第十五話「夕桜 ーゆうざくらー」②
慧王とは何者か?
そして『第三の眼』とは?
「葉月は、慧王のことを知ってる?」
「はい。大まかな概要くらいなら」
慧王は、最後の王朝国家である『湖』の三代目君主かつ、唯一の女王だ。
慧王という呼称は、本名の湖慧花に因んだものと言われている。花鶯さんの名前の由来というのは、おそらく『花』の部分だろう。
慧王は、国を治める王として類い稀な才能の持ち主だったらしい。王朝の歴史がまだ浅い時代において、法と秩序で地盤を固めた名君として名を残している。
現在の七国は平和条約によって成り立っているけど、実は慧王の時代にも同様の法があり、平和条約はそれに基づいたものだという。そして国を守る神職として『巫女』を自身の傍に侍らせ、民草にその存在を知らしめたのも彼女だ。
早い話が、湖王朝の四百年に渡る長い歴史と、巫女を中心とした現在の平和は、慧王という基盤なしでは成り得なかったということだ。
「じゃあ、第三の眼は?」
「僕がいた世界にもその言葉はありますけど、ちゃんとした意味は知らないです。直感とか霊感とか、そういう話でしょうか?」
「そんな曖昧なものじゃないわ。第三の眼は、魂を見るための器官よ」
「魂を見る……器官?」
「例えるのなら種ね。魂という種があるからこそ、万物には気が芽吹くの。そして魂は普通、目で見ることができないわ。脳に備わった器官である『第三の眼』を通して初めて、視覚として認識できるのよ」
脳に備わった器官。要するに人体の話だ。
そして『魂を見る』というのは、この世界では五感と変わらないらしい。
「……つまり、人間はみんな、魂を見ることができるんですか?」
「そういうことになるわね」
(何それすご!?)
さすが、気という存在が一般的に認知されているだけある。この世界の常識にはだいぶ慣れたつもりだったけど、まだまだ甘かったようだ。
「とは言っても、第三の眼は大昔に退化した器官だから、現在では魂が見える人間なんていないわ。かの慧王や巫女を除いてね」
花鶯さんが説明しながら、自分の額を指差した。
「そして魂のみならず、気や紅白の線を見る際も第三の眼を通しているの。つまり二人とも、既に第三の眼を使っているというわけ」
「「えっ?」」
「そもそも黒湖様の御加護は、体を極限まで活性化するものなの。だから致命傷も瞬時に治るし、遥か昔に退化した第三の眼も開眼する」
花鶯さんの額から、その指が離れた。
「蛍のように生まれつき開眼している人もいるけど、視認できるのは気のみ。黒湖様の御加護なしで、紅白の線と魂を見ることはできないわ」
(なるほどなぁ……)
体の活性化という言葉を得て、今まで体感した現象が自分の中でより現実味を帯びた。腑に落ちるとは、まさにこのことだろう。
「話を戻すけど、気を強化するには、対象の魂に触れる必要があるの。そしていくら黒湖様の御加護があっても、第三の眼を意識して使わないと魂は見えないのよ。というわけで、まず目を閉じて!」
「「はい!」」
「口を閉じて! 声を出さないで!」
運動部のようなノリで、それは唐突に始まった。花鶯さんの張り上げた声に従って、目と口を閉じる。
「二人とも授業が終わるまで、そのまま目と口を閉じ続けなさい」
「「え!?」」
「声を出さない!!」
ちなみに授業終了は一刻後、つまり二時間後だ。その間ずっと目も口も閉じ続けるのは、厳しい通り越してもはや拷問である。
「質問があるなら、一人一つまで聞くわ」
軽く絶望していたところで、花鶯さんからの救済処置が施された。
「ただし意思表示は挙手で、開くのは口のみよ。口にしていいのは質問の内容だけ。相槌もいらないわ。私が名前を呼ぶまでは、絶対に口を開かないように。納得したなら首を縦に振って、再び口を閉じること」
困惑する僕らに配慮しつつ、目と口の封印が徹底している。生真面目だけど、なんだかんだ人の良い花鶯さんらしい。
僕は花鶯さんに言われた通り、目と口を閉じたまま手を挙げた。
「葉月」
「目と口を閉じる意図が知りたいです」
「第三の眼が退化したのは、五感だけで生活が事足りるようになったから。逆に言えば、五感が第三の眼の働きを鈍らせてしまうのよ」
「五感に頼らない練習、ということですか?」
「その通り。視覚と聴覚は日常で最も頼りにしている感覚だから、まずはそれを遮断する必要があるというわけ。理解した?」
僕は黙って首を縦に振った。これで、授業が終わるまで声を出せなくなった。
その後すぐに、花鶯さんが「蛍」と呼んだ。蛍ちゃんが手を挙げたのだ。
「あの……くしゃみとかで声が出てしまうのも駄目でしょうか?」
