第十六話「余花 ーよかー」①
生温い風がさわりと頬を撫でる。
微かな風の音が、静寂をいっそう際立たせた。
「二人とも、準備はいい?」
花鶯さんの明瞭な声が、静寂を破る。
僕と蛍ちゃんの声が「はい!」と重なった。
「それじゃあ、始め!」
目と口を閉じ、感覚を遮断する。
瞼に遮られた光、極限の無音状態。
血の流れや鼓動が、鮮明に伝わってくる。
視覚と聴覚を遮断するため、目と口を閉じたまま数時間座り続ける。そんな修行じみた訓練が始まってから、早くも四日が経過した。
訓練中においては、部屋の外でも極力音を立てないよう徹底されている。そのため、足音や話し声などの生活音は不自然なほどしない。
そういった違和感は相変わらずだけど、訓練自体には慣れた。集中力も安定して、途中で目を開いてしまうミスもほぼ無くなった。
だけど、未だに『魂』は見えない。
花鶯さんは『種』だと例えていたから、それっぽいものが見えてくるのかと思っていたけど、どうも違うらしい。
(集中は、できている)
訓練の間は、とにかく魂を見ることだけを考えている。他のことに気を取られて、目を開いてしまわないように。
だとしたら、何が足りていないのだろう。
今の僕には、何が必要なのだろう。
何が、見えていないのだろうか。
「――――止め」
花鶯さんの声を合図に瞼を開く。日光でやられないよう、慎重に。
部屋に差し込む光は、夕暮れの陰りを帯びている。直に赤みが増して、瞬く間に暗闇に覆われるだろう。
夕焼けが、花鶯さんの立ち姿を染め上げている。
彼女の国の色は深い青だけど、焦がすような赤もよく似合う。
「二人とも、変化はあった?」
首を横に振る。蛍ちゃんも同様だった。
花鶯さんが、無言で僕たちを見つめている。夕暮れ特有の陰りも相まって、彼女の視線からいつも以上の圧を感じた。
無言の圧に耐えつつ、師の口が開くのを待つ。
今以上の圧が来るのだと、身構えて。
「そう」
真顔で放たれたのは、たった二文字だった。
それがかえって、僕たちの空気を重くした。
「ちょっと。なんで二人揃って、この世の終わりみたいな顔してるのよ」
「すみません。四日も経って何一つ成果を上げられていないのに、花鶯さんに全然怒られないのが逆に怖いというか……」
「私もです……」
「二人して私をなんだと思ってるの!?」
鋭い突っ込みで、肩の力が一気に抜けた。
蛍ちゃんも同じ気持ちなのだろう。見る者の頬を緩めてしまう顔で「いつもの花鶯さんだぁ」と綻んだ。僕の頬がゆるゆるになったのは言うまでもない。
花鶯さんの頬も緩みかけたけど、わざとらしい咳払いで踏みとどまった。先達の意地はそう簡単に崩せないらしい。
「そんなに焦らなくても大丈夫よ。初巫女の儀までに形にできればいいから」
「うい、巫女の儀?」
「初めての巫女の儀と書いて『初巫女の儀』。新人の巫女が、黒湖様の御前でその身を捧げると誓いを立てる儀式よ」
「御前って……え!?」
疑問を通り越して、驚きの声が出た。
「それは……黒湖に近付くってことですか?」
「実際には祭壇の前で執り行うし、その祭壇も黒湖からは距離があるわ。黒湖に落ちてしまったら、私たちでも手に負えない。命の保証はできないから」
(そんなに危険な場所なんだ……)
具体的にどう危険なのかは、今でも分からない。桜さんから聞いた話でも、本でも、分かるのは行方不明者が出たことだけだ。授業の合間に黄林さんに聞いてみたこともあるけど、巫女にとっても未知の領域だとはぐらかされて終わった。
分からないことばかりだけど、行方不明者が出ている以上、危険なのは確かだ。だからこそ、視察の道中で黒湖に近付くとは思わなかった。
(……まぁ、距離を置くなら問題ないか)
蛍ちゃんが「そういえば」と弾んだ声を上げた。
「花鶯さん、初めての視察の前に言ってましたよね。これで胸を張って、黒湖様に御恩返しができるって」
「そうだったわね」
「視察の前日なんかずっとそわそわしてて、外の空気を吸いたいとあちこち歩き回っている内に、飛んできた虫が髪に――」
「今すぐ忘れてちょうだい!!」
花鶯さんの顔が、一瞬で真っ赤になった。
彼女が赤面して叫ぶのは日常茶飯事だけど、普段の怒り方や、虹さんたちにからかわれてムキになる時とは温度が違う。どこか温かさがあるのだ。この顔の花鶯さんは、年相応の少女という感じで本当に可愛い。
そして僕が見た限り、この顔を引き出せるのは蛍ちゃんだけだ。
(楽しそうだなぁ)
元々が主従関係だったとは思えない微笑ましさに、またもや頬が緩む。
