第十九話「桜花爛漫 ーおうからんまんー」 (前編) ②
葉月視点です。
こちらは蛍組と行動を共にしています。
恐る恐る触れたものは柔らかく、温かかった。
「うわぁ……」
ふわふわとした毛並み。尖った耳。足元にすりすりしてくる小さな体と長い尻尾。あざといまん丸な目。鋭い爪を持っているとは思えない愛らしい肉球。極めつけは、心の臓を鷲掴みにする鳴き声。
桜さんを探すはずが、気が付くと、一匹の猫に吸い寄せられていた。
「……かわいい」
「だよねぇ。もふもふの極楽だよぉ」
隣でしゃがんでいる蛍ちゃんの顔は、今にも蕩けそうなほどに緩みきっている。多分、僕も同じような顔をしているだろう。
蛍ちゃんと違うのは、猫だけじゃなくて、猫と戯れる彼女にも癒やされている点だ。蛍ちゃんにまでドン引きされたくないので、心の内に留めておくけど。
「揃いも揃って癒やされてますけど、そいつ、餌をたかってるだけですよ。この辺りの住人に愛でられて味を占めてるんです」
後ろに立つ李々さんが、冷ややかな現実を容赦なく突き付けてきた。
だけど、蛍ちゃんの顔の緩みは止まらない。
それどころか、猫をだっこして頬ずりし始めた。さすがの猫も困惑した様子を見せたものの、蛍ちゃんの親しみやすさからか抵抗はしていない。
「はぁ……李々さんみたいで癒やされる……」
「何を仰ってるんですか。ていうか、そんな理由で癒やされないでください」
「すみません。あと百数えたら行くので、もうちょっと癒やしを――」
「だから癒やされんなっつってんですよ!」
(顔が赤いですよ、李々さん)
李々さんがじろりと睨みつけてきた。
その視線で自分が笑っていることに気付き、慌てて緩んだ頬を戻す。
猫に夢中な蛍ちゃんは、とうとうお腹に顔面を密着させて吸い始めた。人慣れしているから引っかかれる心配はないだろうけど……衛生的にどうなんだろう。
猫を前に蕩ける蛍ちゃんと、毒を出し切れず不機嫌な李々さん。
両極端な二人に挟まれた僕が気まずいので、話題を変えるべく、李々さんに「あの」と話を振った。
「桜さんは、なんで花鶯さんと組もうと思ったんですかね。頻繁に交流があるわけでも、親しいわけでもないのに……」
桜は間違いなく、花鶯組の下へ向かう。そう教えてくれたのは虹さんだ。
道中に花鶯組を見かけたらしく、その時の位置も教えてもらった。既に移動しているだろうけど、なんの手掛かりもないよりはずっと良い。
桜さんは花鶯組の居場所を知らないようなので、必ず合流している保証はない。それでも花鶯組と行動を共にすれば、桜さんに会える可能性が高くなる。
僕にとっては吉報だけど、奇妙な話でもあった。
土笛を吹かれたら敗北となるこの試合において、最も危険なのは孤立状態だ。一人でいれば、猿や他の組から襲われる確率は嫌でも上がる。今の桜さんには、絶対に裏切らない協力者が必要なのだ。
だからこそ、不思議だった。
それなら幼馴染みの小春さんか、ここにいる李々さんを頼る方が確実だし、何より自然だ。あえて花鶯さんを選ぶ理由が分からない。
李々さんは「単純な話ですよ」と答えた。
「花鶯さまの弱みを握っているんです」
「あぁ……」
確かに単純な話だ。桜さんなら、巫女を脅すくらい平然とやってのけるだろう。
「さすが桜ちゃんですよね。いざという時のための情報収集も、情報の使いどころも抜かりがない。もっと私を頼ってくれてもいいくらいですよ」
「え? 桜さんと情報を共有してるんじゃ……」
「いいえ。私は一切関与していませんし、何も聞いていません」
だったら何で知っているんだろう。そう疑問を口にする前に、李々さんが口角を上げた。なぜか勝ち誇ったような表情で。
「愛する桜ちゃんのことなら、なんでも知ってるんですよ。朝から晩まで、時間が許す限り、しっかり見守っていますから」
「それストーカーですよ!?」
「は?」
「あ、いや、えっと……なんでもないです」
