ガーディアン
採血の結果、雨宮の目にWBC1200という数字が飛び込んできた。これは、免疫をつかさどる白血球がかなり少ないということうぃ示す。急いで、それ以外の結果に眼を通す。その他、貧血もなく血糖値や腎臓の働きなど概ね問題ない。発熱、吐き・下痢、WBC減少、この結果が示すのは『パルボウイルス感染症』。主に腸管を攻撃し、最も重度の時にはトマトの絞り汁のような真っ赤な血便がみられ、その重大なダメージから敗血症を引きお越し死に至る、猫の伝染病のなかでもかなり致死率の高いものだ。感染力も強い。
血便とは安田さんは言っていなかった。一縷の望みをかけて、再度ヤマトのケージを再度みると、真っ赤に染まったタオルと、具合の悪そうなヤマトの助けを求めるような視線にぶつかった。まさに今、最大の急性期を迎えたようだ。
どこを触った?雨宮は自分の手を眺める。ヤマトを診察した後、何件か診察をした。もちろん通常通り手は洗っていたが、十分だったか。尻尾を真っ赤に染めた、オッドアイの白猫の姿が眼の奥に浮かぶ。クー、僕はまた同じ過ちを犯すのか。
パルボウイルスは、非常に感染力が強い、下痢便とともに外界に出てきたウイルスは、消毒をしなければ、2年以上も感染力を持ちながら、そこにとどまる。靴の裏にくっついて感染することもあるといわれる由縁はそこだ。感染している猫からの院内感染の危険は十分ある。
雨宮は心拍が上がるのを感じながら、冷静を装い、看護師の木村と服部を呼んだ。そしてヤマトを、隔離できるケージに移し、今後の管理は木村だけが行い、ヤマト以外の猫の管理や診療補助は服部が行うように指示をすると、パルボウイルスに有効な消毒薬の準備に取り掛かった。
3年前クーは10歳だった。雨宮が開業した日、いや開業の為の内覧会を行った夜に病院の前に捨てられていた雌の子猫。耳や長い尻尾には薄く茶色の縞が入っているが、それ以外は白色で、何より特徴的なのは、右眼が青く、左眼が金色のオッドアイという仔猫だった。いきなり病院の外に猫を捨てられるというハプニングに、この船出さい先に不安を感じなくもない雨宮だったが、一人で開業する心細さをその可愛い仕草で癒してくれるクーは天からの贈り物とも思えた。
「よろしくな。一緒に病院盛り立てて行こうな」
仔猫を自分で飼うことを決めた雨宮が声を掛けを掛けると、聞いているのかいないのか、子猫はニャーと一鳴きして無邪気にく~っと大きく伸びをした。
それから雨宮の病院は順調に業績を積み、沢山の動物を助けることができ充実した日々を送っていた。そして、飼い主さんの笑顔を見るにつけ、地域に根差した診療をしていこう、患者さんが病気になる前に来てくれるホームドクターを目指そうと明るいビジョンは膨らむばかりだった。
病気になる前に受診してもらうためにはと考えた末に雨宮は、ワクチンや予防薬の説明を他の病院よりも丁寧にきめ細かくし、生活の相談も気安く請け負うことで、来院へのハードルを下げて病院へ足を運んでもらえるようにしようと考えた。だから、雨宮の病院は他の先生より丁寧で親切と評判になり、ワクチン接種率も他院より高く、動物を守っているという充実感に浸っていた。
一方クーは、病院の猫入院舎の1つを部屋として与えられ、のんびり暮らしていた。すっかり大きくなり、メスとしては大き目な4㎏という安定感のある体格だった。性格は優しくて、保護されてきた子猫がいれば、一緒に遊んだり傍に居たりと世話を焼いてくれた。また病院で輸血が必要になったときは供血猫としても活躍してくれた。採血も嫌がらず、雨宮との最初の約束通り、病院を一緒に盛り立ててくれている様だった。
医者の不養生、藍屋の白袴。
動物は、自分で健康を気遣うことはできないし、食事を含めすべてを人に依存せざるを得ない。だから動物が油断したのではなく、油断するのはいつでも人の方だ。目に見えない危険に油断をしていたのは雨宮の方だった。
3年前のあの日、保護されてきた子猫をいつも通り預かった。少し元気が無いのは気になったが、低体温のせいと考えた
「クー今回もよろしく」
子猫をクーの足元に置くと、ウインクのように片目をつぶって答え、さっそく子猫を舐めて世話を始めた。本当に世話上手で助かると、その様子をしばらくほほえましく眺めてから帰宅したのだ。
しかし翌日雨宮が出勤してくると子猫は下痢をして具合が悪そうだった。と、みるみるうちに悪化してその日のうちに血便となり、短い一生を終えたてしまった。激しい血便と子猫の急死、これだけでも十分パルボウイルス感染症を疑える。雨宮は急いで入院舎の消毒と使用したタオルの処分などを行った。その時、心拍が上昇した感覚を今また思い出した。
なぜ人は、すぐに油断をするのだろう。喉元を過ぎたことを軽視してしまうのだろう。
入院舎の消毒も終わりホッ一息ついた3日後、クーは急に吐き気を訴え、翌日には血便となった。教科書によく記載されている『トマトを絞ったような血便』その正体は激しく破壊された腸の組織だ。独特に生臭い便の臭い、白い体を血便で真っ赤に染めているクー。
雨宮はクーを拾って以来、一度もワクチンを打っていなかったこと忘れていた。『外に出ることはないから』、日ごろよく患者さんから言われる、そのままの文言を雨宮も無意識に自身でも使っていた。
