第十一話「桜の便り ーさくらのたよりー」(前編) ③
「大丈夫よ。まだ決まったわけじゃないから」
李々の細い体を引き寄せ、抱きしめる。
驚いたのか、小さな声を漏らした。
「それに、葉月なら大丈夫。彼は、私が思っていたよりも強いから」
「心底どうでもいいよ、あんなへらへらした男のことなんか」
李々の容赦ない言葉に、思わず「あんたね」と笑ってしまった。
三日前に、葉月が言っていた言葉を思い出す。
『僕、強くなります。夜長姫に呑まれないくらいに――――強く』
あれは、言葉通りの意味ではない。
夜長姫だと疑われる不安を打ち消すために、わざわざあんな言い方をしただけだ。夜長姫に侵されていることなど、彼は知らないのだから。
それでも、私は信じている。
どんなに変わっても、最後まで抗って、葉月であり続けようとすると。
「大丈夫」
李々を少しでも安心させるために、そして自分にしっかりと言い聞かせるために、もう一度はっきりと口にした。
「――さてと、そろそろ仕事に戻らないとね」
しんみりとした気持ちを切り替えるために、らしくもない明るい声を上げた。その勢いのまま立ち上がり、背伸びをする。
「もう? 大丈夫?」
「ただの睡眠不足よ。不足分は充分補ったし、休み過ぎるのは逆にしんどいのよ」
「桜ちゃんはもっと休んでいいと思う。なんなら、私と良いことしない?」
「馬鹿なこと言ってないで、あんたも早く仕事に戻りなさい」
「――ああ!!」
突然、李々が声を張り上げた。なぜか、唇をわなわなと震わせている。
「桜ちゃん……葉月さまが巫女になるまでは、ずっと一つ屋根の下で一緒に暮らしてたんだよね? 殺したいほど腹立たしいことに」
「えぇ、まぁ。家の主人が一階にいたから、別に二人きりじゃなかったけど」
「まさかあの女男……寝ている桜ちゃんの頬っぺたをいやらしく触――でぇ!!」
馬鹿なことを口走る変態女の頭を掴み、布団に押し付けてから部屋を後にした。
通りかかった庭の横で立ち止まる。
曇天から降りしきる雨が、庭の木々や小池に当たって、小刻みに音を鳴らし続けている。今朝と比べると落ち着いたけど、しばらく晴れ間を拝めなさそうだ。
雨の中で佇む桜の木は、すっかり緑が生い茂っている。雨の匂いと緑の木々が、静かに春の終わりを告げていた。
「待ってくれよ彩雲!」
「うるせぇ! なんでオレが、んなことまでしなきゃなんねーんだよ!」
廊下の向こうから、風情の欠片もない足音と騒ぎ声が近づいてきた。
「下男や女中だけじゃ手が回らないんだよ! 従者の俺たちも手を貸さないと!」
「だからオレはジューシャじゃねーっての!」
わざわざ確認するまでもない。彩雲と鹿男だ。
私は彩雲の背後に近づき、両側のこめかみを拳で挟んで渾身の力をねじ込んだ。
「いででででで!!」
なんとも間抜けな悲鳴が上がる。やかましいことこの上ない。
彩雲が振り返くや否や、歯を剥き出しにして睨みつけてきた。反応が何もかも予想通りすぎて、もはや白けてくる。
「なにしやがるこの暴力毒女!!」
「鹿男、あんた確か掃除当番よね? なんでこの餓鬼とじゃれ合ってるわけ?」
「えっと……」
「ガキじゃねーし!! じゃれてねーから!!」
「そもそも、小春はどうしたのよ。あいつも掃除当番でしょう?」
横で吠えるやかましい餓鬼は無視して、引き続き鹿男に話を振る。
「それが小春さん、『ちょっと急用出来ちゃった~』って出てっちゃって」
「あの馬鹿……」
あまりの馬鹿さ加減に、思わず頭を抱えた。謹慎処分が解けたばかりだというのに、何をやっているのか。あいつは。
「小春さん、いつ戻ってくるか分かんないし、夕飯までに済ませないといけないから、暇そうな彩雲に代わりを頼んでたんだ」
「ヒマじゃねーし!! そのコハルって奴を連れ戻しゃいいだろーが!! つかなんで行かせたんだよこのカス!!」
「止める前に行っちゃったんだよ! 今から探してたら間に合わないし……」
「とにかくオレはやんねーからな!! ただでさえコキ使われまくってんだ!! 休みん時に働くとか冗談じゃねー!!」
再びぎゃあぎゃあと騒ぎ出した二人を前に、私は溜め息をついた。面倒なことこの上ないが、このままでは埒が明かない。
「……私が連れ戻してくるわ。行く宛ては大体分かってるから」
「本当っ? ありがとう!」
「オレも行く」
彩雲が己を親指で指差す。なぜか、自分も行くのが当たり前みたいな口ぶりだ。
「冗談じゃないわ。あんたは鹿男と一緒に、大人しく掃除してなさい」
「やなこった。そいつに文句の一つも言わなきゃ気が済まねぇ」
「じゃあ、好きになさい。後で下剤を盛るから」
「あ、げざい?」
「便所から離れられなくなる薬よ」
「オレを殺す気か!?」
「下剤で死んだりしないわよ。お通じの悪い人には、歴とした薬なんだから」
「うっせぇ! この毒女が!!」
(……その言葉、何度聞いたか分からないわね)
語彙力が低すぎて、私への罵倒はほぼ『毒女』で固定されている。少しも間違っていないけど、もう少し他に言葉が出てこないのだろうか。
「だいたい、なんでオレが掃除するのが当たり前みたいになってんだよ!!」
