第十六話「余花 ーよかー」②
湯気で覆われた視界は、どこか夢現のようだ。
そんなことをぼんやり考えながら、蒸し風呂のほど良い熱気に身を委ねていた。
(……温泉、楽しみだなぁ)
蛍ちゃんとの会話を思い出し、頬が緩む。
本当に、楽しみだ。
楽しみなのに、胸のざわつきが治まらない。
『状況は全く分からないけど、早くなんとかした方がいいよ。あんたの魂』
落葉さんの言葉通りに捉えるなら、魂を癒すということだろう。落葉さんが僕に触れて、現実に引き戻してくれたように。
あの時に見た女性も、影のような人も、結局よく分からないままだ。そして今のところ、前回のような目立った変化も起こっていない。
一つだけ確かなのは、僕の魂に触れた上での言葉であることだ。
だから一刻も早く、自分の魂の状態を確認する必要がある。一か月の猶予なんて言ってられないのだ。
本来ならそれを花鶯さんに伝えるべきだけど、例の『変化』に関連することだったら口外できない。虹さんに口止めされているから。
(虹さんに相談するのが、一番無難だけど……)
虹さんはかつて、僕と同じく変化を経験したことがあるという。
それなら彼女に魂を見てもらえば、あの眩暈が変化と関係あるかどうか分かるかもしれない。変化と無関係なら、花鶯さんにも相談できる。
だけど、その前に落葉さんの言葉の意味をはっきりさせておきたい。もちろん、変化のことは伏せた上でだけど。
そういうわけで、落葉さんに話を持ち掛けた。
菜飯さんを通して鹿男君に伝え、落葉さんと待ち合わせの約束を取り付けた。
そして僕は今、蒸し風呂で温まりながら落葉さんを待っている。
(まさか、こんな形で落葉さんと裸のお付き合いをするとは……)
風呂場を指定したのは、生活において必ず足を運ぶ場所だからだ。日頃の接点がない落葉さんと会える場所が、他に思いつかなかった。
ちなみに、物書きとしての話を聞いてみたいという淡い期待もある。未だにまともに会話できたことないので、話に持っていけるかすら分からないけど。
(……予行練習しておこうかな)
深呼吸を一つ。
隣に落葉さんがいる体で口を開いた。一人なので、落葉さん役も兼ねて。
「えっと、この後、時間ある?」
『別にあるけど』
「実はその、ここじゃなんだから部屋で……じゃなくて、あんまり人に聞かれたくない話だから、できれば部屋でゆっくり話がしたくて」
『じゃあ、俺の部屋来る?』
「え、いいの!? ありがとう。ちなみに、好きな小説とかってあ――」
扉が開いたのは、まさにその時だった。
「…………」
「…………」
風呂場の一人劇場を目撃されてしまった。
しかも、よりによって、ご本人に。
落葉さんの冷たい目線が突き刺さる。多分、ごみを見る目だ。湯気ではっきりと目視できないのが、不幸中の幸いだった。
「…………」
(いや何か言って!)
こんなに痛い沈黙が他にあるだろうか。
今すぐ逃げ出したいけど、呼び出したのはこっちなのでそうはいかない。ここはもう、僕から口を開くしかないだろう。
羞恥心でのぼせそうな頭を働かせて、なんとか「アノ」と口を開いた。駄目だ。混乱し過ぎて、口がまともに動かせない。
「コノアト、ジカン――」
「いいよ」
「え?」
「人に聞かれたくないのは俺も同じだから。ここから近いし、俺の部屋でいいよ」
(全部聞かれてたああぁ!!)
恥の上塗りでのたうち回りそうだけど、話が早い。断られる可能性もあったと考えると、むしろ運が良いだろう……タイミング以外は。
「じゃあ、行こうか」
「え? でも落葉さん、今来たばかりじゃ……」
「別にいいよ。行水はもうしたし」
「そ、そうですか」
落葉さんに促され、早々に風呂を後にした。
急かしてしまったような居たたまれなさを感じると同時に、落葉さんとの雑談はなかなか厳しそうだと改めて痛感した。
脱衣所の前には、鹿男君が待機していた。
主人の風呂の短さに驚いた様子がないことから、落葉さんは普段から長風呂しないのだろう。時間の無駄を嫌う人なのかもしれない。
そんなことを考えつつ、鹿男君に声をかけた。
「ちょっと二人きりで話がしたくて、落葉さんの部屋にお邪魔させてもらおうと思うんだ。そんなに長い時間にはならないと思うから」
「えっ!?」
なぜか、鹿男君の顔が真っ青になった。
「お、お館様の部屋にですか……?」
「うん。駄目かな?」
「とんでもございません! すぐに準備をして参りますのでしばしお待ちを!」
言うや否や、鹿男君は背中を向けて猛ダッシュで遠ざかっていった。また三郎さんに怒られるのではと、背中を見ているだけでひやひやする。
(ていうか、そんな大層な準備が要るのか?)
だとしたら、いきなり部屋に上がり込むのは迷惑だっただろうか。後で謝らなければと思ったところで、落葉さんが「気にしなくていいよ」と口を開いた。
「俺の部屋、基本的に散らかってるから。片付けるだけだと思う」
「えっ?」
「足の踏み場くらいならあるよ」
「いや、あの……」
「俺が片付けると、余計散らかるから」
「それどういう状況ですか!?」
「どうって、言葉通りの状況だけど」
(どの辺が言葉通り!?)