通常パルボウイルス感染症は免疫力の弱い子猫は発症するが、クーのような大人の猫はあまり発症しないことが多い。が、クーは生涯を病院内で過ごしていたから、ウイルスに接触する機会もなく、パルボウイルスに対して全く免疫が無防備だったのだ。
クーは死んだ。3日間闘病して、燃え尽きるように低体温になり、雨宮を見上げながら、静かに息をひきとった。
クーは雨宮を恨んでいないだろう。最後まで一緒にいたパートナーとして、最後まで視線を送り続けて逝ったのだ。
「ごめんな。お前が許してくれても、お前が命を落としたのは僕のせいなんだ」
ゆっくりクーの背を撫でながら、雨宮はつぶやき続けた。
真っ赤な血便で汚れた尻尾を、院内で洗って乾かすことは、病原体を巻き散らすことになりかねないから、汚れた尻尾のまま、動物用の棺に納め荼毘に付したあの日、この思いを忘れないために、雨宮はクーの尻尾の毛を一部切り取り、小さな小瓶に入れて厳重に封をして、引き出しの奥にそっとしまっておいた。
開業以来のパートナーを、自分の油断から失ってしまった自分を戒め、予防を拒絶する飼い主を根気強く諭すための心の支えとして、強力なお守りとなるはずだった。
人は、どうして油断をするんだろう。あとで後悔するとわかっているのに。
「先生、今日診察に来た子たちはみんなワクチン接種済みでしたから、きっと大丈夫ですよ」
看護師の木村が雨宮に話しかける。クーが亡くなった経過を知っているから、わざわざ来院患者のワクチン歴を調べて、雨宮に教えてくれたようだ。
「ありがとう、木村さん。少し安心した。後は院内の汚染を広げないように、消毒と管理よろしく」
雨宮の苦悩の色が僅かではあるが薄くなった様子を見て、木村は満足そうに大きく頷き、ヤマトの様子を見に去っていった。
木村の気遣いで雨宮も冷静さを取り戻した。ヤマトはどこから感染したのか。ヤマトはワクチンを打ったことのない猫だ。感染のリスクはある。しかし、家の外には出ない猫だ。よく言う飼い主の靴の裏についたウイルスによるものだろうか。そうなるとなかなか感染源の特定は難しいだろう。
診察室の診察台に肘をつき、組んだ手を額に当てて考え込んでいた時、待合室から男女の大きな声が聞こえた。
「あんたんとこの猫、この間病院で吐いたってね。その時にばい菌が巻き散らかされて、病気になった猫が何頭もいるって聞いたんだよ。どう責任取るつもりなんだよ」
声の主の一人は安田さんのようだ
「違いますよ、うちの子はただの食べ過ぎで、ばい菌なて撒いてません。それに予防接種打っていれば病気があっても移らなかったのに、あなたのような人の飼われた猫がかわいそうなんですよ」
相手は、先日待合室で吐いてしまったナミちゃんの飼い主の西村さんのようだ。どうやら病院の入り口近くで会って、口論しながら入ってきたようだ。猫の飼い主は、散歩が無い為、他の飼い主とコミュニケーションを取ることは少ないが、雨宮の病院は猫の飼い主達も診察後にそとのベンチで談笑することも少なくないため、顔見知りだったようだ。
「安田さん、西村さんこんにちは。大きな声を出してどうしました」
ひょろりと雨宮が顔を出すと2人は気まずそうに口をつぐんだ。西村さんの方が、先に笑顔を作り直し
「先生、ナミは翌日にはすっかり良くなって。やっぱり食べ過ぎだったみたい。お礼にアップルパイ焼いてきたの。先生方が食べ過ぎにならないでくださいね」
というと、アップルパイの包みを受け付けに置いてそそくさと帰っていった。病院から出ていく後姿を見送ってから、安田さんに声をかける
「安田さん。これからヤマトちゃんの病状の説明をしますから、診察室にどうぞ」
安田さんを診察室に呼び込み説明を始める
「という事で、検査の結果から、恐らくパルボウイルスの感染しょうでしょう。正確な診断は検査センターからの結果を待ってになりますから、数日お待ちください。その間も治療は進めさせて頂きます」
入院は、短くても1週間は必要だろう事と、命に関わる可能性のある感染症であることを説明する。
「なにか、分からないことはありますか」
という問いに
「先生、やっぱり移したのは、さっきの人の家の猫じゃないですかね。あの人、猫を家と外で自由にさせているから、いろんなとこでばい菌をばらまいたって噂になってるだよ」
「安田さん、心配する気持ちは分かります。でも、ナミちゃんは食べ過ぎだっただけで、すぐに治りましたから、感染症とは考えにくいですでも。だれがそんな噂をしているんですか」
普段は直面しない伝染病。それがひとたび発生すれば、その病原体が目に見えないことで、人々は不安になり、やがて疑心暗鬼から誰かを犯人扱いしたがる。万が一、人の命すら奪う狂犬病が日本国内で発生したら、未曽有のパニックになるだろう。
「だれって、皆だよ。どこで聞いたっけか忘れたけどさ、この辺で病気が流行ってるみたいだよ」
どうやらはっきりしない噂のようだ。
その後安田さんは、看護師に案内されヤマトに面会し、病原体を持ち出しかねないため、触れることはできずに目を潤ませながらヤマトをみつめていた。何か雨宮に言いたそうなそぶりを見せながら、なにもいわずに帰っていった。




