第九話「開花 ーかいかー」 (前編) ①
巫女の『力』について、少し触れます。
疲れが溜まってきたのか、睡眠不足でもないのに眠気が襲ってきた。
欠伸が出そうになり、必死に噛み殺す。目尻に溜まった涙で、持っていかれそうになった意識が再び明瞭になった。
今は、全集中力を注がなければならない。
目の前にいる、花鶯さんに。
***
遡ること三十分ほど前。午前の東語の授業を終え、昼食を済ませるや否や「こちらにございます」と花鶯さんが待つ部屋へ案内された。
「え、黄林さん?」
「お邪魔してます」
襖が開いた瞬間、思わず上擦った声が出た。
花鶯さんの隣で、同じ巫女服姿の黄林さんが微笑んでいたのだ。本当に、いつ見ても同じ朗らかな笑顔だ。何を考えているのか全く読めない。
そしてなぜか、蛍ちゃんの姿がなかった。
「あの、蛍ちゃんは?」
同期である彼女は、僕と同じ授業を受けるという話だったはずだ。
具合でも悪いのかと心配になったものの、花鶯さんの一言で杞憂に終わった。
「今日は集中力を要するから、一人ずつよ」
「そうですか……」
自分でも驚くほどに、落胆した声が出た。
昨日、ほんの少しだけど、蛍ちゃんとの距離が縮んだことが嬉しかった。だから、今日はもっといろいろ話をしたかったのに。
「早速だけど」
花鶯さんのよく通る声で、反射的に背筋をピンと伸ばした。
彼女の声には、人を律する力がある。気落ちしかけた今の僕にはありがたい。
「まず、昨日覚えた舞を通しでやってみて」
「え? 舞の授業って一日だけなんじゃ……」
「いくら時間が足りないとはいえ、自主練習だけじゃ心細いでしょ? だから授業の始めに、毎回通しでやってみせてもらうわよ」
「いいんですか!?」
「いいも何も、それが私の役目よ。任せられたからには、きっちり果たすから」
(かっこいい……!)
「かっこいいですって。かおちゃん」
「えっ?」
「声に出してたわよ? 葉月君」
「え!?」
「出してないわよ。黄林、変に気を乱さないでちょうだい。あと、かおちゃんは止めろって何べん言ったら分かるのよ」
「いいじゃない、可愛いもの」
「あぁもう! いっつもこれなんだから!! 入ってちょうだい」
再び襖が開き、昨日と同じように侍女が鉾鈴を運んできた。一人分だけだ。花鶯さんは口頭で指導するだけなのだろう。
「それじゃあ、始めてちょうだい」
「はい!」
台から鉾鈴を手にし、背筋を伸ばす。
緊張しながらも、僕は昨日教わったばかりの舞を通しでやった。
「全然駄目ね。なってない」
終わった瞬間、速攻で駄目出しを食らった。
「体が右に傾いてるし、猫背になってる。今のままでは、確実に裳に足を取られるわ。まずはこうやって、背筋をちゃんと伸ばしなさい」
花鶯さんが説明しながら、その動きを再現した。背筋が伸びていて、少しの揺らぎも感じさせない。素人目で見ても綺麗な立ち姿だ。
「はい。あの……『も』というのは?」
「舞装束の一部で、腰部分に着ける衣服よ。腰から下に垂らしてあるから、舞う時に足に絡まないようにしないといけないの」
「当日って、この巫女服じゃないんですか?」
「みこふく? あぁ……この服のこと? これは『祓い装束』というのよ」
「はらい……悪霊を祓うの『祓い』ですか?」
「そう。祓い装束はお務めで着る服。仕事着ね。舞装束は、自国の社町で舞う巫女がまとう儀式用の服よ。その他の巫女は通常通り、祓い装束を着るわ」
「あ、なるほど」
「舞装束は、この祓い装束の上からさらに着物を重ね合わせるの。今よりもずっと動きにくいから、舞う時は充分に注意すること」
「はい」
「それと肘はもっと高く上げる。以上!」
本当に一回通しただけだった。手厳しい。
それでも、毎回見てくれるのは助かる。花鶯さんの言う通り、自主練だけではどうしても客観的な視点に欠けるのだ。
舞の通しが終わったところで、鉾鈴を台に戻し、花鶯さんの方へと向き返った。
「じゃあ、次はこっちを見て」
「あ、は――い!?」
花鶯さんの真後ろに、黄林さんが移動した。そこから、にこにこと笑顔で見つめてくる。戸惑う僕の様子を面白がっているのかもしれない。
対して花鶯さんは、僕の頼りない反応に苛立つのか、眉をひそめて鋭い視線を向けてくる。女子の視線のダブルパンチだ。
(ていうか一体どういうことなの!?)
