第十四話「花曇り ーはなぐもりー」 (後編) ④
窓の外を見ると、曇天をほのかに照らす月の光が目に入った。
(……月、見えないな)
雲の後ろで静かに佇む月も好きだけど、今はなんとなく、月を見たい気分だった。この目で綺麗な月を見られないことが、少しもどかしい。
(蛍ちゃんは今頃、舞の練習かな)
次に降り立つのは、堅国の社。
そこで舞うのは、堅国の巫女である蛍ちゃんだ。
しかも二番手。あんなにも完璧な舞を披露した、花鶯さんの次だ。
初対面の時も、動国での舞の直前も、緊張のあまり震えていたくらいだ。僕なんかには想像できないほどの重圧を感じていることだろう。それなのに、病み上がりの僕に心配をかけたくないのか、弱音一つ吐かないのだ。あの子は。
本当は、花鶯さんたちのところに顔だけ出すつもりだった。今の僕にできるのは、蛍ちゃんに激励の言葉を送ることだけだから。
でも、止めた。
今は、ちゃんと笑えそうにないから。
「…………」
静かだった。自分の息遣いが鮮明過ぎて、気持ち悪くなるほどに。少しでも気を抜くと、黒い顔が脳裏にじわりと染み出てしまうほどに。
(変化、か……)
あの後、何度も思い出そうとした。
それなのに、思い出せるのは、黒く塗り潰された父の顔ばかりだ。
父だけじゃない。
母の顔も、妹の顔も、自分の顔すら分からない。
何もかもが、真っ黒だった。
(確かに最近、夢の中で、みんなの顔が真っ黒だったけど……)
まさか、それが忘れてしまったからだなんて、どうして思い至れるだろう。鏡で見ても空しいだけの自分の顔や、思い出しても仕方がない父の顔ならともかく、母や妹の顔まで忘れてしまうなんて……。
家族との記憶は、ちゃんと残っている。声も、仕草も、ぬくもりも、優しさも、覚えている。忘れるわけがない。
それなのに、顔だけ思い出せない。
そこだけが、くり抜かれてしまったかのように。
(これが、虹さんの言ってた『変化』……?)
体のみならず記憶にも変化が生じると、虹さんから聞いたばかりだ。
動揺したものの、僕にはどうしようもない。
だったら、避けられない現実として受け入れようと、覚悟をしたつもりだった。今までも、そうやって『普通』を諦めてきたから。
結局、中途半端な覚悟だったと思い知った。
(これから、どうなるんだろう……)
味覚がなくなって、家族の顔を思い出せなくなって、その次は何を失うんだろう。今までの思い出だろうか。自分自身のことだろうか。
そしたら、今ここにいる僕はどうなる?
巫女になってから出会った人たちのことは、覚えていられるのか?
静国で親身になってくれた餅屋の主人や、居酒屋の大将のことは?
この世界のことは?
桜さんのことも、忘れるのか?
「――――っ」
全身が、ぞわりと波立った。
寒くもないのに体が震える。
元の世界では、僕自身が消えるのは常識だったけど、自分の中から誰かが消えるなんて考えたこともなかった。
あそこに、もう僕は存在しない。
この世界が、今の僕の世界だ。桜さんの側で笑うことが、僕がこの世界で生きる意味だ。そんな僕が桜さんを忘れたら、何も――――
「葉月」
耳元で馴染み深い声がした。
あまりにも唐突で、思わず「うわっ!?」とその場から飛び退いてしまった。
いつの間にか、桜さんが僕の傍らに腰を下ろしていたのだ。驚いたのはこっちだと言わんばかりに、桜さんの大きな目が丸くなる。
「さ、桜さんっ?」
「まさか、気付いてなかったの?」
「あ……はい」
気付いていたら、桜さんを無視するなんて絶対にあり得ない。どんなに眠くても体が重くても、せめて返事くらいはちゃんとする。
「勝手に入ってごめんなさい。返事がなかったから、何かあったのかと思って」
「いえ。僕こそすみません。ちょっと、ぼーっとしてたみたいで」
「まだ本調子じゃないって言ってたものね」
「あはは」
笑って誤魔化すつもりが、むしろわざとらしいような気がしてきた。言葉にならない後ろめたさが、いっそう色濃くなる。
「もうすぐ夕食ですよね。すぐに行き――」
「その前に話をしたいの。二人きりで」
「えっ?」
心臓が、大きく脈を打った。
その音をかき消そうと、言葉を紡ぐ。
「でも、当番とか大丈夫ですか? この時間って忙しいでしょう?」
「今夜は非番なの。だから問題ないわ」
「そうですか。それなら……」
桜さんと話をするのは、願ってもないことだ。社や駅にいる間は互いに忙しくて、こうして二人きりになれる時間なんてないから。
それなのに、上手く笑えない。笑顔を作れることが、僕の唯一の取り柄なのに。
(……逃げるな)
今ここで逃げたら、もう話せなくなる。
何度も勇気を振り絞れるほど、僕は強くない。
「あの――」
「単刀直入に聞くけど、あんた、味が分からなくなってるんじゃない?」
一瞬、考える頭を失った。
間を置いて、桜さんの言葉を理解した。
「え!? な、なんで」
