第十一話「桜の便り ーさくらのたよりー」(前編) ②
回想、終わりです。
目を覚ました桜の前には……。
雨の音と共に、意識が明瞭になっていく。
どうやら、畳の上で座ったまま眠っていたらしい。さっきより空が明るくなっているけど、それほど時間は経っていないだろう。
睡眠というには程遠いが、問題ない。
幼い頃の生活や侍女としての経験から、その時の体勢や体調に限らず、日が昇り始めれば自然と覚醒するように出来上がっている。
「……おはよう」
目の前で眠る人物に、そっと囁きかける。
返事はなく、声を漏らす気配もない。
首周りで切り揃えた亜麻色の髪を枕に広げ、寝息を立てるばかりだ。長い睫毛も微動だにせず、人形を眺めているような錯覚に陥りそうになる。
脈を診るため、首筋と手首に触れる。
熱は依然として高いが、脈も、呼吸も落ち着いている。危険な兆しは見受けられないものの、回復に向かっているとは断言できない。
高熱のせいで、額に汗をかいていた。
手ぬぐいでそっと、汗を拭う。
これでも、昨夜よりかなり下がっている。昨夜は布越しでも熱かった。
三日前、葉月が発作を起こして意識を失った。
高熱と脈の乱れ以外に大きな異常はなく、ただ眠り続けている。新たな発作が起こる気配も、今のところはない。
(……あの時と、同じだ)
少しも似ていないのに、かつて共に過ごした『あの子』の姿と重なっていく。
あの子も、こうやって熱を出して昏睡したのが始まりだった。赤みを帯びた栗色の髪を枕に広げて、頬を紅潮させて、うんともすんとも言わず。
目を覚ました時には、栗色の髪が、鮮やかな真紅に染まっていた。
そして、それすら始まりにすぎなかった。
(もし、あの時と同じなら、葉月も……)
花鶯姫曰く、ここ数日で急に気を見始めて、体が驚いているとのこと。事実、巫女が視察中に体調を崩すこと自体は、別に珍しくない。
(だけど、あの子と同じ道を辿るなら、私は――)
足音が、ふと耳をかすめた。
規則正しいこの足音は、三郎のものだろう。
そして予想通り、足音が止まると、襖の向こうから三郎の声がした。
「葉月様の御容態は?」
「まだ眠っておられます」
「そうか……中に入っても大丈夫か?」
「えぇ、問題ありません」
襖が開き、三郎が入ってくる。
目が合った瞬間、三郎は眉をひそめた。
「酷い顔だな。寝ていないのか?」
「仮眠は取りました。仕事に差し支えることはないので、ご心配には及びません」
嘘ではない。眠いのは確かだが、この程度なら許容範囲だ。
「交代だ」
「え、まだ交代には早いのでは?」
「構わん。お前、この三日間ろくに寝ていないだろ。部屋で休んでこい」
「いえ、まだ大丈夫です」
「一人に仕事の負担が集中することのないように。姫様からの御達しだ」
「……分かりました」
黄林姫の名を出されては断れない。
そもそも、この人に何を言ったところで無駄だろう。主人の命令でない限り、頭をかち割ったって考えを変えない。どが付くほどの頑固者なのだ。
「昼まで寝ろ。移動は明日になるから、今日は人手が足りんということはない」
「一刻眠れば大丈夫です」
「駄目だ。仕事の最中にお前が倒れでもしたら、僕が困る。今は菜飯もいないから、面倒事は全部僕に回ってくるんだ」
「……しっかり休ませていただきます」
(相変わらず、素直じゃないわね)
前から薄々気付いていたが、この人はどうも、自分の親切を隠したがる質らしい。面倒くさいというかなんというか。
それはさておいて、三郎になら、安心して葉月を任せられる。
口うるさいし面倒だが、真面目で仕事ができる上に、変人の少なくない社では貴重な常識人だ。変なことはけしてしない。
