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14・血に濡れた文

 薄紅(うすべに)が寝ていた場所は、離れの自室ではなく母屋の一室だった。廊下に出ると、空は星も月も見えない深い闇に包まれていた。

 蘇芳(すおう)の部屋には明かりが付いており、常磐(ときわ)が話したように藤を切り倒す話をしているのだろう。藤や鬼、薄紅の名前などが、かすかに漏れ聞こえてきた。


『全部思い出して、お気持ちが変わりましたらお戻り下さい。私はここでお待ちしております』


 そう言った常磐は薄紅の後を付いては来なかった。

 廊下の先に続く暗闇。僅かな月明かりさえない漆黒は、芽生えてしまった不安を助長するように濃さを増す。


 浅縹(あさはなだ)の家には、もういないと言う紫苑(しおん)

 紫苑の名を持つ、紫苑に似た鬼。

 その答えは、もう薄紅の中にある。だからこそ、常磐は薄紅の後を付いては来なかったのだ。

 答えの先に、続く未来はもう失われているのだから。



 さわさわと、風もないのに藤の花が揺れていた。



 ***



 離れの部屋は真っ暗だった。縁側に続く障子を開けると、妖しく光を纏った藤のほのかな紫が部屋の中をぼんやりと照らし出している。

 鬼除けの(こう)が効いているのか、ほんの少し前までここにいた鬼の姿はどこにも見当たらない。この部屋にも、庭の藤棚の下にも。ただ淡い藤の香だけが、鬼除けの香に混ざって薄く棚引いている。


 箪笥の一番下の引き出しを開けると、薄紅の羽織や手拭いなどが綺麗に畳んでしまわれていた。その奥、羽織の下に隠されるようにして、白い手拭いが丸められている。

 花模様のあしらわれた手拭い。中に包まれていたのは、細工の美しい一本の藤の簪だった。


『薄紅に似合うと思ったんだ。おいで。付けてあげよう』


 耳のすぐ側で、紫苑の声が聞こえた気がした。

 いつかの夢で見た藤の簪。山藤の下でこれを髪に挿して貰ったのは間違いなく薄紅で、胸を甘く染めたあのときめきを今なら鮮やかに思い出すことが出来る。

 恥ずかしくて俯いたことも。触れるだけの柔らかな口づけの感触も。


「紫苑様」


 名を呼ぶだけで胸が締め付けられる。簪をそっと手に取ると、その下に重ねられていた一枚の紙が乾いた音を立てて滑り落ちた。

 所々についた黒い染みが固まって、紙本来のしなやかさを失っている。破らないようにそうっと開くと、そこには流れるような美しい文字が綴られていた。



 ――今宵、あの藤の下にて君を待つ。



 ざぁっと、風が吹いた。

 藤棚の花房を揺らし、薄紅の髪を巻き上げた一陣の風は、屋敷を漂う鬼除けの香を暗い空の彼方へ吹き飛ばしていく。藤の花びらさえ散らす風に薄紅の手から(ふみ)が攫われ、慌てて行方を追った先で白く細い指がそれを掴んでいた。


 漣のようにしなやかに揺れる藤の下。

 鬼の手に握られた文の黒い染みが、時を戻して鮮血に染まる。


『お父様! 止めて下さい!!』


 黒い染みがひとつ、またひとつと赤に染まる度に、薄紅の記憶が鮮やかによみがえる。

 待ち合わせた山藤の下。

 追いついた蘇芳。

 結婚の許しを請う紫苑。

 叫ぶ薄紅と、月下に光る一振りの刀。


 『紫苑様っ……紫苑様!!』


 頬に飛び散った鮮血の温もりを思い出した瞬間に、はらり――と薄紅の頬を一滴(ひとしずく)の涙が零れ落ちていった。

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