第十話「開花 ーかいかー」 (後編) ③
簾の向こうは、朝の通勤ラッシュも真っ青であろう地獄だった。
日本庭園のような庭に、大勢の人がぎゅうぎゅう詰めになっている。
普通に定員オーバーなので、社の外にまで人が溢れかえっている。簾越しでも分かるくらいの、すさまじい熱気だ。
目の前には、僕が巫女たちと邂逅し、巫女となったあの庭がある。そこも今は、数多の人で埋め尽くされている。
厳密に言えば、あれは中つ国の庭であってこの庭ではない。だけど社の構造はほぼ統一されているので、同じ場所に値する。
そして僕は今、座敷の奥で鎮座していた。
あの時の巫女たちと、同じように。
(あの時はまさか、自分がそこに座るなんて思ってもなかったな……)
不意に、視点が暗転した。
(え――――?)
気が付くと、四方八方が人で囲まれていた。
視界だけじゃない。人々の声が、すぐ近くで聞こえるのだ。あたかも自分が、あの人混みの中にいるかのように。
奇妙な感覚だった。脚に伝わる座布団の感触はそのままに、視界と音だけが、簾の向こうに移動したかのようになったのだ。
『みんな、見える?』
黄林さんの声が耳に入ってきた。
今、僕が見ているのは黄林さんの視界で、聞こえてくるのは民衆の声と黄林さんの心の声だ。そこまで分かって、ようやく理解できた。
黄林さんは今、民衆の中に紛れていると。
(なんて大胆な……!)
「黄林さん、大丈――」
『葉月君。悪いんだけど、今はあまり激しい動きをしないでほしいの。会話も、心の中だけでお願いね』
『え?』
『今から大勢に向けて力を使うから、いつも以上に集中力を要するのよ。だから、あまりにそちらの情報が多いと共有が切れてしまうの』
『あ、はい。分かりました』
(Wi-Fiみたいな感じかな……?)
よくよく考えてみれば、感覚や心を共有できるという時点で人間離れしているのだ。人数が多いと切れやすくなるのも頷ける。
『で、黄林。そっちはどう?』
『すごい熱気、相変わらずの賑わいっぷりよ。私まで浮かれちゃいそう』
『浮かれ過ぎて屋台までふらっと行くなよ?』
『行くわけないでしょ、もう』
黄林さんと虹さんの会話も聞こえてくる。
つまり、みんなの心の声が聞こえる状態ということだ。他の皆も、僕と同じ状態になっているのだろう。
『簾が下りているから、そちらからは見えないでしょう? だから、毎年こうやって私の力で、あなたたちにも見せているのよ』
『なるほど。確かに、それはありがたいですね』
『もちろん、私たちの娯楽のためだけじゃないわよ。ほら、見て』
民衆の前に、巨大な桜の木が現れた。
(うわ……っ)
花びらの色で煌めき、紅白の線をまとう、宝石細工のような桜の木。
見た目は僕の知る『気』だけど、人や物から枝が伸びていない。巨大な一本桜が、人々を覆い尽くさんばかりに立っているのだ。
(ていうか……赤っ!)
花びらの色が濃い。桃色どころか、赤い桜だと言ってもいいくらいだ。そして周囲を渦巻く螺旋は、圧倒的に赤が多い。
『あれは、この国の気だ』
虹さんの声がした。どうやら、こちら側の会話も心の中限定にするらしい。
『国って、この国全体のってことですか?』
『あぁ。国中の気を社に集約して根付かせてるんだよ。いくら巫女でも、四六時中、国の全域に赴くことなんかできないからな』
『そんなことまでできるんですかっ?』
『社に根付かせたのは、初代の巫女たちだ。私たちはそれを受け継いで、世話しているだけにすぎないよ』
(社に入って、国の気を監視し続けるというのはそういうことか)
やたらと巨大な気なのは納得できた。
でも、心配性な僕としては、やっぱりあの色は気になって仕方ない。
『あの……なんか、随分と陽よりの気ですけど、大丈夫なんですか?』
気というのは均等に保っていないといけないはずだ。多少の偏りは良いとしても、あれはさすがに赤すぎるのではないだろうか。
『問題ない。国中から人が集まって馬鹿騒ぎすれば、あれくらいは赤くなる』
『お祭り騒ぎでこのレベルですか!?』
『おやおや? れべるとはなんぞ?』
『あ!』
『あはは、なんとなく意味は分かるよ』
笛の音が、火照った空気を揺らした。
あれほどの賑わいが、一瞬にして静粛な空気に早変わりする。
花鶯さんが、笛の音に合わせて姿を現した。右手で鉾鈴を、左手で柄の先端から流れる紅白の布を掲げ、ゆっくりと一本桜へ近づいていく。
七国には、それぞれ国の象徴となる色がある。
そして巫女たちが公式で着る服も、それに準じた色合いのものと決まっている。
そのしきたりに基づいて、花鶯さんは今、国の色である青と、巫女を表す桜色を基調とした舞装束を身に纏っている。
祓い装束の上に薄紅色の単、鮮やかな瑠璃色の衵、羽衣のように柔らかな桜色の小忌衣と重ねている。腰に巻いた裳は床に垂らしており、下にいくにつれて瑠璃から青へ、青から水色へと移り変わっている。
(綺麗だ……)
簾越しでは、ここまで鮮明に見えなかった。見せてくれた黄林さんに感謝だ。
花鶯さんが鉾鈴と紅白の布を掲げたまま、一本桜の前に立つ。
唐突に、民衆たちから歓声が上がった。
黄林さんの隣からだろうか。「おとうさん!」と子供の声が耳に入ってきた。
「みてみて! さくらがさいてる!!」
(え…………!?)