何より、彼は従者という立場と役割を、誰よりも重んじている。
「では、葉月様をお願い致します」
「あぁ」
一礼して、葉月が眠る部屋を後にする。
念のため、その辺を歩いていた鹿男を捕まえて、昼まで休むよう申し付けられたことを伝えてから自室へと戻った。
布団に横たわった途端に、ずしりと石でも乗せたように頭が重くなった。どうやら、思っていた以上に体は睡眠を欲しているらしい。
本当なら目が覚めるまであそこにいたかったのに、体がそれを許してくれない。
当たり前のことだが、それが疎ましい。薬と多少の医学の知識があるから、なおさらその当たり前が身に染みる。
「…………はぁ」
無意識に、溜め息交じりの声が漏れた。
その穴を埋めるかのように、葉月の朗らかな笑顔が頭を過る。
(早く、目を覚まさないかな)
ふと、そんなことを思った自分に苦笑した。
どうやら自分で思っている以上に、彼の笑顔が恋しいようだ。あの憎たらしい姫と同じ顔をしているのに、不思議な話だ。
(……なに、馬鹿なことを考えてるのやら)
葉月は、夜長姫とは違う。そんなことは、私が誰よりも知っているはずだ。
それなのに、時折あの姫と重ねてしまう。葉月がわざわざ髪を切ったのは、私が夜長姫を思い出さないよう気遣ってくれたからだろうに。
葉月は葉月だ。それ以外の何者でもない。
雑念を圧し潰すように瞼を閉じる。
たちまち全身が、夢の入る余地もなさそうな深い眠りへと誘われていった。
***
頬に、おかしな感触がした。
覚醒したのだと理解すると共に、嫌な予感を覚えながら瞼を開く。
「あ、桜ちゃん!」
やはり李々の仕業だった。横に腰を下ろし、私の両頬を指でつついたり摘まんだりして、好き放題に弄んでいる。
「はぁ~、寝起きの顔も可愛いよぉ~」
「……最悪の目覚めね」
素っ気なく感想を口にするが、頬が押し潰されて唇が上下に開いている私の顔は、滑稽以外の何ものでもないだろう。
全身で蕩けきっている馬鹿女から見たら、そうでもないのだろうけど。
「桜ちゃんの頬っぺた、すっごく気持ち良いんだもん。眉もそんなにひそめちゃって……あぁ、もうほんとに可愛い! ちゅーしちゃうぐぉ!!」
とりあえず、この変態女を黙らせるべく顎に掴みかかった。上に力を加えて、阿呆な口ごと塞いでやる。頬も潰れるがこれでおあいこだ。
変態女はというと、顎と頬を鷲掴みにしても分かるくらいに頬を緩ませている。
「も……もっと……!」
「変態の遊びに付き合うつもりはないから」
いったん黙らせたところで、馬鹿げた害をさらに被る前に体を起こした。
今朝と違い、夢を見ることもなく熟睡したおかげで、睡眠不足は解消された。些か目覚めが悪かったが、わざわざ二度寝するほどでもない。
「桜ちゃん、調子はどう?」
「おかげさまで、すっかり元気よ」
「よかったぁ」
「随分と寝てしまったけど、そっちは大丈夫?」
「むしろ、寝不足の桜ちゃんがいたら仕事どころじゃなかったよ。無防備な桜ちゃんを前に、野郎共が発情しないか気が気じゃないもん!」
「……大丈夫よ。そんな頭の悪いことを考えるのは、あんただけだから」
溜め息と共に、李々に白い目を向ける。この子の変態思考は今に始まったことじゃないので、それ以上はあえて追及しないでおく。
「悪いわね、世話かけちゃって」
「もっとかけてほしいくらいだよ。桜ちゃん、いっつも無理するし」
「倒れない程度でしかしないわよ。いざって時に動けなかったら困るもの」
「うぅ、それだけじゃないもん……」
李々が小さく頬を膨らませる。魅惑的な体つきに反して、表情は幼子同然だ。
