第十一話「桜の便り ーさくらのたよりー」(前編) ⑤
塩漬けされた葉のしょっぱさが、舌を撫でる。
程なくして、しっとりとした皮の食感と、こってりとしつつも優しいあんこの甘さが、桜の華やかな香りと共に口いっぱいに広がった。
(今の状態を李々に知られたら、いろいろ面倒ね)
小春と寄り道をしていたことはもちろん、私も桜餅を食べたかったと騒ぎ立てること間違いない。下手をすると、桜餅を食べる私を見たかったなどと馬鹿なことを言い出す可能性も……いや、絶対に言う。
(今度、こういう店に連れていってあげようかな)
人目を気にしないどころか見せつけるようにくっついてくるので、二人で外食することは滅多にないのだが、たまにこういう店に連れていくと大喜びする。
甘いものを食べる時の李々は、本当に可愛い。
小春の前なので絶対にやらないが、思い出すだけで頬が緩みそうになる。
(葉月とかも、喜ぶだろうな。甘いの好きだし)
そもそも葉月は、外出自体を喜ぶ。
元の世界では、病気でろくに出かけられなかったという。知らない場所に赴くだけでも、新鮮な気持ちになるのだろう。
最初に町を案内した時だって、ただ歩いているだけなのに楽しそうで、祭りではしゃぐ子供を連れているような気分だった。
(…………あ)
そういえば、葉月と一緒に町を歩いたのって、あの一度きりだ。
あの時は、本当に余裕がなかった。
巫女たちから葉月を隠すことで手一杯だった。
異世界に来たばかりで不安だっただろうに、町を案内したあの日から一週間、半ばほったらかしの状態にしてしまった。
葉月には、社と関わってほしくなかった。
普通の人間として、自由に生きてほしかった。社に目を付けられたら、あの優しい笑顔を絶やしてしまいそうで怖かった。
だけど、それはもう叶わない。
よりにもよって、葉月が巫女に選ばれたから。
それが、公衆の面前で証明されてしまったから。
私を助けるためとはいえ、葉月自身が巫女になることを望んでしまったから。
葉月が自分の意思で選んだことだ。今さら、否定するつもりはない。
だからこそ、あの時のように、二人で自由に町を歩くことは――もうできない。
(こんなことになるのなら、もっと一緒に歩けばよかったな……)
「あ、そういやさ」
小春が、桜餅を頬張りながら声を上げた。
「月国の新しい巫子様……確か、葉月殿だっけ? 実際どうなの?」
「――――っ!」
動揺が体中を走った。顔まで一気に熱くなる。
「……どうって、何が?」
小春に醜態を晒すなど冗談じゃない。
熱を引っ込め、平常心をもって口を開いた。すぐに冷静さを取り戻せるのは、胸の内に刃を隠し続けた侍女時代の賜物だ。
「夜長姫に似てるんだろ? 俺、謹慎中だったから未だに会ったことないけど」
「……似てるわ。恐ろしく」
「うわぁ。そりゃ是非とも会いたくねーな。別人だとは分かっちゃいるけどさ」
「でしょうね」
口調こそ軽いが、これは紛れもない本心だ。
茶をすすり、あえて無関心を装った。理由なんて聞くまでもない。
「ま、あの時のこと関係なしに、最初に会った時から無理だったけどね。なんかこう……人間のふりをしてるみたいで」
「言い得て妙ね」
口ではそう言いつつ、当然だろうと納得する。
この男の前では、どんな人間も、本性を隠し通すなんて不可能なのだから。
「その辺は安心していいわよ。容姿は驚くほど似てるけど、中身は似ても似つかないから。むしろ、心が洗われるくらい」
小春が目を丸め、それから軽く噴き出した。
「何それ。桜の心を洗うとか、洗浄力やばすぎ」
「汚くて悪かったわね」
口では文句を言いつつ、腹は立たなかった。
私が汚れているのは、私自身が一番知っている。本来なら、息をすることも許されない存在なのだから。
だというのに、小春は笑いながら「違う違う」と否定してきた。
「むしろ逆。綺麗な分、吸い込んできた灰が目立つんだよ。俺はそんな桜が好きだから、下手に洗い流されないか心配」
「……私を口説いたって何も出ないわよ」
「うわぁ、つれない」
からからとわざとらしく笑う小春を無視し、最後の一口を頬張る。
桜餅を食し終えたところで、懐から薬包紙を取り出し、中身を茶へと入れた。葉の粕が広がり、風情ある茶が濁り湯と化していく。
