ヘルスケアは大事
全身鏡に映るパーカーとチノパン姿の幾渡は、まるで中学生のような出で立ちである。
洗面所でいまさっき整えたはずの髪の毛は、雨季の湿気で毛先がもううねっている。
久しぶりの外出に不安げな面持ちで、鏡とクローゼットを行ったり来たりすること2時間。まるで初めて水に入る前のペンギンのように歩き回っていた。
ーーはぁーー
昨日、栗原は幾渡の部屋を出てから彼に電話をしていた。栗原は「その部屋の家具は新居に持っていけないから新しい物を揃えるように」と伝えていた。幾渡は引っ越しの日まで家から出るつもりではなかったが、しぶしぶ買い物に行くことにした。
ーー新居にも用意してくれればいいのにーー
幾渡は大きくため息をつき、玄関を開けた。納得はしていない。
ーー誰も見てない誰も見てない。よしっーー
自分自身に言い聞かせてドアノブをひねる。うねる毛先を指でもう1度伸ばし、ドアを開け1歩外へ出た。
約35日ぶりの外出の1歩目は突然の来訪者によって止められた。
「あ。 え 、あぁ、え~~と」
玄関の先にいたのは身長160cmくらいの美少女。華奢な体に茶色のショートボブ、顔は幼げでスーツが似合わない。足下に大きめのスーツケースを引き下げていた。
「え~~とっ如月さんですか?」
幾渡はドアを閉めた。
ーー待て待て待てーー
美少女に話しかけられるという大イベントは引きこもり明けの幾渡には整理する時間が必要だった。
美少女は「開けてください~~」と廊下で泣きそうな声をあげている。
幾渡は深呼吸をしてから玄関の扉を開けた。
「なんで、閉めるんですか」
と少女は上目遣いで問い詰めてくる。その仕草は幾渡には強烈な1撃となった。
「す、すいません、突然だったので驚いてしまい」
「如月さんですよね? 初めまして!! 私、健康推進課の和田と申します。 本日は健康診断をさせていただきたく参りました」
と、ニコニコして喋りかけてくる彼女に幾渡は沈黙。
彼女からほんのりといい香りが漂ってくる。
女の子と久しく出会うことのなかった幾渡の鼻は敏感に反応した。
ーーかわいいなあーー
と思っていた幾渡だが、見すぎている気がして目を泳がした。その仕草に彼女は不思議そうな顔をする。
「どーしたんですか?」
「い、いや、なんでも。 健康診断? 聞いてないです。」
「如月さんは呼んでも来ないだろうということで私がお伺いました。 連絡するより早いと思いまして」
和田はニコニコしている。
ーーまぁたしかに行かないよな俺。ーー
幾渡は彼女が来た理由に納得したが、ある疑問が浮かんだ。
「そ、そうですか。。。ところでエントランスからどうやって入ったんですか」
彼女はニッと笑って、手持ちカバンの中を漁って、「ジャーン」と言いながらこのマンションのカードキーを出した。
「お髭のダンディーなおじ様にお借りしました!!」
「栗原さんのことですか?」
「そうですそうです」
--あの人はまったくーー
内心呆れている幾渡の無表情な顔とは逆に彼女はニコニコしている。
それから彼女は幾渡の服装を一瞥し、少し困惑した顔で尋ねた。
「もしかして今からお出掛けでしたか?」
「買い物に」
「すいません!!予定も確認せずに、栗原さんはいつでも家にいるとおっしゃっていたので」
幾渡は彼女のニコニコした顔が曇りかけたのを見て声をかけた。
「大丈夫ですよ、とりあえず中へどうぞ」
と幾渡が言うと、彼女は「ありがとうございます」とニコニコした顔に戻り、「失礼しまーーす」と言いながら部屋に上がった。
「健康診断なんて今までありましたか?」
「如月さんはここ1年ほど本社に出勤していませんよね? あと学校でうける健康診断も休んでいましたよね? おさぼりさんですか? ダメですよ、学校はちゃんと行かないと」
幾渡はいたたまれない気持ちになった。