蛍ちゃんらしい可愛い質問だと思ったけど、よくよく考えたら切実な問題だ。聞いてくれた蛍ちゃんに、心の底から感謝した。
「許すわ。ただし極力我慢すること。どうしても無理なら手を挙げなさい」
蛍ちゃんから声が上がらない。
質疑応答の時間は、これにて仕舞いのようだ。
「それじゃあ、始め!」
花鶯さんの掛け声を合図に、沈黙の世界へと突き落とされた。
瞼によって日光が遮られた、仄暗い暗闇。
微かな風の音すら聞こえる、重たい静寂。
それでいて体を起こして座っているという、生き物として矛盾した状態。
目と口を閉じているだけなのに、自分が今どこにいるのか覚束ない。
違和感から逃れようとしているのか、次第に深い思考の底へと沈んでいく。
(……黒湖様って、何なんだろう)
身体の活性化で不死身に近くなって、退化した器官も使えるようになる。
驚くべき事実だけど、僕にとってはそれだけの存在じゃない。
黒湖様に選ばれた巫女の中から『世界に必要な者』としてさらに選りすぐられた結果、体や記憶に変化が生じる。
その変化の前触れが、先日僕を襲った発作だ。
表向きは『気の見過ぎ』が原因ということになっているけど、あくまでも変化を促進する要素の一つでしかないという。
仮に気を見ないよう避けたところで、変化を先送りしているだけに過ぎないそうだ。現に、僕の中で既に二つの変化が起きている。
味覚がなくなり、自分と家族の顔を忘れた。
信じ難い話だけど、こういった変化は今後も起こるとのこと。そして、この事実を知る者は巫女の中でも限られている。
虹さんと僕、あと……おそらく黄林さん。
変化の件は誰にも一切口外しないよう、虹さんに口止めされている。
だから花鶯さんはもちろん、桜さんにすら話せない。できるのは髪の色や味覚の消失といった体の変化を、医官や桜さんに体の不調として伝えるくらいだ。
(怖いのは、相変わらずだけど……)
桜さんは言ってくれた。僕がどう変わっても、絶対に壊れたりしないと。何があっても、最後まで傍にいてくれると。
だから、怖いけど大丈夫だ。
たとえ僕がこの先、桜さんのことまで忘れてしまうのだとしても。
僕が僕であるその瞬間まで、ちゃんと彼女の傍で笑い続けていられる。
目を閉じているからだろうか。脳裏に浮かぶ桜吹雪が、風で揺れる黒髪が、凛とした佇まいが、日光に照らされたあの切ない笑顔が、いつにも増して美しくて、泣きそうになる。手を伸ばせば触れられ――――
「葉月!! 目を開けない!」
花鶯さんの怒声で体が跳ねた。
慌てて目を瞑り、集中する。
考え事に夢中になり過ぎて、瞼への戒めが疎かになってしまった。目を閉じ続けるには、かなりの集中力を要するようだ。
(思った以上に難しいな……)
これ以上怒られたくないので、自分の世界に入り過ぎないよう気を引き締めた。
それから、どれくらい時間が経っただろうか。
抗い難い違和感に苦戦しながらも、ようやく暗闇と沈黙に慣れ始めた時だった。
「花鶯様、桜でございます。お館様のお迎えに上がりました」
(桜さんの声だあぁぁ!!)
凛とした声が闇の世界に差し込み、舞い上がりそうになった。反射的に目と口を開かなかった自分を誉めてあげたい。
「ご苦労様。入ってらっしゃい」
「はい。失礼致します」
襖の開く音が、ゆっくりと耳に入ってきた。
「葉月、もういいわよ」
待ち望んでいた一声を合図に、僕は瞼を動かした。暗闇に慣れた眼球に差し込む光は思いのほか鋭く、目が眩んだ。
目が潰れないよう、慎重に瞼を開く。
そこには燦々と輝く日光を背に、三つ指をつく桜さんの姿があった。
顔を上げた彼女が、真っ直ぐに向けてくる。
目が合っただけで焼かれてしまいそうな、この世の何よりも強く美しい瞳を。
思わず両手で目を覆った。
「如何なされましたか?」
「これ以上見たら、バチが当たりそうで……」
「は?」
桜さんの声色が、僅かながら素に戻った。
それとほぼ同時に、後ろ頭を軽く叩かれた。誰かは言わずもがなである。
「馬鹿なこと言ってないで、早く行きなさい」
「あ、はい」
「それと、今回の授業でやった内容を、半刻とは言わないから朝晩に一回ずつ行うように。回数を重ねるごとに慣れていくから」
「分かりました」
厳しいながらも、きっちりフォローしてくれる花鶯さんに頭を下げる。
(桜さん、めっちゃ神々しかったなぁ……)
眩い桜さんを拝めたと思えば、地獄のような苦行でもありがたい気持ちになるのだから不思議なものだ。ドン引きされるので口には出せないけど。
神々しい桜さんの余韻に浸りつつ、日光によろめきながら部屋を後にした。
③に続きます。




