも護が嫌がったそうです。あの子からしたら、日本にいても、外国にいても両親の忙しさは変わらないし、自分が二人の足を引っ張っていると思っていたのでしょうね…。自分の生活に必要な手続きさえしてくれたら、ちゃんとおじいちゃんおばあちゃんに連絡してここに住むって言ったそうです。あの子たちも一言私達に連絡を入れてくれたら良いものを、今日明日の出発だったらしく、見た目よりしっかりした護に甘えてしまったのでしょう…」

 初夏で寒くはない季節なのに、文の、湯呑を両手で包む仕草は冷えを凌いでいる様に見えた。触発された様に、由美の背中にゾクリとしたものが這い上がる。身震いして、気を取り直し、由美は水ようかんの半分を口に入れ、茶で流し込んだ。入ってくる情報に頭が付いて行かない。体に水分を取り込んだからか、上からポロリと涙が出た。

「おいしい」

 涙と一緒に出た言葉に、文は「良かったわ」と小さく言った。次に話し始めたのは義男だった。

「変化に気づいて下さったのは、保育所の先生でな。それでも半年もかかったのは、まぁ、無理もないです。元々二人ともまともに家事をする時間もなかったみたいでな。普段からよく洗濯も掃除も、護が何かで見たものを見様見真似でやっとったそうです。だから状況の変化にも気が付きにくかったんでしょう」

「ご飯はどうしてたのですか?」

「今はコンビニでも弁当屋でも、手軽に食べるものは手に入ります。あの子一人の生活費は十分すぎるくらいありますから。そして護は、それを使いこなしていた。周囲の大人をも使いこなしていた」

 普通では考えられない。だからこそ、裏目をかいくぐるように出来たのだろうか。小さな子こどもがお使いだと言ってコンビニや弁当屋で買い物をしたら、周囲の大人は褒めて手を貸してくれるだろう。そう言えばそんなテレビ番組もあった。お金が足りなくなったら、大人の人に頼んで銀行で預金を下ろしていたのだろうか…。あどけない子どもが、忙しい親に代わってお金を下ろす事を、筋さえ通っていれば何の疑問も持たずに周囲の大人は手伝うだろうか。

「あの子が保育所で風邪を引いて、先生が大学にいる両親に電話で連絡して、やっと気が付いたんです。それからが大変でな、護の両親が半年も前に出張に行っていた事が発覚したが、どこか連絡するにも連絡が取れないくらい辺境な所に行っていたようで、ようやく連絡が取れたのは、一週間も後のことだったんです」

 今度は文の代わりに義男が答えた。

「児童福祉課の人が聞きつけて、そしてわしらの元に情報が来ました。保育所の連絡先には、護の両親の分しか登録が無かったようでしてな。詳しく調べて、わしらの連絡先が分かったんでしょう。わしがあの子を保育所に引き取りに行ったのは、その日の夜の事でした。護をここの家で保護して、あの子のマンションへ必要な物を取りに行ってわしは驚きました。そこにはあの子が精一杯生きた跡が、数多く残っておりました。あの子の生活していた目線だけ、子どもなりに綺麗にしてありました。洗濯機や台所にも踏み台用のイス。寝室のベットも、ちゃんとしてありました。護の使えない物には全て埃がかぶっておりましたがね…。その事を、あの子の母親と連絡が繋がってから教えてやると、電話の向こうで心を痛めて大泣きしておりました」

 知らないという事の罪の重さに初めて気が付いたと言って号泣していた。と義男は言った。自分にも知らない、知ろうとしない事が、この世の中にどのくらいあるのか、それすらも由美にはわからない、けれど…

「ちゃんと、護君の事を愛しておいでだったんですね」

「あの子たちなりに」

「…良かったわ」

 手の甲で涙を拭っている由美を優しげに眺めながら、義男は続けた。

「児童福祉課の人も熱心でな、連絡がついてからわしらが恐縮するほど説教してくれました。そして、発見が遅くなって申し訳ない、元気な内に見つけられて良かったと言って下さってな。わしらもそれ以上、護の両親を咎めるのをやめました。何より護がそれを望んでいましたからな」

「ご両親は、一度帰ってこられたのですか?」

「いいや。それも、護が断りました。今度こそおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に住むから大丈夫だって。お父さんとお母さんはお仕事がんばって、と。あの子は、悟っていたんでしょうな。両親がどこにいても自分と共にできる時間は無いのと同じだと。言葉の分からない国で独りで過ごすよりも、まだ言葉の分かる国に残る事を選んだ。そんな護の気持ちを汲んでやりたくて、わしらも護を引き取る覚悟をしました」

「なんて…」

 由美は流れる涙を止めなかった。健気と言う言葉を当てはめるには、護が健全な子どもとしての生活や愛情を知らずに生きてきたのではないか。過酷な中で必死で生きて来た彼に対して健気という言葉は不釣り合いだという気がした。いくら偶然が重なったからと言っても…

 そもそも、こんなことが今の世の中に起こりうることなのか?

 護の両親が育児放棄した。

 言葉で表現するのならば、それが事実なのだろう。児童福祉課が動いたという事が証拠だ。しかし、親や子がお互いを大切に思っている事に、変わりはないというのに…

「私には、知らない愛情がこの世の中に存在するのね…」

 しかし、それは由美が真侍や恵美を愛するのと、同じ世界の中にある。

親が子を、子が親を愛する愛情の世界に…

 どんどん溢れてくる涙を由美が手の甲で拭おうとした時、二階から子どもが笑う声がした。それがあまりにも楽しそうな声だったので、三人は顔を見合わせて微笑んだ。

「あの子は、私たちが常識だと思っている親の愛情を知りません。もしあなたさえよければ、ぜひ護にもあなた達の世代の親の愛情を少し、与えてやっては下さいませんか?」

 二人の老人の暖かいまなざしに、由美は勿論とうなずいた。

「ではお二人にも、真侍のおじいちゃんとおばあちゃんになって頂きたいです。私の両親は早くに亡くなりましたし、父方の祖父母も遠方ですから、中々おじいちゃんやおばあちゃんに甘える機会がないものですから…」

「こんな古ぼけた家でよければ、いつでも歓迎しますよ」

ありがとうございます。言ってから由美はパッと顔を明るくさせた。

「二人とも仲良くなったみたいだし、どうでしょう、良ければ今日、護君を家でお預かり出来ないかしら?」

「今日ですか?」

 文は驚いて由美を見た。

 由美は微笑んだだけだった。


 突然宮本の家に泊まりに行く事になった護は、特に表情を乱すわけでもなく、何となく祖父母に従った。嫌な事はどんな事でも断る護を知っている義男と文は、護を笑顔で送り出した。真侍が護と少し話してみて分かったことは、二人は全く生活の基準が違うという事だ。護は生活力と本や情報の知識はついている分、友達を遊ぶ方法や仲間に入れてもらう時の手段、遊びのルールなどは全く知らなかった。

「真侍の話す言葉はよくわからない」

「え?おれ日本語しゃべってるけど…」

 困惑した様子で湯船から顔だけ出している真侍が呟く。

「そういう意味じゃなくて、護はお前の話すゲームの話が分からないんじゃないか?」

「ゲームなら知ってる。囲碁とか、将棋とか、オセロとか、カードゲームならじいさんとよくやる」

「カードゲーム⁉」

 真侍は興味ありげに風呂から半身を乗り出した。

「何持ってるんだ?」

「トランプ。ウノもある」

 ええ?と落胆した表情でまた湯船に戻る真侍に、護は首を傾げるばかりだった。そんな二人の様子を見て、真侍の父、隆は豪快に笑う。

「そういうんじゃなくて、トレーディングカードとかさ。スーパーのおもちゃ売り場でゲーム機でスキャンしたりするやつ!」

「お前にそんなの持たせてないのに、良く知ってるなぁ」

 風呂には三人の会話が反響している。護は今、隆にシャワーでザブザブとシャンプーを流されていた。されたことが無いので、護はひたすら下を向いて強く目を閉じ、鼻をつまんでいた。

 コンディショナーを護の頭に擦り付けながら鋭い目つきで隆が真侍を見る。大きなごつごつとした硬い手が、自分の頭を撫でまわす感触に、護は体を縮ませた。痛い。

「友達が見せてくれるし、貸してくれる」

「…あんまり厳しくしても、子どもは親の目をかいくぐるか…」

 自分のころもそうだったか。と回想に入りそうなところで、隆が護の顔にまでコンディショナーを塗りたくったので、護が激しく頭を振った。

「おじさん!目が痛い!」

「ああ、すまんすまん」

 急いでシャワーで洗い流すと、そのざっくりと切られた髪が頭に張り付いた。まるで黒い、不ぞろいな短冊を沢山頭に貼り付けたようだ。

「すごい髪形だなぁ」

「ばあさんが切る」

「散髪屋で切らないのか?」

「散髪屋?」

「今は美容室っていうのかな?」

 タオルで頭をガシガシ拭かれ、護は目を回す。頭を振って、感覚を戻す。

「そこには女の人しか行かないんだろ?」

「おじいちゃんは行かないのかい?」

「ばあさんはよく行ってる…じいさんは髪の毛がほとんど無いから行かない。ばあさんに刈ってもらってる」

「…っと、それは失礼」

 護は真侍と交代で湯船につかった。隆が真侍の頭を洗う様子を、護はじっと眺めた。

「じゃあ、おれの母さんに切ってもらえよ。おれも母さんに切ってもらってるんだ」

「まぁな。子どもの内は、親に切ってもらうので充分だからな」

 言ってから、隆は「しまった」と思ったが、護は特に気にする様子もなかった。

「ばあさんも、俺は子どもだから、私が切るので充分だ。ってよく言う」

 それは文なりの、護に対する愛情なのかもしれない。護の持ち物を見る限りは、特に貧困層でもなさそうだと由美が帰宅するなり、護の事情をこっそり教えてくれたのだ。

「じゃあ、そろえるだけでもして貰ったら?」

 頭上からシャワーをかけられ、口に湯が入るのをそのままに、真侍が思いついた事を嬉々として言うので、口から出た湯が護にかかる。特に汚い気もしなかったが、護は掌で湯をすくって顔を洗った。入浴剤の優しい香りがする。

「護の頭ジグザグだし。わわわ!イテテテ」

 父に力任せにタオルで頭を拭かれて体が揺さぶられる。その様子を、護はまた、じっと見つめた。

「こいつの髪の毛短いから、コンディショナーはいらないんだ。もっとも、恵美と一緒に風呂に入った時なんか、優しく髪の毛洗えって散々泣かれるんだなぁ…」

 視線に気づいて、隆が答える。子どもは頭を洗われるのを嫌がる物だ。

「頭、初めて洗ってもらった。あのネタネタしたのも初めて頭に塗られたし。でも気持ち良かった。いい匂いで」

「いつも自分で洗ってたのか?」

「うん」

 そういうスキンシップが祖父母となかったのか。護の記憶の中で初めて大人に洗ってもらうなら、もっと丁寧に洗ってやれば良かった。隆は少し後悔しながら真侍を解放する。

 真侍も護の入っている湯船に入った。少し湯の量が増えた。薄い緑色の湯の中に沈んでいる護の腕を見て、真侍は自分の腕を横に並べた。

「お前、白いなぁ」

 言われて、護は自分の腕を見る。全く日に焼けていない。いつも部屋で本を読んでいるので当然だ。

「お前は、真っ黒だな」

 すでに「お前」と言われることに、お互い抵抗がなくなったのか、護は言葉を返した。

「おれはいっつも外にいるからな」

 真侍は得意げに言った。

「確かに、お前が家で勉強してるところは見たことが無いな」

 隆が自分の頭を洗いながら言う。子どもからしたら、外で遊ぶことは自慢になるらしい。現に大人たちは真侍が部屋で遊んだりゲームをする事よりも、外で体を動かす遊びや武道の稽古をする事の方が評価してくれる。だから褒められたくて、自然と「外で遊ぶ」事を誇らしげに言ってしまう。隆が自分を咎めるように言ったのは、護に遠慮してだろうか。それとも、たまには本でも読めと言う意味だったのだろうか…。言われた真侍は気を悪くする様子もなく、広い湯船に腕を泳がせていた。護は隆を見ていた。腕は筋肉が隆々としている。全身に逞しい筋肉がついていた。そして真侍程ではないが、同じように日に焼けていた。

「俺も、大人になったらそんな体になれるのかな…」

 護は若い大人の体を見たことがない。祖父や祖母と一緒に風呂に入る機会はあるが、両親と入浴した記憶がほとんど無いので、父親の年代の人の裸を見るのも初めてだった。

「お前いつも本ばっかり読んでるから、父さんみたいにムキムキにはなれないかもな」

「父さんだって、お前らと同じくらいの時は、ガリガリで体弱かったさ。男の体は、鍛えたら筋肉が付くように出来てる!」

 ふんっ!っと力持ちの様なポーズをして、頭を洗い終えた隆が湯船に無理矢理入って来た。

「わぁああああ!」

「おじさん、狭いよ!」

「スキンシップスキンシップ!わはははは」

 ざぶぅううん。

 派手にバスタブから湯があふれ出る。男3人の笑い声は宮本家の整い始めた食卓のテーブルにまで届いた。


 テーブルの上にはハンバーグにポテトサラダ、オニオンスープと文が持たせたキャベツの煮びたしが並んでいる。いい匂いが立ち込める中、リビングの外では全員が護の散髪の為にベランダに出ていた。