人前では愛想笑いと毒舌を振り撒く彼女だが、時折、こうやって子供のような顔をする。案外、この顔が最も素に近いのかもしれない。
「……葉月さまのこと、心配?」
「え? それはもちろん、従者として――」
言葉を取り繕っていることに気付いて、いったん口を閉じた。
李々は、私に建前など求めない。
私も、この子の前では、できる限り自分を偽らないと決めている。
「……うん。心配」
「そっか」
李々が独り言のように呟いた。明るく華やかな李々には似合わない声だ。
「ねぇ、桜ちゃん」
「なに?」
「わたしは、あの人に何も感じない」
李々の声から、甘さが消えた。
同じ人間が出しているとは思えないほどに、鋭く、冷淡な声だ。
「わたしならできるよ。躊躇なく、心も痛めず。巫女は黒湖様の加護で守られていても、不死身なわけじゃない。桜ちゃんにできたなら、わたしも――」
「駄目よ」
李々が言い切る前に、素早く遮った。
「前にも言ったけど、あんたには、私のような鬼になってほしくないの」
李々は基本的に、自分の気持ちに素直だ。好きな人間には好意を、嫌いな人間には侮蔑を向ける。どうでもいい人間に至っては目もくれない。
いざとなれば、あっさりと情や倫理を捨てて冷徹になれる。そんな一面が、この子にはあるのだ。躊躇しないという言葉通り、一度やると決めたら必ず成し遂げるだろう。自分が鬼になるのも構わずに。
もちろん、駄目の一言で簡単に引き下がるような女ではない。俯きながらも、李々は歯を食いしばって「違う」と食い下がってきた。
「桜ちゃんは、鬼なんかじゃないもん……」
食い下がってきたが、消え入りそうな声だ。
自己主張の強い彼女が断言できないのは、私が鬼である事実が故だ。どんなに庇いたくても、事実がけして許さない。
「もし桜ちゃんが鬼なら、わたしだって鬼だよ。たくさん、人を殺したし」
「あんたのは正当防衛よ。咎められるようなことなんて何もない」
「殺しは殺しだよ。何も変わらない」
「変わるわよ。知ってるでしょう? あの姫に近づくために、私がどれだけ罪のない人の命を奪ったか」
「……どうでもいいよ、そんなの。わたしは、桜ちゃんのためなら鬼になりたい」
(鬼になりたい、か)
鬼がこれでもかというほど蔑まれる世の中で、そんなことを当たり前のように言ってくれるのは、おそらく李々くらいだ。
私は、その気持ちだけで充分救われている。
だからこそ、この子にやらせるわけにはいかない。この子が望んだとしても、私の自己満足でしかないとしても。
私と同じ道を、歩ませるわけにはいかない。
「絶対に駄目。鬼にならないことが、私のためになると思って」
「でも――!」
「お願い」
李々が俯いて、唇を尖らせる。
卑怯だなと、自分でも思う。この子が私の『お願い』を絶対に蔑ろにできないと、分かった上で口にしたのだから。
傲慢で身勝手だ。分かっている。
それでも、だ。
「……分かった」
そして私の期待通り、李々は頷いてくれた。
「分かったよ。桜ちゃんがそう言うなら」
もちろん、納得しているわけがない。
事実、言葉とは裏腹に、震える声は訴えかけている。納得いかないと。
李々には悪いけど、その顔があんまり幼くて、思わず笑みが零れてしまった。多くの人を殺めてきてもなお、ここまで慕ってくれるなんて。
この子も、葉月と同じなのだ。
私が鬼だと知ってもなお、私の存在を肯定して、笑いかけてくれる。
骨の髄まで鬼になると決めたあの日から、人のぬくもりは求めないと決めたはずなのに、その事実を愛おしく感じてしまう。なんという罰当たりだろう。
③に続きます。