第十二話「桜の便り ーさくらのたよりー」(後編) ④
襖の前で深呼吸をして、口を開く。
「葉月様、桜で――」
襖の向こうで、盛大な音がした。
倒れたのだと察した瞬間、礼儀作法も忘れて襖を勢いよく開いた。
「葉月!?」
布団は乱れ、その傍らで葉月が倒れていた。
うつ伏せの状態から「いたた」と、間の抜けた声を漏らしながら起き上がる。額が赤くなっていた。起き上がった拍子にふらついて、頭から転んだのだろう。
沸騰した頭が一瞬にして冷めたのは、言うまでもなかった。
「目覚めて早々、何やってんのよ」
「すみません。桜さんの声がして、つい……」
謝りながらも、ほんのりと赤い頬はふにゃりと緩みきっている。ついさっきまで昏睡していたとは思えない能天気さだ。
そういえば、異様に興奮していたと三郎が言っていた。あの時は、訳の分からないことを言っていると思ったが……。
(一体、何をそんなに興奮しているのやら)
もちろん、体の方は呑気に興奮していい状態などではない。頬は紅潮していて、汗もしっかりとかいている。峠は越したけど、顔色は病人のそれだ。
私はすぐに葉月へと歩み寄り、肩を掴んだ。
「さ、桜さん?」
「全く……いきなり立ち上がろうとするからよ。ほら、寝てなさい」
半ば強引に布団へと寝かせる。
葉月は困惑するも、逆らうことなく大人しく布団へと横たわった。興奮が少し冷めたのか、ようやく倦怠感を自覚したらしい。
額にそっと触れる。手のひらに、じんわりと熱が伝わってくる。
いつもみたいに慌てふためくかと思いきや、気持ちよさそうに目を瞑った。外から戻ったばかりで、少し手が冷えているからだろう。
ぐう、と腹の虫が鳴いた。
熱を持った葉月の顔が、さらに赤くなる。
その様子が可愛くて、思わずくすりと笑った。
「何か食べたいものはある?」
「……甘いものを」
「ちょっと待ってて」
私はいったん部屋を出た。調理場へ向かい、汁粉をよそってもらう。葉月の好物かつ病み上がりでも食べやすいものとして、要望を出しておいたのだ。
汁粉と湯呑みをお盆に乗せて、再び葉月の部屋へと向かう。
部屋に向かう途中で、女中に「私が持っていきます」と声をかけられたが、大丈夫だからと丁重に断った。私が持っていきたかったのだ。
気を遣わせたくなかったのか、既に葉月は起き上がっていた。
「わぁ……! お汁粉ですか」
「葉月、汁粉好きでしょう? これなら食べられるかと思って」
「はい、多分いけます」
匙で汁粉を混ぜる。
小豆の匂いが、湯気に伴って上がっていく。
以前、餅屋のご主人が汁粉を振る舞ってくれたことがあった。
残り物と安物のあり合わせで作った賄いだったが、『甘い』『美味しい』と蕩けながら食べる葉月は、見ているこっちまで蕩けてしまいかねない有様だった。
「ご主人には悪いけど、社御用達の菓子店から仕入れた小豆を使ってるから、前に食べたのより格別に美味しいわよ」
「え、御用達っ!? そんなの、勝手に食べていいんですかっ?」
「勝手にって……御用達の品を巫女が食べなくてどうするのよ」
「あ、ですよね」
葉月が困ったように笑う。
巫女の生活には慣れてきても、貴人となった自覚はまだ薄いらしい。私からしたら、元の葉月も裕福な暮らしをしている印象があるが。
汁粉を匙ですくい、息を吹きかけて冷ます。
それから、葉月の口へと近づけた。
「はい」
「えっ!?」
葉月の顔が、また真っ赤になった。穏やかで引っ込み思案なくせして、表情は豊かなのが、葉月の面白いところだ。
匙を近づけていた手を止め、少し引っ込める。
「嫌なら別にいいけど?」
「……い、いただきます」
小声で呟きながら目を伏せるが、まんざらでもなさそうだ。むしろ、ほんのりと赤みを帯びた頬は緩んでいて、どこか嬉しそうにすら見える。
葉月は人懐っこいけど、あまり人に甘えない。
そういう質というより、甘えないようにと自戒している感じがする。
(だから、たまには甘えたくなるのかもね)
再び、匙を葉月の口元へと近づけた。
葉月の唇が、遠慮がちに開く。
そして、小鳥が啄むように、匙へと――――
「葉月様、お休みのところ申し訳ありません」
部屋の外から、侍女の声がした。
驚いたのか、葉月の体が大きく跳ね上がる。
「あ、はい!」
まだ熱があるというのに、葉月が律儀に大きな声で返事をする。眠っていた負い目から無理をしているのではなく、単純にそういう性分なのだろう。
見かねた私はそっと葉月を手で制し、代わりに部屋の外へと声を投げかけた。
「私が対応するわ」
「あ、桜様! ちょうど良いところに」
「え? 私に用なの?」
「はい。鹿男様から、桜様を呼んでほしいと伝言を承りました」
「鹿男が?」
「その、食堂で彩雲さんが李々様に縛られておりまして……助けてほしいと」
「あいつら……」
素が出てしまい、慌てて引っ込めた。襖越しとはいえ、向こうには侍女がいる。
鹿男が役に立たないのはいつものことだが、食堂で彩雲が縛られているとは一体どういう状況なのか。訳が分からない。
(まぁ、李々のことだしね)