もちろん、花鶯さんが微笑ましい顔をずっと見せてくれるはずもなく、巫女の顔に戻って本日二度目の咳払いをした。あぁ、もったいない。
「私が言いたいのは、初巫女の儀で魂を見る必要があるということよ。そして儀式まで一か月は猶予がある。それだけあれば自ずと見えるようになるから、現時点で焦ることはないわ。むしろ、焦りは禁物よ」
焦りは禁物。
花鶯さんの言葉は、至極真っ当だ。僕たちが今の訓練に心置きなく専念するのに、本来なら充分なものだっただろう。
だけど、僕の心は、かえってざわついた。
「あの――」
思わず、声を上げてしまった。
二人の視線が、僕へと向けられる。
「……すみません。なんでもないです」
「質問があるなら聞くわよ」
「いえ……大丈夫です」
とっさに笑顔を作って誤魔化す。
怪訝そうな顔をしながらも、花鶯さんは「それならいいけど」と追及しなかった。彼女なりに僕の気持ちを汲んでくれたのだろう。短気で押しは強いけど、そういう気遣いを欠かさない人なのだ。
「本日の訓練はここまで。席を外すついでに、菜飯を連れてくるわ。今日は二人とも菜飯に送ってもらうから、それまでしっかり休んでいなさい」
「「はい!」」
花鶯さんが立ち上がり、部屋を後にした。
再び、部屋の中に静寂が訪れる。
(……と、気を抜くのはまだ早い)
休憩前にはやるべきことがあるのだ。
座り続けて足が痺れた状態から体勢を崩すという、綱渡りのような苦行が。
前回は些細な音に気を取られ、足の痺れに負けて悶絶するという手痛い失敗をした。あれは地獄だった。同じ轍はもう踏みたくない。
固まった足を、ゆっくりと伸ばしていく。
壊れ物でも扱うように、神経を尖らせて――――
「――――ぷはぁ!」
完全に伸ばし切ったところで、口から間の抜けた声が出た。緊張から解き放たれ、一気に脱力する。
「蛍ちゃん、大丈夫?」
「うん。葉月くんは?」
「僕も大丈夫」
互いの無事を確認し合いつつ、足の痺れが引くのを大人しく待つ。少しでも油断したら断末魔を上げてしまいかねない。
「はぁー、やっと引いてきたぁ」
蛍ちゃんが伸ばしていた足を動かし、膝を折り曲げた。ちなみに体勢を崩してから、おそらくまだ一分も経っていない。
「蛍ちゃん、本当に回復早いね」
心のままに称賛すると、蛍ちゃんが「そんなことないよ」と苦笑した。
「そんな風に言ってくれるの、葉月くんだけだもの。むしろ回復遅い方だし」
「え、そうなの?」
「うん。侍女時代に礼儀作法の一環として座礼を叩き込まれたけど、私だけ毎回足の痺れでふらついて、直後の白刃取りが全然上手くいかなかったの」
「なんで礼儀作法で白刃取り!?」
「侍女は巫女の一番近くに仕えるから、如何なる時でも巫女を守れるよう訓練されてるの。中でも白刃取りは奇襲に備えた訓練で、動けない状態からどれだけ早く動き出せるかが肝なんだよね」
「へ、へぇ……」
可愛らしい笑顔でさらりと語っているけど、恐ろしくぶっ飛んだ訓練だ。侍女の皮を被った特殊部隊と言われても納得できる。
(そういえば前に、腕立て伏せが五十回しかできないとか言ってたな……)
まともに腕立て伏せをしたことがない僕なんか、もはや紙切れも同然なのかもしれない。そんなことを考えていた時だった。
「そうそう! 侍女頭さんから聞いたんだけど、次の駅には温泉があるんだって」
温泉。その一言で、頭が真っ白になった。
今、温泉って言った?
「自然豊かな広い温泉地で、疲労回復にはもってこいの場所らしいよ」
「じゃあつまり……次の駅に着いたら温泉に入れるってこと!?」
「そうだよ! 今からすっごく楽しみ!!」
「僕も! お湯に浸かるなんて久々すぎる!!」
二人して休憩にそぐわない大声を上げた。歓喜とはまさにこのことだろう。
社町には湯に浸かれる場所なんてなかったし、巫女になってからは授業と移動で忙しなく、行水や蒸し風呂で済ませる日々が続いていた。
そんなわけで、浸かりたい!
温かいお湯に、肩までどっぷり浸りたい!!
全身に鳥肌が立って、芯からじんわりと温まっていく感覚を思い出すだけで頬が緩む。今の僕は、隣で蕩けきった蛍ちゃんと同じ顔をしているのだろう。
それから、迎えが来るまでずっと温泉の話をしていた。二人で言葉にならない声を上げまくり、とにかく盛り上がった。
僕たちの顔は、終始緩みっぱなしだった。
問題はその後だ。
「……二人して、なに。その顔」
菜飯さんを連れてきた花鶯さんを前にしても、温泉の話で熔けきった顔をなかなか戻せず、二人揃って困り果てたのはここだけの話。
②に続きます。