笑っていた小春が、目を細めた。
「……やっぱ、今も飲んでんだ」
「社仕えをするなら必須よ。素の状態では、巫女のお務めの邪魔になるんだから」
まだ私が六つの頃、初めて視察の舞を見に行った時のことだ。
舞台に巫女が現れた直後、人々が唐突にざわめき出したのだ。
巫女の風貌が変わっていたわけでも、不可解なものが現れたわけでもない。私からしたら、周りの人たちの方が不自然だった。
巫女の様子も、明らかに変だった。
舞う気配もなく、民衆に背を向けたまま立ち尽くしていたのだ。
訳が分からなかったが、今思えば当然だ。
年に一度、人々がその目で拝める『国の気』が、姿を見せなかったのだから。
人々だけではない。巫女も見えなかったのだ。
巫女に選ばれた者は、例外なく、気を見ることができるはずなのに。
そんな事情など知らなかった幼い私は、慣れない町中の空気と人混みにのぼせて気持ち悪くなり、両親に連れられてその場を離れた。
そして、がらりと空気が変わった。
人々の声が静まり、巫女が舞い始めたのだ。
振り返ってその様子を見た両親は、愕然としていた。おそらく、二人は『国の気』が現れたのを目にしたのだろう。
その直後に見た両親の眼差しは、今でもはっきりと覚えている。
驚愕と恐れが入り混じった瞳。
あれは、自分の子供に向ける目ではなかった。
間の悪いことに、ちょうどその頃は、日照りで作物が育たない日々が続いていた。家族はもちろん、村全体が飢えていた。
だから、私は捨てられた。
食い扶持を一人、減らす必要があったから。
私が、生まれながらの『鬼』だったから。
私が鬼だと知られたら、家族全員が『鬼』として村を追い出されるから。
「……桜の葉って、過剰に摂取すると良くないんじゃなかったっけ?」
「今さらよ。もう何年も飲んでるんだから」
「そりゃそうだけど……」
小春は何かを言いかけたが、唇を結んで言葉を呑み込んだようだ。
普段の気ままな振る舞いはどこへやら、こういう流れになると押しが弱くなる。やはり根っこは、子供の頃と変わらない。
「薬のこと、葉月様や李々は知ってんの?」
「李々は知ってるわ。葉月は知らない。何度か目の前で飲んだけど、葉月には胃腸薬だと言ってある」
薬包紙を仕舞い、薬で濁った茶を口にする。桜餅よりもさらに濃い香りが、薬特有の青臭さや葉の粕と共に、口の中に流れ込んできた。
「葉月様には教えないんだ?」
「必要に迫られない限りはね。余計な心配をかけたくないのよ。本当は李々にだって、話したくなかったんだから」
黒湖様の加護を打ち消して、巫女を殺す。
そんな所業を成せたのは、『人ならざる力』を消してしまう体質だからだ。
ただそこにいるだけで、巫女は力を使えず、気を見ることすらできなくなる。指先一つでも触れていれば、黒湖様の加護を一切受け付けない体と化す。
私の手にかかれば、不死身の巫女もただの人となり下がる。
あらゆる奇跡を、この体は拒絶するのだ。
本来なら、そんな私が夜長姫の傍にいられるはずがなかった。
巫女のお務めの妨害となるこの体質が明るみに出たら、社に足を踏み入れるなど許されない。姫を殺すなど夢のまた夢だ。
だけど、私は知っていた。
奇跡を拒む体質を、少しでも抑える術を。
桜の葉を服用するという方法を。
私が奇跡を拒絶することを『力』ではなく『体質』と称する所以だ。人ならざる力は、正真正銘の奇跡だ。薬なんかで抑えられやしない。
夜長姫を殺す。そう決めたあの日からずっと、規定の量以上の桜の葉を摂取し続けた。奇跡を拒絶する体質を抑え、巫女に近づける体へと作り替えるために。体への影響など、どうでもよかった。
それでも、私が『国の気』を見ることはできない。
どんなに量や回数を増やしても、そこだけは変わらなかった。
周りへの影響は抑えられても、巫女の力を受け入れることはできても、自身が全ての奇跡を許容するには至らなかった。
だから私は、先日の舞でも目にしていない。
皆が美しいと見惚れた、その一本桜を。
「ごちそうさま」
薬を飲み終えたところで席を立つ。
「え、もう? 早くね?」
「あんたも食べ終わったんでしょう。行くわよ」
