第十一話「桜の便り ーさくらのたよりー」(前編) ④
久しぶりの『外』です。
巫女の許可さえ下りれば、一時的に外に出られます。巫女自身は出られませんが。
歩きながら、ちらりと曇天を仰ぐ。
雨は一時的に上がったものの、湿った空気と匂いは変わらない。いつ降り出してもいいように、片手には傘を携えてある。
陰鬱な天気にげんなりしつつ、雑踏を塗って裏通りへと入った。どの国の社町にも必ずある、欲と熱のはけ口にまみれた華の裏通りだ。
遊女屋は数えるほどしかなく、むしろ庶民的な居酒屋や茶屋の方が多い。四十年前の平和条約によって、多くの遊女屋が取り締まられたからだ。町人からしたら、気軽に足を運べる場所となったのだろう。
かつての華やかさを失った今でも『華町』と呼ばれているが、間違っても『花町』とは書かない。
花は、桜に並ぶ巫女を象徴する文字だ。『花町』と書くのは、社に向けて私の首を刎ねてくださいと頭を差し出すのと変わりない。そんな事態を防ぐために、花の代用文字として『華』が作られたという俗説もあるくらいだ。
近年は、町人同士で逢瀬をする場として、若者の間で密かに人気を集めている。
遊女屋が廃れても、男女が逢瀬をする場であることに変わりない。温厚な葉月には刺激が強かろうと思って、この手の場所には案内していない。
「だったら今からお茶しない? 俺、良い店知ってんだよね~」
こじんまりとした茶屋の前で、めかし込んだ女に声をかけている男がいた。
肩まで伸ばした髪の一部を三つ編みにし、左のこめかみに沿うように垂らしている。あんな凝った髪型にするのは、女か役者くらいだ。
加えて、あの馴れ馴れしい口調と声。
背中しか見えずとも、小春その人だと分かる。
このまま通り過ぎてしまいたいが、仕事なのでそんなわけにはいかない。
深呼吸を一つ。普段あまりしない表情を作り、静かに二人へと歩み寄る。
背中を向けている小春はまだ気付いていないが、その背中越しに女と目が合った。たちまち女の顔が強張る。手応えは悪くない。
「ん? どうかした?」
「おい」
主人以外には不愛想な誰かさんを意識して、どすを効かせた低い声を出した。
途端に、小春の肩が跳ねた。
からくりのようなぎこちない動きで首を回し、後ろにいる私へと顔を向ける。
「んげぇっ!?」
なんとも間抜けな声と共に、無駄に端正な顔が引きつった。女に向けていたすまし顔も、一瞬にして台無しである。
「三郎さ……いや、さく――」
「この浮気者!!」
女だと一発で分かる名前を口にされる前に、声を張り上げた。
小春の動揺を誘うためであり、あえて周囲の注目を浴びるためだ。
「あれだけ言ったのに……一体何度目だと思ってんだ!! それに誰だよ三郎って!? どれだけ囲えば気が済むんだお前は!!」
修羅場の雰囲気をさらに醸し出すために、地面を踏み砕かんばかりの勢いで小春に歩み寄った。勢いに押された小春が、情けなく後ずさりする。
「ちょ、ちょっと待――」
「待ったも何もあるか!! 男でも構わないって言ったのはそっちだろ!? 今日という今日は絶対に許さないからな!!」
「いや何その設定……って、ああああ! 違うよ!! 誤解だって!!」
女が苦虫を噛み潰すような視線を残し、そそくさと立ち去っていく。みっともない声と共に伸ばした小春の手が、だらしなく空を切った。
「滑稽ね」
「くっそー、久々に手応えあったのに……もう少しだったのに!」
小春が恨めし気な顔を向けてきた。ますます滑稽なことこの上ない。
これで当分、この町でくだらない遊びに興じることはできないだろう。わざわざ男物の服を着て、さらしを巻いて胸のふくらみを押さえた甲斐があった。
「ほら、行くわよ」
また女が寄ってきては面倒なので、早々に華町を抜けるべく小春の腕を掴んだ。
「あー! 待って!! 離して!!」
振り解きはしないものの、動こうとしない。
三郎なら問答無用で担ぎ上げるだろうが、私は生憎、そんな怪力を持ち合わせていない。毒でも持ってくるんだったと密かに後悔する。
「頼むよ、桜。ちょっと息抜きしてただけなんだって、本当に。ここは一つ、同郷の誼として見なかったことにし――」