「あれはな、国の気だ」
「くにのき?」
「あの桜をお世話すると、国も元気になるんだ。そして、あの桜のお世話をしてあげるのが、巫女様のお務めなんだよ」
「でも、さっきはなかったよ?」
「今日は特別な日だから、巫女様が不思議な力で見せてくださっているんだ」
思わず、虹さんがいる方を見た。
僕の反応が予想通りで面白いのか、虹さんは愉快そうに笑っていた。
『あぁでもしないと、気の存在なんて信じないだろ? 見える奴は少数だし』
そういえば、いつぞやの大将も、夜長姫が気を弄ったと言っていた。考えてみれば、存在を知らないのに確信を持って言えるわけがない。
この世界の人は皆、気を知っているのだ。確かに存在するものとして。
『葉月君?』
不意に黄林さんの声が聞こえてきて、視界が元に戻っていたことに気付いた。急に激しい動きをして、共有が切れてしまったのだろう。
『すみません!』
『大丈夫よ、すぐに共有できるから。でも、次からは気を付けてね?』
『はい!』
視界と音が、黄林さんのものに切り替わった。本当にすぐだった。
花鶯さんが、一本桜に跪く。
顔を上げ、再び立ち上がったところで、巫女の舞が始まった。
鉾鈴を鳴らし、柄の先端から伸びる紅白の布をもう一方の手で支えながら、一本桜の周りをゆっくりと歩いていく。
一周し終えたところで立ち止まり、鳴らし続けていた鈴の音を止める。
今度は、腕を大きく回しながら舞い始めた。
一本桜の周りを優雅に舞いながら、赤い線を一つ、また一つと切っていく。
花びらから、少しずつ赤みが消えていく。赤い桜から、毒素が抜けていくようだ。その影響なのか、人々の顔まで安らいでいくように見える。
花鶯さんの舞が、彼女の振るう刃が、人々の心を静めていく。
(あぁ……そうか)
これが、巫女なんだ。
これが、国を守るということなんだ。
再び一周し終える頃には、花びらは調和のとれた美しい桜色になっていた。
花鶯さんが再び一本桜に跪く。
立ち上がり、振り返って民衆にお辞儀をした。
視界と聴覚が、元に戻った。
「みんな、おまたせ」
程なくして、花鶯さんと黄林さんが部屋に入ってきた。花鶯さんは舞装束のままだけど、黄林さんは僕たちと同じ祓い装束を纏っている。
(ていうか着替え早っ!)
人混みの中にいたのだから、祓い装束のわけがない。民草の着物から着替えて、ここに来るまでに十分もかかっていないだろう。
「葉月君、蛍ちゃん、準備はいい?」
「はい、大丈夫です!」
「わ、私も大丈夫です!」
「じゃあ、始めましょうか。かおちゃん」
「えぇ――――簾を上げて」
花鶯さんの一声で、ざわめきが静まった。
静寂と共に、簾がゆっくりと上がっていく。
巫女として、初めて人前に姿を見せる。心臓が今にも口から飛び出そうだ。
(……大丈夫だ)
僕は夜長姫じゃない。夜長姫はもう死んだ。
僕は、月国の巫子『葉月殿』だ。
けして負けない。呑まれない。夜長姫にも、夜長姫と重ねる人々にも。
強くなると、桜さんに誓ったのだから。
自分の心に強く言い聞かせて、前を見据えた。数えきれないほど多くの視線が、一斉に僕を捉える。
(え…………?)
そこには、嫌悪や憎悪は一切なかった。
物珍しそうに見つめてくるだけで、罵倒はおろか、夜長姫と瓜二つの容姿に驚いている様子すらない。
(これは、一体……)
花鶯さんが立ち上がり、前に出る。
僕と蛍ちゃんも、花鶯さんの左右に並んだ。
舞の後には、その国の巫女と新米巫女が前に出て、民衆に向けて鉾鈴を鳴らす。お清めの儀式という体で、新米巫女を披露するのだ。
練習通りにお辞儀をし、鉾鈴を鳴らす。鈴の音が、静かな空間でしかと響いた。
瞬きをしても、やはり変わらない。
僕の目に映るのは、巫女への期待に胸を膨らませる人々の顔だった。
***
布団の上に寝転がり、天井を仰ぐ。
静かだった。さっきまでの賑わいが、まるで夢物語だったかのように。
『本当に大丈夫だったろ?』
お披露目が終わった後、虹さんと話したことを思い返す。二人で話そうと引き留められたのだ。僕も、聞きたいことがあった。
花鶯さんの舞を目に焼き付けておけ。虹さんは今朝、そう言っていた。
そして、僕が表に出たのは舞の直後だ。
つまり、あの舞が人々に何らかの作用をもたらしたということだ。
気を整え、人々の心を静めるという以外にも。
④に続きます。