第十四話「花曇り ーはなぐもりー」 (後編) ②
「…………嫉妬?」
「やっぱ、自覚なかったんですね」
小春さんが苦笑した。
「俺、桜と同郷なんですよ」
「え?」
「昔からの馴染みで年も近いから、気兼ねなく話せるというだけです」
「そう、ですか」
「さっきのも、ただの冗談ですよ」
何を、とは聞けなかった。
彼が……桜さんに触れた時の気持ち悪さを、思い出してしまいそうだから。
「俺は見ての通り、女の子が大好きな軽薄男です。一人の女に縛られるのは御免ですし、この気楽な関係を変えるつもりも一切ありません」
「本当ですかっ?」
「えぇ、もちろん」
小春さんが、改めて綺麗な笑みを浮かべる。
ほっとしたけど、それ以上に、自分の口をついた言葉に――――絶句した。
桜さんのことは好きだけど、僕なんかが安易に摘み取っていい存在ではない。
僕だけじゃない。小春さんにも、李々さんにも、触れてほしくない。誰にも摘まれず、地にしっかりと根付いたまま、凛と咲き続けてほしい。
僕は、その隣で笑っていられるだけで充分幸せ。
そんなことを思っていた自分に、気が付いた。
桜さんが誰かと幸せになる。それを喜べない自分に気が付いてしまった。
誰にも取られたくないと。
必死な、自分に。
(嫉妬、していた)
腑に落ちて、ぞっとした。
自分の気持ちなのに、なんで他人に指摘されるまで気付かなかったんだろう。
僕自身がこんなに気持ち悪いのだ。一方的に心の声を聞かされた小春さんは、さぞかし気味が悪かったことだろう。しかも相手は貴人だし、周りの目もある。下手な対応はできない――――
(あぁ、そういうことか)
ふと、合点がいった。
この人が、なぜこんな状況を作り出したのか。
「まさか……桜さんとの関係を伝えるために?」
「えぇ。巫子様に個人的な怨恨を抱かれるなど、死刑宣告を受けたも同然ですからね。一刻も早く、その危機を脱したかったのですよ」
「な、なるほど……」
人気のないところに連れ出された挙句、二人きりで話をしたいと言われて身構えていたけど、ようやくその意図を理解できた。
小春さんからしたら酷い話だろう。
僕が勘違いをしたせいで、近寄り難い巫女と二人きりになって誤解をとく必要があった。その過程で、自分の力の話までする羽目になってしまったのだ。
「……すみません」
「いえいえ、どうかお気になさらず。それより、差し出がましいことを申し上げますが――気を付けた方がいいですよ」
笑っていた小春さんが、ふと口角を下ろした。
恐ろしく整った顔立ちをしているからか、虹さんとは別の意味で圧を感じる。
「葉月様は他人の気持ちに敏感であられますが、失礼ながら、ご自分のお気持ちには恐ろしく鈍感であられますので」
「鈍感?」
「どこの馬の骨とも分からない男に、あんな風に煽られて腹を立てない男など、普通いないでしょう?」
「…………」
いまいちピンと来ない。
だけど確かに、指摘されるまで『嫉妬』していたことに気が付かなかった。
(鈍感、なのかな……?)
「それと、もう一つ。桜に至っては、俺のことなんて欠片も意識してませんよ」
「え?」
「あいつは、俺に同情しているだけです。俺が『鬼』だと知ってますから」
そう言って、小春さんは笑った。
「…………」
なぜだろう。どこか既視感があった。
桜さんが見せた、あの時の切ない笑顔と。
(桜さんと同じ『鬼』だから……?)
僕も鬼だけど、静国では桜さんが守ってくれたし、力を持っている自覚すらない。本当の意味で、鬼として生きたことがないのだ。
だけど、この人は違う。
同じ故郷で育ち、鬼として生きてきた者同士。
桜さんと過ごした日々は、この人の方がずっと長くて、ずっと重いはずだ。
小春さんは気楽な関係だと言ったけど、本当にそうだろうか。
少なくとも、この人にとっては――――。
「確かこの後、授業を受けられるのでしたね」
「あ!」
「部屋までお送りしますよ」
小春さんがゆらりと立ち上がる。
鬼の面影はどこへやら、何事もなかったかのように綺麗な笑みを浮かべていた。
葉月殿を部屋に送った後、俺は事務室と反対の方向へ歩き出した。
ちょっと一人になりたいだけであって、けして仕事から逃げているわけじゃない。また三郎さんに絞られるのは御免なんでね。
(……鎌をかけて正解だったな)
桜と話していた時、聞こえてくる『声』からあまりよろしくないものを感じた。柔和なあの巫子のものとは思えないほど、黒いものを。
もしやと思って桜に接触してみたら、案の定、黒いものが浮き彫りになった。
初対面でここまで嫌われたのは、李々との出会い以来だ。あの時は、なんとも間の悪いことに個室で桜と二人きりだった。
あくまで事情あってのことだが、言い訳はおろか、聞く耳すら持たれなかった。魅惑的な甘い笑顔と、この世の憎悪を全て詰め込んだような怨嗟の声をもって、目と耳と心を一瞬で潰されたものだ。
よく女嫌いにならなかったものだと、あの時の自分を褒めてやりたい。あれと比べたら、少なくとも表面上の葉月殿は可愛いものだ。
(まぁ、自覚はないだろうけど)
無意識下の声は、嘘偽りのない本音だ。
そして本音は、他人と共存する上で足枷となる。人は生きるために、本音を無意識下に追いやるのだ。
だから葉月殿は気付かなかった。
誰かに『嫉妬』することは、あの巫子にとって足枷となるから。
(李々とはまるで正反対だな……)
