第十三話「花曇り ーはなぐもりー」 (前編) ③
「さ、桜さんっ?」
今度は僕が素っ頓狂な声を上げてしまった。
桜さんが「失礼致します」と襖を閉める。美しい所作で膝行し、部屋の中央で静かに座した。作法に習った動きは慎ましやかでも、切れ長の大きな瞳は、絶えず相手を射貫くような鋭い光を放っている。
桜さんと、視線が交わった。
ただ目が合っただけかと思いきや、一向に僕から視線を外そうとしない。
(もしかして、僕を見てる?)
桜さんが、三つ指をついて首を垂れる。再び顔を上げると、膝を滑らせながら、ゆっくりと僕の方へ近づいてきた。
目の前で動きを止め、淑やかに正座をする。
黒髪と大きな瞳が、僕の視界を支配した。
「ご無礼、お許しください」
両手が、桜さんの手でふわりと包まれる。その温かさに、心臓が大きく跳ねた。
「葉月。その状態のまま、桜の気を見てみろ」
「え、今ですか?」
「いいから早く」
「わ、分かりました」
(そういえば、桜さんの気は見たことないな)
自我の強い人ほど、気の色は赤みを帯びる。
桜さんの気は、さぞかし美しい赤みを帯びた桜色なのだろう。
見たい。この目で――――。
胸の内に小さな、それでいて確かな願望が沸き上がった。今朝の気まずさが、嘘のように霞んでいく。
どんな桜を目にするのだろう。
それを考えるだけで動悸が、呼吸が、速くなっていく。病気で胸が苦しい時とは全然違う。息苦しいのに、心地良い。ずっと浸っていたくなる。
だけど、その静けさと心地良さは、次第に違和感へと変わっていった。
「…………あれ?」
おかしい。
あの幻想的な桜が、一向に姿を現さない。
「見えないか?」
「あ、はい」
「じゃあ、次はこの部屋にある全ての気を見てみろ。庭を見る時と同じように」
「虹!!」
突然の大声に、反射的に肩が跳ね上がった。
花鶯さんが、今にも掴みかかりそうな形相で虹さんを睨んでいた。
「まだ病み上がりなのよ!? あんた一体――」
「黙ってろ」
鋭くも落ち着いた一声が、立ち上がりかけた花鶯さんを呆気なく黙らせた。
「ほら、葉月」
「あ、はい」
虹さんに促されるがまま、視線を桜さんからずらす。そして、庭を見る時と同様に、部屋全体を見つめ始めた。
いつも以上に集中する。
この部屋の気を全て、目に焼き付けるつもりで。
「…………見えない」
見ようとする意志さえあればいい。ただそれだけで、瞬時に桜が咲き誇るはずのに、今は何も見えない。なんの変化も起きない。
(まさか、これも後遺症?)
味覚を失うだけじゃなく、気を見ることもできなくなったというのか。
あんなに頑張ったのに。
笑顔を作る以外に、できることが増えたのに。
「もういいぞ、桜」
虹さんの呼びかけで、温かな手が離れた。ひんやりとした空気が肌を撫でる。
刹那、視界が満開の桜で埋め尽くされた。
「えっ!?」
驚きのあまり、つい大声を上げてしまった。
その声と共に、部屋中の桜が霧散する。集中力が一気に途切れたせいだろう。
見えた。
いつもと同じ、ほんの少しの意識と集中力で。
「ご苦労だったな。もう下がっていいぞ」
桜さんが僕に一礼し、膝を滑らせながら下がっていく。「失礼致しました」と首を垂れてから部屋を出て、襖を静かに閉めた。
桜さんの足音が遠ざかっていく。
足音が完全に聞こえなくなったところで、虹さんが再び口を開いた。
「今、あんたが見た通りだよ。桜に触れられると、気を見ることができなくなる。あんただけじゃなく、私たちも同様にね」
「え――――」
「それだけじゃないよ。力も使えなくなるし、黒湖の加護も一切受け付けなくなる。あいつは生まれつき、ただ存在するだけで、あらゆる奇跡を拒絶するんだ」