「うらやましい位のストレートね」

 由美の髪は染めているのか明るい茶色をしていた。その性格の様にミディアムボブの髪はクルクルと元気に品よくはねている。

じゃくじゃく。

 護の耳に髪を切る音が届く。前には隆が鏡をもって構えていた。周りで、母に髪を切ってもらう事をうらやましがり飛び跳ね回る恵美に、当たると危ないと真侍が追いかける。そうこうしている内に髪を切り終わった護の髪形は、おかっぱとは言え、今風にアレンジされていてよく似合っていた。

「似合ってるじゃん」

 真侍が率直にいう。

「もうカッパメガネって言うなよ」

「お前知ってたの?」

「自然と耳に入ってきただけだ」

「おれはそんなこと言ってない。他の奴らが言ってたんだ」

「悪い事を止めないのは、悪い事をしているのと同じ事なんだぞ」

 護は出来上がりを鏡で見ながら誰にともなく無表情に言った。その大人びた口調に、隆と由美は顔を見合わせる。

「分かった。今度からそんな事言う奴がいたらちゃんとやめろって言うよ。護は友達だし」

 真侍が拗ねたように口をとがらせる。護は真侍を見た。真侍も護を見た。

「護君、メガネ取ったらかわいいわね」

 由美が何気なく言う。確かに、メガネを外したその顔は、変化した髪形のせいでもあるのか、女の子の様にも見えた。

 でも、女の子みたいだ、なんて言うと怒られそうだ。護は皆が確認するように顔を覗き込むのでうつむいている。

 その時、ぐぅぅ。と恵美の腹が鳴った。

「お腹減った…」

 恵美は電池が切れたおもちゃのようにそこに座り込んだ。

「本当、もう八時半ね。さぁ、みんな中に入って!晩御飯にしましょう!」

スープは程よく冷め、空腹を抱えた子ども達の飢えを和らげた。真侍も恵美も、そして隆もがつがつと箸を進めている。ほとんど無言なのに活気に満ちた食事風景を、護は瞬きせず見渡した。ガチャガチャと箸や食器の音が鳴る。由美が恵美のハンバーグを自分の箸で小さくしてやり、それが終ると皆の分のお茶を注いでいた。由美は一口何かを食べたかと思うと、真侍のおかわりのご飯をよそいにキッチンへ消える。帰って来てイスに座ると、今度は恵美の皿にポテトサラダとキャベツの煮びたしを盛る。その間に隆が茶碗を持って立ち上がろうとしたので、それを取ってまたキッチンに消える。

「自分でよそおうのに…」

 隆が言うと、

「だって、ものすごく山盛りにつぐでしょ?」

 言いながら、茶碗を盆にのせて由美が帰ってくる。

「あら?護君、ご飯、口に合わない?」

 観察するのに忙しかった護は急いで首を横に振った。

「ううん。おいしい」

 もう一口スープを飲んで、護は自分の皿のハンバーグを箸で切った。祖父母と三人での食事では、会話はあるがここの様な賑やかさはない。落ち着いていて、でも何かが欠けていた食卓。その何かが、ここにはあるような気がして自分が食べるよりも観察してそれが何なのか突き止めたかった。

「これ、すごくおいしい」

 それは文の持たせてくれたキャベツの煮びたしだった。恵美が母におかわりをせがむ。

「珍しいな、恵美が野菜おかわりするなんて」

「護君のおばあちゃんに頂いたのよ。春キャベツね。本当に柔らかくて美味しいわ」

「ばあさん、庭の畑で野菜を育てているんだ」

「季節のお野菜が新鮮な内に食べられていいわねぇ」

「でも、こういうのは、あまり作ってくれない」

「今はスーパーに行けば、大抵の野菜が手に入る。護のばあちゃんは、いつもお前に旬のいいもの食わしてくれてるんだな」

 隆が穏やかに言って、どれどれと箸でキャベツを取ってそのまま口に入れる。

「うん、本当だ。うまいなこれ。キャベツにこんな料理法があったなんて知らなかったよ。こういう物の味を俺の娘が分かってくれると嬉しいもんだな」

 隣で次々と料理を腹に収める真侍を眺めながら、満足そうに護は食事を続けた。

 洗い物は隆が担当していた。その間に由美と恵美は風呂に入る支度をしている。護と真侍は居間のソファーで寛いでいた。

「美味しかったか?母さんのご飯」

 カウンターキッチン越しに隆が話しかける。

「うん。美味しかったし、楽しかった」

「楽しい?」

 真侍が首をかしげる。

「ああ。おじさんや真侍の目の前にある料理があっという間に消えて無くなっていくから見てて面白かった」

 洗い物をしながら会話を聞いていた隆が大笑いする。

「キャー!お風呂のお湯が全然ないじゃない!」

 脱衣所から叫び声が届いた。

「ヤバい!」

 隆が弾かれた様にキッチンを飛び出した。脱衣所ではささやかな夫婦の言い争いが、聞き取れないくらいの音で耳に届いていた。不思議に心地いい。

「家族って、こんなのの事を言うのかな」

 出してもらった牛乳の入ったコップを持ったまま、護は問いかける様に呟いた。

「さぁ。ずっとこんな感じだから、わかんない。でもお前の所の父さんと母さんもすげえじゃん。外国で働いてるんだろ?それにじいちゃんもばあちゃんもいてさ。ほしい物いっぱい買ってもらえるし。おれの生きてる方のじいちゃんとばあちゃんは遠くに住んでるから、全然会えないし。たまに行っても近くに住んでる従兄と間違えられるし。まぁ、いっぱいお菓子とか買ってもらえるけどさ」

 真侍が護に対して羨ましい事項を並べたが、護は無表情だった。別にそれが特別でない事の様に。少なくとも自分の友達は「おじいちゃんおばあちゃんの家に行く」という事はいつも特別視していた。連休や夏休みなどの長期休暇に友人達がそうする事を、皆羨ましがった。何をするかを教えて貰ったり、お小遣いをもらった額を競っている横で、真侍は自分が簡単に祖父母に会えない事を悔やんだものだ。だから少なからず護の無反応には首を傾げた。護は少し考えてから口を開いた。

「俺は沢山のお菓子より、今日みたいな晩御飯の方が良い」

 言われて、随分前に訪れた祖父宅で、買い物先で入ったレストランでパフェやケーキをうんと食べさせてもらった時、祖母の作った煮物中心の地味な晩御飯に対して「満腹で食べられない」と言って許してもらった記憶が甦る。由美なら烈火のごとく怒っただろうが、祖母は「こんな夕飯でごめんね」と謝ってくれたのだ。

「そうか?おれはおやつで腹いっぱいになりたい。それがダメなら、好きな弁当とかパンとか買いまくって食べてみたい!」

 真侍がうっとりして答えた。その横で、護は沈んだ表情を変えない。

「すぐに食べ飽きる。お菓子も売ってる弁当も」

 護は持っていたコップに呟いた。

「そりゃぁ、お前は飽きるほど食ったからだろ?おれは羨ましいよ」

 明るく言う真侍に、護は顔を上げた。

「そんなんしたら絶対に父さんと母さんからゲンコツだな。“お菓子ばっかり食べるから、晩御飯食べられないんでしょ!”ってさ」

 真侍が両親の真似をしてグーを振り上げたから、護は笑った。

「でも、俺はお前が羨ましい。保育所で遠足があった時、俺はいつも買った弁当を持って行ってた。他の奴らが羨ましかった。その内に自分で多少作ったりしてたけどな。でも、買ったのが良くて交換して欲しいって言われたら、俺はよろこんで交換するね」

 真侍は売っている弁当の中身がどんなものかは想像出来なかったが、遠足に行く時に持たせてもらう弁当はなんとなく覚えている。張りきった由美が小さな弁当箱の中にしている小細工は食べるのが勿体なくて、いつもよりも時間をかけて食べたり、友達と見せ合いしたり。友達たちの弁当もそれはそれは美味しそうだった。

「じゃあさ、時々おまえん家にも行かせてくれよ!おれん家にも来ていいからさ!おまえん家に行ったときはおやつパーティさせてくれ!おれん家に来た時は母さんにご馳走作ってもらうから」

 護は少しだけまた考えて、返事をした。

「いいよ。じいさんとばあさんに言っとく。最も、おやつを自由にかわせてくれる様なじいさんとばあさんじゃないけどな」

 そう言ってクスリと笑う。

「…おれんとこも、ご馳走は作ってくれないかも…」

 真侍が言って、また二人は笑った。自分達の思い通りにならないだろう事を、何となくわかっていたかも知れない。でも、友達になってこうやって話をするだけで、何だかとても楽しかった。楽しい事が起こりそうで、それを一緒に出来る事が嬉しかったのだ。

「何か面白い事でもあったのか?」

 いつの間にか戻っていた、少し疲れた表情の隆が微笑みながら聞いた。小さな言い合いは隆が折れて治まったようだ。

「何でもない。護、歯磨きに行こうぜ」

「ああ」

 残りの牛乳を飲みほして、護は立ち上がった。


 顔に日の光が当たる。眩しくなって片目を開ける。今度は両目をぎゅっと瞑ってから目を開ける。ふわふわの布団の中だ。いつもの自分の布団の匂いではないが、心地いい。深呼吸してもう一度眠ろうとしたら、頭上からいびきが聞こえた。上半身を起こして見ると、ベットではまだ真侍が気持ちよさそうに眠っていた。時計を探したがいつもの方向にそれが見当たらなくて、ここが真侍の部屋だと思い出した。子ども用学習デスクの上の壁に、カラフルな文字盤のそれを見つけた。八時だ。護は半身を起こす。そして枕元に置いた眼鏡をかけた。低い本棚には男の子用の組み立てるおもちゃのパーツが沢山入っているバケツや、恐竜の人形が飾ってある。買ってから読まれていないであろう花や植物の図鑑の横の恐竜の図鑑や空手の本や漫画は随分ボロボロだった。壁には道着がハンガーにかけておいてある。干しているのか飾っているのかは分からないが、袖や裾がボロボロになっていた。青い帯には油性マジックで「みやもと しんじ」と書かれているが、もう何度も洗われたのだろう、すっかり薄くなっている。布団を静かに畳んでからそっと部屋を出た。一階に降りてリビングに行くと、隆が起きて朝食の用意をしていた。

「おはよう。よく寝れたか?」

 キッチンから隆が顔をのぞかせた。

「はい。ちょっと寝すぎたみたい」

「そうなのか?いつも早起きなんだな。真侍も恵美も休日はいつもまだ寝てるよ」

「じいさんとばあさんが早起きだから。…おばさんは?」

「もう仕事に行ったよ。だから俺がみんなの朝ごはん当番だ!」

 キッチンに行くと、レタスはボールの中で水につかり、シャキッとしている。キュウリは斜めにスライスされてまな板の上に乗っている。

「手伝います」

 護は袖を何度か折り返した。

「助かるなぁ。何ならできる?」

「大抵は、何でも」

 隆は由美の言っていた事を少し思い出した。

 …一人で生活していた時期がある。

「玉子料理とかできるか?」

「玉子焼きとか、オムレツとかスクランブルエッグとか?」

「じゃあ、お願いしようかな。冷蔵庫にある材料使っていいから」

 隆はボールと菜箸、玉子を護に渡して、パンをトースターに入れ、もう一つのフライパンでベーコンを焼く準備をする。そちらに集中しているふりをして、護の様子を横目で見守る。護は器用に玉子を割りボールの中に六つ入れた。殻が中に入っている事もなさそうだ。そこに少しだけ牛乳を入れた。塩と胡椒を適当に入れて何度か菜箸でかき混ぜる。躊躇せずにコンロに火をつけた。真侍や恵美に点火を頼んだら怖いや熱いや言って大騒ぎなのに。冷静に作業をする護と重ねて、自分達の子どもの幼さに、隆は笑んだ。いや、この場合は護に生活力があると言った方がいいのか。

「おじさん、ベーコン焦げそうだよ?」

「ああ!まずい!」

 子どもとは思えない慣れた手つきに、隆は横目どころかしっかりと観察してしまった。ついでに想像も働いて自分の作業をほったらかしにしてしまっていた。急いで裏返すと、ベーコンの表面はやや固めに仕上がってしまった。

「恵美に固いって言われそうだなぁ…」

 裏側は軽く火を通してから、隆は四つ分の皿の上にベーコンを盛った。

「バターある?」

「マーガリンならあるかな」

 冷蔵庫からマーガリンを渡すと、護はバターナイフで四角くマーガリンを切って温まって来たフライパンの中に入れた。隆はマーガリンを受け取り食卓に出してからレタスを水切りし、千切ってみんなの皿に均等に入れる。キュウリとプチトマトも並べた。トースターのパンを見るついでにフライパンの中をみると、一気に入れられた卵液がぐつぐつと固まりかけている。護は重いフライパンを上手に返して少しずつ形を整えて行く。