はた迷惑なことこの上ないが、あの子が下らない理由で頭のおかしい状況を作り出すのは、今に始まったことではない。
「分かった、すぐに行くわ」
「ありがとうございます。それでは、私はこれで失礼致します」
侍女の足音が遠ざかっていく。
足音が完全に聞こえなくなったところで、私は葉月に向き返った。
「僕は大丈夫なんで、行ってきてください。ゆっくり食べてますから」
「悪いわね、慌ただしくて。また来れるか分からないから、空の食器は女中に運んでもらうわね。お代わりが欲しかったら、女中に言えばいいわ」
「はい。あの、すみません。忙しいのにわざわざ来てもらって」
「私は大丈夫。むしろ、今日は休んだ方よ」
「あ、そうなんですか? そういえば、なんか顔色良いような……」
茶色の大きな瞳が丸くなる。
自分は少し見つめられただけで顔を真っ赤にするくせに、こうやって私の顔をじっと見つめてくるのだ。
ちょっと照れ臭いが、顔には出さない。
変に照れたら、葉月が慌てて目を逸らしてしまうのは明らかだ。こういう時の葉月が可愛くて、密かに気に入っている私としては、この空気を壊したくない。
「さっき、三郎さんに休めと言われたからね。休むのも仕事の一つよ」
「そっか……よかった」
葉月の顔が綻び、ふわりと花開いた。
(あぁ――この笑顔だ)
じわりと、眼球の奥が熱くなる。
葉月が気を遣うことなど、何もないのに。
忙しくても、従者じゃなかったとしても、私は葉月に会いたかったのだから。
本当に良くも悪くも、葉月は優しすぎる。
その優しさが、どうしようもなく沁みる。
「じゃあ、ゆっくり休んでて」
「はい」
襖を閉めて部屋から離れる。再び、廊下に一人きりとなった。
「…………」
見たところ、葉月に変化はない。仕草も、表情も、言動も、葉月のままだ。少なくとも、すぐに何かをする必要はないだろう。
(……まだ、大丈夫)
何より、葉月の笑顔は変わらず綺麗だ。
月の光のように温かくて、花のように柔らかい。私の大好きな笑顔。
あの笑顔のためなら、私は――――
『もし、夜長が蘇るなんてことがあったら……あんたはどうする?』
思わず足が止まった。笑顔の余韻が、虹姫の声にかき消される。
頭にかかり出した黒い靄を、強制的に晴らす。
また靄がかかる前に、私は再び歩き出した。
襖が閉まり、足音が遠ざかっていく。
一人きりの部屋は、恐ろしく静かだ。人の声が、遠くから聞こえてくる。
僕がここにいなくても、世界は変わらず回り続けるんだろうな。そんなことを考えている自分に気が付いた。悲観しているのではない。病室にいた頃に考えていたことが、ふと頭を過っただけだ。
病室にいた頃の自分を思い返す。
あの頃は、世界に取り残されるのが当たり前だった。僕にはどうしようもない現実で、受け入れるよりほかなかった。
不思議な話だ。ほんの少し前のことなのに、なんだか遠い昔のように感じる。
(体も、あの頃とは全然違うし)
熱があるというのに、動けるのだ。
これは、驚きを通り越して事件だった。
それで舞い上がった結果、三郎さんには呆れられ、桜さんの前で盛大にこける醜態を晒してしまった。黒歴史のオンパレードだ。
しかも桜さんには、あの夜にも迷惑を――――
「…………あ」
今になって、あの夜のお礼を言い忘れていたことに気付いた。桜さんとの会話が楽しくて、ついのぼせ上がってしまった。
(まぁ、後でいいか。なんか忙しそうだし)
改めてお汁粉に目をやる。餅屋でご馳走してもらった時のことを覚えていてくれたんだと、思わず笑みが零れる。
お椀を手にする。手のひらに、心地いい温かさが広がった。
ふわりと、小豆の優しい香りが鼻腔をくすぐった。それだけでもう、お汁粉の温かさと甘さが舌の上に蘇ってくる。
お汁粉を、そっと匙ですくう。
息で少し冷ましてから、そっと口に含んだ。
「――――――」
待ち望んでいた温かさが、口の中に広がる。
なのに、弾んでいた心は一瞬で冷めた。違和感で、全身が硬直する。
恐る恐る、もう一口だけ食してみる。
「…………え」
おかしい。そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
不味いとか、そういう単純な話じゃない。
ほくほくと湯気を立てるお汁粉には、小豆の味が全くなかった。
次回。第十三話「花曇り ーはなぐもりー」(前編)
<各話タイトル解説(第十一、十二話)>
【桜の便り(さくらのたより)……桜の開花や様子を知らせる便り】
「花の便り」とも言います。こちらの方が一般的なようですが、今回は「桜」が語り部なので「桜の便り」の方を採用しました。
今回の「桜」には二つの意味があります。
一つは桜の開花、すなわち「葉月の目覚め」を待つ桜を指しています。
もう一つは「これまでの桜」です。
桜が自身の体質を自覚するところから、事件を経て現在に至るまでを「桜が花開いていく様子」になぞらえています。
葉月の目覚めを待つ「現在」の桜と、現在に至るまでの桜の「過去」。
今回は桜の視点ということで、桜という人間を構成するものを「桜の便り」という一つの言葉に込めました。