困惑していたら、急に視界が暗転した。
驚く間もなく、すぐに視界が明るくなる。
「え……っ!?」
目の前にいるのは、花鶯さんでもなければ、黄林さんでもない。
他でもない、僕自身だった。
「葉月君、私の声が聞こえる?」
「え? あ……はい」
黄林さんの声だ。目の前にいるのは僕だけど、声はそこから聞こえてくる。
「それはね、私の視界」
「黄林さんの……?」
「試しに、腕を動かしてみて」
言われた通りに腕を動かしてみると、目の前の僕も同じ動きをしてきた。
だけど奇妙なことに、鏡のように反転していない。右手を動かすと目の前の僕も右手を動かし、左手を動かすと目の前の僕も左手を動かす。
つまり、人から見た自分ということになる。
目の前の僕は、黄林さんから見た僕なのだ。
(視界ってことは、見ているものを伝えているということかな)
「いいえ、違うわ」
「え?」
突然、黄林さんが否定した。
まるで、僕が質問でも投げかけたかのように。
「共有してもらっているのよ。私の視界を、あなたの視界にね」
「……共有?」
「いったん、戻すわね」
再び視界が暗転した。すぐに、黄林さんたちが見える普通の視界に戻る。
「実はね、私の力は『伝える』ものじゃないの」
「えっ?」
「私の感覚や心を相手に共有してもらい、逆に相手の感覚や心を私が共有する。それが私の力よ。さっきあなたが、かおちゃんを『かっこいい』と思ったと分かったのも、私があなたの心を共有しているからなの」
「…………」
「『てれぱしー』は、ちょっと違うわね。それは心に限定する力でしょう?」
「――――っ!」
僕は驚きのあまり、返す言葉を完全に失った。
話の流れや相手の表情から、次に何を言うのかある程度は予測がつくものだ。
高度な話術だけど、あたかも心を読んでいるかのように受け答えすることはできなくないし、黄林さんなら容易いだろうと思っていた。
だけど、今のはそうじゃない。
彼女が知るはずもない言葉が、その口からはっきりと出たのだ。
しかも彼女は、『テレパシー』という言葉の意味さえ一瞬で理解した。ほんの数秒、頭を過っただけの言葉の意味をだ。
話術や予測の範疇を、明らかに超えている。
「気持ち悪い?」
黄林さんの困ったような笑みを目にして、全身が強張っていることに気付いた。
下手に嘘をついても意味がないので、思ったことをそのまま話すことにした。
「えっと……気持ち悪いというか、正直、ちょっと怖いなと思いました」
「でしょうね」
「でも、なんとなく、誰かはそんな力を持っているような気はしてました。僕は、炭さんがそうなのだろうと思ってましたけど」
あの会議で落葉さんが男だと知った時、巫女なのに男なのか、巫女は『姫』と呼ばれているのではないかと驚いた。
その疑問に、炭さんが素早く答えたのだ。まるで心でも読んだかのように。
実際は違ったということだ。
確かに、言われてみれば虹さんも同じ反応をしていた。それに、黄林さんも。
(黄林さんが共有した僕の心を、他の巫女たちと、さらに共有していた……?)
「ご明察」
自分の力を理解してもらうためか、黄林さんがまた僕の心を共有してきた。いや、もしかしたら……この部屋に入った時から共有したままなのかもしれない。
(僕の頭の中、ずっと筒抜けだった……?)