「今度は悲鳴を上げるわよ」
「すみませんでした!」
女の武器をもって小春を黙らせたところで、気を取り直して表へと歩き出した。
小春を連れて華町を出た私は、ひとまず辺りの茶屋に足を運んだ。
「なぁんだ。結局、俺と二人っきりになりたかったんじゃん。素直じゃないなぁ」
たちまち機嫌を良くした小春に、軽蔑たっぷりの白い目を向ける。
本当ならこいつとお茶なんて御免だが、くだらないことで根に持たれたくないので、茶の一つでも奢って棒に振ってもらうことにしたのだ。
(それにまぁ……くだらない趣味とはいえ、楽しみを奪ったのは事実だしね)
「ていうか、桜と二人きりになるなんてすげー久しぶり。あ……もしかして、あんな風に割って入ったのは嫉妬し――」
「寝言も大概にしてくれる?」
前言撤回。こいつにほんの少しでも同情した私が馬鹿だった。
「だってさ、俺を捕まえるために、わざわざ男になりきったんだろ? さらしまで巻いてさ。可愛いとこあるじゃーん」
「黙りなさいこの職務怠慢男。後輩に仕事を押し付けた挙句、昼間から女遊びとはね。随分と偉くなったものじゃない」
「職務怠慢男って……桜だって、昼まで寝てたって話じゃん」
「恥ずかしながらね。でも、私は休めと三郎さんに命じられたのよ。白昼堂々、女と遊んでたあんたと一緒にしないでちょうだい」
小春が「あぁ」と納得の声を上げる。
「そういやお前、巫子様に夜通しで付き添ってたんだっけ? 三日間ずっと」
「仮眠はしてるわ。交代しながらだから、片時も離れていないわけじゃないし」
「初めてだよな、桜が昼まで寝てるとか。見に行きゃよかったなぁ。普段すましてる女の子って、寝てる時に無防備にな――」
「ちょん切るわよ」
女にあるまじき言葉を吐いてしまった。
李々が危惧していた頭の悪い人間が、よりにもよって目の前にいたという事実に、人目も憚らずに唾を吐きかけたくなる。
「まぁ……あんたと二人きりになりたかったのは、確かだけどね」
「へぇ」
小春が、それは意外だと言わんばかりに目を丸める……というふりだ。
まったく、と微かに苛立つ。分かってるくせに、白々しいったらありゃしない。
「真面目な桜のことだし、ただ駄弁りに来たってわけじゃないよな?」
「店を出た後でいいわよ。人前で話せるような内容じゃないから。ここに入ったのは、余計な恨みを買いたくないからってだけだし」
「別に恨んでないって。桜に連れ回されるなら、むしろ大歓迎~」
「あっそ」
戯言に付き合うつもりは欠片もないので、軽く流しておく。
この男のご機嫌取りのために寄り道をしているわけだが、実のところ、私としても社へ直行するわけにはいかないのだ。
社では、大っぴらに話せないことも多々ある。
かといって、なんの理由もなく社から出ることなど許されない。
面倒事に巻き込まれた形だが、私にとって、またとない機会だった。
「それで……あんたの急用というのは、真っ昼間から華町で女遊びに興じることだったと報告すればいいのかしら?」
「え、この流れで説教入る?」
「そもそも、あんたを社に連れ戻すために来たのよ。話をするのはついでだから」
「うへぇ……」
調子こいていた顔が、一瞬でへの字口になる。
「急用があったのは本当だって。炭様にお使い頼まれたんだよ。ほら」
小春が懐から紙を取り出して、私に見せた。
炭姫らしい淡々とした筆跡で『桜煎餅』とだけ書かれていた。華町付近の土産屋で売られている、期間限定の煎餅だ。
「なるほどね」
社で出される菓子は甘いものが多い。巫女に選ばれるのが基本的に女であり、それに伴って社仕えの者も女に偏っているからだろう。
だが、炭姫は甘いものをあまり好まない。
食べられないことはないが、どちらかと言われたら速攻で塩辛いものを選ぶ。
「で、その荷物は?」
「下男に持っていかせたよ。今頃、炭様が美味しく頂いてんじゃね?」
「あんたね……」
ちゃっかり荷物持ちを同行させたようだ。
しかも、その辺の下男を捕まえたらしい。呆れて物も言えないとはこのことだ。
「つーかさ、社の主たる巫女様の許可がないと、外に出られないわけじゃん?」