「昼食の時、表情が硬かったもの」
「え?」
おかしな話だ。昼食が運ばれたのは、桜さんが退室した後なのに。
だけど、かつて巫女の命を狙っていた人だ。
社や駅の構造を、身を隠せる死角を、熟知しているとしたら……。
「……もしかして、あの後、ずっと部屋を覗いてたんですか?」
「もちろん、事前に許可を得たわ。念のために様子を見ておきたかったのよ。汁粉を食べた後、様子が変だったから」
「え、そうですか?」
「前に汁粉を食べた時は、お腹を壊しかねない勢いでお代わりしてたもの。実際、本当にお腹を下して丸一日寝込んだしね」
「すみません……」
黒歴史を持ち出されてしまい、苦笑する。
だけど内心、それどころではなかった。
(誤魔化せてなかったんだ)
お汁粉を食べた後、桜さんに感想を聞かれたので美味しかったと伝えた。病み上がりで食欲がなかったのは事実だから、あれで誤魔化せると思ったのに。
(ちゃんといつも通りに、笑っていたつもりだったんだけどなぁ)
「多分、後遺症ね」
「え?」
「熱を出した後、味覚に異変が生じることがあるのよ。ほとんどは味が薄く感じる程度だけど、稀に味そのものを感じなくなる場合もあるの」
「えっと……」
「薬の副作用で生じることもあれば、心労が重なって生じることもあるわ」
なぜか唐突に、味覚障害の話になった。
専門的なことは分からないけど、桜さんならではの着眼点だと思った。
(……敵わないな)
心配をかけたくない一心で隠していたけど、隠し通せるわけがなかったのだ。
薬師である桜さんに。
僕のことを真っ直ぐに見てくれる、この瞳に。
「どうして私に言わなかったの? 薬師の私に言えば、無駄に不安になることもなかったでしょうに」
「…………」
桜さんに心配をかけたくないと思ったのも、理由の一つではある。
だけど、それだけじゃない。
というか、この恐怖心が大本の理由だ。
「すみません」
「別に謝ることはないわ。私だって、あんたに体質のことを隠してたんだし」
「それは、仕方ないですよ」
あの夜、桜さんは言っていた。自分の体質は、周りの植物を枯らす桜の毒に等しいと。だから『鬼』と疎まれてきたのだと。
今なら、その意味が痛いほど分かる。
奇跡を当たり前のように享受するこの世界において、奇跡を拒絶する体質が、どれほど異端なのか。
「黄林さんも、力のことは無闇に口外するものじゃないって言ってましたから」
「そうね。じゃあ、お互い様ってことで」
「…………」
このままやり過ごせたら、どんなに楽だろう。再び訪れた沈黙の中で、思考が逃げの方へと傾いていく。
それは駄目だと、頭の中で警笛が鳴る。
桜さんの優しさを、無下にする行為だから。
「……怖かったんです。心配されるのが」
「え?」
「昔から、みんなに心配かけてきたんです。いつ死んでもおかしくない体だからと、ちょっとした不調でも、みんなを振り回してしまって」
家族の姿が、黒い顔を伴って頭を過る。
僕が倒れる度に、仕事を早退して一晩中付き添ってくれた母の姿が。
友達と遊ぶ時間もろくに作れず、日々僕の世話に追われる妹の姿が。
ドアの前で膝を付いて、力なく項垂れていく父の背中が――――。
「体調が悪くなったり、危険な状態になったりする度に壊れてしまうんです。家族の環境も、人生も、心も。僕の容体一つで、簡単に」
この世界は心地よかった。僕の体が、人を壊してしまうことがなかったから。
でも、また僕の体はおかしくなった。
家族を散々苦しめてきたのに、一人だけ新しい生活を満喫していたバチが当たったのかもしれない。それなら仕方ないと納得できる。
だからこそ、知られたくなかった。
桜さんの人生まで――――
「壊れない」
「え?」
「私は壊れたりしないわよ。あんたは、何もしてないんだから」
一瞬、息が詰まった。
時間が止まったような気がした。
「あんたの家族は、あんたのために自分を犠牲にしてきたんじゃない。あんたと繋がり続けることを、自分のために選んだのよ」
「でも……」
「あんたは、何一つ壊しちゃいないわ」
桜さんが、僕の手をそっと取る。
迷いのない両手に、しかと包み込まれた。
「私もそう。何があっても、最期まで葉月の傍にいる。自らその道を選んだのよ」
あの夜と同じだ。
このまま時が止まればいいのに。そう考えてしまうほどに……温かい。
(あ、やば)
瞼の裏が、熱くなる。
熱いけど、今度はぐっと呑み込んだ。涙を見せたくなかったから。
「だから、何も心配しなくていいわ」
「――――はい」
涙よりも、笑顔を見せたかったから。
「ところで葉月」
「はい」
「私たち、出会ってから一ヶ月近く経つわね」
「そうですね」
「そろそろ敬語、止めてもいいんじゃない?」
「へ?」
あまりにも突飛な発言に、僕は思わず変な声を上げてしまった。
⑤に続きます。
次話で、二章は最後となります。