落葉さんはいわゆる『片付けられない人』らしい。その口ぶりから察するに、鹿男君がいつも部屋を片付けているのだろう。
程なくして、鹿男君が戻ってきた。
そして、おたふく風邪さながらに頬がパンパンに腫れあがっていた。あぁ、恐れたことがものの数分で現実に……。
「お二方、大変お待たせいたしました! すぐにご案内いたします!」
(なんで殴られたのにキラキラ笑顔なの!?)
今すぐ土下座したい衝動に駆られたけど、倍の勢いで土下座されて互いに気まずくなるのは目に見えている。申し訳ないけど、あえて何も見ていないふりをすることにした。そうだ……僕は、何も見ていない!
そんなこんなで落葉さんの部屋に案内され、用意された座布団に腰を下ろした。
僕と机を挟む形で、落葉さんも腰を下ろす。
「話って、あんたの魂の件?」
「――――っ」
思わず、息を呑んだ。
秘密主義の社で、ここまで単刀直入に切り込まれるとは思っていなかった。
「…………はい」
呼吸を整え、逸る気持ちを静める。
「あの時、急に眩暈がして、見たことのない光景を目にしました。僕に分かるのは、それが幻覚だったことだけです」
「例の『発作』と関係は?」
「それは……すみません。分からないです。あの時とはだいぶ違うみたいで」
「まぁ、前みたいに倒れなかったしね」
「落葉さん、僕の魂に触れた上で言いましたよね。なんとかした方がいいって。あれは、僕の魂を癒す必要があるという認識で合ってますか?」
落葉さんが口を閉じ、考える素振りを見せる。
「……半分正解、かな」
そして少しの沈黙の後、再び口を開いた。
「確かに、俺は『早くなんとかした方がいい』と言った。だけどそれが、魂を癒すことで解決できるものかは分からない」
「そうですか……」
「ただ、あんたと同じものを俺も見聞きした」
「えっ!?」
「座敷牢に幽閉された女と、黒装束の男。あとは、声のような『音』だったかな」
驚きのあまりに絶句した。
同じだ。僕が見た人たちも、声なのか音なのか判別できない『何か』まで。
「気持ち悪い音だった。まるで声の主を隠すかのような、不自然極まりない音だ」
声の主を隠すような……言い得て妙な表現だ。音にも声にも聞こえる奇妙な『何か』には、その表現がしっくりとくる。
「俺から言えるのは、一刻も早く魂を見る必要があることだけだよ。魂だけは、自分でどうにかするしかないからね」
「え? でも落葉さん、僕の――」
「人の魂に触れるのはご法度だ。同じ巫女同士であっても変わらない」
「え――――」
「だから俺は、今回の件を誰にも話していないし話せない。もちろん、あんたも」
射抜くような眼差しを、静かに向けられる。
「仮に『魂を見てほしい』と頼んだどころで――誰にも、どうにもできない」
つまり変化と関係あろうがなかろうが、誰かに相談して解決することはできない。自分で魂を見るしか、現状を知る術はないということだ。
だけど、問題はそこじゃない。
落葉さんはさらりと口にしているけど、当の本人がそのご法度を破ってしまったのだ。僕の目を、覚まさせるためだけに。
「……すみません。僕のせいで」
「別に、俺が勝手にやったことだから」
「でも……なんで?」
落葉さんが、微かに眉をひそめた。
怒りとも不快ともとれるそれは、夕暮れの中で見せた『あの顔』だった。
「臭かったから」
「え?」
「臭すぎて我慢ならなかった。それだけだよ」
「え!?」
思わず自分の脇や腕の臭いを嗅いでみたけど、よく考えたら風呂上がりだ。
落葉さんがたちまち冷たい視線を向けてきたけど、こればかりは仕方ないと思う。あまりにも言葉が足りなさすぎる。
「体臭じゃないよ。あんたの『気』の臭い。そういうのが分かる鼻だから」
「あぁ、なるほど」
そういえば、初対面の時に『青臭い』って言われたような気がする。
この世界において巫女は神聖視されるけど、本来は普通ではないと人々から恐れられる『鬼』だ。落葉さんの場合は、その鼻が『鬼』である所以なのだろう。
だからこそ、彼は『臭い』を無視できなかったのかもしれない。
巫女という立場でありながら、ご法度を破ってしまうほどに。
「それと、黄林には気を付けた方がいいよ」
「え、黄林さん?」
「感覚を共有するあの人の力なら、今の会話を盗聴するくらい訳ないから」
「…………」
否定できなかった。
先日、虹さんの言葉が急に途切れた時、真っ先にその可能性が頭を過ったから。
「まぁ、同じ巫女相手に危害を加えることはないだろうけど、あの人はどこまでも『社の人間』みたいだから。念のため」
「……肝に銘じます」
それしか、言葉が見つからなかった。
わざわざ話題を変えてまで忠告したのだ。今の言葉に、おそらく他意はない。
だからこそ、頷くことしかできなかった。
③に続きます。