「えぇ。あんたが正当に外出の手続きを踏んだことは、花鶯様から確認済みよ」
「だろ? 俺が外出してたのは主人の命令だからだし、許可だってちゃーんと取った。説教される筋合いはどこにもないわけよ」
「その花鶯様に仰せつかったのよ。『お使いを頼まれたとか言ってたけど信用ならない。もし馬鹿なことをしていたら、問答無用で連れ戻しなさい』ってね」
「え? 俺、信用なさすぎじゃね?」
「むしろ信用されてると思ったの?」
「うわぁ……そんなことってある?」
小春が心外だと言わんばかりに肩を落とす。そもそも、あの潔癖で生真面目な姫が、女たらしで軽薄な小春を無条件で信用するはずがない。
「あーあー。あの頭の固さがなけりゃ、花鶯様も射程圏内なのにな。いささか気は強いけど、華町でも食っていける顔だし」
「そんなこと言ってるから信用されないのよ」
不敬極まりない言葉を吐く小春に、じろりと冷たい視線を向ける。
前から華町が服を着て歩いているような男だと思っていたが、とうとう脳内まで華町と化したようだ。嘆かわしい。
「そういや、外出といえば菜飯。もう二ヶ月だろ? さすがに長くね?」
「そろそろ戻ってくるという話だけど」
「どうだかね。しかも、命を出したのって黄林様なんだろ? 主人である花鶯様を差し置いてさ。やばくね? 社の暗部にでも首突っ込ませ――」
「小春」
すかさず言葉を遮った。笑いながら話しているが、その内容の危うさは、花鶯姫への不敬極まりない冗談の比ではない。
「今の言葉……間違っても、社の中で口にするんじゃないわよ」
「分かってるって」
本当に分かっているのか怪しい返事をしながら、小春がお品書きを取り出した。
「ちょっと。お茶だけって言ったでしょ」
「さすがにこれ以上は女の子に払わせないって。桜はどうする?」
「いらない」
「そっか。お姉さん、桜餅二つちょーだい」
通りかかった給仕の女性に、小春が慣れ慣れしく声をかける。
「かしこまりました。少々お待ちください」
給仕の女性が店の奥へと向かう。程なくして、桜餅が二つ運ばれてきた。
見るからに甘そうなあんこが、桜色の薄皮の生地に包み込まれ、その上に塩漬けされた桜の葉がくるりと巻かれている。
何度見ても、やはり違和感が拭えない。
というのも、これは東で食べられる桜餅だからだ。西で育った私が食べてきた桜餅は丸いし、そもそも餅を薄く伸ばして皮にしない。あんこの外側には、しっかりともち米の食感が残っているのだ。餅は餅でもおはぎに近い。
もっとも、基本的な材料は同じなので、味はそれほど変わらないが。
「ありがとー。ついでにお姉さんとお話できたら嬉しいんだけどな」
「それではごゆっくり」
「え~」
給仕の女性は満面の笑顔だけを残し、再び店内を回り始めた。華町付近にある店だからか、この手の馬鹿のあしらいには慣れているようだ。
小春の方も、あしらわれるのは慣れっこなのだろう。女性のことなどすぐに忘れて、目の前の桜餅を一つ手に取った。
「はい」
残り一個となった皿を、なぜかしたり顔でこっちに差し出してきた。
「……私、いらないって言ったわよね?」
「まったまたぁ。桜餅、好きだろ?」
「好きだけど」
「あ、もしかして金がないとか?」
「あんたと違って無駄遣いしないだけよ」
社仕えの今は生活に不自由しないとはいえ、あまり予定外の出費はしたくない。必要だからというより、これまでに培われた貧乏性によるものだが。
「心配すんなって。俺が払うから」
「金がないわけじゃないわ。私が払う」
「いいって、俺が勝手に頼んだんだし。わざわざ俺を迎えにきたんだろ? ここは迷惑料ってことで」
「……そういうことなら」
「やったね!」
浮ついた小春の顔を見ても癪に障るだけなので、桜餅へと目をやる。
桜の季節は過ぎたが、視察時には町中で桜に因んだ商品が期間限定で販売される。小春が頼まれた桜煎餅や、この桜餅がまさにそれだ。
小春のすまし顔は腹立たしいが、丹精込めて作られた桜餅に罪はない。
店の暖簾をくぐったからには、美味しく食するのが客としての礼儀だ。そう気持ちを入れ替えて、桜餅を口に含んだ。
⑤に続きます。