「うまいもんだ。匂いもうまそうだ。さて、そろそろ二人を起こしに行ってくるか」

 三人が食卓に来たころには、朝食のワンプレートがセッティングされていた。護が作ったのはオムレツだった。大きなオムレツを四等分した為か、形はまちまちだったが、切り口から半熟の卵がとろりと零れ落ちそうになっている。マーガリンの少し焦げた香ばしい匂いがキッチンに漂っていた。

「すげぇ、これお前が作ったのか?」

「オムレツだけな」

「いやぁ、すごい上手でびっくりしたよ。部屋に入るといい匂いだ」

「めぐ、オレンジジュースがいい」

「座って。飲み物用意するから」

 隆は恵美の分のオレンジジュースと、自分達用に牛乳を用意して食卓に着いた。

 真侍と護が隆の朝食の片づけを手伝いをしながら、今日何をするか話す。リビングでは恵美がパジャマのまま朝のアニメ番組に夢中になっていた。

「真侍、お前ドッチボールに詳しい方か?」

「ドッチボール?嫌いじゃないけど…」

 昨日の事を思い出す。谷岡小学校の連中にひどい目に遭わされそうになった。

「護は去年のドッチボール大会、出たのか?」

「出たけど、興味ないし。見学しかしてない」

「そっか。で、去年どうだったんだ?」

「ボロ負けした。まぁ、向こうもちょっと強引で卑怯なところもあったかもな」

「何だ?ドッチボールなら俺が教えてやるぞ?」

 二人の会話を聞いていた隆が皿をしまいながら言う。

「何だか良くわからんが、ドッチの大会で勝ちたいんだろ?」

 護と真侍は、少しだけ顔を見合わせてから決心したように頷いた。

「おじさん、勝ち方を教えてほしい」

「これ片付いたら、教えてやるからちょっと待ってな」

 二人は、早速面白い事が始まりそうな予感に、ワクワクして顔をほころばせた。

 テレビの中の可愛い女の子と一緒に踊っている恵美の横で、作戦会議は始まった。

「いいか?ドッチボールはチーム戦だ。参加してるやつら全員が全力で協力し合えて、初めて勝てる可能性が出てくる」

 隆の言葉を、護は真面目に頷きながら聞く。一方真侍はポカンとしている。

「早くて強い球を投げれるチームが強いんじゃないの?」

「そう思うだろ?」

 隆はニヤリとした。

「でもな、人にはそれぞれ役割があるんだよ。早くて強い球を投げれる奴もいれば、上手に逃げれる奴もいる。体が柔らかいからラインぎりぎりにいたって球がよけれる子だっている。早く球を投げれられない子でも、近くに強い球を投げれる奴がいたらパスを回すこともできる。そういった連携で可能性を作って行くんだ。お母さんの役割、お父さんの役割。真侍や恵美の役割みたいにな」

 首をかしげている真侍を横に、護は静かに頷いた。

「そうか…なら俺は球は投げられないけど、パスしたり、全体を見て作戦はたてられる」

「作戦?そんなんいるのか?」

 真侍は一人話に付いてこられない様だ。

「当たり前だろ。ゲームは無計画では勝てないぞ。練習もいるしな」

「練習。例えばどんな練習をしたらいいですか?」

「基本はボールを投げる事と受ける事だな。低学年の子はまだボールに触る事さえ慣れてない子がいるだろうから、そういう子にキャッチボールを教えるんだ。始めは絶対に投げ受けが出来る距離から。慣れてきたらだんだん離れていく。速度もゆっくりのボールから、徐々に速いボールに慣れさせる。達成感を持たせてやる事が重要なんだ」

「それなら、俺でも練習できそうです」

「よし。で、真侍はドッチは強い方なのか?」

「うーん、多分。外遊びでドッチした時は大抵取り合いになる」

「じゃあ投げるスピードはあるんだな」

「うん。おれが投げると皆逃げる。当たるとすごく痛いって」

「…自信家だな」

 我が子の発言に、隆は呆れた。

「…そうか!」

 護が大きな声を出したので、二人は驚いて振り向いた。

「どんな高さでも速い球を投げれるようにしたらいいのか。」

「その通り。いいか真侍、早く投げれる球は、大抵胸の高さ、つまり取りやすい高さの事が多い始めは速い球に当たるのが怖くて、逃げられる事が多くなる」

 今の真侍の球の様に。護は言わなかったが、視線は隆にそう投げかけていた。

「でも、速さにされてきた奴には取られる?」

 気付いたようにいう。

「そうだ。当たったら掴めばいいんだからな。多少痛いが、取れると分かると積極的な男子なら取りに行くだろう」

「じゃあどうすりゃいいんだよ」

 自分の弱点をさらされたようで、真侍は仏頂面をした。

「だから、低く、早く投げたらいい」

 護が言った。

「正確には速くなくてもいい。的確なら爪先だろうが踵だろうがあてられるようになる」

「なら、俺でもできそうです」

「低い球は取りにくい。早くても遅くても、的確ならかなりの切り札になる。後ろや横は死角になるし、そこを狙えば球の速さは遅くても問題ないだろうな。高い球はパスには向くが当てるのには不向きだ。頭は狙ったらアウトだ」

「要するに、当てる様に低く投げて当てる練習と、パス用に高く投げる練習をしたらいいのか」

「そう言う事だ!俺の息子にしてはいい出来だ!」

 やっと輪の中に入る事ができて喜んでいる真侍の横で、護はまだ何かを考えていた。



 四人は公園にいた。恵美は公園の遊具で遊んでいる。幸い友達がやってきたようで、隆は二人の指南役につけた。真侍の投げる球は速く力も強い。直球は得意だがコントロールはまずますと言ったところだ。一方の護はボールすらほとんど触ったことが無い有様だったが着眼点はいい。

「一年生やスポーツが得意じゃない女子を特訓するならキャッチボールの練習は出来る様になった方が良いな」

 まずは真侍と護の二人でやらせてみるが、護はキャッチを怖がり、寸前でしゃがんでかわしたりすっと横に避ける。真侍の投げる球は相当強いらしい。元々力は強い方だと思っていたが、相手が護と比較したからではない。実際大人の隆が受けても手がしびれた。胸で受けた時は息が詰まって咳きこみそうになったが親の威厳で耐えた。

拳の握り方は毎晩練習している。おかげで握力が付いたのだろう。だてに家の中が破壊されてたり、そう力を入れてないのに友達を叩いて泣かせてないようだ。

隆は内心で息子を自慢に思った。武道に熱中してくれて良かった。そして、男の子として泣かされて帰って来るのではなく、泣かせて帰って来ることを。

「真侍、もっとゆるく投げてやれ。お前はまず力の調整を特訓だ。護、怖くない様にゆっくり来るから、ちゃんと目を開けてしっかりとボールを見るんだ。大丈夫、怖くない」

 隆は真侍に下から投げる近い距離のパスを教えた。距離と軌道を見てボールの動きを掴んだ護は落とすことなくボールを受け取る。少しずつ離れたパスを練習させ、ボールに慣れさせる。慣れてきたら上や横から投げる、近い距離で少し早い球の投げ受けを練習する。小一時間ほどやって、二人は汗びっしょりになった。

 護は驚くべき集中力と呑み込みの速さで上達した。元々何もない知識で、隆の言う事をすんなりと吸収したのだ。一方の真侍はいわゆる子ども達の中での「上手な子ども」を見て真似たらしく、球は速いが投げ方に変な癖がついていてコントロールが上手くいかない。特に遠くにパスを投げるとなると変な方向に飛んでいく。しかしその本人は強くて速い球を投げられることにこだわっていて隆の忠告もほとんど耳に入っていないようだった。

「ちょっと休憩しよう。飲み物を買ってくるから、二人とも日陰にいろ」

 隆が恵美と近くのコンビニに買い出しに出る。真侍と護は公園の木の下のベンチに腰を下ろした。初夏の日差しは強かったが、日陰は風が吹くと気持ちいい。

「腕が重くて痛い…」

護が腕をさすった。白かっただけの肌が、赤く焼けている。

「すげぇ日に焼けてる!」

メガネを外して汗を腕で拭うと、メガネの黒いフレームの所だけ日焼けして無かったのが面白くて、真侍は護をみて吹き出した。

「お前、顔もすごく日焼けしてるぞ」

「笑うなよ。確かに、顔もすごく痛い…そういうお前は全然焼けてないというか、もう日焼けしすぎてそれ以上黒くならなさそうだな…」

 そういえば、親分も随分日に焼けて黒い肌だった。他の二人はそうでもなかったが。たくましい体と気の強そうな顔立ちだった。言葉でしか聞いていないが、やはりドッチボールの腕も相当なものなのだろう。

「なぁ護、おれ達はどうやったら谷岡小学校に勝てるかな」

 その時の様子を思い出して、真侍は護に問う。

「俺も考えてた。とりあえずドッチの交流会まではまだ半年以上ある。今は六月で、交流会は春休みだ。興味が無い奴らにも練習してもらう必要があるな。向こうは卑怯な手を使ってでも勝とうとする連中だし、腕も立つ。真侍を含めた外の遊びに興味がある連中には火を付けやすいだろうが、俺も含めた室内で過ごしている奴らにはなかなか「勝ちたい」とか「やりたい」って気持ちを持たせるのは難しいかもな」

「でも、やられてばっかりじゃ腹立つし」

 しかも卑怯なやり方で勝たれたなら、尚更腹立たしい。

「うん。去年は、まぁ桜小が弱かったのもあるけど向こうも審判の先生の目を盗んでこっちの弱い奴を押したり、こちら側の弱い子が取ったボールを横取りしたり、集中攻撃したりしてたな」  

「でも、集中攻撃はおれが遊びでみんなとやってる時でもやるぞ」

 最もそれは、「集中攻撃ズルい!」との狙われた本人からの非難の声が上がり、大抵はすぐしなくなる。 

「まぁ、集中攻撃も立派な作戦ではあるが、それが小さくて弱そうなやつらの顔をあいつらが全力で投げる球が狙ったものだったらどうだ?」

 それは恐怖だろう。もう二度としたく無くなっても仕方ない。

「先生も相手が卑怯だったのと、途中でみんなのやる気が折れたのは悔しかったんだと思う。でも、もしかしたら…」

護はじっと真侍を見た。

「俺とお前でなんとか出来るかもしれないと、今は思ってる」

「おれたち二人で」

「そうだ。正確には、お前が外で遊ぶのが好きな連中を引っ張る。陰のリーダーみたいにな。そして俺が作戦を考える」

「三年もいるのに二年のおれがリーダー?」

「ゲームとなったら一年も三年もない。それに、能力の高い一年だっている」

「まぁ確かに」

「本番の前は練習試合が一回だけある。その時にどれだけ相手チームの動きを観察できて、作戦がたてられ、指示通りに動けるチームを作る事が勝つための条件になる」

「分かった。外遊び組には声かけるけど、皆目立ちたがりだからなぁ」

「一つ案がある。そいつらの目を覚まさせないと俺達は勝てない」

「どういうことだ?」

「一人ひとりの能力が高くても、ドッチボールは勝てないんだ。隆さんも言ってただろ?チームワークが必要だ。だから、俺が先生に頼んで中遊び組を鍛えようと思う。一か月後、外遊び組と中遊び組で勝負するんだ。当然、外組は勝つ気でいるだろうな。でもこちらが作戦勝ちしたら、能力だけじゃ勝てないんだって気が付くはずだ」

「そんな事できんのか?」

 真侍自身、今の護の運動能力で中遊び組を指導したとして負ける気がしなかった。外組が投げた球に中組は片っ端から当てられて全滅している姿しか想像できない。

「俺の予想が的中したら、勝てる」

 護はニヤリと笑った。

「お前、もしかして楽しい?」

「否定しない。俺の思う様に中組が動いて外組に勝てたら、谷岡小に勝てる可能性が出る。そう思ったら」

ちょっとワクワクするな。護の言葉に真侍もうなずいた。

「言っとくけど、外組はそう簡単に負けないからな!」

「こっちも負ける気はない」

 お待たせ。と戻って来た隆は、知らない間に二人の間に火花が散っているので驚いた。


 そう簡単に負けない。と豪語した真侍筆頭の外組は、約束の一か月後、言葉とは裏腹にあっさりと中組に負けた。

 翌週の月曜日から、中組と外組の特訓は行われた。外組は元々外で遊ぶことが大好きな連中だけあって、中組との勝負の為の練習は皆参加した。一方の中組は、護が吉岡環と新藤進一に協力を依頼した事もあり、士気が上がった。普段室内で過ごす子ども達に不満は無かった大人達が、本の虫の護の変化に小さな期待と、子ども達の結束力を体験させる素晴らしい機会になるかも知れないという大きな期待で一肌脱ぐことにしたのだ。

新藤は環が尊敬する先輩でもあった。当然子ども達からも好かれ保護者からの信頼も厚い。新藤は護の要望に大きく協力した。外組と中組が別々に練習できるようにスケジュールを組んだ。これが中組の士気をさらに加速させることになった。