「奇跡を、拒絶……?」
この世界で『気』という概念を知り、『力』の存在を知り、そして実際に目にしてきた。元の世界ではありえない、まさしく『奇跡』と呼ぶに相応しい力を。
そんな『奇跡』を、全てなかったことにする。
あまりにも、規格外な力だ。
「もっとも、そんな奴を社で野放しにするわけにはいかない。あれがいるだけで、私たちの務めを妨害してしまうからな」
「ですよね……」
先日、視察の舞で花鶯さんが気を切ったのも、民衆に『国の気』を見せられたのも、この世界に『奇跡』があるからだ。
それらが全て、機能しなくなる。
桜さんがただ、そこにいるだけで。
「だから社においては、あいつが独自に開発した薬で抑えるよう命じている。触れなければ、奇跡を阻害しない程度にな」
「え、薬?」
「もちろん、人ならざる力は薬なんかで抑えられやしない。人の手に負えるものじゃないからな。故に、あれは『特異体質』だ」
「体質……」
そういえば、巫女になってから、薬を飲む桜さんを何度か目にした。忙しくて時間を作れなかったからと、馬車の中で飲むことがたまにあるのだ。
単なる胃腸薬だと言っていたから、全く気に留めていなかった。
自分の体質で、巫女たちの務めを妨害しないためだったんだ。
「黒湖に呑まれない体質と、言ってましたね」
「あぁ。黒湖は、いわば奇跡の代表だからな」
「…………」
気を見ることもできず、力も使えず、黒湖様の加護も受け付けなくなる。
巫女であっても、桜さんの前では、ただの人間も同然ということだ。
(あぁ、そうか)
だから、夜長姫は死んだ。
あらゆる奇跡を拒絶する体質をもって、夜長姫を殺したのだ。
今になって気が付いた自分に、愕然とする。
少し考えれば分かることだ。殺せたのには、然るべき理由があるのだと。
黒湖様の加護で守られている巫女を殺すなんて、本来ならできるはずがない。巫女になる前にそう教わったし、僕自身、静国で刺された時に黒湖様の加護で死を免れた。身をもって経験しているのだ。
(なんで、考えようとしなかった?)
彼女が人殺しだろうと、関係ない。
だって、僕にとっては――――
「桜が来た瞬間、発作が治まったと言ったな」
「え?」
「触れられただろ。体のどこかに」
「あ……はい」
虹さんの声で、我に返った。
そうだ。今の僕に必要なのは、あの夜のように倒れないための対策だ。
「葉月の身に起きた発作は、気を見過ぎたことによるものだ。だから、その原因となる奇跡を取り除けば、発作は止まる」
「……今後、発作が起きそうになったら、桜さんに触れろということですか?」
「その通り。ただし、それは最終手段だ。桜がいないと毎回寝込むようでは困るからな。発作が起きる前に休む。今後はそれを意識するように」
「分かりました」
桜さんは従者とはいえ、四六時中、僕の傍にいられるわけじゃないのだ。今後巫女として生きていくのなら、この体を制御する必要がある。
いつまでも守られているわけにはいかない。
夜長姫に呑まれないくらい強くなるって、桜さんに誓ったんだから。
「虹さん、そろそろ昼食が来るみたいよ」
黄林さんの声で、張り詰めた空気が緩んだ。彩雲君の捜索は終わったらしい。
「やっとかぁ」
虹さんが姿勢を崩し、だらしなく仰け反った。礼儀にうるさい花鶯さんが、またこいつはと言わんばかりに顔をしかめる。いつもの光景だ。
「にしても遅すぎだろ。一体何をやらかしたんだ、あの馬鹿どもは」
「どうやら、小春君が侍女をたらしこんでいる隙に、また彩雲君が逃げ出そうとしたみたい。今頃、三郎が二人分の折檻に励んでいると思うわ」
(小春『君』? 侍女をたらしこむ……?)
まさか、男の人なのか?