嫉妬したのは李々も同じだが、彼女は、自分の性格の悪さを自覚して開き直っている。嫉妬という感情を無意識下に追いやっていないのだ。
そう考えると、質が悪いのはむしろ葉月殿の方だろう。自覚のない負の感情ほど、向けられて厄介なものはない。
もっとも、そんなことは大した話ではない。
自分の気持ちに異様なほど鈍感なのは歪だけど、別に珍しくはない。歪ではない人間なんて、それこそ赤ん坊くらいだ。
俺が気になったのは、別のところにある。
「…………」
(やっぱ、気のせいじゃなかったな。あれ)
葉月殿を目にした瞬間、柄にもなく返す言葉を失ってしまった。
夜長姫に似ているからではない。そんなことは、噂で耳に蛸ができるほど聞いた。実際には瓜二つなんてものではなく、驚いたのも確かだが。
それ以上に驚いたのは、声の聞こえ方だ。
あれは、異常というほかない。
一人の人間から、別の声が聞こえるなんて。
(おかげで聞き取りにくくて敵わなかった。葉月殿の心の叫びがいちいち愉快だから、それはそれで面白かったけど……)
桜の声も聞き取りにくくなっているけど、あいつは薬で意図的にそうしている。
しかし、葉月殿は違う。
聞き取りにくいとかいう以前に、そもそも別の声が被さってきているのだ。
二つの声が同時に聞こえたり、逆に変なところで声が重なったりするから、もはや不協和音だ。作り笑いを保つのに少々苦労した。
複数の声を持つ人間自体は、稀にいる。
原理は分からないし、別人のように聞こえるが、あれは間違いなく本人の声だ。自分の声だと気付いていないだけにすぎない。
だけど、葉月殿はそんな次元じゃない。
聞こえるのは、明らかに別人の声だ。
彼には悪いが、はっきり言って気持ち悪い。よく正気でいられるものだ。
それに、あの声には聞き覚えがあった。
もう二度と聞きたくないのに、いざ聞こえると耳を塞げない、あの声――――
『初めてね。お前が怒りを露わにするなんて』
脳裏に、亜麻色の長い髪が乱れ広がった。
なんの手入れもされていない固い土に全身を押しつけられ、細い首に手をかけられているにも関わらず、少女は丸い頬を緩ませていた。まるで欲しかったものを手に入れた幼子のように頬を赤く染めて、飴色の瞳を爛々と輝かせて。
その花開いた笑顔で、瞬時に熱が引いた。
『…………』
『どうしたの?』
正気に戻って、怖気が走った。
無邪気な笑顔を前にして初めて、自分が何をしようとしたのかを理解したのだ。
自分は今、本気で、目の前の少女を怒りのままに殺そうとしていたのだと。
『怖いの? 人を殺すのが』
『…………』
『大丈夫よ。ここには誰もいないし、誰も見ていない。私たちしかいない。今、この場に、私たちを縛るものは何もないのよ』
『…………』
『それとも、自分の手は汚したくない? だったら私を鬼だと突き出せばいいわ』
『…………は?』
口から、間抜けな声が出た。
命乞いどころか、殺害を促す。どう考えても不自然なのに、眼下の少女はさも当然の選択肢であるかの如く口にしたのだ。
『みんな考える頭を失っているし、私はまだ巫女の候補でしかないもの。『鬼』という一言で、簡単にあなたを信じるわ』
ふふ、と少女が小さな笑い声を立てる。
『そしたら私は、凄惨な拷問を受けた末に縛り首になるの。私が指名した、あなたのご両親と同じように』
幼い少女が口から出す言葉ではなかった。
惨たらしい言葉の数々とは裏腹に、少女のつぶらな瞳は夢に満ちていて、今にも溢れんばかりの煌めきを秘めていた。
美しい瞳だった。
だからこそ、気色悪かった。
心の声が聞こえる俺だから、分かる。
この少女には、偽りも打算もない。村を襲った悪夢に、殺されようとしている現状に、憎悪を剥き出しにした俺に、心から歓喜している。
『憎いんでしょう? ご両親を殺した私が』
『…………っ』
『大丈夫。なんにも怖くないわ。ただこの手にぐっと力を加えるだけで、私は叫ぶことすらできなくなるもの。だからほら、早く』
憎い。憎くてたまらない。
全部こいつのせいだ。こいつさえいなければ鬼狩りなんて起きなかったし、両親が鬼として殺されることもなかった。
こいつは少女の姿をした鬼だ。
姿形や力の有無など関係ない、正真正銘の。
だから、俺がこの少女を殺したいと思うのは当然だ。何一つおかしくない。
それなのに手が震えた。
首に沿える指に、まるで力が入らない。
いっそのこと、少女を置いてこの場から逃げ出したかったが、震えは体にまで回ってきた。動くことすらできず、俺は少女の上でただ震えるばかりだった。
『――――はぁ』
唇から、溜め息交じりの声が吐き出された。
喉の振動が手のひらを伝い、ぞわりと鳥肌が立つ。思わず首から手を離した。
丸い頬から、赤みが引いていく。
寒気がするような、無機質な顔になった。
少女が、無言で動き出した。
起き上がる少女の動きに合わせて、俺はその場で尻餅をついた。突き飛ばされたわけでもないのに、体の均衡を保てなかった。
『いくじなし』
まだ幼い少女の口から出たとは思えないほどに、冷淡な声だった。
顔を上げようとしたけど、できなかった。
少女の声色から、蔑みを帯びた目で見下ろされていることは分かっていたから。
少女は、もう用無しだと言わんばかりにさっさと俺の横を通り過ぎた。
振り向く素振りすらなく、小さな足音はあっという間に遠ざかっていった。
『………………』
殺せなかった。
それが確定した瞬間、俺は真っ先に安堵した。
③に続きます。
葉月だって『男』なのです。