「あんたが、生きる術を持たない子供だからよ」
彩雲の顔に、明らかな怒気が湧いた。
いつもの短気を起こす餓鬼の顔ではない。
これは――本気の怒りだ。
それでも勢い任せに否定しないのは、図星だからだ。言い返せないであろうと見越した上で、その言葉を使った。
卑怯だ、と言わんばかりに唇を噛んでいる。
卑怯で結構。
餓鬼と同じ土俵で押し問答を続けるつもりは、さらさらない。
「あんたが見知らぬ世界で路頭に迷わずにいられるのは、虹様があんたを従者として傍に置いてくださっているから。あんたはその御恩を労働で返す。おかしなことは一つもないでしょう?」
「ありまくりだろボケ!! そばに置いてくれなんて頼んでねぇし!!」
「じゃあ、路頭に迷わない自信でもあるの?」
「食いもんなんかその辺から取ってきゃいいし、その辺で寝りゃいいだろ。つうか、そもそもオレに家なんかねぇし」
「家がない?」
「あそこは、ババアがキモいオッサンといちゃつく場所だ。家なんかじゃねぇよ」
「……そう」
葉月たちの世界ではどうか知らないが、この世界ではそういう荒んだ家庭も珍しくない。それでも、平和条約前よりはましになったそうだが。
かくいう私も、両親に捨てられて家を失くした。
だから、姉さんが拾ってくれるまで、帰る家なんてどこにもなかった。
彼には、そういう人間はいないらしい。
あるいは、虹姫がそうなるのか。
(……私が考えても、仕方ないわね)
「とにかく、下剤を盛られたくなかったら今すぐ掃除してきなさい」
「テメー話聞いてたのかよ!? オレは今すぐ追い出されたって困らねぇっつってんだ!! 助けてるつもりかよ!!」
(そう来たか……)
これは相当こじらせている。なんだか、昔の自分を見ているみたいだ。
だからこそ、分かる。
この子に、上から目線の同情は禁物だ。
「いいえ、違うわ。命令だからよ」
「あ?」
「あんたを従者にして保護すると決めたのは、虹様よ。他国の巫女であろうが、巫女の言葉は絶対。だからみんな、その命に従ってるだけ。そうでなきゃ、あんたみたいな餓鬼を無償で社に置いたりしないわ」
「……また『巫女』かよ」
耳にたこができると言わんばかりに、彩雲が顔をしかめる。ひとまず、唾を吐き捨てないくらいの礼儀はあるようだ。
「どうしても出ていきたかったら、虹様に直接訴えることね。もっとも、あの人の命に反する力と語彙力があればの話だけど」
「…………」
「分かったら仕事に戻りなさい。今のあんたにはどうしようもないのよ」
「イヤだっつってんだろ!!」
また振り出しに戻ってしまった。堂々巡りにもほどがある。
(鞭では梃子でも動かない性分ね……)
分からなくもない。私も、幼い頃はそういう強情さがあった。もっとも、話を堂々巡りにするほど馬鹿ではなかったけど。
それなら、やり方を変えるまでだ。
「ここで大人しく掃除をするなら、あんたの言う『ごっつい肉』を仕入れてもらうように手配してやってもいいんだけど」
「は……マジかよ!?」
「えぇ、まじよ」
「え、『まじ』ってなに?」
せっかく良い感じで釣れそうなのに、空気の読めない発言で話の腰を折ろうとする馬鹿男は放っておく。
「もう一度言うけど、真面目に仕事をしたらよ。一度でも逃げ出す素振りを見せたら、あんたのご飯は当分肉なしにしてもらうから」
「……ち、わぁったよ」
舌打ちをしながらも、彩雲は条件を呑んだ。
変わり身の早さに、どんだけ肉を喰いたいんだこいつと呆れるほかないが、とりあえず餌を与えておけば問題はなさそうだ。
そして鹿男はといえば、馬鹿みたいな顔で口をあんぐりと開けていた。
「す、すげぇ……」
「鹿男。あんたはもう少し落ち着きなさいよ。同じ次元でぎゃんぎゃん騒いでたって仕方ないでしょう」
「うぅ、面目ない……」
「ははっ! 怒られてやんのー!!」
彩雲が調子に乗って笑い出した。
さり気なく侮辱されているのに全く気付かない辺り、礼儀や人としての常識のみならず、頭の出来も残念らしい。
「あれ? でも三郎さんって、いつも彩雲のことぶん殴って黙らせてるよね?」
「あれは、あの人だから成せる業よ」
圧倒的な力の差があれば、従わせるだけなら殴るのが最も手っ取り早い。
便利なやり方だが、過剰な暴力にならないように加減をする必要がある。三郎は、その辺りの調整も巧みなのだ。
「あー、三郎。あいつマジでムカツクよな。すぐボカスカ殴ってきやがるしよ」
「殴られるのはあんただけよ」
「あ、俺も結構殴られる」
「……じゃあ、私もう行くから」
返答するのも面倒だったので、この辺りで話を切り上げることにした。
「え? あ、うん、分かった! ありがとう!」
一瞬目を丸くしたものの、鹿男は深く考えることなく笑顔で頷いた。空気が読めないのがたまに傷だが、彩雲と違って素直なので扱いやすい。
「ほら彩雲、行こう!」
「おい引っ張んな! 自分で歩けるっての!」
有り余った力で腕を引かれていく彩雲を、横目で見送る。なんだかんだ言って、騒がしい者同士で気が合うようだ。
「……さてと」
まずは外出の許可を取るべく、この社の主である花鶯姫の部屋へ向かった。
④に続きます。