分かってはいても、背筋が震えた。
知らない内に頭の中を覗かれ、しかも他の人にまで公開される。それなのに、覗かれていると気付くことすらできないのだ。
覗いている本人に言われるまで、ずっと。
「あなたの推測通りよ。私が共有したあなたの心を、他のみんなとも共有していたの。必要な時に、代わりに言葉にしてもらうためにね」
「……随分、回りくどいことをするんですね」
「私の力の詳細を、周りに悟られないようにするためよ。あれなら、あなたが考えたように、私以外の誰かが心を読んだと思うでしょう?」
(カモフラージュってことか……)
「誰がどんな力を持っているかは、基本的に口外しないのよ。社の関係者でも、ほとんどの者は詳細を知らないわ。話してもいいのは、同じ巫女の他には従者や侍女頭、そして親兄弟といった、巫女の身辺にいる者のみよ」
「でも、巫女が不思議な力を持つという認識は、割と一般的みたいですけど」
町の人たちから何度かそういう話を聞いたし、小さい子向けの本にも、巫女は不思議な力を持つ存在として描かれている。
黒湖様の存在などを除けば、僕が聞いた詳細とそれほど違いはない気がする。
「それはね、巫女だから特別扱いされているにすぎないのよ。巫女は神様にお仕えするから、不思議な力を授かったのだとね」
「どういうことですか?」
「普通、力を持つ者は『鬼』と恐れられるの。自分と明らかに違う存在を、同じ人間だと思えないのよ。さっき、あなたが私を『怖い』と感じたようにね」
「あ……」
「力の詳細を隠すのは、私たちを『鬼』だと認識させないためよ」
静国の社町では、致命傷が瞬時に塞がったことで化け物呼ばわりされた。
夜長姫だと、鬼だと呼ばれて、仕舞いには殺されそうになった。
実際には、黒湖様の加護によるものだけど、知らない人からしたら、力を持つ『鬼』と何も変わらないのだろう。
「人々が神を信仰するのは、形がないからなの。形のあるものとして牙を剥かないからこそ、安心して敬うことができるのよ」
(形がないからこそか……)
隠すことで維持する平穏。
それが巫女の、強いては社の方針なのだろう。
そのことに異議があるわけではない。むしろ、この世界においては一番平和的だと思う。社町で襲われた僕だからこそ、断言できる。
だからなのだろうか。
みんなが、僕の力について何も聞かないのは。
「……あの、質問してもいいでしょうか」
「何かしら?」
黄林さんがにこやかに微笑む。僕の言葉を待っているけど、今も共有したままなら、言わんとしていることは分かるだろう。
「巫女に選ばれた者は、みんな、人ならざる力を持っているんですよね?」
「えぇ。そうよ」
「僕……人ならざる力とか、全然ないんですけど」
やはりというか、黄林さんの表情は変わらず柔らかいままだった。
妙なのは花鶯さんだ。目を見張ったかと思いきや、すぐに脱力したのだ。
(え……なに、この微妙な空気?)
なんだか、僕が想像していたのと違う。
力を明かすことの恐ろしさを、たった今聞いたばかりだ。重い空気になるか、黄林さんに流されるか。そのどちらかだと思っていたけど。
慌てふためく僕の内心がおかしいのか、黄林さんがくすくすと小さく笑った。
「大丈夫。自覚がないだけで、あなたもちゃんと持ってるから」
「えっ?」
「力を大っぴらに使えない世だから、自分の力に気付かないことも珍しくないの。おそらく、その体もそうだったんじゃないかしら」
「そう……なんですかね」
そもそも、この世界で見てきたような力なんて、元の世界には存在しない。僕に人ならざる力がないのは当然のことだ。
だけど、この体は違う。この世界で生まれ、この世界で育った人だ。
この体が人ならざる力を秘めているのなら、巫女に選ばれたというのも筋が通る。力があるような感じは全くしないけど。
「実感はないでしょうけど、大丈夫。そう遠くない内に見つかるわ。社の中なら、力を使っても鬼呼ばわりされないから」
「そうですか……」
「ただ、あなたがどういう力を持っているのかは分からないわ。あなた自身が自覚していないから、いくら共有しても知りようがないのよ」
「あ、いえ。大丈夫です。力そのものには特にこだわりもないんで」
別に、人ならざる力が欲しいわけじゃない。巫女に選ばれた理由である『人ならざる力』について曖昧だったのが、気持ち悪かっただけだ。
ただの杞憂だったのなら、それでいい。
②に続きます。
どんな世界でも、少数派として生きる人々は肩身が狭いだろうなと。