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7・恋慕

 青磁(せいじ)との縁談話が持ち上がってから数日、薄紅(うすべに)の表情は目に見えて明るくなった。蘇芳(すおう)常磐(ときわ)は縁談によって薄紅の気持ちが前向きになったと喜んでいたが、薄紅の真意は別のところにあった。


 縁談話のあった夜、藤棚の下に現れる鬼が薄紅の名を呼んだ。

 今までずっと一方通行だった言葉が漸く会話になり、鬼と言葉を交わせる喜びに薄紅の心は弾んでいた。


 今までも夜を何気に待っていた。けれど今は鬼と会える夜を心待ちにしている。

 澄んだ水面を思わせる涼やかな声音が鼓膜を震わせる度に、薄紅の胸にも淡い思いの花が咲く。満開にも近いその花を何と呼ぶのか、薄紅にはもう分かっていた。


 ――これは、恋だ。


 鬼に名を呼ばれたあの瞬間から、まるで時間を巻き戻すかのように愛しい感情が薄紅の中をめまぐるしく駆け巡った。

 人とあやかし。決して結ばれることのない思いだと分かっていても、目覚めてしまった感情は必然だったと薄紅は確信していた。



***



「明日、出かけてきますね」


 見上げた夜空にさっきまで輝いていた月は、分厚い雲の向こうに攫われてしまった。月光を失っても、鬼の白髪(はくはつ)と藤の紫は夜の闇によく映える。


東雲(しののめ)先生のところへ、薬を貰いに行ってきます。青磁さんにも縁談をお断りしなくては……」


 薄紅は芽生えた淡い恋心を鬼に告げたことはない。多くを語らない鬼も、薄紅をどう思っているのかは口にしたことがなかった。

 言葉にせずとも見つめ合う視線に、絡めた指先に、言葉よりも雄弁に愛を語る熱が篭められている。

 縁談を断りに行く薄紅を引き止めるわけでもなく、かといって安堵の吐息を漏らすわけでもない。重ね合わせた手。薄紅の指の形をなぞるように滑る指先に鬼の気持ちが表れているようで、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「私はここを離れられない」


「え?」


 あまりに唐突に告げられて薄紅が顔を上げると、視線の先で鬼が藤の花房をひとつ手折るのが見えた。


「代わりにこれを持って行くといい」


 手折った藤を薄紅の髪に挿して、鬼が消え入りそうなほどかすかに笑った。


「やはりお前には藤が良く似合う」


 いつか見た夢と同じように藤を髪に挿し、手のひらで頬を包み込まれる。あの夢で見た男女が自分たちであったかのような錯覚さえ感じ、大きく見開かれた薄紅の瞳に距離を縮めてくる美しい鬼の顔が映り込んだ。



『愛しい薄紅。私と共に逃げてくれるか?』



 記憶の底から木霊した男の声が誰なのかを考えるよりも先に額に冷たい唇が触れ、薄紅の思考が強制的に遮断される。

 誰のものかも分からない声音に心を砕くより、今は目の前の愛しい鬼から与えられる口付けに全てを委ねていたかった。唇でなかったことにほんの少しの寂しさと羞恥を覚えつつ、それでも肌に感じる鬼の吐息に薄紅の体がぞくりと震える。


 熱を持たない鬼の冷たい唇。額に触れた柔らかなその感触を知っているような気がして、体の奥がしっとりとした女の熱を孕んでいく。

 少女ではなく、女として灯る熱。未婚の薄紅が知るはずのない情欲の熱。


 経験したことのない甘やかな熱を記憶しているのは薄紅の体の方だった。

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