 かくして、護の予感は的中した。外組は自分の運動能力を過信している。先生の手伝いは必要とせず、強くて速い球を投げる事にこだわり、低く投げる練習や死角を狙う練習を疎かにした。護はそこが弱点だと新藤と環に伝えた。護は隆の忠告どおりに両先生の手を借りて中組をボールに慣らす事から始めた。運動能力はやはり低いが、室内で遊んでいる女子のほとんどは体が柔らかい。飛んでくる球をぎりぎりで体を曲げて避けたり、しなやかに跳んだり、その場で球から逃げる練習をした。これで無駄に体力を消耗することもない。パスは速く遠く投げれない代わりに短く早く渡す練習をした。怖くてもボールを見る。背を向けて逃げず、ぎりぎりで避ける。相手の腕の動きを見る。パスは短く、素早く回して相手のスキを作って死角から足を当てる。そんな練習を続けた。

「俺達には吉岡先生と新藤先生が付いてる。この最強の先生たちが、俺達に勝つ見込みがあって、俺達が勝つことを応援して望んでる。外組じゃなくて、中組の俺達にだ」

  護の事はまだどんな人物なのかよくわからない一同だったが、みんな両先生に信頼を寄せているのは確かだった。

 いつしか護が練習中に繰り返して言ったその言葉は、心の支えになった。

 そして、七月の初め、中組と外組の対決は中組が勝利を飾った。勝利の要因は「パスを短く早く回す。相手の背中を狙う。早くて怖い球は避ける。ミスボールは積極的に取る」にあった。中組の中にも特訓で機敏に動けるもの出て、鍛え上げた結果抜群の動きを見せた。その中には中組筆頭の護もいた。前半では外組の強力な球に当たり、中組の大半は半べそをかきつつ心が折れそうになった。しかし途中で護は何度も「先生たちが応援してる。先生たちは俺達の味方だ」と励ました。その言葉は中組の心にやる気と冷静さを取り戻させた。それが功を奏し、良い動きをした様子を吉岡、新藤の両先生が大声で褒める。動きが大きい分、外組の体力の消耗は激しい。次第にイライラし始め、仲間内でボールを取り合い、集中力を失い始める。自信を付けた中組は、仲間割れし始めた外組を一気に畳み込んだ。

 二人の先生が中組の勝利を喜ぶ声を聞く。前半終了後、外組は完全に自信を失った。そのままの士気で挑んだ後半戦は、なし崩しだった。

 外組に惨めな雰囲気が漂う。真侍ですら、周りには誰にも味方がいないような気がして、辛くて寂しい気持ちになった。視界が緩みそうになるのを必死に堪える。汗が目に入って沁みると涙か汗かわからない物が目から溢れ出た。

 外組は負けた。負けた外組は惨めさを恨みに変え、中組の悪態をつきはじめた。卑怯だと罵って泣いた。新藤は呆れて

「甘く見てたお前たちの結果だし、これはゲームだ。作戦を立てて勝ったんだから、卑怯でもなんでもないぞ」

と諭すが、外組の憎悪は相当だった。汗と土でTシャツも髪も汚れ、涙と汗でぬれた赤い顔からは暑さと怒りで湯気が出ている。外組は新藤を挟んで対する中組を睨みつけた。

「みんな、忘れてるんじゃないか?」

護が新藤先生の横に並んで、しっかりと言った。勝ったのに喜んでいいのか困り果てていた中組と、汗と涙と泥で汚れた外組が護を見た。

「俺達が戦うのは、谷岡小の連中だ。中組と外組は仲間だ。今回のは本当の対決じゃない。本当に負かしたいのは谷岡小の奴らのはずだろ」

みんながポカンと口を開けて護を見ている。

「力で強い外組と、パスに強い中組の両方が協力したら…」

 護は真侍を見て不敵に笑った。

「…おれたち、谷岡小に勝てるって事?」

真侍が目を見開いて護に問う。護は満足気に頷いた。


「宇野ってあんな子だったっけ?」

新藤が環に向かって呟いた。今や中組と外組同士が入り混じり、夢中になって先程のドッチボールの試合の話をしていた。お互いに早い投げ方やパスの回し方を教え合っている。真侍は外組の子どもの特徴を護に教え、護はノートに一人ずつ名前と特徴を記入している。力を半分に分け、本試合に向けての、ちゃんとした練習を始めるのだと言った。

「宮本と接触することがあったようなんですが、それからですね、彼が変化し始めたのは…」

「悩みの種でもあったんだろ?お前がどう接触しても中々変わらなかったのにな」

「はい。やはり、子ども達同士の力はすごいです。私には出来なかったことが、するりと出来てしまう。こう言う時、年を経て得た経験も無力なのでは、と感じてしまいます」

「俺達に出来る本当の支援は、自立を見守る事だからな。個人を否定せず、その子に合った援助をする。保育者のおかげで子ども達が自立したなんて思う事は、ただの思い上がりだ。俺達の力は彼らが自立するための、ほんの一部である事を忘れちゃいけないし、俺達すら多くの人達の支えがあって見守れる事を忘れてはいけない」

「子どもから多くを教わって、癒し、救われているのは私達の方かも知れませんね」

護と真侍が二人の方を向いて笑顔を向けた。なんと愛おしい事だろうと、新藤と環は笑顔を返す。もう一度チーム替えをして試合をしたい。との要望に、二人は大きく頷いた。

「その通りだな」

 新藤の同意した言葉に、吉岡は破顔して頷いた。

「新藤先生、審判して!」

 遠くから護が叫ぶ。

「お前の腰を据えた声掛けと見守りも、宇野の変化に影響してるかも知れないな」

 思いついた様に新藤が言ってコートに向かう。

「だとしたら、この仕事では最高の賞与です」

 その返事を背中で聞いて、新藤は歩みを走りに変えた。


夏休みは飛ぶように過ぎて行った。真侍と護は学童ではドッチボールの練習と策を練る事に余念なかった。真侍が一層日に焼ける一方、護は肌の白さを保っていた。由美が護の腕に日焼けで出来た水ぶくれを発見したので、日焼け止めクリームを塗りたくったのだ。二年生にも関わらず、真侍と護は学童で一目置かれる存在になった。真侍はチームのまとめ役として花があった。真面目だがおっちょこちょいでどこかユーモアがあり、素直で嘘のない性格は皆から好かれた。護の方は言葉は少ないが、時折呟く言葉には理論に基づいた筋立てがあり、信頼性を寄せた。プライベートでは相変わらず部屋にいて真侍や環、新藤以外はあまり寄せ付けないままだったが、護にしてはずっと人間関係が広がった方であり、子ども達の仲裁や相談役にも買って出る事もあった。

 土日やお盆休みには、二人はお互いの家族を行き来して十分に遊んだ。家族ぐるみでの交流も盛んだった。宮本家でキャンプに行く事もあれば、足立家で浴衣を着せてもらい盆踊りに参加する事もあった。取り立てた行事でなくとも、立派なスイカが出来たと文が言えば皆で足立家の縁側で並んでスイカを食べたし、自由研究や工作では手先が器用な義男が一躍買って出た。由美は料理を教えて貰いに文の所に訪れたり、隆が義男の晩酌相手になる事も多かった。こうして真侍と護二人だけでなく、周囲の大人にとっても世代を超えた交流が豊かなものになったのである。

 二学期が始まり、秋が終り、冬がやって来た。冬休みに入った護の両親からの一報は、護にとって変化の無い物だった。今年も仕事が忙しく、帰国は難しい。その連絡に落胆したが、護はそんな素振りを見せなかった。友達が出来て、楽しく元気でやっていると電話で答えた。その様子に義男も文も不憫に思ったが、真侍という友達が出来てからの護の変容を喜んでいるのは事実だった。それは自分達にもあてはまった。家に真侍が来た時はまるで花火を投げ入れたかのように賑やかになり、二階で騒ぎまわる二人を叱りつけたあと、階段を降りながら、文は顔を緩ませずにはいられなかった。

やっと護に子どもらしい時期が来たのだと。

 クリスマスイブの前日。外国の両親から護あてに沢山のクリスマスプレゼントとカード、お年玉が届いた。一気に受け取った護は嬉しさと照れ臭さからクリスマスカードからしばらく顔を上げなかった。クリスマスプレゼントは、外国の古銭。変な模様のTシャツ赤、青、緑の三枚。何かの草で編んだスリッパ。見たことのない木の実の種。ヤシの実で出来たギターのような楽器。何かの動物の角だった。おそらく何処かの山奥にいるのであろう事が分かり、両親との距離に寂しさを感じた。寂しさを振り払うように、護は何度も両親からのメッセージカードを読み返した。


「護へ。

 メリークリスマス!

あけましておめでとう!

お祝いを一緒にしてしまって申し訳なく思います。

元気にしていますか?お父さんとお母さんは元気にやっています。

遺跡発掘も、後まだ一年以上はかかりそうです。あなたに会いたいわ。あなたが赤ん坊の頃の写真と、おじいちゃんとおばあちゃんがくれた一年生の頃の入学式の写真を毎日のように眺めて、朝と夜の挨拶をして、仕事に励んでいます。電話がある近くの村まで行くのに十日はかかってしまって、中々現場も離れられずにいるし、淋しい思いをさせてしまって、本当にごめんなさいね。今度の発掘調査が終ったら、一度日本に帰ります。あなたに会える事を楽しみに、頑張りますね。愛してるわ。   母、紗世より。


 護、元気か?メリークリスマス!そしてあけましておめでとうだ!

友達が出来たって?仲良くやっているかい?もうすぐ三年生だな。きっと大きくなっているんだろうな。今度の仕事が終って、お前に会いに帰るのを楽しみにしてるよ。いっぱい話を聞かせてくれよ。そうだ、大きくなっても抱っこさせてもらえると嬉しいな。恥ずかしがらないでくれよ。

 その日まで、しっかりな!父さんと母さんも頑張るからな。

 愛してるぞ! 父、哲司より。」


  両親の居場所は機密事項とされていて、その家族にも公開が許されていなかった。何処からか情報が洩れ、貴重な現場を荒らされるのを恐れての事だ。大切な世界遺産候補を守るためにやむおえない事だった。こちらからはただの一度だけ、紗世が病気にかかり、一月ほど近隣の村の病院で入院した時に連絡が取れ、文が急いで護の写真や手紙などを詰めて病院宛てに送ったのだ。それ以降は一方的に連絡が来るだけの交流だった。

 しかし護は、そんな両親を誇りに思っていた。確かに他の家族とは違う。でも、両親にしかできない事をしている。その事が護を辛抱強くさせた。今の発掘調査が終ったら、両親に会えるかもしれない期待で、護は肌身離さずカードを持っていた。両親と再会したら、何を話そう。護はカードを貰ってから毎日布団の中でずっと先に両親と話す内容を考えていた。

 真侍と出会って、親友になった事。初めて出来た親友の家に泊まりに行って、真侍のお父さんとお風呂に入った事。コンディショナーがベタベタしていたけど、びっくりするぐらい髪の毛がサラサラになった事。真侍のお母さんが髪を切り揃えてくれてから悪口を言われなくなった事。真侍の家族が海にキャンプにも連れて行ってくれた。真侍の妹の恵美がクラゲに刺されて泣き、真侍と二人でクラゲをやっつけた事。学童の吉岡先生はいつも味方で話を聞いてくれて、優しくて、でも時々怒ったら怖い事。新藤先生は物知りで、相談に乗ってくれるし、自分にもいろいろ相談してくれて嬉しかった事。ドッチボールで自分が作戦を練った事が認められた事。

 両親に向けて話したい事がどんどん出てきて、護はその都度、両親はどんな反応をするだろうか、と想像してワクワクし、眠りの中では三人で手を繋いで話しながら笑っている、幸福な夢を見ていた。


  その年のクリスマスイブのパーティは、護が生まれて初めて心から楽しんだ最高のクリスマスイブになった。朝から真侍の家に招待されていた護は、両親からもらった沢山のプレゼントの中の変な模様のTシャツの赤い物を真侍へ、ピカピカの外国の古銭を恵美に包んだ。宮本家に向かう途中から粉雪が降り始め、あたりはみるみる白い雪景色へかわって行く。宮本家に到着するまでの十数分間で、目に付く所は真っ白になった。家の中に入ると、恵美と真侍がまだパジャマのままで、サンタクロースからプレゼントされたばかりの家庭用の最新のゲーム機に大喜びしていた。護が到着したのに気付いた二人は大急ぎで私服に着替えに行き、瞬く間に戻って来た。

 三人は午前中、ほとんどゲームで楽しく遊んだ。十時頃、キッチンでは由美がクリスマスケーキ作りに奮闘していた。三年連続で失敗の固いケーキだったらしく、頭を抱えていた所で護が菓子教本を読み込んで手伝った。玉子の泡立て方と粉を入れた時の混ぜすぎを改善し、今年は初めてフワフワのスポンジケーキが焼きあがった。朝食を食べ損ね、空腹が限界に達した真侍と恵美が耐え切れずに配膳を手伝う。早めの昼食が始まる。テーブルには沢山のごちそうが並んだ。真っ白なホイップクリームとキラキラの赤いイチゴで綺麗にデコレーションされた立派なクリスマスケーキは中央を堂々と飾った。

