第十三話「花曇り ーはなぐもりー」 (前編) ①
葉月の視点に戻りました。
体の異変に気付いた葉月がとる行動は……?
花びらが揺らめき落ちて、水面に円を描く。
見渡す限りの桜が、僕を取り囲んでいた。目の前には、巨大な湖が広がっている。向こう岸にも、桜の木々が地平線の如く並び立っていた。
(桜の花、久しぶりに見たな)
花はとっくに散ったはずなのに、少しも違和感がなかった。むしろ、そこに咲いていることが当たり前のような気すらした。
――――ねぇ。
後ろから声がした。囁いているようなのに抑揚のある、なんとも不思議な声だ。
振り返り、息を呑んだ。
逆光のせいで顔がはっきりと見えないのに、なぜか美しい少女だと思った。
少女がまとう白い十二単には、繊細な金色の刺繍が施されている。一目で貴人だと分かるほどに煌びやかだけど、けして華美ではない。その佇まいだけで、生まれながらの気品と淑やかさを感じた。
一方で、そこに居るだけで桜の木々を霞ませる、圧倒的な存在感を放っていた。誰に命じられているわけでもないのに、目を離してはいけない気がした。
そうだ。僕はこの少女を知っている。
なのに、どうして名前が出てこないんだろう。
――――お前は、どうしたいの?
亜麻色の長い髪が風になびき、生き物のようにうねり動いた。
美しさに見惚れて手を伸ばしたが最後、一口で頭から呑まれてしまう。綺麗な髪には、そんな不気味さが共存して――――
「葉月」
凛とした声が、少女の面影を晴らした。
目の前に、桜さんが座っている。
全身に伝わってくる緩やかな振動で、馬車の中にいることを思い出した。
そうだ。今朝早く、動国の社を出発した。今は、堅国の社に向かう道中だ。
「随分うなされてたけど、嫌な夢でも見た?」
「え?」
少し考えてみるが、何も思い出せない。
胸がざわつくような夢だった。辛うじて覚えているのは、それだけだ。
「……はっきりとは覚えてないけど、多分」
「顔色も優れないわね」
「そうですか? 熱はもう下がりましたけど」
「油断は禁物よ。二日前まで、高熱を出して寝込んでたんだから」
「はい。それはもちろん」
微笑みを返しつつ、数日前のことを思い返す。
あの日は舞を見た時の興奮で眠れず、気を見る練習に励んでいた。
人々の目を奪う、花鶯さんの舞。
刃を振るうごとに減っていく、赤い螺旋。
鮮やかな赤い桜が、桜色に戻っていく過程。
何もかもが幻想的で、息をするのも忘れてしまうほどに美しい光景だった。
あの感動を思い返しながら、初めて自主的に気を切った。僕もやってみたいと思ったのだ。僕も同じように舞えることが、嬉しくて仕方なかったから。
そうしたら突然、頭を貫かれたような痛みが走り、体が熱くなった。
その後の記憶は曖昧だけど、桜さんが来たら急に楽になったこと、名前を何度も呼んでくれたことは覚えている。聞いた話だと、僕はそのまま高熱を出した挙句、三日間も昏睡していたらしい。
目を覚ました後は、二日は絶対安静ということでゆっくり過ごさせてもらった。それはもう、持ってきた数少ない本を読み終えて暇になってしまうくらいに。
おかげで熱はすっかり下がったけど、倦怠感がまだあるので無茶はできない。さらに二日は様子見ということで、花鶯さんの授業も欠席することになった。最初は目まぐるしいと思った授業だけど、いざ離れるとなると少し寂しい。
「ねぇ、葉月」
「はい」
「もし何かあったら、遠慮なく言っていいのよ」
桜さんが身を乗り出した。馬車の中なので、それだけで顔が近くなる。少し手を伸ばせば、簡単に触れてしまえるほどに。
切れ長の大きな黒い瞳。焔のように強い眼差し。
本当に綺麗な瞳だ。この世の何よりも美しい。この世界で最初に目にした眩い桜吹雪よりも、あの幻想的な国の気よりも――ずっと。
だけど今は、その瞳を向けられるのが怖い。
「……ありがとうございます」
僕はとっさに、お得意の笑顔を取り繕った。
「でも、本当に大丈夫ですよ。僕のせいで大幅に予定が狂っちゃったし、多少はみんなに合わせないと」
「心配いらないわ。元々、有事があった際に備えて予定を組んであるから」
「そうですか。それならよかった」
「…………」
桜さんがじっと見つめてきた。
さり気なく目を逸らそうにも、強い瞳はけして僕を離そうとしない。ほんの少し表情筋を動かしただけで、全てを見透かされてしまいそうだ。
疑っている時の目だ。
作り笑いで隠しているものを探ろうとしている。僕が……そうさせているんだ。
「あの夜の発作」
桜さんの口から出た言葉に、心臓が敏感に反応して脈を打った。
「表向きは体調不良にしているけど、いきなりあんな発作が起こるなんて普通はありえない。明らかに、体調不良で片付けられる問題じゃないわ」
「……やっぱり、そう思いますか?」
「実際に現場を見てるしね。だからこそ、あんたに責があるとは思わない」
「えっ?」
