ガーディアン
その翌日、子猫の患者が来院した。阪野チビコ。2か月前、庭に迷い込んできた子猫を保護して、そのまま家で飼っていたという。病院に来るのは初めてだ。
「今日はどうしましたか」
キャリーの中では、キジの子猫がうずくまっている。
「あの、なんか今日から急に食欲が無くて、心配なのできました」
まだ若く大学生といういでたちの飼い主だ。自宅で飼っているが、主に世話をしているのがこの女性で、そのため今回連れて来院したと説明する。
子猫はされるがままにキャリーから出され、抵抗する様子は無い。耳を触ると熱く、体温を測ると41℃かなりの高熱だ。まさかという疑念を抱きながら、雨宮は検査を提案する。
「ちょっと、家に電話して聞いてもいいですか」
料金の説明をしたところで、家に連絡をしたいという申し出があった。雨宮に断りを入れてから、阪野さんの娘さんはバックから携帯電話を取り出し、通話を始める。猫をモチーフとした小さなニットマスコットのストラップが揺れる。チビコは具合の悪そうな様子ではあったが、ちらりとその揺れるストラップに視線を送った。
「親のOKでたんで、検査お願いします」
待合い室でに待機してもらい、チビコの検査を進める。またしても白血球の低値。パルボか。どこから? どこからなのか。自分の手をながめ、待合室で嘔吐したナミの姿を頭に描く。
「阪野さん。チビコちゃんはパルボウイルス感染症という病気の可能性が高いです。これは命に関わる病気ですから、今日からすぐに入院させてください」
入院が長期になる可能性もあるし、死んでしまう可能性もあるから、あとでご両親も説明を聞きに来てもらうよう伝える。ことの重大さに阪野さんは既に半泣きで雨宮の説明もあまり聴いていないようだった。とにかく全力を尽くすことと、ご両親に来院してもらうことだけ言い含めて、チビコを預かり治療に入った。
昔みたいだ。
雨宮が卒業した18年前、まだ今ほどワクチンやフィラリア予防は浸透しておらず、毎年子犬や仔猫で伝染病が発生していた。悲しむ飼い主たち、救えなかった動物のことを思い、先人の獣医師たちは熱心に、そして我慢強く予防の重要性を説き続けた。悲しみに直面していた飼い主達も、その声に耳を傾けた。
そのおかげで、現在は、フィラリア症も重度の伝染病も激減し、皮肉にも人々は予防に嫌悪すら持っていることがある。
しかし、病原体は消滅したのではなく、抑えられてきたに過ぎないことを知らしめるように、不意に動物を襲い、獣医師と飼い主を戒める。油断に対する戒めの犠牲になるのは動物だ。
けっきょく、ヤマトとチビコ以外にも、仔猫の中村ミミコと渋沢タラちゃんという2匹もパルボウイルス感染症で運び込まれてきた。同居猫や兄弟猫ではない関係で、このような複数頭の流行はあまりないことだ。
もともと備えている感染症隔離ケージは2つしかないから、猫の入院室をすべて感染管理区域として入院管理することにした。点滴につながれながら、具合悪そうにうずくまり、あるいは倒れるように横になって寝ている猫たちをみて、今なら力強く予防の重要性を解けると、雨宮はふと思った。『感染症は今ここにあります。あなたのうちの動物がいつ接するかわかりませんよ』その言葉は、恐らく飼い主をワクチン接種に誘導するだろう。
あの小さな小瓶。
飼い主を根気よく説得するよりも、あの小瓶を使って『感染症はここにあります』と脅す方がワクチン普及に効果的なのではないかという考えが、雨宮の脳裏に浮かぶ。ナイフを首元につきつけて、ほらナイフは危ないでしょうという。誰もがその言葉にうなずくだろう。頷くしかないのだ。
思わず浮かんだ邪悪な幻影を追い払うように、拾った当日のクーを思い出す。その姿は、人は愛しているから、その存在を守ろうとするということを思い出せてくれ、雨宮は邪悪な思いが立ち去っていくのを感じ自身に対して安心した。
予防意識の弱い飼い主を諭すのに、動物を犠牲にしては意味がない。
とりあえず現状できる治療は行っている。後は、猫たちの体力が持ち、ウイルスの攻撃から回復できるかどうかだ。医療とは、治すのではなく、治す手助けにしかすぎないということを強く感じる瞬間だ。
「お前たち頑張れよ」
最も症状が重く、体を投げ出すように横になって寝ているミミコに視線を向ける。小さな胸が苦しそうに上下して、体の中の病原体と激しく戦っている弱弱しい背中が見える。ん、その首には見覚えのあるものがみえた。入院舎を出ていこうとしていた雨宮だが、ミミコのケージに近寄ってその首に巻かれたものをじっと見る。ヤマトがつけているのとよく似たミサンガのようなお守りだ。この両飼い主は年齢もかけ離れていて、親交があるとは思えなかった。近くのペットショップで取りあつかっているのだろうか。
猫たちはみんな頑張った。力の限り生きようとしていた。雨宮も点滴による脱水の改善、ウイルスに対してのインターフェロン、2次感染に対しの抗生剤。吐かなければ強制的にでも食事を取らせる。いわゆる対症療法であるが、できる限りの加療を試みた。
しかし3日後の朝、ミミコはいくらあたためても体温が下がり続け、こん睡状態となり静かに息を引き取った。
命は、大きなきらめきでありながら、失うときは手から砂がこぼれるように、なすすべなく静かに零れ落ちていく。
そしてその夕方には、唯一の成猫であるヤマトが激しい下痢を繰り返し、人事不省に陥った。雨宮は無力感に押しつぶされそうになりながら、業務として安田さんに連絡を入れ、状況が厳しからなるべく早く面会に来てもらったほうが良いと告げた。
「先生、ヤマトはもうだめですか」
急いでやってきた安田さんは、病院に着くや否や、息を切らせながら涙声を隠そうとせず、雨宮に問いかける
「ヤマトちゃんは大人の猫ですから、仔猫よりも体力があるので、まだ頑張れることを期待しています。でも、昨日よりは具合が悪いことは確かですから、会っておいてあげてください。安田さんに会えば、少し元気が出るかもしれませんから」
厳しい現状は伝えつつ、直接的な表現は避けた。会ってもらって、そのあとから少しずつ厳しい現状を伝えるということでも構わないだろうと雨宮は思う
入院舎に入るときには、外に病原体を持ち出さないように、使い捨てのガウンと靴を履きかえてもらう。その入院舎の手前から3番目のケージにヤマトはいる。
「ヤマト。大丈夫か、早く良くなって帰ろうな」
安田さんが話しかけると、ヤマトは僅かにしっぽを動かした。人事不省と思っていたが少し意識はあるようだ。その後しばらく面会をしてもらってから、改めて現在行っている治療とヤマトの現状の説明をおこなった。
パルボウイルス感染症は、発症して3日間が最もウイルスによる激しい攻撃にさらされること、それによって破壊された腸管が修復するまで体力が持てば回復できる。今日は激しい下痢が続いており、厳しい現状ではあるが成猫の体力を期待しましょうと話を結んだ。
「そうか、わかった。ヤマトは外に出ないから安全て思ってたよ。先生があんなに予防接種を勧めてくれたのになぁ。やっぱり私の靴の裏から入ってきちゃったのかね」
視線を恨めしそうに自分の足元に落とす
「あとは神様に祈るしか私にできることはないんですね。こんなことならワクチンを打っておけばよかった」
自虐するように言うと、安田さんは診察室の椅子から立ち上がり、待合室へ出て行った。




