公園、自転車のサドル、野良猫
彼と出会ったのは小雨の降る夜の公園だ。まさに『拾って下さい』と言わんばかりに、ベンチで膝を抱えて座っていた。面倒ごとを絵に描いたような光景だ。
立ち止まり、通り過ぎ、何度か振り返ったのちに、引き返して声をかけた。
「君、大丈夫? 傘あげるから、帰った方がいいわよ?」
パーカーのフードを目深に被った華奢な背格好が、少年にも見えて保護の必要性を捨て切れなかった。ところが、声をかけても顔すら上げない。
具合が悪いのかもと思って焦る。
花見客が去ったあとの公園は、昨夜の大風にも耐えた最後の花びらを散らす雨が降り、かなり冷え込んできている。
私は急いでバッグに手を入れて中をかき回した。雨の日は自転車のサドルを拭くために、タオルを持ち歩いている。
「ほら、髪の毛だけでも拭いて」
タオルを差し出すと、前髪からぽたりと雨の滴をしたたらせてゆっくりと顔を上げる。雨に煙る街灯に照らされたその顔は、作り物めいて美しく整っていた。
(げ、芸能人かしら……もしかしてドラマの撮影? 私、余計なことしちゃった?)
キョロキョロと辺りを見回す。どこか離れた場所にカメラがあるのかも知れないと、本気で思った。彼の口元に殴られたような傷があることさえ、有りがちな物語の中のオプションじみて見える。私の知っている現実とはまるで遠すぎる。
差し出した手とタオルの行き先は、いつまでも決まらず、彼も私も動くことはなかった。
結局、カメラマンも監督もマネージャーも現れなかったので、傘を持たせて頭をワシワシと拭いてあげるハメになった。一度だけ顔を上げて、見上げるその様子は、無理やりお風呂に入れた後の猫に似ている。
警察か、病院か、それとも……。
手のひらに感じる体温が、明らかに高い。このまま傘を渡しただけで立ち去ってしまったら、一晩中気になって眠れない気がする。
最初の予想よりも、面倒ごとのクオリティが遥かに上がってしまった。
「あなた熱があるわよ。病院へ行きましょう。夜間診療をやっているところがあるから……」
『歩ける? 救急車呼ぶ?』。そう口にする前に、遮られた。
「朝まで雨宿りさせて下さい。それだけで充分です」
意外なほどにしっかりとした、理性的なセリフだった。軽薄な雰囲気も、退廃的な臭いもない。手負いの野良猫というより、色も欲も感じない真っ白い小鳥みたいだ。この空気感を狙って出せるなら、やはり彼は役者かも知れない。
きっと何か事情があるのだろう。
若い女性ならば危機感も必要だけれど、私には関係ないだろう。我が家は初老の夫婦、二人暮らしだ。
スマホを取り出し、同居人の許可を取る。
「ねぇ、寒さに震える野良猫っぽいもの、連れて帰ってもいいかしら?」
本人を前にして言ったら、クスリと笑い声を漏らした。スマホの向こう同居人は「えっ、じゃあお風呂を沸かしておくよ」なんて慌てている。
これが恋愛ものの小説かドラマならば、彼を見つけるのは私ではなく三十路前後で社畜の干物女子だろう。たまたま拾った年下の美青年は、きっと料理上手で彼女の身も心も癒してくれたりするのだ。
しまった。やはり私は通り過ぎるべきだったのかも知れない。また周囲を見回してしまう。相手の女性らしき人影は見あたらなかった。
なんだか大切なフラグを折ってしまったような気持ちにもなるけれど、立ち上がった彼を今更置き去りにすることは出来ない。
「ごめんなさいね」
つい謝ってしまったら、不思議そうに首を傾げられた。まさか「あなたの恋愛フラグを折ってしまったかも知れないわ」などと言うわけにもいかず、曖昧に笑って誤魔化した。
途中で彼がふにゃりと倒れかけたので、もう一度同居人に連絡して迎えに来てもらった。同居人は「ずいぶん大きな野良猫だね」と苦笑していたけれど、夫も私同様に世話焼きに分類される。しかも医療従事者なので、病人を連れ込むには、我が家は悪くない環境だ。……獣医ではあるのだが。
その晩は高熱を出した彼を、夫婦で交代で看病した。二人の子供が巣立ってからは久しぶりのことで、なんだか少し楽しかった。彼の寝顔には、二人とも何故か親近感を覚えた。
その理由がわかるのは、しばらく先のことになる。それは『弥太郎』という名前だけを名乗った彼の事情に、私たち夫婦がすっかり巻き込まれた後の話だ。
二十年後の未来から来た、私たちの孫であり、まだ結婚すらしていない娘の子供だという弥太郎。両親を助けるために時間を超えて来た。
私は恋愛フラグを折ったのではなく、時空を越えた妖怪サスペンスもののフラグを正しく回収したらしい。
娘夫婦と可愛い孫のために、一肌脱ぐのはやぶさかではない。娘の夫となるのは、他ならぬ私の弟子だし、私もまだまだ現役の陰陽師なのだから。