どうやら桜さんは、僕があの夜のことで気に病んでいると思っているらしい。
もちろん責任は感じているけど、それ以上に、桜さんに胸の内を気付かれることが怖いのだ。我ながら身勝手で、情けない。
「多分、昼食の時にその話をすると思う。考えるのは、それからで遅くないわ」
「……そうですね」
とりあえず、作り笑顔の裏を見透かされたわけではないようだ。内心でほっと胸を撫で下ろしつつ、さらに薄っぺらい笑顔を重ねていく。
僕が生きる上で必要なものだったと、桜さんが肯定してくれた笑顔。
その笑顔で隠しごとをする自分に、彼女を拒む自分に、また嫌気が差した。
程なくして、馬車の揺れがゆっくりと止んだ。
簾が上がり、桜さんが先に降りる。そして、僕に手を伸ばしてきた。
裾を踏んでつまずくことはなくなったけど、桜さんはいつも、馬車から降りる時にはこうして手を差し伸べてくれるのだ。
僕と二人きりの時にだけ見せてくれる、屈託のない笑顔と共に。
「病み上がりだから、いつも以上に気を付けて」
「はい」
桜さんの指先に、そっと手を添える。
冷えた指先なのに、触れた瞬間にじんわりと温かさが伝わってきた。
***
部屋に案内されると、昼食までそこで待機することになった。
体調不良という手前、むやみに出歩くわけにはいかない。どうせならと昼食後の授業に備えて、東字の書き写しをしていた。
昔から勉強は好きだ。
勉強している間は、自分が病人であることを忘れていられた。良い成績を取って周囲に褒めてもらえるのが嬉しかった。社会の一員として受け入れられているような気がした。都合の良い錯覚でしかないと、分かっていても。
今は、巫女という形で社会と繋がっている。
巫女になっても、勉強や読書が生活の一部であることに変わりはない。違うのは、得た知識を確実に役立てられるということだ。
頑張った分だけ、誰かの役に立てる。
ただ社会にすがっていた頃には、とても考えられなかった贅沢だ。
「葉月様、お茶をお持ち致しました」
襖の向こうから、侍女の声がした。
筆を止めて「どうぞ」と声をかける。侍女が襖を開いて、入口で「失礼致します」と恭しくお辞儀をした。洗練された、美しい動きだ。
侍女がお盆から湯呑みを手に取り、膝を立てたまま、滑らかな身のこなしで近づいてきた。膝行、膝退と言われる、立ち膝で移動する作法だ。膝で移動するのは、貴人である巫女を見下ろすのが失礼にあたるからだとか。
机にそっと湯呑みが置かれた。「ありがとうございます」と礼を言うと、侍女がにこりと微笑んだ。その作り慣れた笑顔を携えたまま、侍女は「失礼致しました」と膝退し、襖を閉めた。慎ましやかな足音が遠ざかっていく。
冷めてしまっては元も子もない。
ひとまず筆を置いて、湯呑みに手を伸ばした。
湯呑みの中で、梅昆布茶がゆらりと揺れる。梅の華やかな香りが、湯気と共に鼻腔をやんわりとくすぐってきた。良い匂いだ。
息を吹きかけ、少しだけ冷ましてから、湯呑みにそっと唇を寄せる。
「…………」
こくりと、喉を鳴らす。
やっぱり味がない。香りはするのに、ただのお湯を飲んでいるみたいだ。
(酸っぱいものも駄目か)
お汁粉で異変を感じてから、それとなくいろいろ試してみた。
匂いはする。だけど口に入れた途端、食べ物ではない何かになる。それでいて食感は健在だから、違和感が半端ない。
人前での食事は、二日ぶりだ。目を覚ましてからは自室で食事を摂っていたけど、この後の昼食から、巫女たちとの会席に復帰することになる。
そういう事情もあって、味を感じないことは、まだ誰にも言っていない。
(馬車の中でも、言えなかったな)
僕の従者かつ薬師の桜さんには、味覚のことを真っ先に伝えるべきなのだろう。しかも馬車での移動中は、彼女と二人きりになれる数少ない機会だ。
だけど、結局言えなかった。
僕の体調を気にかける桜さんが、妹と重なって。
(普通はありえない、か……)
薬学に精通しているからこそ、確信をもって断言できるのだろう。
僕には薬学の知識なんてないけど、一つだけ心当たりがある。
おそらく、気を見ることによる負荷だ。
体にかかる負荷については花鶯さんに教わったし、授業後の倦怠感や頭痛で実感済みだ。だからこそ、その負荷に体を慣らすべく日常的に気を見てきた。
ある程度の体調不良は覚悟していたけど、味覚がなくなってしまうとは夢にも思わなかった。花鶯さんからも、そんな事例は聞いていない。つまり、巫女たちにとっても予想外の事態かもしれないのだ。
だったら、巫女たちにも伝える必要がある。
(…………大丈夫)
あの人たちは、桜さんとは違う。同志として手を取り合っているだけだ。僕の変化を伝えたところで、何も変わらない……はずだ。
ふと、窓の外へ目をやる。
不安を煽るような、黒々とした曇天しか見えない。空を見るのは好きなのに、どうしてか、胸のざわつきが一向に治まらない。
僕は、東字の書き写しに専念することにした。
②に続きます。