「下手くそな誤魔化しは結構です。どうせ変態云々とでも仰りたいのでしょう? その通りですから」
「えぇ……」
「桜ちゃんに告げ口をしても無駄ですよ。とっくに知ってますから」
「あ、はい……」
まさかの桜さんが認知済みである。
堂々と開き直る李々さんにドン引きしつつ、下手なことを言わないよう口を噤んだ。二人の密な関係に、これ以上踏み込むのは危険すぎる。
とはいえ、李々さんの変態行為のおかげで、虹さんの情報に確信を持てたのだ。それに関しては素直に感謝するほかない。
「それでは周囲を偵察してきますので、お二人はここで待機してください」
言うや否や、李々さんは僕らに背中を向けた。
「え、ここで別行動ですか?」
「猫に弄ばれるお二人を眺めていても、時間の無駄ですからね」
「でも……」
「試合では猫も含み、部外者を巻き込んではならない決まりがあります。そいつを相手にしている限り、他の組に襲われる心配はございません。万が一猿が来たとしても、姫さまがいれば問題ないでしょう」
まくし立てるように話を進め、李々さんは僕たちから離れていった。従者の役割は巫女の護衛のはずだけど……いいんだろうか。
(まぁ、ここから動かなければ大丈夫か)
「懐かしいなぁ」
蛍ちゃんが猫を撫でながら呟いた。
「昔、猫を拾って連れて帰ったら、花鶯さんに見つかって怒られちゃったんだ。そんな汚い猫を敷地内に入れるなって」
「花鶯さんなら言いそうだね」
「うん。でも花鶯さん、そう言いながらすっごく触りたそうで……結局、体を清めて屋敷で飼うことになったんだよね」
「それも花鶯さんっぽい」
思わず、笑いが零れた。
「あ……っ」
蛍ちゃんにだっこされていた猫が、するりとその腕から抜け出した。後を追う間もなく、茂みの中へと消えていく。
「……行っちゃったね」
「……うん。ありがとう」
蛍ちゃんが感謝の言葉を添えて、猫の消えていった方向に手を振る。僕も同様に手を振った。束の間の癒やしをありがとう。
再び、蛍ちゃんの昔話に戻った。
まだ蛍ちゃんが幼く、花鶯さんの実家の下女だった頃の話になって、花鶯さんの家が『花の御三家』の一つである『緋家』だと知った。
この世界には『花の御三家』と呼ばれる三大貴族が存在する。
東の動国に『緋家』。
西の静国に『大島家』。
そして中つ国に『枝垂家』。
基準はよく分からないけど、数多くの巫女を輩出した一族が『花の御三家』に選ばれ、称号として名前、すなわち姓を巫女から賜るそうだ。
桜さんが僕の名前を『珍しい』と言っていたけど、本で御三家のことを知って合点がいった。姓を名乗るのは、花の御三家を名乗るに等しいのだ。
最初に出会ったのが桜さんじゃなかったら、不敬だと引っ立てられてもおかしくなかっただろう。知らないというのは怖い。
御三家に生まれた子は、巫女になる前から『姫』もしくは『お館様』と呼ばれ、『巫女の候補』として大切に育てられるらしい。
巫女に選ばれる基準として身分は問われないと教わったけど、逆に言えば、巫女に選ばれることで身分が決まってしまうのだ。得体の知れない異邦人から一転して、敬われる貴人となった僕が良い例だろう。
「姫様はね、緋家の姫君として完璧な人だった。美しくて、堂々としていて、いつも周囲から羨望の目を向けられていたの」
いつの間にか、花鶯さんへの呼称が『姫様』になっていた。思い出話に浸っているのだろう。その変化に、蛍ちゃん自身は気付いていない。
「私は姫様と正反対だった。鈍くさくて、周りに迷惑ばかりかけて、何より……自分の力が嫌いだった」
「え?」
「ほら、私っていろんなものに『味』を感じるでしょう? 小さい頃はそれが面白くて、手当たり次第に舐めたり、感じたことをそのまま言ったりして……みんなに気持ち悪いって、言われたから」
蛍ちゃんの口から出た言葉に、絶句した。
彼女が感じる『味』のことを知った時、僕は面白いなと思った。