「二人にクリスマスプレゼントがあるんだ」

 護は両親からのプレゼントで選んだものを真侍と恵美に渡した。大喜びでお礼を言いながら受け取った包みを開けた真侍は変なTシャツに大笑いし、恵美のピカピカの古銭を羨んだ。恵美は大事そうに両手で包んでから、兄に取られない様に二階の自分の部屋に隠しに行った。

 ちぇっ。という真侍の言葉に談笑しながら豪華で楽しいランチが進む。照り焼きチキンもから揚げも美味しく、フライドポテトやバターコーン、ピザ、サンドイッチ、ハンバーグ、スパゲッティ、クラッカーの上にフルーツやチーズが乗ったスナックなど、護は自分の家の食卓では並ばないメニューに目移りした。由美も隆も程よくワインが回り、途中からみんなで食べながらテレビの前のゲーム機で遊んだ。遊びながら護は、

「一年後に、お父さんとお母さんが日本に帰ってくるんだ。…多分」

と言った。そして持ってきたリュックの中から皺くちゃになったカードを取り出して、隆と由美に見せた。一通り内容を読んだ二人は目元を緩ませ、両端から護を抱きしめたので、護は驚いて体を縮めて顔を赤くした。二人にどうやって触れたらいいのか分からず、手が泳ぐ。

「私も、護君のご両親にお会いするの、楽しみにしてるわ」

「そうだ、家にも家族で遊びに来てほしいしな!」

護が「ありがとう」と小さく呟いてうつむいたままだった。由美はゆっくり護を解放して、笑顔でケーキを切り分けに行った。隆はゲームの続きをしようと護を誘った。ご馳走で散々お腹いっぱいになっていたが、それでもまろやかなホイップクリームがたっぷりかかり、甘酸っぱいイチゴとフワフワのスポンジケーキで出来たクリスマスケーキは皆のお腹の中にしっかり納まった。

 散々騒いで楽しみ尽くしたその日の夕方、護はクリスマスのご馳走をケーキのお土産を持たせてもらい、由美と隆から帽子とマフラーのクリスマスプレゼントを貰って宮本家を出た。外は深々と雪が降り積もり、歩くごとにキュウ、キュウと鳴る。素肌に寒さを感じるが、帽子とマフラーの暖かさと満ち足りた思いが、それを忘れさせてくれた。

 年が明けた。真侍と護は初詣先で、ドッチボールの勝利をお願いした。真侍はそのまま護の家に遊びに行き、足立家の庭先で義男と将棋やオセロ、独楽回しや羽根つきで遊んだ。縁側で文が火鉢で餅を焼き、膨らんでいくのを二人の子どもが楽しそうに眺める。

「さあさあ、その墨だらけの顔と手を洗っておいで。お昼ご飯にしようね」

 足立家の元旦の昼食は、宮本家のクリスマスのランチに負けないくらい豪勢だった。文が自慢の腕を振るい、伝統ある正月のお節料理が重箱に美しく納まっていた。

立派な鯛の姿焼き、京都の白味噌雑煮、焼きたてのお餅は安倍川餅や磯部巻き、あんこもちになって美味しそうに並んでいた。

「真ちゃんが来てくれるって聞いてたからね。おばあちゃん頑張っちゃったわ」

 割烹着を脱いだ文は、上品な着物姿だった。

「大晦日から大変だったんだ。お節作りとお餅つきで。俺腕が痛い」

「え?お餅つきしたの⁉お餅つきってお正月にするんじゃないの?」

「そう思われがちだがな。本来は年末につくもんだ。お節料理も、昔は今と違ってスーパーやコンビニなんかないからな。普段忙しいお母さんたちがゆっくりお休みするために年末に沢山料理を作って置くものだったんだよ。それに、正月の三日間は包丁を使ってはいけない習わしだったのもあるなぁ」

 猪口を傾けながら、義男が教えてくれた。真侍は自分の家のお重箱の中身の違いを確認するように、順番に眺める。

「小さなお魚がいっぱい入ってるね。大きなエビとか」

「これはごまめ。田作り、とも言うの。昔は畑の土の栄養になっていたものでね、沢山お米やお野菜ができますように、っていう意味があるのよ。エビは、腰が曲がるまで長生きできますように、という意味ね」

「そうなの⁉すごい!じゃあ、この栗は⁉」

「栗金団は金運を招くと言われてる」

護は知り尽くしたかのように言った。

「おう。よく知っとるな護」

「毎年聞かされたから覚えた」

護の返答に義男と文が笑う。真侍は目についた料理に矢つぎ早に質問する。

「真ちゃんの質問に全部答えてたら、お料理が冷めてしまいそうね」

文が苦笑して言った。

「じゃあ、食べながら聞いて良い?」

「お前、これ全部食べる気か?」

いけないの?と真侍が顔で言い、察した護が目を丸くした。文と義男がまた笑う。

「いっぱい作ってあるから、たんとおあがり」

「知らない野菜が沢山ある」

 どの野菜も全部飾り切りしてあり、一つ取ると立体パズルが崩れる様にバラバラになってしまいそうだ。手を出しそびれていると、「どれが食べたいの?」と聞きながら、文が海山の箸で取り分けながら丁寧に説明してくれる。海老芋は里芋と違う形だ。くわいは長い目が出ていて面白かった。松の葉に刺さっている銀杏はピカピカした黄色。細い竹の子など初めて見た。手鞠麩はまるで繊細な和菓子のようで、食べてはいけない気すらする。

 普段は食べたい物をガツガツかき込む真侍だが、目の前の料理はそれをためらわせる。護の方を見ると、義男と将棋の話に夢中になっているようだが、真侍は少し護を観察した。口の中に沢山物を入れない。話す時は口の中の食べ物を飲み込んでから。噛んでいる時にどうしても喋らないといけない時は手で口の中を見えない様に隠す…そんな事を自然にやっている護に、真侍は少し戸惑った。

「真ちゃん。そんなに、お行儀よくして食べなくても、いつも通り美味しく食べてくれた方が私は嬉しいけどね?」

  見兼ねた文が声をかける。真侍はその声で気が楽になり、家では食べた事のないおせち料理を堪能した。

昼食の後、四人でカルタ取りや百人一首をした。真侍は「ぼうずめくり」以外の遊び方をしたことが無かった。その上護は上の句を二言三言読まれただけでさっさと取ってしまい、真侍はほとんど手札を取る事が出来なかった。あまりに差を付けられたので途中からやる気を無くしたが、百人一首の全部の歌を覚えている護をカッコいいとも思った。

「暇さえあればオセロか将棋、たまに百人一首。他は本を読んでたから、暗記してたって不思議じゃないさ」

言った護は、何故か寂しそうだった。

「相手はいつもじいさんとばあさんだし、お前たちが遊ぶゲームを買ってもらえるわけじゃないからな」

「何じゃ護、欲しかったのか?」

護の言葉に義男が聞く。

「欲しくなかったわけじゃない。ちょっと前までは、みんな持ってて俺だけ持ってなかったから羨ましかった。でも、独りだったら何をしてもあんまり面白くないってわかったんだ。将棋やオセロはじいさんに勝ちたいからはまったし、百人一首はばあさんが褒めてくれたから覚えた。他の子が遊んでるゲームは真侍や恵美と一緒にするから楽しい。それが分かった今は、そんなものは欲しくない」

真侍はサンタに貰ったゲーム機をクリスマス以降使ってない事を思い出した。貰う前まではあんなに欲しいと思っていたのに、いざ手に入ると安心してほったらかしになっている。学童から帰宅してから恵美がゲームで遊びたいと言っても護と遊ぶ約束を優先させたし、ドッチの練習に疲れてそのままソファで居眠りしていた事も多々あった。その間恵美がゲーム機のコンピューターと対戦していたりしたが、少し経つと面白くないと言ってさっさと片付けていたものだ。

「さて、休憩しましょうか」

 文が持ってきたお盆の上には、中央に金箔が飾っている紅白の梅の練りきりとべったら漬け、甘い匂いのする玉露が乗っていた。

「本当はお抹茶にしたかったけれど、護や真ちゃんには苦いと思ってね」

「これ食べ物?食べれるの⁉」

 盆の上を見て真侍が言った。

「そうよ。お正月の為に、京都の和菓子屋さんから持ってきてもらったの」

「漬物は家で漬けたやつだけどな」

「これ、護が漬けたの」

「手伝わされてるだけさ」

「冬じゅうで食べるからね。沢山あって一人では大変なのよ」

  真侍にとって足立の家は、いつも不思議でいっぱいだった。真侍の家では、お正月はお年玉を貰って適当に朝由美の作ったお節を食べ、家族で初詣に行く。お昼は適当に屋台で済ませて帰りにスーパーに寄り、夕飯のお寿司の詰め合わせや適当な食べ物を買って帰り、テレビを見ながら夕飯を食べて過ごすくらいだった。だから真侍はお正月よりもクリスマスの方が好きだった。

 でも足立のお正月は違っていた。何だか大事な行事として扱われている。真侍はおせち料理の意味を知りながら大切に食事をしたのは初めてだった。百人一首やカルタ取りを必死にしたのも初めてだった。百人一首は家にもあるが、子どもには内容が難しいだろうと「ぼうずめくり」しか教えてはくれなかった。

自分の知らない遊びの内容を、かつてずっと保育室の隅で本を読んでいた護が知り尽くしている。上品に食事をし、お正月を静かに迎えている。日常から普段の手伝いを当たり前の様にしている同じ年の友達が、自分よりもずっと大人に見えた。

「さあ、どうぞ」

  漆塗りの菓子鉢から、懐紙を敷いた小皿に練りきりが綺麗に並べられている。受け取って間近で眺める。まるで小さな置物の様に美しい。

「お前の鼻息で金箔が飛びそうだ」

「ええ?勿体ない!」

  慌てて真侍が顔と小皿を離したので、三人はそれを見て笑った。

「いつもは三人で静かなお正月だけど、真ちゃんが来てくれたから、とっても楽しいお正月になったわねぇ」

真侍が帰る前に文が由美に電話で連絡し、護は途中まで真侍を送りに行った。

「護ってホントすげぇよな。おれ羨ましい。大人みたいに手伝えるし、むつかしい百人一首も全部覚えてるし、おせち料理は豪華だし…」

 真侍は文に持たせてもらったおせち料理の折詰とべったら漬けの入ったタッパ、そして練りきりが入っている桐の箱を見つめた。

「俺はお前の方が羨ましい。お父さんとお母さんがいつも傍にいて、兄弟もいる」

「父さんは厳しいし、母さんもうるさいし、恵美はうっとおしいし。一体どこが羨ましいのか分かんねぇ」

 真侍はうんざりして言った。

「そういう事が言えるっていうのは、しっかりと家族が真侍の存在を認めてくれてるからだろ」

言って護の目は遠くを見つめている。どこか諦めた色をしていた。

「じいさんとばあさんも、ちゃんと俺の事は見てくれてる。とても良くしてくれる」

言葉には申し訳なさげな含みと変えようにも変えられないもどかしさがあった。

「でもどこかで親が近くにいないから可哀想だって思ってる。だから、本当は母親や父親として怒らないといけない時、あの二人は俺にすごく甘いんだ。躾が厳しいのは、両親が傍にいなくても他人に迷惑をかけないようにだけど」

 あんなに家族として一緒に過ごしているのに、護の言い方は自分が輪から外れているようだった。

「二人には、俺を引き取ってもらって感謝してる。一緒に暮らしてくれて、俺は両親に迷惑かけずにちゃんと学校に行って勉強が出来る。あのまま独りで住んでたら、きっと勉強なんか出来なかったと思う」

 護の言葉はどこまでも両親に気を使ったものだった。自分でもなく、周囲でもなく。遠く見えないその存在に。

「何だよそれ」

  真侍は立ち止った。真侍はそんな事は考えた事などない。いつも自分を最優先に考えていた。周囲の子ども達も、親も含めた他人の事など一時ならまだしも常に優先させる事などない。考えたとしても、それは機嫌を窺って、自分の要求する物を難なく手に入れるための手段として、が多くである。

「親に迷惑かけるって、なんだよそれ」

 護の言葉の、親に迷惑、とは何だろうかと真侍は一瞬考えたが理解できなかった。

「そんなの当たり前じゃん!おれ達、子どもなんだぜ?子ども一人で生きて行けないもん!」

 気が付いたら、真侍は声を荒げていた。自分が感じたことの無い感情を、護は持っている。真侍には理解しがたいそれは、子どもが本来持つものでは無い気がしたからだ。

「迷惑かけて当たり前だろ⁉親は子どもの面倒見て当たり前だろ⁉」

 語調が強くなる。何に対しての怒りなのか分からない。分かるのは自分の家族の在り方だけだ。

由美や隆は文句を言いながらも楽しそうに自分達と暮らしている。それは常に幸福に満ちたものだった。だから安心して文句を言えるのだ。それが護からは、存在を認められている、という事になると考えたら…