長居は無用と急かすと、小春は怠そうに腰を上げた。早々に勘定を済ませて店を後にし、道中に見つけた路地裏へ向かって歩き出す。
路地裏に入り、人目がないことを確認して、改めて話を切り出した。
「あんたが受けた謹慎処分のことだけど」
「あぁ……職務怠慢だろ? それが、静で騒動が起きた一因だって」
「いいえ、違うわ」
小春はだらしないが、考えなしに社に反抗するほど愚かではない。
むしろ、本来は慎重で用心深い男だ。普段の軽薄さはこの男なりの仮面でしかない。職務怠慢で謹慎処分を受けるなんて、普通ならあり得ないのだ。
「なんで、私を庇ったの?」
「ん?」
「心の声が聞こえるあんたなら、分かってたでしょう? 私が巫女たちの目を欺いて、葉月の存在を隠していたことくらい」
小春の顔から、笑みが音もなく消えた。
これが本当の小春だ。私と同じ『鬼』の顔。周りから『鬼』と指を差され続けて、心から笑えなくなった本当の顔。
だから小春は『軽薄な男』の面を被る。
私は、面の下の鬼を知る数少ない人間だ。
「……それ、ここで言っちゃう? しかも、よりによって俺に」
「あんただからよ。聞くまでもないでしょう? 今の私は、あんたの力を拒絶してないんだから」
私が拒絶するのは、巫女の力のみではない。人ならざる力全てだ。
そして今は、桜の葉を服用することで、人ならざる力を受け入れている。
私の心の声は、この男に全部聞こえている。
その証拠に、小春は二人分の桜餅を頼んだ。茶屋に入る際に、桜餅の宣伝にほんの少し惹かれたのを聞き取ったのだろう。
だからあの時、わざわざお品書きを広げて、追加の注文を確認してきたのだ。私が本当に、茶だけでいいのかを聞き取るために。
葉月や李々について考えていたことも、過去に思いを馳せていたことも、何もかもお見通しなのだ。
「言うまでもないだろうけど、いくら人気のない場所だからって、こういう話をするのは危険だぜ? 俺はもちろん、お前もな」
「私だって『鬼』よ。他の『鬼』と一緒にいたところで、危険も何もないでしょ」
「……そういうところだよなぁ。ほんっと」
小春が溜め息をついた。こいつに何を言っても無駄だ、という顔だ。
以前、葉月に『鬼』について聞かれたことがある。
あの時は、教える情報を最低限に留めた。
巫女に捕まっても、訳も分からず連れ回されたと主張できるからだ。実際、葉月の『黒湖様の加護』で怪我人が出たにも関わらず、彼は罪に問われなかった。
葉月は、ぼんやりしているようで聡い。そして案外、行動力もある。下手に情報を与えては、私の目的に勘付いてしまう恐れがあった。
それに、私が『鬼』であることにも。
そうしたら、危険を承知で共犯になりかねない。自ら危険に飛び込みかねない。出会ったばかりにも関わらず、私の言動を好意的に受け止め、異様なまでに懐いてくる葉月には、そんな危うさがあった。
だから、私は言葉を濁した。鬼と呼ばれるのは、それ相当のことをした者だと。
そのせいで、葉月をあんな目に遭わせてしまった。
鬼が世間からどう思われているのか、ちゃんと説明していれば、葉月を一人で出歩かせていなければ……後悔してもしきれない。あれは、私の過ちだ。
鬼である条件に、善悪や良心の有無など関係ない。力を持つものは言うに及ばず、私のような特異体質の者や、心身に障害を持つ者も『鬼』と呼ばれる。
鬼とは、普通じゃない者を指すのだ。
神の如く崇められる巫女を除いて、例外なく。
「なんで私を庇ったの? あんたなら、私を容易に社へ突き出せたのに」
「……それ聞いてどうすんの?」
「別に、どうもしないわよ。ただ、あんたが姉さんに負い目を感じたとしても、私にまで感じる必要はないと言いたいだけ」
小春の顔が、傍目でも分かるほどに強張った。無理もない。あの時の事件は、間違いなく、こいつの人生を大きく狂わせたのだから。
私もそうだ。
あの事件で、たった一人の姉を――――失った。
次回。第十二話「桜の便りーさくらのたよりー」(後編)
(2025/4/15 追記)
改稿の末に、ここまでが第十一話となりました。
本文の内容はそのままに、全体的に加筆と修正を施してあります。