それはそうと彩雲君。一体、どれだけ脱走すれば気が済むんだろう。これまでに何度も三郎さんに絞られているだろうに。
「とりあえず、その阿保二人は昼食抜きだな。炭、異論はある?」
「いえ、お構いなく。女たらしの馬鹿を庇う理由など一つもないので」
(うわぁ、容赦ない)
主人にまであっさり見放されてしまった。自業自得だから仕方ないけど。
「というわけだ」
「伝えておくわ」
もちろん、巫女たちが同情するはずもなく、むしろ一部は楽しんでいる様子だ。女性の集団は怖いと思い知らされた瞬間だった。
「それと葉月、いつになったら返すつもりだ?」
「え?」
「本だよ。中つ国を出る前に貸しただろ。二島の歴史が知りたいとか言って」
「えっと……」
身に覚えがないけど、記憶力に絶対の自信があるわけではない。思い違いでもあったのかもしれないと、少しばかり考えてみる。
(あ――――)
ふと、気が付いた。
これは、個人的な呼び出しだと。
『そのまま目の前が暗くなって。それで――』
『なるほどね』
あの時、言葉を遮ったと感じたのは、どうやら勘違いではなかったらしい。
「……あぁ、すみません。すっかり忘れてて」
「昼食が終わったら、私の部屋に来いよ」
「はい」
それとなく周囲を見やる。
疑いの目を向ける者はいない。なんとか上手く誤魔化せたようだ。
程なくして、昼食が届いた。ほくほくと湯気を立てる肉じゃがを前に、反射的に心が躍る。頻繁に出る献立の一つだ。
「えー。また芋かよ」
「仕方ないでしょう。安価で仕入れられる上に、お腹に溜まる食材なんだから」
眉尻を下げる虹さんに、黄林さんが苦笑しながら窘める。なんというか、好き嫌いをする子供とそのお母さんみたいだ。
「巫女は国の頂点だろ? もうちょい贅沢してもよくないか?」
「聞き捨てならないわね。巫女だからこそ、倹約すべきでしょ。私たちが多く取ったら、それだけ庶民の取り分が減るんだから」
「うわ出た。花鶯の巫女持論」
虹さんが、わざとらしい大声を上げる。
そしてやはりというか、花鶯さんのこみかみに青筋が立った。
「ちょっと、巫女持論って何よ。私は当たり前のことを言ってるだけでしょ」
「そう怒るなって。顔が蒸かし芋になるぞ」
「誰が蒸かし芋よ!!」
毎回恒例の花鶯さん弄りが始まった。
もはや日常の一部なので微笑ましい。花鶯さんには口が裂けても言えないけど。
見物もほどほどにして、目の前の肉じゃがにありつくことにした。
煮汁が染み込んだじゃがいもと、小粒ながらも彩り鮮やかなひき肉が、皿の中に所狭しと詰まっている。美味しそう。
「…………」
せっかくの好物なのに、味を楽しめないことが本当に残念だ。
***
賑やかな昼食を終えた後、約束通りに虹さんの部屋を訪ねた。
「まぁ、そこに座ってよ」
「はい」
虹さんは、机の前で胡坐をかいて待っていた。その机を挟む形で、虹さんの正面に腰を下ろす。向き合って話すのは、お披露目の日以来だ。
こうして見ると、彼女は胡坐の似合う美人だ。
男勝りというのもあるけど、胡坐自体にどこか品がある。背筋や肩には一切の歪みがなく、威風堂々とした佇まいをより醸し出している。
普段の言動は粗雑だけど、実は育ちが良いのかもしれな――――
(いや、それはないか。虹さんは平民の出だって、黄林さんが言ってたし)
そんなことをぼんやり考えていると、虹さんがなぜか右手を差し出してきた。手のひらを見せたまま、僕の目の前で静止している。
「え?」
「え、じゃないだろ。ほら」
「……話があるんですよね? あの場ではどうしても言えない話が」
「なんだ、察しが良いな。面白くない」
つまらなさそうに目を細めながら、虹さんが右手を引っ込める。
どうやら、身に覚えのない本の貸借ネタで弄り倒すつもりだったらしい。すみません、今は早く話を聞きたいんです。
「さて。始めに断っておくが、今から話すことは他言無用だ」
「桜さんにもですか?」
「もちろんだ。あんたと親しいとはいえ、あれは従者であって巫女ではない」
「……分かりました」
虹さんは、先日の僕と似たような事例を知っていると言った。
つまり、彼女は分かっているのだ。
僕の体に、なんらかの変化が起きたことを。
「葉月。倒れた時のことを話した後、他にも何か言おうとしただろ?」
「はい。あの時……」
「察しの通りだよ。私は、あんたの言葉を遮った。今、あいつらの耳に入れては不味い内容だろうと判断したからだ」
「巫女なのにですか?」
「巫女が全てを知ってるわけじゃないよ。まぁ、私のような例外もいるが」
意外だった。社が秘密主義であることは分かっていたけど、巫女たちは同じ情報を共有しているものだとばかり思っていたから。
でも、それなら落葉さんの反応も合点がいく。
落葉さんは、虹さんが話した『記録にない前例』を知らないと言っていた。黄林さんを除いて、他のみんなも一様に困惑していた。
「でも、僕には話すんですね」
「今の時点じゃ、全部は話せないけどな」
虹さんが腰を浮かし、胡坐をかき直す。
今から本腰を入れて話をするという、合図のように思えた。
④に続きます。
虹姫が食事の場で話したのは「表向き」の原因です。