本当はそうして欲しい羨望、しかし尊敬している両親への遠慮からそれを押し殺すほうが勝る。そしてそれが許されない事と諦める。

 自分と同じはずの友人の体には、すでに肉親への配慮という大人の感情がある。

「一緒なんだ」

 護は立ち止って呟いた。そして笑った。寂しい笑顔だった。それは真侍をも寂しくさせる。

「一緒?」

「どこにいても、両親は仕事が忙しくて、俺の為に時間を割けない。聞こえない様に保育所の先生達が“どうしてちゃんと育てられないのに産んだんだ”ってしょっちゅう言ってた。俺、産まれてきちゃいけなかったのかも知れない。でも産まれてきちゃった。俺はここにいる。だから、両親に迷惑かけたくなかったし、両親を悪く言われるのも嫌だった。父さんも母さんも、家に帰ってきたら…本当に時々しか帰ってこなかったけど…でも、帰ってきたら、母さんはへたくそだけどご飯を作ってくれたし、父さんは夜遅くベットの横で俺が寝るまで傍にいてくれた。仕事の話を聞かせてくれた。お土産も沢山持って帰って来てくれた。帰って来た時は抱きしめてくれた。それが、あの人たちが唯一出来た愛情表現だったんだ。独りになった時、全てシッターに任せる事も出来たんだ。でも、俺は嫌だった。母さんの匂いがするキッチンと、父さんの気配がする俺の部屋に、他人に入って欲しくなかった。安心する場所はそこだけだった。親が家にいなくても、二人の存在は俺の中にあるんだって思って生きて来た。だったら…」

 護の語調が徐々に震える。それと同時に体も震える。それを止める様に、護は自分自身を両腕で抱いた。

「それは、日本にいても、外国にいても、一緒なんだ。きっと外国に行ったら、父さんも母さんも仕事がもっと忙しくて、もっと家に帰って来れなくなる。俺が家にいたら、その分あの人たちは俺の事を考えないといけない。俺がいると迷惑になる。だから、日本にいようと思った」

 護に対してかける時間を惜しみ、仕事に費やす。護はそんな両親を誇らしく思っている。だから、その邪魔をしたくはないのだろう。両親が自分と共にする時間を仕事に奪われたとしても、それよりも自分の存在の方が迷惑だと、思っているのだ。

 だとしたら、その存在までもが迷惑という事になってしまう

「俺、今でも時々思う。産まれてきて良かったのか」

寂しい空に向かって放たれた言葉。真侍は胸が寒くて、苦しくなった。逆に頭と体が熱くなる。護の言葉を聞くのが怖い、そう言う様に心臓がドキリ、ドキリ、と耳の奥に届く。

「…このまま、生きてていいのか…」

心臓の音はしかし、彼の言葉を真侍に伝えた。横に佇んでいる寂しい空に消えてしまいそうな友人は、自分が経験したことの無い経験をし、多くの複雑な感情を抱えている。真侍にその背景から来る感情を共に感じる事は出来ない。ただ分かっているのは、自分だったらとても耐えられないだろう、という事。

そして…

「お前は産まれてきて良かったに決まってる!」

 口から出た言葉は、強かったけれど、責めていなかったと思う。

「当たり前だろ!」

 護はじっと、真侍を見つめていた。自分の声の音と、護の様子に安心したのか、真侍の言葉は止まらなかった。

「お前はおれと友達になった。これからもずっとそうだ。だから、生きなくちゃダメだ!だってほら…、ドッチボールに勝たないといけないし、時々おれん家でゲームしないとゲーム機使わないのかって父さんに怒られるし。そうそう、母さんがまたケーキ作り手伝いに来てって言ってた。それに、今度足立のおばあちゃんの漬物作り手伝う約束もしたし、おじいちゃんに凧の作り方教えてもらう約束もした、お前と将棋勝負もしないといけないし…

  だから、お前は産まれてきて良かったし、生きなくちゃダメだ。お前はおれの大事な親友だし、すげぇヤツって思ってんだからな!お前がいなくなるとおれが困る」

真侍の言葉に迷いはなかった。しっかり言わないと、目の前の小さな友人が生きるのをやめて消えてしまいそうだったからだ。

「…何か言えよ」

 いつも口達者な護が黙ったままでいるので、不安になった。真侍は俯いたままの護の顔を体を屈めて覗きこんだ。

「…お前が…」

 護は拳を握りしめていた。白く、小さな手の指先が赤くなる。でも答える様に顔を上げた。

「友達が困るなら、生きる」

 声がわなないていた。護の顔が少しずつ歪み、やがてくしゃくしゃなった。頑張って笑おうとしたのだろう、その表情はすぐに崩れた。声を出して、鼻水も垂らして。能面の様な綺麗な顔が血の通った生き物の様に表情を出したので、真侍はそれが護の顔だと認識するのに暇が掛かった。頬も鼻も真っ赤で、綺麗とは程遠くなった子どもの顔だ。真侍は恵美が父に怒られた時の顔を思い出した。目は酷く腫れて、声も震えて言葉にならず、涙も鼻水も涎もごちゃ混ぜで、女の子の顔とは言えない酷い顔になっていた。そういう時、兄としてはティッシュとゴミ箱を隣に置いてやり、よしよしと頭を撫でて慰めてやるのだ。

 今はティッシュもゴミ箱もない。ポケットを探ると母が持たせてくれたハンカチが入っていた。初詣参拝の時に使ったので、まだ少しだけ濡れている。真侍は荷物を脇に置いて護の涙でグシャグシャの顔をゴシゴシ拭いた。

「い…いたい!自分で…ふっ拭けるっ!」

 護は真侍の手を嫌がる様にハンカチをひったくり、顔を拭った。拭きながらもまだ泣いている護の頭を妹の時の様によしよし、と撫でると、少しだけ顔から目だけ真侍に向けたが、すぐに顔にハンカチを押し付け、泣き止むために深呼吸を繰り返した。吸う時にまだしゃくりあげているが、やがて鼻を拭ったハンカチを折りたたんでポケットに直す。

「じゃあ、おれ帰るから。お前も帰れよ」

 大人しくなっている護に、真侍はすこし得意げになる。

「ここっ…こんな顔、じゃ…かえ…かれ…帰れないっ…二人…心配すっ…る」

「…別にいいじゃん。子どもは泣くもんだし。おれだって怒られたら泣くし。大丈夫だから、さっさと帰れって」

 普段は自分よりも頼りになる友人が、素直に自分の言う事を聞く。知識の差を見せつけられて引け目すら感じる事もしばしばなのに、今は弱い存在に感じた。

「……う」

「え?」

「ありがとっ」

「…おう」

  置いてある荷物を持って、じゃあまたな、と護を見る。大泣きした形跡を残したままの護が手を振る。その姿にもう一度、ちゃんと帰れよ。と言って背を向けた。

 詰め折が重い。この中には上品に食べないといけない、沢山のお祝いの意味を持った料理が詰まっている。一口で食べられない練りきり、護が漬けた漬物もある。家族に、おせち料理の意味を教えてやろう。

護が初めて泣いたことは内緒にしておこう。

 親友として。


三寒四温の春休み。とうとうその日はやって来た。谷岡小学校と桜ヶ丘小学校の学童対抗のドッチボール大会だ。時々覗かせる太陽は暖かったが、木枯らしも吹く寒い日で太陽が雲に隠れると一気に冷える。試合は谷岡小学校で開催された。各学童から二十名ずつ代表が選ばれた。桜小は中組外組十名ずつが代表になった。桜小の子ども達は慣れない谷岡小の雰囲気と、少年ドッチボールチームの強豪とされているタニオカファイターズ低・中学年の部の選手が参加している事を聞き、参加しない子ども達の間で不安の色が濃くなり始めていた。先生達同士は仲良く話をしているが、子ども達の間では沈黙の鍔迫り合いが行われている。

 一方待機している桜小の選手達は、練習の成果を発揮出来ることを心待ちにしていた。


外野。

正面、三年生男子サッカー部主将、三年生で誰もが認めるリーダーの「達樹」

側面、三年女子バレー部で早い球と抜群のコントロールが自慢の「風香」

側面、三年男子バスケ部でジャンプ力と持久力が持ち味の「海偉」

の三人が攻める。

内野。

素早く走って攪乱する役、五名「創輝、新、律斗、万結、心菜」

柔軟にかわしパスメイン役、四名「結菜、七海、紅葉、陵」

内野の攻め手五名「吉宗、渉、勇気、百花、ひより」

内野の花形、直球ストレート破壊力ボールの「真侍」

内野の策士で司令塔の「護」


内野から外野への指令は真侍が出す。外野から内野への指示は三年の達樹が出す。達樹とは外野から敵の動きと味方の動きを観察して動く特訓を何か月も一緒にしてきた。声を出して達樹が指示を出す事は、内野の護へ敵の動きを伝えるためでもある。声を出し、真侍と達樹がコンタクトを取り合いチームを引っ張って行く様に見せかけて、実は司令塔が護だと悟られないようにしている。護は内野の九名に紛れ、内野への指示は手のサインでする。内野組は言葉でなく、視覚で動く様に特訓した。そうして編成された百名の中からの選りすぐりの二十名だった。残りの約六十名は応援側に回っている。

「よし、行くぞ!」

達樹と真侍が声をそろえた。コートのセンターラインに整列し、谷岡小のメンバーと対面する。相手は全員男子で、体つきもしっかりしている。メンバーの先頭に親分がいた。列の最後の方にはキュウリと丸太がいる。皆ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべていた。真侍は奥歯をかみしめた。あの日、理不尽に殴られそうになった事を思い出す。恐怖はなく、怒りだけが思い出された。隣の護を見たら、いつもと変わらず無表情で飄々としている。審判は新藤が務める事になったので、桜小のメンバーの緊張はいくらか解けた。

「練習試合、始め!」

七分ずつ、合計二試合が終った。練習試合は谷岡小の圧勝で、士気を高めたようだ。桜小の面子は護以外の全員ががっくり肩を落とした。達樹の頭からは怒りで湯気が上がり、風香もウォーミングアップにすらならなかったと愚痴をこぼした。環が心配してチームの所に来ると、皆が不服そうに護を見ている。護はブツブツと目をつむって考え事をしている様だった。

「宇野!何で指示出さないんだよ!」

 語調強く達樹が護を責めるが、護は聞こえていない様に何かに集中している。

「このままじゃ負けちゃうよ。宇野、ビビッてんの?」

「護?」

環は護を伺う様に声をかけた。しかし、護は変わらず目を閉じてブツブツ言っている。

「みんな、大丈夫だよ。多分護は勝ち方を考えてるだけ。皆仲間も自分も信じなくちゃ!夏からこの日の為にずっと練習してきたんでしょ?」

そういわれても何にも言わない護に、皆は不審な目で見た。本番になって臆病風に吹かれる事はよくある。護はまだ二年生だ。体も華奢だし、運動も得意ではない。相手の三年生は体付もたくましく、ドッチに自信がある相手だ。直接手合せして怖気ついても仕方がない。真侍以外の皆、環までもがそう思った。メンバーチェンジさせようかと環が思った矢先に試合開始の為の合図が出た。

「皆、大丈夫!思いっきり楽しみなさい」

環は励ましたが、皆落ち込んで返事をしなかった。ダラダラとコートに移動していく。最後に残った護は、環に言った。

「絶対に勝ちます。だから、最後まで応援してください」

環が大きな目を見開いて護を見ると、護はニヤリと笑い返して走ってみんなに追いついた。真侍の横に並ぶ。

「行くぞ、真侍」

 真侍にだけ聞こえる様に呟くと、真侍は静かに頷いた。整列し、挨拶する。

「始め!」

 笛が鳴った。ジャンプボールは真侍と親分だ。真侍は二年生にしては背が高い方だった。春を迎えてさらに身長は伸びたが、三年生の親分にはやはり叶わなかった。全体的な骨格に押される。先攻は谷岡小になった。

「ドンマイ!」

遠くから聞こえるのは環の声だ。応援組は不安そうな雰囲気だったが、環は一人、声を大きく応援した。対する相手側は、練習試合での圧勝が後押しし、応援に熱が入る。

「倒せー倒せー桜ヶ丘潰せ!」

「ドンマイ真侍ー!」

 負けないくらいの環の声に、他の先生も声を上げ始める。環は昨日、護が自分に頼みに来たことを思い出していた。

「吉岡先生、どんな時も前向きな応援をして下さい。あと、皆が相手に酷い事を言いそうになったら、止めて下さい」

 この子は、言葉の影響力を知っているのだ。環はそう悟って強くうなずいた。それは他の指導員にも知らせていた。皆感心した様に賛同してくれたのだ。

「頑張れー!まだ始まったばかりだぞ!」

「特訓した事を思い出せ!」

  護はコート内に散らばる寸前、内野に聞こえる様に、けれど小さな声で言った。内野は一瞬動きを止める。護は右手の親指をひっそり素早く立てた。内野の動きが急によくなった。攪乱役がバラバラに相手コート目指して走り出す。親分が攪乱役に狙いを定めて球を投げた。しかし当たる寸前で攪乱役は走り去っている。地面にバウンドした球を一人が拾って近くの外野にパスした。パスを受け取った海偉は自分の持ち味である高いパスで風香にパス。風香はしなやかに球を投げて谷岡小の一人を当てた。桜ヶ丘小の応援組から割れんばかりの歓声が上がった。

