第三十七話 お勉強はしたくないですわ
ザディラが失脚し、アズールが舞台の主役としてスポットライトが当たったあの日から三日が経った。
まだ、太陽の輝きが穏やかな朝の日差しが降り注ぐ中庭を、三階の自室の窓から覗き込む。
窓から見えるは、噴水を中心に置き、それを色彩豊かな花壇が取り囲む風景。
お金持ちのお屋敷にありそうなオーソドックスな中庭の端には東屋……西洋風味の屋敷なのでガゼボと表現した方がしっくりくるだろうか?
いや、わかりにくいな。東屋でいいか。
その東屋のベンチにザディラが腰を掛けて、焦点の合わない瞳でボーっと前を見ていた。
この三日、彼は朝になるとあそこに座り、昼までボーっとして自室に戻るを繰り返している。
午前中はいつもあの場所でお茶を楽しみながら雑務をこなしていたようなので、全てを失ってもその習慣が抜けていないのだろう。
遠目からでも腑抜けているとわかる彼の表情を見つめながら、俺は心の中で笑いを立てる。
(ククク、良い感じに心に傷を負っているな。ま、今は惚けているがいいさ。だけど、てめぇの胸の中にはアズールからの屈辱・憎悪・怒りが渦巻いているはず。そいつにちょいと火をつければあんたは元気を取り戻す)
火をつける……つまり、復讐の機会を授けるということ。そうすれば、彼は飛びつくに決まっている。
だが、惚けているようではまだまだ怒りが足りない。
動くのは、彼が心に悔しさを浸透させた時が頃合いか。
その頃合いとは、商工会との催事。
本来、自分が主役であった場を弟のアズールが仕切る。
その姿を目にすれば惨めさと怒りがないまぜになり、彼は冷静さを失う。
そこに火を投げ入れる。世継ぎレースに復帰という餌をぶら下げて。
復帰への方法はまだ模索中だが、まずは商工会との催事。そこで各要人の立場を把握したい。
案を練るのはそれからでいいだろう。
正直、こちらに来て連日忙しい。しばらくは休憩だ。元々、俺はそこまで働き者ではないし。
シオンの依頼が無ければこんな面倒なことをせずに、貴族という立場をフルに生かして自堕落暢気に暮らしていたかった。
もっとも、何もなくても自堕落とはいかないようだ。それは……。
「シオンさん? シオンさんっ? シオンさん!? シオンさん!!」
中年の女性の声が自室に響く。
俺はため息を交え、声へ顔を向けた。
青色が溶け込む黒真珠の瞳に映ったのは、小さな丸眼鏡を掛けたグレイヘアのおばさん。
家庭教師のイバンナ。
彼女は勉強机に短めな指し棒を振るう。
「まったく、少し休憩を与えたらさぼろうとする。ほら、お勉強の続きですよ」
「はぁ、わたくしは病み上がりなんですからもう少し手加減をしても……」
「それは昨日までしてあげていたでしょう。崖から落ちたという話を聞いた時は驚きましたが、目の前いるあなたはとても病み上がりの人間には見えません。性格は全く変わってしまいましたが。ですが、健康に問題がない以上、今日からはビシバシとやりますよ。はい、席について」
「……はい」
言われた通り机に向かい勉強を再開する。
四十を超えて勉強なんぞしたくはないが、シオンは十四歳なので仕方がない。
とはいえ、四十にもなると物覚えが悪くなって覚えるという作業自体が億劫でたまらない。
個人差はあるだろうが、俺の場合、二十代前半で記憶力や計算力に衰えを感じ始めた。もちろん、その時点では普通以上だったが。
しかし、三十になるとがくりと落ち始めて、三十五になると衰えを明確に感じるようになり、四十になって色々諦めた。
――諦めたはずだったが、今の俺は十四の娘の身体と脳みそを持っている。
おかげさまで学業が面白いように脳に張り付いていく。
これには若さもあるだろうが、元々シオンの出来が良かったのだろう。
日記では自分をアホの子みたいに評していたが、実際は違うようだ。
では何故、アホの子だと思い込んでいたのだろうか? その疑問の答えは家庭教師のイバンナからもたらされた。
「ふむ、以前のあなたはおどおどしていて、答えがわかっているのかわかっていないのかよくわかりませんでしたので指導のしようがありませんでしたが、今のあなたははっきり受け答えをするので教えやすいです」
シオンは自己主張が苦手な人物だったと見える。
答えがわかっていてもそれをはっきり答えられず、わからない問題があってもそれを問うことができない引っ込み思案。
結果、必要な答えを出せない、必要な答えを知ることができないという負のスパイラルに落ちて無能となる。
これに加え、勉学に触れる機会もまともになさそうな元庶民が、高校レベルの学問をやらされている。
普通に考えたらそれについていけるだけでも十分優秀なのだろうが、一族の基準からみればそうでもないというのもあったようだ。
イバンナは教科書をパラパラとめくりながら少し眉をひそめる。
「やはり不思議ですね。以前のあなたは地理と歴史と国語が得意でしたのに、今は苦手で、逆に不得意だった理数系が得意とは……」
「以前のわたくしを知りませんので答えを返しにくいですが、頭の打ちどころの問題でしょう」
「それはまた答えの返しにくい返答で……ともかく、今日は歴史と地理を中心に行いましょうか」
歴史。
昔から苦手な分野。
殺し屋という商売上、仕事を行う際は現地の政治と歴史を学ばないといけないこともあったが、歴史上の人物の名前を覚えるのが苦手だった。特に中東とロシア語圏。
地理は必要なので得意とか不得意とか言ってられないし、世界中を仕事でうろちょろしてたら自然と覚えた。
言語に関してはそうでもなかったが、基本的に好きじゃない。文法は必要だからやるが、文学は興味ない。
そもそもここは地球とは違う異世界アルガルノ。
勝手が違い覚えにくいし、地理と歴史に至っては最初から。
だからこそ、覚えなくちゃならない。こちらの貴族として最低限、皇国の歴史と領地の歴史と地理くらいは。
特に地理はね……。
俺は海を東側に置いたダルホルンの北西方向を指で叩き、次に、南西側を叩く。
「北西側は穀倉地帯で年間生産量は40万トン。南西側は深い森が広がっていて現在開拓中。その副産物として木材生産量が跳ね上がり、年間100万㎡でしたか?」
「ええ、その通りです……各地域の資源に関しては妙に興味を持ちますね」
「ふふふ、領主の娘として当然ですわよ」
このダルホルンの国力を測るために、そこらへんは把握していないといけない。
同時に何が弱点かも……結果だが、特に弱点らしい弱点はない。
領地面積は北海道並み。総人口は二十万。海に面して世界と繋がっており、食糧生産量は輸出できるほど、木材資源も豊富。
問題点としては鉱石資源が少なく、大陸内部に依存していること。
しかしそれも、貿易という方法で海から輸入することで成り立つだろう。
まだまだ、他の領地の状態がわからないためはっきりとは言えないが、これだけの好条件に恵まれた領地はそうはないと思う。
国力においても皇国内でトップクラスではないだろうか。
と、こういったことを学ぶために真面目に勉強をしている……あまりの面倒さにシオンの依頼を投げ出したくなるが、さすがに命を懸けた依頼でさらにこちらの命を救ってもらった礼もあるので放置するのは具合が悪い。
(はぁ、頑張りますか)
気乗りはしないが、必要なのでやる。
やる気半分、嫌気半分で学業に向かう。
そこに突然、怒鳴り声が響いた。
――貴様ら、どういうつもりだ!?――