だけどそれは、蛍ちゃんが話す内容を配慮したからこそだったのだ。
自分の失敗から。
自分の苦い経験から。
口にしてもいい言葉を、取捨選択したから。
「それでも、私はどうしても『味わう』ことを止められなかった。周りに嫌な思いをさせてきたし、姫様も私のことなんか気持ち悪いだろうと思ってたけど……違った。姫様は、そんな風に感じる私に、憤慨してくださっていたの」
蛍ちゃんが、微笑んだ。
いつもの純粋な笑顔とは違う。
まるで、大切なものを仕舞った宝箱を、ゆっくりと開くような――――。
「あの日、一人で泣いていた時に、姫様に声をかけられて、屋敷の近くにある山に連れていかれたの。そこで、姫様が力で見せてくださった光景が綺麗で、すごく……あ、力のことは口止めされているから、詳しくは話せないんだけど」
そういえば、花鶯さんの力に関しては、初対面の時に耳にした『色』という言葉しか聞いたことがない。
全く気にならないと言ったら嘘になるけど、この世界において『人ならざる力』は諸刃の剣だ。蛍ちゃんに言われずとも、下手に突っ込むつもりはない。
「それで仰ったんだ。『己の力を、己が卑下してどうするの。他の誰がなんと言おうと関係ない。ちゃんと大切になさい』って」
蛍ちゃんの笑顔が、明るく煌めいた。
「嬉しかった。自分の力を大切にしろなんて言われたことなかったから。誰かに受け入れてもらえるなんて、初めてだったから……」
初めてだったから。
その言葉が、僕の頭の中で心地よく反響した。
「私は、姫様のことが大好き。一歩間違えたら『鬼』と呼ばれる力であっても、自分のものとして大切にして、堂々としている姫様が」
「……そっか」
「まぁ、あの日以来、姫様の力は見せてもらえないんだけどね。また見たいってお願いしたら、むやみに使うことはできないって」
蛍ちゃんが困ったように笑う。
本人は笑顔のつもりだろうけど、少しも隠せていない。素直すぎるが故に、自分の気持ちに嘘をつくのが苦手なのだろう。
(僕と、同じだ)
後ろめたくて、嫌いで嫌いで仕方なかった自分の作り笑顔を、桜さんに『生きるための手段』だと肯定してもらえた僕と。
だからこそ、分かるのだ。
己の力を卑下するなと言われた時の、驚きも。
ちゃんと大切にしろと言われた時の、感動も。
花鶯さんが見せてくれた美しい光景を、もう一度見たいという渇望も。
「もう気は済みましたか?」
後ろからかかった声に、僕たちは「うわ!!」と大声を上げた。
「花鶯さまの呼び方が『姫様』に戻っていますよ」
「あ……っ!」
蛍ちゃんが慌てて口を押さえた。
「口を押さえたところで遅いですし、花鶯さまがいないので無意味ですけどね」
蛍ちゃんの小さな顔が真っ赤に染まる。
さっき毒を吐ききれなかった仕返しか、李々さんがしたり顔でにやにやしていた。やっぱり性格が悪い。
性格の悪い李々さんは鬼畜にも、羞恥で悶える主人を放置したまま「それはそうと」と話を進め出した。
「向こうに桜ちゃんの足跡がありました。桜ちゃんの残り香もあったので、あそこを通ってから、それほど時間は経っていないかと」
「じゃあ、桜さんは近くに……!」
「えぇ。これで葉月さまとおさらばですね」
「あはは……」
さり気ない毒舌に、思わず苦笑が漏れる。
「でも、それまで楽しくお喋りできるね!」
蛍ちゃんが弾けるように笑った。頬にまだ、羞恥で染まった林檎色の名残があるからだろう。いつも以上に幼く見える。
「――うん」
その笑顔につられて、僕の心も弾けた。
蛍ちゃんと顔を合わせ、心のままに笑う。
(桜さん、今頃どうしてるかな)
笑い合いながら、もうすぐ会える彼女へと想いを馳せる。したたかで逞しい桜さんのことだ。きっと上手くやっているだろう。
桜さんとの再会を想像して、さらに心が弾む。
胸の高鳴りを感じながら、僕は立ち上がった。
③に続きます。