「まぐれだ」

親分が言った。

「消しかすにしてやる」

 谷岡小の連中はニヤニヤと嫌な笑いを浮かべている。

「痛い球を顔面にぶつけてやる。歯が折れてピーピー泣け、チビ」

親分は新藤に聞こえない様に悪態をばらまいた。対峙した真侍はぎりぎりと奥歯を噛んだ。ズルい、と思わず新藤に言おうとしたが、後ろに護の気配を感じた。護は囁いた。

「乗るな」

  真侍は向き直る。キュウリが仲間を当てたボールを親分にパスする。親分の目が真侍に定まった。お前をやっつけてやる。目がそう言っていた。護は自分の背中に左親指を立てた。今度はパスメイン役が真侍の前に躍り出る。妙に柔らかい動きだ。一瞬親分の判断力が迷った。しかし球の速さとコントロール力は抜群だった。一人が両手を出して剛速球に当てた。勢いを失って落ちた球をすかさず拾う。

「たっちゃん!」

 身を挺した内野が外野に出る。同時に達樹にパスが回る。谷岡小の内野が素早く移動したが、パスは達樹から真侍にわたっていた。真侍の渾身投げた球は逃げ遅れて背を向けていた丸太の背を強打する。丸太は「いて~」と背をさすりながら外野に出た。親分は丸太の陰に隠れていた。再び桜小の応援組から歓声が上がる。親分はイライラし始めた。

「おい!ボールはオレに全部回せ!おまえらのヘボ球じゃ誰も当たらねえよ」

  相手ボールは当然の様に親分が持っていた。真侍の前にはちょこまか走り回り当てるのを誘う者たちが左右に固まった。手前目がけて親分が球を投げた。柔軟な動きを見せそれが分裂してよける。護がすかさずそれを取り側面の外野にパスした。そして内野がシャッフルするように動く。

「なめやがって、片っ端からぶち当ててやる!」

「動くな真侍」

後ろで護が言ってから咄嗟に離れる。

「取れ!」

  達樹が叫んだ。動いていた内野が左右に分かれた。球は真っ直ぐ真侍の方に飛び込んでくる。真侍はそれをジャンプして胸でしっかり受け止めた。

「クソッ!」

  球は目まぐるしく動いている。谷岡小の内野は翻弄されるように前後に動く。

「たっちゃん!」

  真侍はボールを高く投げようした。今また球が動こうとしている。声を合図に敵チームが全員一斉に達樹の方を向いた。

 ボクッと音がした。親分の足に真侍の球が当たった。谷岡小のメンバーと応援隊の時間が止まった様に思えた。桜ヶ丘小のメンバーと応援組はジャンプして喜んでいる。

「油断するな!まだ試合が終わったわけじゃないぞ!」

  真侍が言った。そこからの前半戦、相手チームは壊走していた。外野に回った親分に何名かは当てられたが、落ち着きの差は比ではなかった。パスを順調に回し、相手を後ろから狙う戦法はあっという間に谷岡小を先に全滅させた。

「後半、コートチェンジ!」

「前半勝ったからって調子に乗るなよ。こっちのメンバーは最強なんだからな」

 すれ違い際に親分が威圧的な言葉をかけた。今や親分は誰それ構わず悪態を付き、自分を応援する子どもたちにまで文句を言っていた。

「お前ら下手くそなんだからボールはオレにまわせって言ってんだろ?ぼけっとすんなよ。しっかりオレを守れ!」

 新藤は呆れて親分を見ていた。丸太は自分だけが責められていると勘違いして、おろおろしながら「ごめん~ごめんよ、かっちゃ~ん」と情けなく謝っている。体に真侍の怪力ボールをまともに受けた背を気にして、言葉とは裏腹に、真侍の前に立ちたくない様子だ。相手チームの士気は完全に下がっていた。礼をして配置に着く前に、キュウリが親分に耳打ちしている。その不穏な気配を、護は見逃さなかった。

  後半戦開始の笛が鳴った。新藤が空にジャンプボールを投げた。その場にいた全員がジャンプボールに視線が釘付けになっていた。瞬間の出来事だった。親分の膝が分からない様に真侍のみぞおちを打った。真侍が地面に落ちた。動かない。制止の笛が鳴る。

「どうした真侍!」

「…膝で蹴られた…」

「はぁ?」

 親分が肩を怒らせて寄って来た。

「ジャンボ取れないからって言いがかりつけんなよ」

「…すまん、俺からは見えなかったんだ…」

  新藤が素直に言う。相手側が悪い笑いをした。「ずりーんだよ二年」とブツブツ聞こえる様に言う。護は舌打ちして真侍に駆け寄った。

「大丈夫か?」

「痛い…」

「メンバーチェンジするか?」

  新藤が真侍に問う。真侍は首を横に振った。

「これからが、奴らが本領発揮するのかもしれない」

 護が言った。その言葉に新藤が目を見張る。

「本当だな、護」

 今度は護に問うた。護は強く頷いた。

「先生が審判になってくれたのもチャンスだと思ってる。あいつらのズルを暴き出して」

 護は懇願するように言った。新藤は太くうなずいた。

「おれ、ズルい奴らには負けたくない」

  みぞおちをさすって真侍が言った。

「分かった、なら正攻法で…お前たちが正しいと思うやり方で勝つんだ」

  二人はうなずいた。試合再開だ。ボールは相手から。親分は真っ直ぐに真侍のみぞおちを狙った。その場にいる仲間たちは卑怯だと闘争心を燃やす。冷静さを失わせるように、敵チームがこちらの女子に向かって「男女」や「ブス」と低俗な暴言を吐く。近くの先生が即注意するが、言った本人たちは口先で謝り、ニヤニヤといやらしい笑いを浮かべるだけだ。怒り心頭の風香が冷静さを失い、怒りに任せて投げるボールはコントロールを無くした。相手の内野が海偉の方にわざと前に張り付き、パスが取れない様にラインぎりぎりまで押してくる。その態度もからかう様で、小さく何かささやいている。海偉の様子からすると聞くのも嫌な悪態だったのだろう。海偉も回って来たボールをパスすることなく、当てる事を目的とした攻撃的な投げになって来た。協調性を失った味方ボールは次々と親分に回り、桜小の内野は数を減らしていった。谷小の応援は力を取り戻していた。

「桜小潰せ!潰せ!かっちゃん最高!かっちゃん最強!」

 笛が鳴った。皆が新藤を見た。新藤の目は真摯に怒っていた。まるで、全ての卑怯を見抜く様な視線に、谷岡メンバーはたじろいだ。

「応援は聞いていて気持ちいい言葉を選んでもらいたい。言葉の暴力はあるんだよ、勝也」

  新藤の視線は親分にだけ注がれた。親分は黙って新藤と見つめ合っていた。しばらくの対峙があった。

「真侍。大丈夫だ。俺達には新藤先生と吉岡先生がついてる。いつも、応援してくれてる。勝つことを望んでくれてる。思い出せよ」

 護が囁いた。悔しくて悔しくて、はらわたが煮えくり返りそうだった。卑怯な相手にも腹が立つ。でも相手に感情を振り回されて止められない自分もやるせなかった。怒りが抑えきれない。

「護、おれ、今自分の力が信用できないんだ。こんなに腹が立って、集中できない」

背中で言って拳を握りしめる真侍の頭を、護はポンポンと叩いた。

「それでも、新藤先生と吉岡先生は信用できるはずだ。俺の事もな」

 バンッ。と護は真侍の背中を叩いた。いきなりで痛かったが、少し熱が冷めた。その音で内野連中が真侍と護に注目した。護は背中でVサインをした。新藤と環に視線を向けてから、皆を見た。

「俺達には新藤先生と吉岡先生がついてる。二人が必ずズルを正してくれる。だから、勝てる」

 皆は、護の言葉を静かに聞いていた。応援組から歓声が上がった。さっき護が視線を受けた環が、今一度応援組の尻を叩いたのだ。

「頑張れー頑張れー桜ヶ丘―!」

 戦っている桜小のメンバーが呆然と応援組を見る。すごい音量だった。

「半年も練習したんだ!俺達は応援隊六十人分の思いを背負って戦ってる。悪口で凹んでいたら相手の思うつぼだ」

 その声の中でも、護の声はきちんと通って聞こえる。

「おまえたちはいつも陰で俺の悪口言ってただろ。それに比べたら、今の、この一瞬の暴言なんか、大したことない。相手の言葉に惑わされるな」

「…そうだ」

 真侍が目が覚めた様に呟いた。

「おれ達は強い!最高の先生達に鍛えられたんだ!俺達の記憶だけは本物だ!さあ、行くぞぉ!」

その場にいた誰もが、聞いたことの無い護の声と真侍の声を聞いた。応援の声に勢いが増す。護は指示で初めて声を上げた。桜小応援隊から勝鬨があがった。

「動くんだ!アタッカーにパスを回して、守れ!」

 敵メンバーは、新藤の目がある事を意識せずにおれなかった。陰での悪行がばれているかのようで、恐れて何もできなくなった。周囲の様子に親分も隙あらばといった行動が抑制された。このことにより桜小の動きは勘を取り戻していく。監視の目が光る緊張感から、親分はラインを超えるミスを連発、その分こちらの手元にボールが回って来る。落ち着きを取り戻した桜小は正確なパスと、相手を当てる確実な攻めにより、敵チームは親分を残して全て外野においやった。今や親分のイライラは最高値に達していた。

「お前ら、ボール取ったらオレに回せっていってんだろ!この下手くそども!ファイターズだったら絶対こんなミスは…」

 終了の笛が鳴った。

「この勝負、桜ヶ丘小学校の勝ち!」

 一瞬訪れた静寂の後、割れんばかりの歓声の大洪水が桜小メンバーに降り注いだ。整列して礼をした敵チームは悔し涙を浮かべていた。

「お前らが卑怯な事をしていたかどうかは、俺には分からない」

  新藤は静かに言った。しかし、その場にいる両メンバーの耳に、その言葉は届いた。

「でも、もし卑怯な事をして勝ったとして、お前ら、嬉しいか?」

 谷岡小のメンバーは黙ったままうつむいた。

「さっきの試合、楽しかったか?」

  沈黙を破ったのは一人の敵メンバーだった。

「面白くなかった」

 その呟きは、“何か”を決壊させた。

「…おれも、面白くなかった。ホントはおれだって、もっと早い球なげれるのに」

「うん。パスもちゃんとしたかった。桜小のメンバーみたいに、ぼく達だって出来るのにファイターズのゲームのやり方はこんなんじゃない!」

 次々と出て来た不服は一人に向けられたものだ。不満の言葉は新藤が止めた。

「終わった事は変えられない。でも、これからの事は変えられる。今から、お前たちが楽しいドッチをしたらいいんじゃないのか?試合は終わったけど、午後からは自由遊びがあるだろ?」

 子ども達の顔がパッと電気が灯ったように明るくなった。

「ドッチしたい、おれ」

「僕も!」

「よーし!じゃあ、応援組もしたい奴ら全員で、弁当の後の自由遊びでドッチするぞ!」

 子ども達がピョンピョン撥ねた。「わー!」とか「ぎゃー」が入り混じった声も一緒になってまるで地響きがなったようだ。勝利を得た桜小の戦士たちは皆から抱きしめられて喜びをかみしめていた。

 環が感極まって泣いていた。

「よく頑張ったね…あんた達…ほんとに、よく頑張った…」

 真侍と護を引き寄せて抱きしめる。護は照れて慌て、ずれそうな眼鏡をおさえながら大人しく抱かれていた。真侍は嬉しそうに歯を見せて笑っていた。それを見て護も嬉しさを思い出した。喜びに満ちている周囲をぐるりと見渡す。

「やったな、真侍」

「お前のおかげだよ。おれ、途中でくじけそうになったもん。お前が声かけてくれなかったら、きっと負けてたよ」

「まあな。…先生、応援してくれてありがとう」

「私達、応援しか出来なかったけど、あんた達のゲームは本当に素晴らしかったわ」

「…吉岡先生と新藤先生が応援してくれたから勝てたんです」

「そうだな、特に吉岡先生からの応援はな」

「…おまっ何言ってんだバカっ!」

 護が暴れたので環は腕を広げて二人を解放した。護はずれる眼鏡をおさえながら赤い顔を隠した。その様子を見て環は微笑んだ。

「ありがとう。私にとっても、護は大事な人だよ。真侍もだし、勝也も。子ども達は皆大事よ」

 その答えに、護は本当に嬉しそうに微笑んだ。

「はい」

「じゃあ、お昼ご飯にしましょう。運動場を借りられるそうだから、戦った相手とも仲良く食べましょうね!」

 雲が消え、太陽が高々と登っていた。気温は上がり、まるで小春日和だった。真侍と護は荷物を持って移動しようとしていた。新藤がどっかり座った場所から手招きしている。その中にはキュウリと丸太もいた。自由遊びの時間にドッチをしたいと言った連中もいる。環は独りで座っている勝也の方に向かって歩いていた。