「それと、今まではチョーカーがありましたが能力が第2段階に入りましたので外されましたよね? あのウェアラブルデバイスはけっこう優れているんですよ~~」
チョーカーは能力者がつけているウェアラブルデバイスで、能力者の健康状態や能力使用時のホルモンのバランスなどの情報を、モニターと呼ばれるオペレーターに送信し続ける装置である。時にクリエーターが暴走状態およびグリーガー化したときに強制的に動きを止める薬を打ち込むことも可能であり、非常に高価である。
幾渡は首をさする。自分の腕についているデバイスにふと気づき、それを彼女に向けた。
「デバイスなら腕時計が」
「それは健康診断にはなりません」
きっぱりと彼女は答え、スーツケースを開け、手際よく血圧計や注射器を並べている。スーツケースの中が幾渡からは見えない。
時間がかかるだろうと見込んだ幾渡は紅茶を入れにキッチンに立った。
キッチンから幾渡は声をかける。
「紅茶でいいですか?」
「ええ、ありがとうございます」
ニコッとして答えた彼女を見て、幾渡の手は機敏に動く。
普段は電気ポットのお湯で紅茶を入れる幾渡だが、普段は開けない頭上の棚からティーポットを取り出し、インテリアとなっていたビビットカラーの黄色のヤカンを洗い始める。
ーーこれでよしーー
すすぎ終わり満足げな幾渡はヤカンに水を入れ、IHヒーターの上にのせた。するとスマホがなった。
その音に気づいた和田は振り返り、電話に出ない幾渡に一言
「どうぞ、出てください」
ニコッとする彼女にまたも可愛いと思ってしまった幾渡は会釈をして電話に出る。
「もしもし」
「東城です。 幾渡くん家にいる?」
「あ、はい。 どーしましたか?」
「栗原さんから電話でね、幾渡くんの買い物付き合ってあげてって言われてね。 今は大丈夫? もう向かっているけどね」
「え、あ、ありがとうございます。 すいません今はちょっと健康診断中でして」
「健康診断? 家にいるんだよね?」
「はい、本社からわざわざ来ていただいて」
幾渡が和田の方に目を配ると彼女と目が合った。
幾渡は軽く会釈をして背を向ける。
「なので午後でもいいですか?」
東城からの返事はない。時刻は11時。幾渡が再び「東城さん?」と声をかける。
「あぁ、ごめんごめん。 終わったら連絡してね」
電話が切れた後、ヒーターの電源をONにして過熱を始めた。
幾渡がリビングに戻ると、黙々と準備をしていた和田だったが用意し終えたのか話しかけてきた。いつの間にかスーツを脱ぎ、シャツ1枚になっていた。彼女の白い肌が少し透けていた。
「採血しまーーすっ。 以外に筋肉ついてますね」
照れる幾渡に目を配ることなく注射の準備をし始める。
幾渡は目のやり場に戸惑いながら左腕を出した。
チューブを腕に巻き、血管を確認する。彼女の手際の良さに前職は病院の看護師ではないかと思う。
しかし、目の前の彼女はかなり若い。幾渡と並んでも同い年くらいにしか見えない。おそらく看護師の資格を取得したばかりで手先がとても器用なのだと幾渡は自問自答した。
幾渡は心配そうに自分の腕に針が刺さるのを見ていた。
小さめの採血管に血が流れ込んでいく。採血管を取り替える手際も良かった。2本目の採血管に血溜まった直後に電話が鳴った。
幾渡はガーゼで止血をしながら液晶画面に表示された名前を確認した。栗原さん と表示されている。和田は血の入っている採血管をクルクル回して、スーツケースの中へしまっていた。
またしてもスマホが鳴った。
再び鳴り響くスマホ。幾渡はテープを取りに窓際にある棚に向かった。ガーゼをテープで止め、電話にでた。
「栗原さ」
幾渡が「どうしましたか?」と尋ねる間もなく栗原の声が聞こえた。電話越しにでも焦っているのが分かる。
「イクトか! いいか。よく聞け。 今日、お前の健康診断なんてない。」
「え、どういう」
「何とかして外へ出ろ」
その瞬間、背後で不穏な動きを感じた。