「護、おれ、余計な事した?」

 つい調子に乗って口を滑らせてしまったか、と申し訳なさそうに真侍が言った。護は怒るでもなく軽く肩をすくめて見せた。そして環の様子を隣で眺めた。その横顔は満足げだった。環は子どもたち皆に平等の愛情を注いでくれている。そして、そんな環だからこそ、護も真侍もみんなも大好きだった。護にとってそれは初恋なのか母への思いなのか、真侍には結局分からなかったけれど、今その気持ちを聞く時ではないことは分かる。

 今は二人で、勝利の喜びに浸る仲間に入る時だろう。護は先を歩いて新藤の真ん前を陣取った。

「あ、ズルい!」

  真侍は護をギュウギュウ押して割り入った。

「やっと、本日の主役二人のおでましだ!」

 新藤が乾杯の様にお茶のペットボトルを上げると、その場にいたドッチボール参加者全員が拍手を送った。それを聞いた応援隊たちも先生達も拍手する。聞こえていないふりをして、親分は黙々と弁当を頬張っていた。

「よくぞ、桜ヶ丘を勝利に導いてくれた。宇野も宮本も半年以上頑張って皆を引っ張って行ったな」

 新藤が穏やかに笑った。

「宮本、自信家の外組をよく鍛えた。達樹に柔軟な視野が増えたのは大きな戦力だった」

 詳細を褒めてくれたので、本当によく見守ってくれていたのだと真侍は胸が熱くなった。

「まぁ、宮本と宇野が必死だったし、おれ達も学童では最後の年だったからな。いい思い出になったよ」

近くにいた達樹が片手で大きな水筒を持ち上げ、口に運びながら言った。そっと新藤が真侍の耳元に来て声を潜めた。

「実はな、我が学童の目立ちたがりで奔放な三年の成長ぶりが目覚ましくてな。相手の反則を見張る暇なんて無かったんだ。勝ってくれて本当によかったよ」

 言ってから離れて新藤がニヤリと笑った。真侍はしばらくぼんやりした。自分達の勝ちたい熱意が三年生を変えたとしたら、こんなに嬉しいことは無い。

「宇野、味方の動きを分析した指令は見事だった。短い練習試合でよく敵を観察していたな。お前はいい策士だ。そして士気が折れた時、よくチームのやる気を取り戻させた。今回の連携プレーは後世語り継がれるよ。俺が保証しよう。何せ俺がいる限り、学童では一番えらいのは俺だからな」

 「何だよそれ~」と皆が笑う傍で、護も新藤の言葉を噛みしめていた。今度は俺達の学童に来てよ!と谷岡小の子ども達が新藤を引っ張った。

「おいおい、俺は子どもにはモテたくないぞ?綺麗なお姉さんなら大歓迎だがな」

また皆がげらげら笑う。新藤は自前の特大爆弾おにぎりを頬張りながら満足そうに何度もうなずいた。

「いただきます!」 

 二人も弁当にがっついていると、谷岡小の学童の先生から食後のおやつに、と一尾ずつ梱包されたメザシとヨーグルトが配られた。運動の後のカルシウム補給らしいおやつの内容に、子ども達全員がガッカリした。ほとんどの子ども達はメザシを残し、護もまたメザシをズボンのポケットに入れた。

 休憩をはさんで自由遊びが始まった。ドッチボールをする者もいたが、谷岡小学校の総合遊具タニオカレックスで遊ぶ者、一輪車や縄跳びをする者もいたら、鬼ごっこやケイドロで楽しむ者もおり、部屋で遊ぶ者もいた。護は珍しく外にいた。タニオカレックスの上からドッチボールの様子を見ていた。グチャグチャだったが、皆楽しそうにゲームをしていた。真侍はいろんな仲間とサッカーをしていた。

「護、遅いー!早く進んで!」

  気が付いたら恵美が後ろから声をかけて来た。どうやらタニオカレックスの高くて長い滑り台の順番待ちしていると思われていたらしい。疲れていた護は恵美を追い払うのも面倒なので、大人しく先を歩いて滑り台を滑った。彼女の中では今日のドッチボール大会も特に大したものではなく、タニオカレックスの滑り台を楽しむ事のみの行事と化していた。滑り降りてから恵美に付きまとわれない様に後ろを振り返ったが、護の後を着いてくることなく滑り台を滑るための階段を上るために脇をすり抜けて行った。安心してずれた眼鏡を直す。その時、遠くからドッチボールの球が恵美の方に向かって飛んできた。このままだと側頭部に直撃する。

「危ない!」

 護は恵美を後ろから押した。ズシャッ。と音がして恵美の泣き声がした。ほぼ同時にボールはタニオカレックスの腹の部分、吊り輪の一つに勢いよく当たる。鉄の吊り輪が護の側頭部に強く当たった。眼鏡が飛んで行って護の体が地面に打ち付けられた。

  ふっ。と光が消える様に、護は意識を失った。


暗闇だった。ちゃぷちゃぷと音がする。肌に感じる固く冷たい、丸いものは石だろうか。ゆっくりと起き上がる。夜なのか、辺りはやはり暗い。左側頭部がズキズキした。そういえば、何かが強く当たった気がする。でも思い出せない。ここはどこだろうか、と辺りを見回してみると、光が揺れて見えた。水面だ。ほとんど流れは無い。池か湖か…それとも海か。

「石を積みなさい」

 頭上から声がした。スーツを着て眼鏡をかけた、痩せて地味な、目つきの鋭い女性が見下ろして強く言う。

「え?」

「え?じゃないの。さっさと石を積みなさい!」

女性の額から、角のようなものが伸びた気がした。気のせいだった。

「なんでそんな事しなくちゃいけないの?」

「なんでって、それがココでのあんたの役割だからに決まってるでしょ」

「そんな事してどうするの?」

「どうするのじゃないの。アンタは聞ける立場じゃないの。石を積む役割。周りを見てみなさい、皆してるでしょ」

 辺りを見回すと、子どもが並んで石を積んでいる。その後ろで何人かスーツ姿のきつい顔の大人たちが積み方が悪いと言っては積まれた石を蹴って崩している。崩された子どもは泣きながら、大人はため息をついてまた一から積み始める。

「だから、お前はなんでそんなちっこい石から積むんだよ!馬鹿!でかいのじゃないと積めないだろ!頭悪いな!いい加減覚えろよ」

 ごめんなさい。と繰り返し、坊主頭の男の人は従っていた。ボロボロのランニングシャツにドロドロの生成りの長ズボンで、足には草履を履いていた。

「ほら、みんなやってるでしょ。だからお前もするのよ」

「…でも、積んだら何か言い訳付けて壊すんでしょ?」

 スーツの女は「あ~ら」と一瞬驚いた。だがその顔はすぐにバカにした表情になり、こちらの顔を覗き込む。

「良く知ってるわねぇ坊や。ここはね、親不幸をした者が永久に罪を償う場所よ。自分を大事にしないで、親よりも先にここにきてしまった人間の来るところなの。だから石は積ませるけど、積ませないわ」

「言ってる事よくわからない。馬鹿なの?」

「お黙り!さっさと石を積むのよ!」

 女は鞭を取り出して、近くに積まれた高い石の塔を一つ叩き壊した。

「ああっ。もうちょっとだったのに…!」

  二つお下げの少女が泣きながら崩れた石の塔の近くにしゃがみ込んだ。上品な紺のワンピースを着ている。どこかで見たことがある少女だ。

「…ああ、ごめん」

 謝ったが少女には聞こえないようだ。先ほどの少年と同じく、何度も繰り返し謝って、また石を積み始めた。

 一体ここは何だ?と少女に聞こうと思ったが、また別の子どもの石の塔が壊されたら大変だ。ここは従うふりをして様子を窺おう。うつむいて石を探しているふりをする。

「そうそう。それでいいのよ新人クン。イイ子ねぇ」

  女が立ち去ると、すかさず隣の坊主頭に声をかけた。

「すみません、ここはどこですか?どうしてこんな無意味なことしてるんですか?」

「ここはどこなのか、分からない。僕は悪い事をしたから、これをしなくてはいけないんだ」

  混乱した。皆がこの無意味な事を意味があると思ってしているのか。変だ。何もかも。とにかくここから抜け出さないと。でもどうやって?

 そういえば…

 名前は…自分の名前は何だったか。

 おかしい、思い出せない。

 どこから来たのかも。

 何も思い出せない。

 …ただ。

 覚えている事はある。


 どうしても帰らなくてはならない。


  それだけは覚えている。誰かが待っている。だから、どうしても帰らなくてはならない。


 でも、どうやって。

 それに、どこに帰るのだ。


  途方にくれながら、目の前の石を積んでみた。

 ん?

 さっき何を考えていたか忘れた。

 その代わりに心の中に入って来たものがある。


 それは、

 ごめんなさい。

 という、申し訳なく思う気持ち。

  何故こんな気持ちになったのかわからない。

「積んだら、向こう側に連れて行ってくれるって」

  隣にいたお下げの女の子が呟いた。

「向こう側?」

「川の向こう側。そこは良い所なの。とっても幸せな所」

 嘘だ。何故かそう思った。大事な物は前じゃなくて後ろにある。引き返さないといけないんだ。前に進んでしまうといけない。帰れない。

「それは、嘘だ。だまされちゃダメだ!ホントに帰れなくなるぞ!」

 大声だった。あたりがざわつき始める。

「皆逃げろ!ここにいたら帰れないぞ!」

 叫んでいた。スーツ姿の大人達が集まってくる。咄嗟に逃げた。お下げの子と、近くに立っていた坊主頭の大人の手を握って、走り出していた。

「走れ、走るんだ元の所に帰りたかったら、全力で走って帰るんだ。今なら間に合う」

 その声につられて、何人かの人達が走り寄って来た。他の人達も行こうとしているが監視している大人に捕まえられて羽交い絞めにされていた。助けに戻っている余裕はなかった。

「何をしている。逃げられるぞ」

「そんな事言ったって、こっちも人員不足なんだ」

「バカ野郎!言い訳すんな、仕事だろうが!」

「言い争ってる場合じゃないわよ!ああこらっ!お待ちっ!逃がしはしないよ!」

 スーツの女は、ハイヒールを脱ぎ捨てて追いかけてくる。男たちも数人走って追いかけて来た。追われていた何人かが走って逃げる事に成功した。気が付いたら手を繋いでいた二人とも散り散りになっていたが、捕まったような声は聞かなかった。

「コルアァアア!待てって言うとるやろうが、このクソガキ!」

 女はしつこかった。姿は見えないが、声はずっと追いかけてくる。大きな砂利の道が舗装された道路に変わる。息が苦しい。速度を緩めた。途端に首根っこを掴まれて持ち上げられた。振り返って見上げると、眼鏡は外れ、茶色の髪は振り乱し、赤い口紅が派手な女になっていた。服装も大胆な服装だった。

「見たわね、私の本当の姿を」

 声が同じだ。ということは、さっきの痩せた地味で目の鋭い女とこの女は同じ人なのか…。美しく見えているはずの女が、何故か気持ち悪く感じる。

 正体が分からず気持ち悪い存在。帰らないといけないのに。両腕と足を思い切りバタバタさせてもがく。思い切り暴れた。

「元気なガキね。その若さ、頂いてやるわ」

 何だかわからないけど、若さの素にされたくはない。さらに必死でもがくと、ポケットから何か落ちた。

「ひっ!」

 女は後ずさった。ポケットから落ちたのは、おやつでもらったメザシだった。


 おやつでもらった?いつだった?

 …確か、ドッチボールの大会のお弁当の時だ!


「こんの…なんであたしの嫌いな物知ってるの」

 少しずつ迂回しながら、それでも女は追いかけてこようとする。地面は道路から運動場になった。

「待てこの鬼ババア!こっちにこい」

「誰が鬼ババアですって!」

 誰だか知らないが、助けてくれようとしている。男の声だった。

「早く逃げろ、護!」

 護?聞いたことがある。俺の名前だ。

「あなたは誰?」

「いいからさっさと行け!」

 懐かしい匂いがした。ずっと昔に嗅いだ記憶がある。記憶。そうだ俺は、宇野護だ。視界が晴れた。ここは、桜ヶ丘小学校の運動場だ。

「ありがとう!」

「逃がさないよ!」

「鬼ババアこっちだ!不細工!一生独身!給料も薄給!」

「なんですって…!」

「鈍くさい鬼ババア!もうあそこのひと達はほとんど逃げたぞ」

「なんてこと!あんた、帰れないわよ」

「構うもんか!…護、振り返ったらだめだ。早く行け!」

 護は走った。速度は緩められなかった。追いつかれる。だから必死で走る。運動場を出て、そして家へ帰るんだ。随分走って振り返ろうとしたが、男の声が「振り返るな」と背から聞こえた。まだそんなに遠くに来ていないのか。

 門が近い。もう走れない。でも、休むわけにはいかない。待ってる人がいる。

「…なくて……な…」

 さっきの男の声がした。ほとんど聞き取れなかった。走る。見慣れた小学校からの帰り道。自分の呼吸と鼓動が聴覚を奪っている。帰らないと。待ってるんだ。足が重い。歩みのような速度だ。俺は、あいつみたいに走れない。ドッチボールの練習をした公園までたどり着いた。もう進めない。あいつなら、まだ走っていられるだろうか。初めて出来た友達。たった一人の親友。


「これからもずっと、親友だ」

宮本真侍。




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